１　破綻なき別れ

　「まんまと騙されました。いったいいつの間にこんなものを作ったのか、重みのある木で作られた器に、鱗粉のように輝く苔が塗られていたのです。」
　グルーは不満を顔に表しながら、闇の中に浮かび上がったアヌビスの姿に語りかけた。空間に揺らぐアヌビスの姿は、彼がそこにいるかのように顔色を作っていた。
　「おもしろいこともあるもんだな。よほど木細工のうまい奴でもいたのか？」
　一方でヘルジャッカルの謁見の間にも、偽の聖杯を手にしたグルーの像が浮かび上がっていた。これは一種の通信術だ。
　「植物を自在に操作する男ならいます。そいつの仕業でしょう。」
　グルーは棕櫚の顔を思い浮かべ、偽の聖杯に黒ずんだ炎を灯した。
　「変わった能力だな。人はもちろん、魔族にもない特性だ。」
　「アヌビス様。」
　突然別の声が二人の間に割り込んできた。グルーの、そしてアヌビスの前に現れた幻影に映し出されていたのは、屈強なる八柱神。任務でヘルジャッカルを離れていたフォンだった。
　「どうした？ああ、そう言えばもうおまえの近くだな。何かあったのか？」
　アヌビスの問いかけにフォンは首を横に振った。
　「ゾヴィスに何かあったわけではありません。」
　フォンが口にしたゾヴィスという言葉。それは紛れもないゾヴィス湖を差す。彼の任務はこの湖の監視だった。なんのために？
　「ただその棕櫚という男について、少々お話が。」
　フォンは手にこびりついた血を、ゾヴィス湖の水で洗い落とした。湖畔には若い男の骸が転がっていた。
　ゾヴィスには一つの鍵がある。竜神帝に関わる大いなる鍵が。それが人の手で世に舞い戻ることなどないよう、彼は湖を監視しているのだ。
　「棕櫚？おまえに何か関係があるのか？」
　アヌビスは長い耳を前に向け、興味深げに尋ねた。
　「多少＿＿＿縁がありまして。」
　多少どころではないですね＿＿＿フォンの幻影を見ていたグルーは肩を竦めてほくそ笑んだ。フォンは隠し事が得意な方ではない。彼の顔には劣情が滲み出ていた。
　「希望を言えば、奴らをこのゾヴィスまで前進させて欲しいのです。俺はその上で奴と一戦交えたい。」
　グルーが笑ったのを見て悟られていると知ったのだろう、フォンは隠しだてせずに言った。風が湖に細波を生み、フォンの長髪をなびかせる。
　「棕櫚という男は俺も気になっている。奴はなんだ？」
　「悪党ですよ。それ以上のことは言えません。」
　「おまえの素性もはっきりとは聞かせてもらえなかったな。」
　「我々の掟です。たとえアヌビス様といえど話すわけにはいかない。」
　秘密があることは認めながら頑なに拒否するフォンの姿を見て、滑稽に思ったアヌビスは声を上げて笑った。
　「いいだろう、奴らをゾヴィスで待て。」
　「アヌビス様、フォンはその棕櫚という男にだけ用があるのでしょう？奴らは一人ではないのですよ。」
　グルーがアヌビスの声に重ねるようにして言った。
　「まあそうか、ゼルセーナの功績が台無しになればおまえもやりづらくなるな。」
　「そういうことです。ゾヴィスまで行くことは許しましょう、しかしソアラをはじめとした残りの者たちの掃討は私にお任せいただきたい。」
　グルーは自信を滲ませて胸に手を当てた。
　「いいだろう。」
　アヌビスが頷き、二人が一礼すると幻影は霧散していった。謁見の間にてアヌビスは玉座に立て肘をつき、白い牙を見せて笑った。
　「おもしろくなってきた。ソアラは八柱神を出し抜けるほどに力を付けてきている。そして棕櫚にフォン。俺の知らない何かが奴らの間にはある＿＿＿」
　そそられる。ソアラの登場で近頃は楽しい時を過ごしていたが、それまではいい加減同じ景色に飽きが来ていた。二人の因縁に隠されたものは何か？実にそそられる。
　アヌビスは空想を巡らせながら、酒のグラスを手に取った。

　「つ〜か〜れ〜た〜。」
　舌を出しながら、ライはきつい上り坂を懸命に進む。
　「ほら頑張って。」
　フローラも額に汗しながら彼の背を押した。急な傾斜は気を抜くと転げ落ちてしまいそうだが、実はここまでほぼ直角に近い岩の斜面を登ってきたのだ。
　「しかしこれはきついなぁ＿＿＿これを越えて向こう側に行くとなると、かなり時間がかかるぞ。」
　百鬼は辺りを見渡して渋い顔をする。暗くてはっきりしないが、この先にまだ峰が連なっているのは分かった。
