3 鍵

 ゾクッ___
 順調に洞窟を奥へと進んでいたソアラは、背筋に寒気を感じて身を竦めた。
 「ソアラ、こっちへ。」
 「え?ああ、いま行く。」
 洞窟の奥で呼ぶレミウィスに返事をし、ソアラは早足で歩く。ここまでにも幾度かあの幻の岩壁があり、迷いながらも何とかたどり着いた先は、少し広くなっていた。
 「どうかしました?」
 ソアラがうわの空だったことを気にかけ、彼女が近寄るなりレミウィスが尋ねた。
 「ちょっとね、悪い予感というか___上で何かが起こったような気がして。」
 ソアラは心配そうな顔で、気丈な笑みを見せる。
 「戻りますか?」
 子供たちのことが心配なのだろう。彼女の気を案じたレミウィスは躊躇いなく問いかけた。しかしソアラは首を横に振る。
 「先に進みましょう。この洞窟の先にはとても重要な何かが待ってる。それも何となくだけど感じてるから。」
 心強い返事だった。彼女の竜の使いとしての成長ぶりは時々刻々。
 「これを見てください。」
 レミウィスは洞窟の壁に手を触れる。イゼライルの光で照らされた壁には、無数の傷跡が刻まれていた。ナババが小さな手帳を片手に、熱心にそれを見ている。
 「天界の文字___ね?」
 「わかりますか?」
 「なんとなく___」
 「血筋かな。」
 ナババがにっこりと笑う。ソアラは微笑んで首を傾げた。血の成せる業というのなら、否定はできない。
 「読めますか?」
 「それは___駄目ね。さっぱり。」
 「こう書いてあるんです。」
 レミウィスは一度だけ息を飲み、続けた。
 「まさか闇の世界が訪れるとは。帝は力を失おうと、この光の中で人々の安寧は守られるはずだった___翼を折られた私はここまでたどり着くのがやっとだった___同士よ、失われた光を取り戻せ___太古のからくりを解き明かせ___」
 レミウィスの言葉を聞きながら、ソアラは真剣な眼差しで傷跡を見つめ、そっと手を触れた。
 「あちらの隅に骨がありました。」
 「太古のからくりって___?」
 「それは分かりません。ですが___おそらく有翼人たちにも理解できないからくりがどこかにあり、それがこの闇を覆す突破口になる___そう考えています。」
 核心に一歩ずつ近づこうとしている。レミウィスの語気はいつもより強く、少し高ぶっている雰囲気だった。
 「この有翼人は翼を折られてここまでしか来れなかった。分かりますね?」
 ソアラはすぐさま頷き掌を上に向けた。
 「ドラゴフレイム!」
 炎が洞窟の天井全体に広がる。熱気は急激に増したが、天井の一部、炎が吸い込まれるように円形に消えていく岩壁があった。幻を見分ける簡単な方法だ。
 「掴まって。」
 「頼みます。」
 レミウィスとナババはソアラの腕を取り、ソアラはゆっくりと魔力を解放した。

 湖畔___
 両の掌を血に染めながら、黒髪の女は笑っていた。
 「嘘だ___」
 彼女を愛する男はただ一人、殺しの竜巻の被害を受けなかった。五人の仲間たちは、女の周りに散らばって倒れている。女は笑ってこそいるが、体に負ったダメージは尋常ではない。両掌から滴る血は、強烈すぎる呪文を放った直後に皮膚を破って弾け飛んだものだった。
 「フフフ___」
 フローラは挑発的な笑みを浮かべ、ただ一人残ったライを見る。
 「あなたは何もできないのね、情けない。」
 侮蔑の言葉を投げかけ、ただ呆然と見ているだけのライをそのままに、フローラは近くに俯せに倒れていたサザビーの上へと飛び乗った。
 「ぐっ!」
 機をうかがって起きあがろうとしていたサザビーが呻く。フローラは彼の背の上で舌なめずりをし、腕に刻まれた爪痕にもう一度指を差し込んだ。
 「ぐああっ!」
 フローラはサザビーの傷口を広げるように指を動かし、勢いよく血肉を穿り出す。そしてそれを口に含んだ。あまりにおぞましい光景___フローラはさらに食事を続けていく。
 「!?」
 だが迫り来る殺気を感じ、素早くサザビーの上から飛び退いた。煌めく刃は彼女の黒髪を少しだけ切り落としていた。ライだ。
 「おまえはフローラなんかじゃない!」
 決死の形相で、フローラを睨み付けるライ。
 「遅えんだバカ___」
 サザビーは苦痛に顔をしかめながらも口元は笑みを作った。
 「おまえはグルーのコウモリ!おまえに捕らえられたフローラは、僕が救い出す!」
 フローラは無理無理とでも言うような嘲笑を浮かべ、ライから距離を取る。
 「たああっ!」
 ライは追撃しながらも、いつもよりも少し早いタイミングで剣を振るった。フローラの肉体を傷つけることがないよう、刃はあくまで牽制のために使う。
 「おっと。」
 湖畔に飛び出た石に足を取られ、フローラがバランスを崩した。
 「チャンス!」
 ライが一気にフローラを捕まえにかかる。だが___
 「え___?」
 「!?」
 その瞬間、確かに胸のコウモリが消えた。声色は変わらないが、言葉の柔らかさはフローラそのものだった。躊躇ったライはその場で硬直してしまう。
 「やっぱりあんたはバカ。」
 フローラの胸元にコウモリが舞い戻る。刹那にライの胸には深い爪痕が刻まれた。
 「なに?」
 だがライは怯まない。むしろこれを好機と待ち望んでいた。
 ガスッ!
