4 燦々
洞窟の最奥、行き詰まった先で、ソアラは天井の一角に動く場所を見つけた。
「ここだ___」
今度は幻影ではない。四角く、人が一人二人通れるほどの大きさで、天井が持ち上がった。僅かに透き間があくと、まず仄明るい光がソアラの目を打った。高ぶりを感じ、彼女は一気に「蓋」を弾き飛ばした。
「___」
橙色の光が洞窟内に差し込む。ソアラはたまらずに穴の向こうへ飛び出した。
「ここ___!」
言葉が出てこなかった。ここがどこなのは分からない。しかしただならぬ場所であることは切に感じていた。
「すごい___」
そこは荘厳な部屋。大理石にも似た均一な壁はどこにも継ぎ目がない。大きな壁一面が一枚の岩で作られている。床には紋様のようにして文字が刻まれていたが、先ほど洞窟で見た文字に似ている___天界の文字か。
部屋に窓はなかったが正面に木製の扉が一つ。何よりも驚いたのは、明るかったこと。
「これは___」
レミウィスは部屋に躍り出るなり、一息で壁に備え付けられたランプに駆け寄った。
「まさか___本当に存在したのか___」
橙色の輝きは、油を燃したものとは全く異なる。時折強弱のある不思議な光。
「不燈火虫___」
ランプの蓋を開けて中を覗き見ると、レミウィスは目を丸くして呟いた。
「フトウカチュウ?」
「別名ファイアフライ。絶えることなく輝き続ける虫ですよ。我々は竜神帝に関わる文献で見ただけですが___」
ナババも驚きの顔で部屋をぐるりと見渡した。
「体内で空気となにかを反応させ、そのエネルギーを食べて生きる虫___反応のエネルギーが光となって、虫そのものを輝かせる。ランプの中につがいで入れておけば、永遠の光が約束される___」
本当にいたのか___だとすれば、やはりここは竜神帝の居城に間違いない。
レミウィスの面持ちが一段と凛々しくなった。
「先へ進みましょう。」
失われた光を取り戻す鍵___「太古のからくり」を見つけなければ。
「っと___」
立ち上がって歩き出そうとしたフローラが、よろめいて片膝を突いてしまう。掌を中心に無数の傷を作ったが、その治療はすでに済んでいる。
「大丈夫か?」
側にいた百鬼が手を差し伸べ、フローラはそれを取ったがまだ俯いて目を閉じている。
「ごめん、ちょっと魔力を使いすぎたみたい___」
ようやく立ち上がって笑みを見せたフローラだったが、やはり顔色が悪い。
「おまえはキュクィで待ってろよ、グルーってのは女じゃ歯が立たないんだろ?」
百鬼の問いにバットとリンガーが一緒に頷いた。
「いや、グルーを追いかけるのは待った方がいい。」
サザビーが水際に立ち、遙か対岸を睨み付けていた。彼の視線の先、百鬼が何かと目を凝らしたその時だった。
「光った!」
湖を挟んだ対岸で何かが輝いた。爆発を思わせる閃光のようにも見えた。
「さすがに僕の目にも遠すぎますが、戦いではないかと___」
「行ってみよう!洞窟の出口が向こうなのかも知れない!」
百鬼の鶴の一声で、皆は一斉に対岸へと走り出した。
「広いけど___これって屋外よね?」
城の内部には随所に竜の、天界の息吹を感じる。洞窟との出入り口があった部屋から廊下を抜け、ひときわ大きな扉の向こうに広い吹き抜け。上層へと続く螺旋階段が中央に二本並び、吹き抜けの奥に通路が続いている。だが何より目を引いたのは、三階層ほど上に開いた窓。そこから闇の空が見えた。
「これだけ明るければ、外から見ればすぐに気づくと思うけど。」
「気づかれない仕掛けがあるのでしょう。そうでもなければ今頃は魔の手の者に占拠されていますし、フレリーにもここを知っている人がいたはずです。」
ソアラの目は螺旋階段の先に向いている。だがレミウィスは吹き抜けの広場の隅に見えた扉を気にかけていた。
「とりあえず玉座を探してみようか?」
「いえ、私はあの部屋が気にかかります。」
ただの直感ではない。竜神帝に関わる史跡を探索し続けた経験が、彼女に狙いを絞らせていた。
「扉の形状___史跡でも特に重大な何かがある場所には、あの紋様が刻まれているんです。」
「へえ。」
三人の足取りは自然と早まる。吹き抜けにしては靴音が軽快に響いた。
そして開いた扉の先___レミウィスは一目で確信した。
「___」
決して広い部屋ではない。床は正方形で一律。不燈火虫のランプは天井にいくつか備え付けられていた。側面の壁には斉一に文字が刻まれ、そして突き当たりの壁は実に奇妙な紋様で埋め尽くされていた。