 懐に入り込んできたフローラの首に、剣の柄で痛烈な一撃。たとえコウモリがいようと体はフローラ。首筋への一撃は体を崩すには十分だった。
 「フローラから出てこい!」
 倒れた彼女にライが怒鳴りつける。
 「ライ、油断するな!」
 ようやく立ち上がった百鬼が叫ぶが、次の瞬間にはフローラの体は颯爽と飛び起きていた。
 「くっ___!」
 フローラの容赦ない爪がライを襲う。だがもはや彼女の爪も数枚が割れ、はがれ落ちようとしていた。
 「こいつめ!」
 防戦一方のライを救おうと、百鬼が後ろからフローラを羽交い締めにする。
 「この死に損ない___!」
 フローラは百鬼の脇腹に力ずくで爪を食い込ませる。
 「ライ!こいつの口を塞げ!グルーが口から何か送り込んだなら、引っ張り出してやるんだ!」
 突拍子のない案だったが、もはや無我夢中のライはフローラが何か言う前に、力任せに唇からぶつかっていった。フローラを助けられるならなんだってやってやる!気概の現れか、歯がぶつかり合った粗暴な口づけは血の味がした。
 (ライ!そのまま続けて!)
 フローラの声がライの脳裏に流れ込んでくる。ライは絶対に放すまいと、フローラの頭を押さえて口づけを交わし続けた。フローラはライの臑を蹴飛ばして突き放そうとするが、頑として動かない。たまらず百鬼の腹から爪を抜き、羽交い締めの体勢からウィンドビュートを連発した。
 「ぐっ!」
 ライの力が弱まった瞬間を見逃さず、フローラは彼の腹を蹴飛ばして突き放す。
 「はあっ!げほっげほっ!」
 フローラは百鬼に羽交い締めされたまま、激しく息をついて何度も噎せた。顔には脂汗が大量に浮かび、心なしか胸のコウモリが小さくなったようにさえ見える。
 「貴様何食べた!?」
 不意な質問だった。
 「???ここに来るちょっと前に、おやつでニンニクを。」
 「おやつでニンニクなんて食う奴がいるのかコラ!」
 フローラは足をばたつかせ憤怒の形相で怒鳴りつける。その後ろで百鬼がニヤッと笑っていた。
 「おいおいまさか、本当にニンニクと十字架が苦手とかいうんじゃねえだろうな?」
 「だ、黙れ!」
 好機!百鬼は羽交い締めの手をフローラの首から側頭部に移し、頭を固定する。すぐさまライが唇を重ねた。
 「ライ!フローラの左胸のポケットにネックレスが入ってる!そいつをかけてやるんだ!」
 サザビーの声を聞き、ライはちょっと躊躇いながらフローラの左胸のポケットに手を入れた。金属の感触、取り出したそれは___!
 (ロザリオ!)
 ライはすぐさまロザリオをフローラの首にかけようとする。しかしフローラも足をばたつかせて必死に抵抗する。
 「!」
 しかしその足も何者かに押さえつけられた。
 「俺たちもしっかり働かねえとな!」
 バットとリンガーは台地にはいつくばり、必死にフローラの足を抱く。
 「マグナカルタ!」
 ならば呪文で!しかしいち早くサザビーの一声がフローラの魔力を封じた。
 「寝ていても呪文ぐらいはできるぜ___」
 もはやロザリオを拒むものはない。鎖の両端が首の後ろで交わり、ライが手を放す。そして煌びやかな十字はコウモリの真上に重なった!
 (離れて!)