「ここだ___」
レミウィスは目を輝かせ、突き当たりの壁に駆け寄った。
「これよ、これが古代のからくり!」
近づいてみるとはっきり分かった。紋様が刻まれているように見えたそれは、いくつもの管や歯車、奇妙な形の金属片などが折り重なったもの。
まさに「からくり」だった。
「あそこなんだけどな〜!」
さて、果敢にも洞窟内を進んできたリュカとルディーだったが、上へと続く道の前で苦戦していた。
「うーん!」
ルディーの魔法の素質は目を見張るが、空なんて飛べるわけがない。天井から続く道があると分かっていても、ちびっ子の二人にはどうすることもできない。
ただ思わぬ助け船。
「あ!梯子だ!」
天井の幻影の向こうから、黒塗りの縄梯子がスルスルと降りてきた。二人は何一つの疑問も抱かずに、キャッキャッと互いに手を叩き合ってすぐに梯子を登りはじめる。
(何かの役に立ちそうですからね、連れて行ってあげますよ。)
いざとなればソアラを服従させる人質に___グルーはそんな思いを胸に、梯子を垂らしていた。
からくりの解除にミスは許されない。血の直感はあっても天界文字の分からないソアラはレミウィスの力にはなれなかった。しかしからくりが一ヵ所とも限らない。だから彼女は一人で城を散策していた。
螺旋階段を上りきり、さらにアーチ状の廊下が続く。ひときわ荘厳な階段を進み、その先にあったのは___
「ドラゴン___」
謁見の間であろう。赤い絨毯が広がり、奥の壁には浮き彫りのドラゴンが凛とした勇姿を見せつけていた。
「凄い、これが竜神帝!」
ソアラは少し頬を上気させ、無邪気な子供のような笑顔で壁に近寄っていく。あくまで彫刻なのだが、憧れの人に出会えたような高ぶりでソアラの胸はいっぱいだった。
ガクン___
「!?」
城に震動が走った。
「からくりが解けたのかしら___?」
竜の彫刻に手を触れて、ソアラは空を見上げた。そのころ___
「漸く一段階___」
レミウィスは壁に飛び出たレバーから手を放し、額に滲んだ汗を拭う。暑いわけではないのだが、失敗は何に繋がるか分からない。自然と緊張が走った。
さきほどの揺れは巨大なからくりのうち、たった一つが解けたに過ぎない。全てが解き明かされるには、まだ莫大な時間がかかりそうだ。何しろ、両脇の壁に刻まれた文字はからくりを解くヒントではあっても答えではなく、そればかりかただの天界文字ではなかった。
「次___」
次のからくりを解きに掛かる。走り書きの古代天界文字。この日のために積み重ねてきた知識と、それを補うだけの歴史を秘めた本とで必死に解読し、次の手順を探し出していかねばならない。
「ルート、そちらにこれと似た表記がありませんでした?堪え忍ぶ天使のというくだりの___」
レミウィスは目をからくりの壁に向けたまま、ナババに尋ねた。しかし答えはすぐに返ってこない。
「ルート?」
振り向いた彼女は蒼白になった。側面の壁を調べていたはずのナババは、蹲って小さく震えている。
「ルート!」
レミウィスはすぐにナババへと駆け寄った。優しくその背に手を触れる。
「痛むの___?やっぱり無理しない方がいいのよ___あとは私がやるから休んでいて。」
そう言いながら、レミウィスはナババに回復呪文を施す。ナババも少し楽になった様子で震えを止めた。だが青ざめた顔に変わりはなく、目も焦点を捕らえていない。口元には血を拭った痕があった。
「今やらないでいつやるんだ___」
その言葉はあまりに悲愴的だった。窶れた顔から絞り出すような声に、レミウィスはこみ上げる涙を抑えられなかった。不治の病を背負った男の悲しき決意。
「そんな___そんなこと言わないで___」
まるで死期を感じているような言葉___ナババはレミウィスに微笑んで、その頬に優しく口づけした。そしてゆっくりと立ち上がる。
「レミウィス。僕らの夢まであと少しなんだ。」
ナババは壁に向き直り、古代天界文字の解読に取りかかる。しかしその顔には無数の汗が滲んでいた。
「ああ___私は___」
レミウィスは零れかけた涙を拭って立ち上がり、壁を見つめる。今ほど、恋人を不治の病に陥れたあの父を、憎く思ったことはなかった。
「おかあさ〜ん!!」
そのときだ。広い吹き抜けに共鳴する甲高い声が、二人の耳に届いた。その声は母を呼びながら徐々に近くなってくる。
「まさかあの子たちが___!」