 フローラの声を聞いた気がして、ライは口づけをやめて離れた。胸のコウモリがもがき苦しむように暴れている。フローラの瞼が閉じ、体が激しく痙攣する。顎を上げ、口から黒い煙が立ち昇ったかと思うと、突然に嘔吐した。
 「にぇぇぇぇっ!」
 自分たちの顔の前に血まみれの吐瀉物が落ちてきたので、バットとリンガーが声にならない悲鳴を上げる。
 「出てきた!」
 ライの声。フローラの口から黒い何かが飛び出し、胸のコウモリが消滅する。飛び出した黒はコウモリ。小さな翼を広げてあっという間に闇に紛れてしまった。
 「まずい!見失うぞ!」
 人間の目ならば見失う。コウモリもそれは分かっていただろう。だが、皆の仲間には魔族の血を色濃く持つ者がいた。
 シュッ!
 閃光が走る。闇の中を舞うコウモリを、一本の矢が正確に射抜いた。
 「寝ていても矢ぐらい投げられる___そうですよね?父さん。」
 「そういうこった。」
 スレイとサザビーは横になりながら互いに親指を立てた。
 「キィィィ!」
 コウモリは断末魔の怪音を発して朽ち果てた___
 「やられましたか。なかなかやる。」
 化身が消え失せたその時、グルーは呟いた。
 「あー!今度こっちー!」
 洞窟の天井に逆さに立ち、彼が見下ろす先にはリュカとルディーがいる。二人は洞窟の幻影を上手に探し当て、どんどん奥へと進んでいた。
 (役に立つこと。)
 グルーは静かに二人の後を追った。

 この展開___
 湖畔で一つの戦いが終わり、次は幻影の洞窟の先にある何かを巡る。しかし、このグルーと皆とのぶつかり合いを後目に、全く違った意志のぶつかり合いが繰り広げられようとしていた。
 場所は百鬼たちからゾヴィスを挟んだ対面の湖畔。
 役者たちは、それぞれが集まるのを待っていたかのように、全く時を同じくしてその場所に現れた。
 「来たな___」
 一人は黒マントの八柱神。名はフォン。
 「やあバルバロッサ、久しぶりですね。いや、もうその名はやめましょうか。」
 よく見知った黒一色の男に笑顔を見せる細身の男。名は棕櫚。
 「___」
 寡黙な黒一色の男は一瞥するだけ。名はバルバロッサ。
 湖畔に結集する三つの影。互いの思惑が、今明かされる。
 ___
 「あなたが鍵の番人ですか?八柱神だとは、少し驚きましたね。」
 風吹く湖畔。棕櫚はフォンを見て笑顔で問いかけた。だがフォンは厳しい顔つきで、棕櫚だけをじっと睨み付けている。
 「待っていたぞ、棕櫚。」
 「?」
 棕櫚はこの男に見覚えがない。だがフォンは違うようだ。
 「俺の名は洪(フォン)。」
 「洪?私は聞き覚えがありませんね。」
 「本当にそうか?」
 風がフォンの黒髪を揺らめかせる。三角に立っていても、意識のぶつかり合いがあるのは棕櫚とフォンの間のみ。
 「俺は貴様のことはよく知っている。黄泉を騒がせた盗賊___おまえは金品を盗むだけではなく、人の能力まで盗む。今のおまえは確か樹瑚(じゅこ)とかいう男の能力を抱いている。」
 黄泉。
 それが三人の故郷だった。
 「そしておまえは、榊(さかき)様に屈辱を味あわせた愚劣な男。」
 「榊___なるほど、彼女の絡みですか。元気にしてますか?彼女は。」
 ボンッ!フォンの足下の大地がひび入り、大きく窪んだ。強烈な力が波動となって彼の周りを漂っていた。
 「よく軽々しくそんなことが言えたものだな___!」
 フォンの怒りが沸々と感じられる。もはや彼は八柱神という立場にない。何らかの因縁で、棕櫚に酷い劣情を抱く猛者だ。その因縁とは___何より、黄泉とは?