レミウィスはからくりを離れ、吹き抜けへと顔を出した。案の定そこにはリュカとルディーの二人が興味津々に辺りを見回していた。
「あ、レミウィスさん見つけた!」
二人は笑顔でレミウィスの方へと駆けてくる。
「ついて来ちゃった!」
「良くここまで___」
レミウィスは呆れ顔で小さな溜息をついた。
「とにかく中へ入りなさい。お母さんは今この城を見回っています。もうじきここに帰ってくるでしょうから。」
「ならお母さんのところに行く!」
駆けだそうとしたリュカをレミウィスは慌てて引き留めた。
「この城はとても広いの。もし迷子になってしまったら、お母さんが心配するでしょう?」
レミウィスの説得に二人は渋々ながら従い、からくりの部屋でソアラの帰りを待つことにした。しかしおとなしく待つはずもない。二人はすぐにレミウィスとナババが何をしているのか気になって、近づいてきた。
「何やってんの?」
「お仕事です。邪魔はしないでくださいね。」
子供たちはお仕事という言葉に弱い。優しい口調でも、その一言で子供たちは威圧されたような気分になるのだから奇妙だ。
「それにしても君たち、どうして追いかけてきたんだい?留守番していないとお母さんが怒るんじゃないのかな?」
「だって〜。」
ナババが優しく諭すとリュカとルディーは互いに顔を見合わせる。
「グルーっていう悪い奴が洞窟に入ったからだよ。」
なんだって!?レミウィスとナババの顔つきが変わった。グルーがこの城に向かっているとは___いや、向かっているというのは違うか!
「お久しぶりです。」
危機感が体を支配する。向かっているのではない。子供たちはグルーを追ってきたのだ___落ち着いて考えれば、いま部屋の入り口にグルーが立っていることなど、驚くほどのことではなかった。
「下がってなさい。」
レミウィスは相変わらず冷静だ。冷や汗一つかかずに鋭い視線でグルーを睨み付け、リュカとルディーの腕を引いて自分の後ろに隠れさせる。ナババも近くに立てかけておいた剣をとって身構えた。
「ソアラがいませんね、実に好都合です。」
いつも以上に嫌らしい笑み。その狙いが明らかに自分に向けられていることに、レミウィスの指先は小刻みに震えた。自分も女だ、ヴァンパイアは本能が恐怖する。
「女であるソアラは貴様を倒すことはできない、いたとしても同じことだ。」
「フフフ、良くおわかりで。それならば、あなたに逃げ場がないこともおわかりでしょう?」
グルーは邪気を表に出さない。その存在感だけでレミウィスを飲み込もうとしている。何であれソアラに感づかれるのは不都合だと感じているのだろう、露骨な気配は皆無だった。
「聖杯をよこしなさい。」
「断る。」
狭い部屋の中、入り口にはグルー、後ろにはからくりの壁。まさに万事休すか。唯一の望みはソアラがその研ぎ澄まされた感覚でグルーの邪気を、自分たちの危機を感じ取ってくれれば___
「渡してはくれないのですね。ではあなたの命をいただきます。」
「!」
細い顎を上げ、グルーは自らの黒髪を撫でた。
「今のところはあなたさえいなくなれば、それが解かれることはなさそうですし。」
グルーの細い指先に魔力の光が灯る。
「いや、実は私たちもこの城を探していたんですよ。何しろゾヴィスにはやけに有翼人がやって来るというのに、彼らがなにかを目指しているのは分かっていても、それがどこにあるのかは分からなかった。だからアヌビス様は八柱神のフォンにこの湖の見張りを命じたんです。すでに彼は八人の有翼人を殺めていますが、奴らが何をしに来たのか見極めてから倒すほど器用な男ではない。」
グルーは不気味な微笑みで子供たちを見やる。さすがはソアラの子___怯える素振りすら見せずに睨み返してくる六歳児に、グルーはソアラの影を感じた。
「私にこんな城を教えてくれてありがとう。そしてそれは何か重要な結果をもたらす仕掛け___まあだいたい想像はつきますがね。」
それはグルーにとってあまりにもあって欲しくないこと。だから彼は阻止に動く。
「私に殺されることを感謝してください。私はいたぶって殺すのが好きなんです、少しは長く生きられますよ___」
グルーの殺気が高ぶっていく。ソアラは気づくだろうか?彼女がやってくるまで自分は生きていられるだろうか?いや、グルーはすでにソアラの動きを封じる手だてを取っているかも知れない。そういう狡猾な男だ。
まともにやって勝てる相手ではない。だが今は、戦うしか道がなかった。
「死になさい、レミウィス。」