 「なぜ榊様は貴様のような男を___貴様という汚点により、榊様自身も負い目を背負われた!闇の番人でありながらだ!」
 「捕まってしまったんだからしょうがないでしょう。実際かつて私と彼女は趣味を共にしていた身、少々協力していただいたらたまたま捕まってしまっただけです。」
 「その無頓着さが腹が立つのだ!」
 フォンは額に青筋を立てて棕櫚を怒鳴りつけた。
 「どうでもいいが___」
 呆れた様子で、寡黙な男が口を挟む。
 「俺は貴様らの因縁には関係ない。黄泉への鍵を貰おうか?」
 ようやくフォンがバルバロッサの方を振り向いた。
 「関係なくもないですよ、風間。何しろ逮捕された当時、あなたと俺は一緒にいたんですから。だから私たちは同時に裁かれたんでしょう?」
 「貴様___」
 バルバロッサが棕櫚を横目で睨み付ける。
 「どちらにせよ黄泉の掟です。鍵の番人は、私怨にとらわれず仕事を全うして欲しいですね。我々は罪を犯し、おおよそ生きる望みのない罰から幸運にも生きのびることができた。だからあなたも鍵の番人としてこちらに来たのでしょう?すんなりと黄泉に帰していただかないと。」
 黄泉とは___彼らの故郷。そして彼らは妖魔と呼ばれる。
 その世界は中庸界や地界には全く関わらない未知の土地。
 妖魔と呼ばれる理由は、彼らが皆、何か特異な能力を持ち合わせているから。
 そして棕櫚はこの黄泉で、盗賊として名を馳せていた。
 バルバロッサ、黄泉では風間と呼ばれる彼は寡黙故かその素性を明かさない。
 どちらにせよ、二人は重罪を犯した罪人である。
 黄泉の刑罰には様々なものがあるが、その中の一つが特異的な次元の狭間に落とされることである。そこは闇が蠢き、おおよその生命は数分と持たずに体を引き裂かれて朽ち果てる。実質の極刑である。
しかし二人は幸運にも生き延びることができた。次元の狭間で多くの力を失いながらも、中庸界にその身を吐き出された。これは常識ではあり得ないことである。
 生き延びた妖魔は、徐々に力を取り戻していくだろう。しかし優れた能力を持つ妖魔が異界で王になることは許されない。それを防ぐため、そして生き延びた妖魔を黄泉へ連れ戻さなければならない。そして鍵の番人が遣わされた。
 力を維持して異世界へと赴くことを許された妖魔である。
罪人たちは強くなることを望んだ。なぜか?力を取り戻さないまま黄泉に帰っても、生き延びていけないから。それほど黄泉は過酷な世界だ。
 だから番人は世界で最も強大な存在の側で、罪人がやってくるのを待っていた。
 鍵の番人、フォンがいたのはアヌビスの側。
 そして罪人の棕櫚とバルバロッサが強さを取り戻すために選んだのは、ソアラたちだった。
 両者が出会ったとき、異世界で力を取り戻した罪人は刑期を終え、黄泉に戻る。 
 だがフォンは、個人的な因縁で鍵の番人になることを直訴し、こうして棕櫚を睨み付けている。これは、番人としての範疇を逸脱したことだった。
 「連れては行く。だがおまえのような男を自由にさせる気はない。私は榊様のためを思い、愛すればこそ、貴様を許せない!」
 榊とは?それは語らずとも良いこと。
 だがその女は棕櫚に好意を抱き、彼の罪に荷担した。
 彼女は重大な地位にその身を置いていたが、棕櫚が逮捕されたことによってその関わりが明るみに出て、不遇を囲っている___そう考えるのが良さそうだ。
 そしてフォンは、榊に愛を抱いている。だが様をつけて呼ぶことを思えば、彼はおそらく榊に仕える者。榊への愛を抱けばこそ、彼女を貶めた棕櫚が許せない。そして鍵の番人となった。
 「虫の息にして榊様の前に突き出す。手枷をし、貴様に二度と自由は与えない。」
 恨みの滲む顔で棕櫚を睨み、歯を食いしばる。
 「俺が持っている鍵は二つ。棕櫚のものと、おまえのもの。」
 フォンはバルバロッサを一瞥した。この男の犯した罪には、彼はなんの興味も抱かなかった。
 「早く帰りたければ俺に殺されることだ。それはそれで理由のつけようもある!」
 フォンが力を高めると、マントは炎にでも包まれたかのように千切れ飛んで消滅する。黒いズボンで上半身は筋骨隆々の肉体を露わにし、フォンは荒々しく息をついた。
 「ぐおおおおっ!」
 雄叫びと共に、彼の肉体が変化する。胸から背にかけて緑色の鱗のようなものが浮き上がり、側頭部から二本の角で天を差す。妖魔の多くが、その能力を遺憾なく発揮するために肉体的な変化を見せる。
 顔立ち、皮膚の色は変わらない。変化は急所を守るような鱗と、殺意に満ちた角だけ。
 この変身は、フォンの全力の現れだった。
 「風間、手伝ってくださいよ。」
 「帰りたいからな。」
 棕櫚とバルバロッサはいつもの二人のまま、視線を厳しくした。
 「そうだ、静かに戦わなければ___ばれますよ。」
 「無理だな。」
 「ははは___」
 湖の向こう側で戦いが繰り広げられたのは感じていた。悟られたくはないが___難しいかも知れなかった。



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