グルーの指が輝く。その途端、風のない部屋に突風が吹きつける。凝縮されたシザースボールの刃がレミウィスの頬を切り裂き、からくりの壁にまみれて消えた。
「___」
微動だにしなかったレミウィス。頬を血が滴り、リュカが心配そうに見上げていた。
「いいですね、あなたはやはり賢い方だ。」
グルーはすぐには殺さないと言った。一撃で致命傷を負わせるはずなどない。下手に動いて照準が逸れるくらいなら軽傷を身に受けておく方がましという判断だった。
「ただ、そんな知恵だけでは生きることなどできない。」
再びグルーの指先が輝く。しかし今度はレミウィスに痛みはなかった。かわりに部屋に異常なほど甲高い音が響いた。
「ナババ!」
ナババはレミウィスの前に立ちふさがり、その剣を眼前で構えていた。先程の音はシザースボールと剣が交錯したものだった。
「おやおや、威力を加減したせいで剣の一本もへし折れませんでしたか。」
グルーは相変わらず微笑みを絶やさない。この薄笑いがあるうちは、彼は自分の有利を確信している。
「レミウィス!こいつは僕が何とかする!」
ナババはレミウィスに背を向けたまま、声を張り上げた。
「君はからくりを解け!」
この言葉遣い。主従の関係ではない。長らく愛し合い、心中しようとして偶然この世界へとやってきた男女の言葉。
「そんな___一人でかなうわけが!」
「レミウィス。このからくりはきっと僕たちが思い描いている『景色』を呼び戻してくれるんだ___だから頼む!」
ナババはグルーを睨み付け、剣を構えたまま、窶れた体で必死に怒鳴った。
バシュッ!
その言葉にあわせるようにグルーがシザースボールを放ち、ナババは左足の腿を切り裂かれた。
「やってみたらどうです?レミウィス。そのからくりに恋人の命を賭けてご覧なさい。」
レミウィスの体に寒気が走った。どうすればいいんだ!?こんなに混乱したことは生まれてはじめてだった。何が起こるか、解けるかさえも分からないからくりのために、恋人の命を代償にしろというのか?恋人が傷つけられる音を背に聞きながら、壁に向かえというのか?
「早くしろレミウィス!」
ナババの一喝。いつになく、目の泳いでいたレミウィスの肩がびくりと震えた。
「大切な人が追いつめられたときくらい、命を張らせてくれ!」
一度だけ後ろを向き、ナババはレミウィスに横顔を見せた。その穏やかな、愛しき男の笑顔。レミウィスの双眼は涙で一杯になっていた。
「さあ早く!僕の命のあるうちに!」
ナババはぐっと剣を握る手に力を込める。そしてかけ声と共にグルーに突進した。
「男には興味ないんですよ。でも、あなたの悶絶を聞いたレミウィスの顔は、とても見てみたい___」
グルーも鋭い牙を見せ、その鮮やかな爪を煌めかせた。金属の交錯音がする。何らかが切り裂かれる音も。だがレミウィスにはそれが何の音なのかわからない、なぜなら___
彼女は壁に向き直っていた。
「!?」
ソアラがグルーの気配を不快として感じ取ったのは、丁度ナババとの戦いが始まった頃だった。勿論彼女にも具体的な様子までは分からない。子供たちが追ってきていることも気づいていない。ただ何か良くないことが起こっているという、予感めいたものだけはひしと感じていた。
「___レミウィスたちに何かあったかもしれない___」
一度からくりの部屋に戻ろう___ソアラは踵を返した。しかしグルーはやはり用意周到な男だ。
「霧___?」
そんなはずはない、ここは城の中だ。突如沸き上がった紫の霧は謁見の間全体に広がり、いつしかソアラを包み込んでいた。とてつもない憎悪で満たされた霧にソアラは顔をしかめる。その霧は真上から見れば髑髏をかたどる___かつて皆を苦しめた霧状のモンスター、デモンズミストだ。
___
「急がなくては___!」
レミウィスは焦れていた。グルーが現れてからも懸命に解読を試みる、しかし彼女は集中力を欠いていた。動揺、困惑、なによりナババの呻き。全てが彼女から普段の知恵と知識と冷静さを奪っていた。
「レミウィス___早く!」
「分かってる___!」
ナババの声はまだしっかりしている。急がなければ!
彼の努力を無駄にしてはいけない。振り向かずにからくりを解かなければいけない。しかし___答えが見つからない。
じっくり解読する暇などないのだ___でももし間違えたら!レミウィスはいつしか祈っていた。助けを請うていた。
(ソアラ!早く気がついて!ナババを助けて!)
必死の願い。からくりを前にし、レミウィスはグッと目を瞑って祈った。
「そうそう、ソアラを当てにしても無駄ですよ。彼女には別の刺客を送ってありますから。」
その祈りを見透かしたようにグルーが言った。レミウィスは壁を見つめたまま愕然とする。想像はしていたが、グルーのしたたかさに完膚無きまでに打ちのめされた気分だった。もう策略を思いつくだけの余裕も、落ち着きもない。全ての冷静さは、背で行われている死闘に殺された。
「これだよこれ。」
「そう、これだよね。」
唐突に声がした。この状況でありながら妙に飄々としている。レミウィスは涙のたまった目でそちらを見た。
「このレバーだよね、絶対。」
そこにいたのは二人の子供たち。意気揚々と、壁から飛び出した六つのレバーの一つを握っていた。
「こ、こら!やめなさい!」
レミウィスは声を張り上げて二人を制した。慌てて駆け寄って思わずその小さな手を叩いた。
「勝手に触っては駄目!何が起こるか分からないのよ!?」
極限状態を理解できない子供たち。大人だからこそ、レミウィスは苛ついていた。
しかし二人は、怒った顔でレミウィスにくってかかったのだ。
「でもこれだよ!」
「そう書いてあるもの!」
え?
声すら出なかった___
聞き間違いだろうか?
「えいっ!」
茫然としていたレミウィスだったが、子供たちがレバーを引いたのを見て我に返る。何が起こるかと焦ったが、何も起こりはしない。それはからくりの解除手順として正解だったことのなによりの証だった。
「まさか___この子たち___」
レミウィスの瞳に落ち着きが舞い戻ってきた。僅かな希望も。
「つぎあれだよあれ!」
子供たちはレミウィスの正面、彼女が手を伸ばせば何とか届くハンドルを指さした。
「僕らじゃ届かないよ!」
リュカがレミウィスのズボンの裾を強く引っ張って訴えた。
レミウィスは困惑する。本当に信じていいのだろうか?確かに彼らはソアラの子。この文字が記憶の奥底に眠っているのかもしれない___でもそんなことって。
『敬虔なる聖女よ___』
「!?」
突然だった。
レミウィスの脳裏に声が響きわたる。それは雄々しく、高貴で、重厚な声だった。
『竜を尊び、その身を捧げた賢者よ___』
「誰___?」
誰かは分からない、聞いたことのない声だ。しかし___妙なほど心が落ち着く。
『竜の子らを信じるのだ___』
それきり声はしなかった。そして思い出すのだ。あの夜、ソアラと二人きりで話したときのこと。ソアラが聖杯から声を聞いたときのこと___
(この城の___声?)
まさか___
「うあああっ!」
ナババの悲痛な叫び声と共に剣の落ちる音がした。一気に現実に引き戻されたレミウィスは、たまらずに振り向いてしまう。
はじめて死闘の情景を目の当たりにする。そこには服の全てを赤色に染めて蹲るナババと、満足げに体を返り血で濡らしているグルーがいた。ナババのすぐ側には、手首の断面もおぞましく、剣を握ったままの右手が落ちていた。
だが彼は生きている。時間をかけての殺戮は、あまりにも残酷だった。
「もう潮時ですね。」
「まだだ!」
怯えたレミウィスの顔を見て微笑むグルー。その視線を遮るようにナババは力強く身を起こした。レミウィスは一度唇を咬み、生気に溢れる視線で壁に向き直った。そして徐に手を伸ばすと、子供たちが指さしたハンドルを勢いよく捻った。確かな手応え。何かの動きがハンドルを通して手に伝わった。
「リュカ!ルディー!次は!?」
子供たちに笑顔が溢れる。
「あっちだよあっち!」
二人の指示に全てを託し。レミウィスは壁の前を走り続け、その手を伸ばした。
その頃、湖畔では___
「なぜだ___なぜだなぜだなぜだぁっ!!」
戦いがすでに終息を迎えようとしていた。
立ち上がることすらままならず、岩肌に四つん這いになっているフォンが叫ぶ。遠からずの位置に立つ棕櫚とバルバロッサ。彼らにも微妙な変化があった。
バルバロッサの真っ赤な左腕。
棕櫚の額の小さな角。
「なぜ勝てん!?同じ妖魔ではないか!何が違うというのだ!」
怒鳴る度に口から無数の血がはじけ出す。見開かれた瞼の裏から涙のように鮮血が流れ出していた。
「諦めなさいフォン。」
「諦めろだと!?」
顔だけを上げて棕櫚を睨み付けるフォン。戦いは実に一方的だったのだ。最初のうち、つまり棕櫚とバルバロッサが「妖魔らしさ」を見せずにいたころはフォンが優勢だった。二人が体に負っている傷はその時のものだ。
「嫉妬や情熱だけで力の差が埋められるほど甘い世界では、生物ではないことはあなただって知っているでしょう。」
フォンが明らかに愕然としたのが見て取れた。妖魔棕櫚、妖魔風間、二人の力を見くびりすぎていた。
「そう言う世界なんですよ、黄泉は。」
フォンは四つん這いのまま拳を握りしめる。立ち上がろうとしても腰が言うことを聞かない。そして棕櫚は思う___見苦しいと。
「刮目なさい、洪(フォン)。あなたの私怨はどうでもいいことなんです。あなたは鍵の番人であり、我々は鍵を手に入れる権利がある。さあ、早く。」
敗北の八柱神から、言葉が出なくなった。しばらく、湖畔にうち寄せる細波の音だけが聞こえた。しかし___
「認めぬ___」
ゆっくりと呟く。
「認めぬぞ棕櫚!!」
フォンは顔を上げて棕櫚を睨み付けた。その瞳は憎悪に満ちあふれていた。
「はああっ!!」
「なっ!」
フォンは大地に向けて渾身の力を放ちだし、凄まじい爆発を巻き起こす。岩が砕けて水を巻き込み、煙と霧になって視界を一挙に遮った。
「!?」
さらにそこから一筋の破壊の光が飛び出した。それは棕櫚でもバルバロッサでもない、別の場所を狙っていた。
「な、なんだ!?」
轟音を上げ、激しい爆発が巻き起こる。突然目前から吹き付けた突風に、百鬼たちは慌てて身を守った。
「!?」
巻き上がった粉塵が消え失せ、現れた男の後ろ姿を見た瞬間、誰もが言葉を失った。
「迂闊だったな___」
バルバロッサの呟き。フォンが逃げたこと、そして再会を果たしてしまったこと。
「お、おまえたち___」
思い出した。なぜ忘れていたのか?百鬼はあまりに驚き、棕櫚を振り向かせようとして手を伸ばす。しかし足がついていかずに転んだ。
「どういうことだ棕櫚!?」
記憶に自信を持つ必要がある。だから百鬼は飛び上がって叫んだ。棕櫚が振り向き、己の変化を皆に見せつける。小さな角、フォンの去り際の一撃を防いだ傷、皆がギョッとしたのが分かった。
「何で忘れてたんだろうな?」
「そ、その格好!」
サザビーとライが対照的な反応。だがサザビーの煙草の白煙にも落ち着きがなかった。当然だろう。いきなり記憶が断片的に消滅していたことを理解できる人間など、誰一人としていない。
「棕櫚___よね?」
なぜこんなに勇気がいるのか。フローラは胸の高鳴りを気にかけながら問いかけた。彼の答えを聞きたくて仕方なかった。
「そうです。」
ようやくの返事。角が消え、少し険しかった顔つきが元に戻ると、フローラは小さな安心を感じた。
「なあ、これってどういうことなんだ?何で俺たちはおまえたちのことを忘れていたんだ!?」
混乱は時に人を怒らせる。百鬼の荒ぶった声は、棕櫚には戒めに聞こえた。
彼はもはや覚悟を決めていた。
「後で説明します。ここまできては、もうあなたたちを騙すことはできない。」
覚悟はバルバロッサも同じこと。沈黙のままに棕櫚に任せていた。
険悪なムードが湖畔に広がる。しかしそれを変えるのは概して女の優しさだ。
「治療するよ。」
フローラは棕櫚に近づき、なけなしの魔力で回復呪文を施しはじめた。
「ありがとうございます。」
ギクシャクは消えはしない。ただそれでも、棕櫚が微笑んでくれたのでフローラは安心していた。
そのとき___!
「ねえみんな!あれなんだろう!?」
ライが声を張り上げた。湖の向こうを指さす先、振り向けば彼が何を見つけたのか、すぐに分かった。
湖を越えた先に見える山だろうか、ぼんやりとした光が連なっている。
「ソアラたちか___?」
何かが起ころうとしている。動揺の消えないままの胸に、淡い期待が去来した。
一方の城___
レミウィスがリュカたちの指示に従い四十三個目のアクションを起こしたのと、ナババが床に倒れたのは同時だった。そしてそのとき城の外装には強い明かりが灯っていた。
「む、こ、これは___」
城が激しく揺れ始める。その轟音にさすがのグルーも薄笑いを消した。誤算だったのだ。レミウィスが解読に手間取っているのは分かっていた、それがなぜこうも急に___
「最後はあそこ!あそこのハンドルを思いっきり回すの!」
いつの間にか壁の様子も様変わりしていた。からくりが解けることで幾分シンプルになっている。ルディーが大声で最後の一つといったのは、レミウィスの手が背伸びして届くかどうかと言うところにある大きなハンドルだった。
「なんと___やはり竜の血は争えないと言うことでしょうか___彼らをここに誘い込んだのがかえって仇になるとは___」
その様子を見ていたグルーは、すぐさま爪を剥き出しにした。背を向けるレミウィスに近づこうとする。レミウィスは操作に夢中なのと轟音で気づきもしない。
「む。」
だが彼の足を止める力があった。グルーの足首をしっかりと、ナババが健在な左手で握っていた。その顔に未だに精気を宿し、彼は吼えた。
「いかせない!」
「うるさい。」
もはやグルーに容赦はない。自分の美徳など関係あるものか。ほんの一瞬で指先から真空の刃を放ち、あまりにあっけなくナババの左手を切り落とした。
「頑張れ!」
レミウィスは飛び上がってハンドルにしがみついていた。何とか回そうと力を込めるが上手くいかない。二人の子供は横で必死に励ましている。レミウィスは今ほど女の、自分の非力を恨めしく思ったことはなかった。ハンドルが堅すぎて回らないのだ。
そして___!
ズッ!!
刃が肉を喰う音。鮮血の飛沫舞う。
レミウィスの手はするりとハンドルから抜け落ち___彼女は床にその身を打ち付けた。
「見苦しいですよ。そう汗と血潮にまみれてはせっかくのお顔が台無しです。」
グルーの指先から放たれたシザースボールは、レミウィスの脇腹を深く剔っていた。突然の出来事にリュカとルディーも目を白黒させる。
「レミウィスさん!」
「大丈夫___まだ___やれるわ!」
「おやめなさい。」
「あうっ!」
立ち上がろうとしたレミウィスの右足に再びシザースボールが。血が飛び散り、深い裂傷がついた。
「やめろぉっ!!」
「ドラゴフレイム!!」
突然だった。子供たちがいきり立ってグルーに立ち向かったのだ。
「ぬっ!」
グルーは怯んだ。ルディーの放った火炎呪文の凝縮された破壊力と、リュカの剣の太刀筋に。
「あれさえ___あれさえ回せば___!」
レミウィスは自分の体に回復呪文を施しながら立ち上がり、必死に手を伸ばした。付け焼き刃の呪文で塞がるほど腹部の傷は浅くない。歪む意識の中で残像を伴うハンドル___レミウィスは口から血を滴らせながらも必死にその縁を掴んだ。
「こ、ここまで押されるとは___!血筋を侮っていたと言うことですか!?」
逆上したリュカとルディーの攻撃はグルーを倒すだけの破壊力はない。しかし押さえ込み、前進を妨げるには充分だった。
「回って___!」
ハンドルに手がかかった。しかし腹の痛みが邪魔をして、渾身の力も込められない。握るだけで精一杯。ましてや回すことなど___できない!
(致命的だ!ここまで来て___私にはどうすることもできないのか!?)
あまりの口惜しさに、レミウィスは涙をこぼしていた。そのとき___
トン。
彼女に触れた暖かい気配。泣き顔のレミウィスが見たのは愛しき男。
相性はナババ。
本当の名はルートウィック・ド・ダ。
「ルートウィック___」
レミウィスが掠れた囁きで、二人だけの、愛しき男の本当の名前を呼んだ。
「行くぞ!」
両手を失っているナババだが手首までは健在。彼はそのやせ衰えた腕からは想像もできないほど強い力でレミウィスの体を抱き、思い切り引き下ろした!
そして___ハンドルが軋みながら動き、最後のからくりが音を立てて___
開かれた!
ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴ___
城があからさまに動き出した。轟音と共に激しく揺れ動き、グルーを動揺させる。
「やった!」
リュカとルディーが歓喜の声をそろえた。そしてグルーは___
(もはやこれまで!)
強く舌打ちし、その姿を蝙蝠に変えて部屋を飛び出していった。
「あっ!逃げた!」
リュカはそれを追おうとするが激しい揺れに足を取られて上手く走れない。結局見失った。レミウィスはナババを抱いて壁に凭れ、彼の体に絞り出すように回復呪文を施していた。
「見ろ!」
その変化は劇的だった。駆けだした百鬼は膝までゾヴィスに入り込み、向こう岸で山が輝いているのを指さした。
「山が___!」
「あれは___城か!?」
山の影が剥がれ落ちていく。そしてその下から現れたのが光り輝く城___
山そのものが幻影___
城は常に、誰にも気づかれないままそこにいたのだ。
「___空が!」
バットが叫んだ。城の頂点から一直線の輝きが空へと伸びる。
そしてその直後、空の闇が開いた!
一筋の光は空に蔓延っていた闇を貫いたのだ!
「な、なんと言うことでしょう!こんな失態を!」
幻影をかき消して輝く城を見下ろし、光が取り戻されようとしている空でグルーはもとの姿に戻っていた。夜の闇が砕かれていく。闇に開いた穴から光の筋が差し込むと、彼は酷く顔をしかめ、額に汗さえ浮かべていた。
「アヌビス様に謝罪せねば___!」
ここにはいられない。グルーは慌てて身を翻した。しかし___
「帰るつもりなの?」
グルーが震えた___この男が恐怖する様、レミウィスにも見せてやりたかった。
鋭敏な感覚は邪悪を逃しはしなかったのだ。皆があまりの出来事に噎ぶ中、ソアラだけは冷静に、いや冷徹に、グルーを待っていた。
「虫が良すぎるわ___そんなの通用すると思ってるの!?」
デモンズミストに手を焼いたことがあまりにも口惜しい。あの霧の中では竜の力の発揮さえうまくいかなかったが、空の闇に破綻が生まれると形勢は逆転した。グルーが光を恐れて逃亡したことがデモンズミストさえも怯えさせたのだろう。
「あたしには何もできなかった___レミウィスを手伝うことすら!」
「く___」
グルーは気圧されている。ソアラの竜の目に飲まれている。
「あたしにできることはただ一つ___腐った男をあの世に送るだけよ!!」
ソアラの拳が煌めく。一瞬で金色と化したソアラの拳はあのときと同じ、フレリーでグルーの術中に填ったときと同じように、彼の貧弱な胸板を貫いていた。
「クク、クククク___ソアラ!忘れたのですか!?女性であるあなたは私には勝てない!」
「夜ならね。」
ソアラは前のように、自分の行為を悔やむことはなかった。この男に相応しい死に様を、悪の息吹を浄化する決意に漲っていた。
「早く離れたほうがいいですよソアラ___でなければこの私があなたを支配してしまう!」
グルーは以前と同じようにソアラの頬に自分の血を塗りたくり始めた。だがソアラは顔色一つ変えない。
「離れやしない。時が貴様を破滅へ導く!」
徐々に、城の光が強さを増し、そして一気にゾヴィス湖へと降り注いだ!
「ぎゃあああああっ!?」
グルーが悲鳴を上げる。城の頂点から注いだ光はゾヴィス湖全体に広がり、ゾヴィスはまるで巨大な鏡のようにして、光の柱を空に向かって突き立てたのだ!
「や、やめろ!はなせソアラ!こ、この傷では、体が___!」
光はゾヴィスの空を変えていく。蔓延っていた闇は、まるで水に流される絵の具のように、消し飛んでいく。
「ヴァンパイアは正義の鉄槌に胸を打ち抜かれ、白日の下に召される___セオリーじゃない。」
眩しい___
夜の闇が切れていく。ゾヴィスの柱に貫かれた黒い空は、円状に、急速に、失せていく。
光が、目映い光が幾重にもなって射し込んできた。陽光だ___
燦々と、全てを照らしていく。鮮やかな色彩が、目に映る景色が、甦っていく!
「______!!!!!」
ソアラの腕が軽くなる。目映い輝きはグルーに断末魔の悲鳴すら許さなかった。あっという間にヴァンパイア・グルーは、ソアラの頬に残した血痕まで、光の中で消え失せた。
世界に輝きが戻っていく。闇の霧が瞬く間に晴れ上がっていく。
今のこのときは、輝ける昼時だった。
城が光の放出をやめたとき、ゾヴィス湖は澄んだ蒼い輝きを放ち、周囲の木々は艶やかな緑色を示していた。
黒一色で面白みのない世界が___光があるだけでこれほどに美しくなる。
長らく忘れていた日の光の輝き___
命の輝き___
「見て___ルートウィック___」
レミウィスはナババを抱いて城のテラスにいた。少し離れた位置からソアラが二人を見守っている。子供たちは別の場所で、鮮やかな景色に目を輝かせていた。
「素敵でしょう___またこの美しい空を見ることができた___」
レミウィスは真っ青な空を見つめた。ナババもうっすらと目を開けて空を見ている。
「___素敵だ___素晴らしいよ___」
もうナババの声はレミウィスの耳に届くのがやっと。
「ああ___僕らの夢が叶ったのに___僕は君を___抱きしめることすらできないなんて___」
手首までの腕が震える。もう血は枯れ果てたのか、出血は見られない。レミウィスは憚ることなく涙を流し、ナババの体を抱きしめた。
「悲しむことはないわルートウィック___私が、私がずっと、ずっとこうして抱いていてあげる___!」
二人の体が強く、一つになる。レミウィスの全てを擲った抱擁に、ナババは彼女の耳元で満足そうな笑顔を見せていた。
「ありがとう___」
その時、ナババの全てがレミウィスに預けられる。死の瞬間だった。
それでもレミウィスは、いつまでも光の中で___
ナババのことを抱きしめていた___
燦々と、暖かな陽光が二人を包み込む___
燦々と___
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