　超龍神との戦いを勝利で終え、皆はソアラたちとの合流を目指してゾヴィスに向かっていた。地図にない山脈越えの直進ルート。かつて使われていたであろう道の名残が途中までは続いていたが、その後は強引に山肌を登る。できる限り傾斜の少ない、歩きやすい場所を選んで進めば進むほど遠回りが必要になる。一山越えるのにあと何日かかることか。想像以上に巨大な山脈だったのは、大きな誤算だった。
　「かなり後れを取るのは間違いないな。」
　サザビーは近くの岩に腰を下ろし、煙草を口にくわえた。それを見た皆も自然とへたり込んで休憩をはじめた。
　「もう皆さんゾヴィス湖についているかも知れませんね。」
　スレイは飛行ができるがそれほど持続はしない。彼も概ね歩いて山を登っている。
　「街道に戻った方が早かったかも〜。」
　「今更だろ、それを言うなよ。」
　ライの愚痴に百鬼が口を尖らせた。
　「ねえ。」
　額にの汗を拭い、フローラが辺りを見渡す。
　「何かおかしくないかしら？」
　「はい？」
　「敵か！？うわっと！」
　百鬼が飛び起きるように立ち上がって、危うく足を滑らせそうになる。
　「そうじゃなくて、何かいつもと違う気がするのよ。」
　「？？？」
　フローラも自分の疑問が把握しきれていないのだろう。首を傾げて曖昧な言葉を口にした。
　「なんだろう？ごめん、よく分からないや。忘れて。」
　その時はそれきりなんの疑問にも思わなかった。彼は確かに寡黙ではあるが、その漆黒の出で立ち、抜群の強さ、存在感は圧倒的だ。なのに誰も彼のことを思い出せなかった。
　フローラが感じていた違和感は、バルバロッサがいないことだ。
　「さあ、少しでもソアラたちに近づこうぜ。」
　だが誰一人としてそれを疑問に思っていない。彼を捜すこともないし、バルバロッサという名前さえ出てこない。
　昨日まで一緒にこの山を登っていたことまで忘れていた。
　「ちょっと待ってください＿＿＿！」
　突然スレイが声を上げる。
　「何だ？何かあったのか？」
　サザビーに問われると、彼は口元に指を立てて静寂を求めた。
　「聞こえるんですよ、強烈な雄叫び＿＿＿雷鳴みたいな音が徐々に近づいてきている＿＿＿」
　少し尖った耳を峙たせ、スレイは目を閉じた。
　「北の方角＿＿＿」
　「北？」
　と、皆が北方の空を見たとき。
　「あっ！」
　「何か光った！」
　北方の空、さほど遠からずの所で何かが一瞬だけ目映く輝いた。
　「え〜なになに？」
　ライだけは南の空を見上げて眉間に皺を寄せている。
　「何か動いてるな＿＿＿」
　サザビーは煙を吐き出しながら言った。山間に雷鳴のような音が響く。
　「！」
　再び空が光ったその時、ライを除く四人はそれがなんたるかを知った。
　「ドラゴン！」
　光は口から吐き出された火炎。その輝きを一瞬だけ身に纏い、暗闇の空に大きな翼を持つ竜の姿が浮かび上がった。
　「翼竜ですね＿＿＿きっとこの辺りのボスですよ。」
　「すげえなぁ＿＿＿野生の竜って奴？」
　百鬼は手を翳して空を見続けた。気付いてしまえば闇の中でも目で追える。
　「どこ〜？」
　まだ一人で南の空を見ているライの後頭部を、空っぽになった百鬼丸の鞘が叩いた。
　「ね、ねえ＿＿＿もしかしてあたしたちの方に近づいてきてない？」
　確かに翼竜はゆっくりと旋回し、いつの間にか身体を皆の方へと向けていた。フローラの言う通り、確かに近づいてきているようにも見える。
　「まっさか〜、気のせいだろ。いくら竜だってこの暗闇の中で俺たちに狙いをつけてくるか〜？」
　「そうだよそうだよ。」
　百鬼とライが口々に言ったその時＿＿＿
　「あああああああっ！！！」
　二人は気が付いた。
　「ん？」
　いきなり注目されて不思議そうな顔をするサザビー。口には赤熱した煙草＿＿＿
　「それ捨てろ！」
　百鬼はすぐさまサザビーから煙草を奪い取り、火を岩に擦り付けた。しかしもはや翼竜はこちらに向かって一気に滑空してきている。
　「やるっきゃねえ！」
　百鬼はいつもの調子で刀を抜こうとするが＿＿＿
　「げげ！」
　百鬼丸は超龍神との戦いで砕けてしまっている。ライとフローラが臨戦態勢に入る中、迫り来る翼竜が喉の奥底を光らせた。こんな場所で戦うのは圧倒的不利！
　「こっちだ！」
　「！？」
　皆は目を疑った。
　「スレイ！」
　スレイがいきなり上空に舞い上がると、空の高見でドラゴフレイムを放ってみせる。竜は矛先を変えてより大きな刺激の方へ。
　「ゴオオオ！」
　翼竜は雄叫びと共にスレイに向かって滑空する。しかしスレイはさらに高い位置へと舞い上がってそれをやり過ごした。
　「どうする気だスレイ！？」
　余裕のある顔つきを見ると、囮のつもりでもなさそうだ。百鬼が大声を張り上げて問いかけると、彼は白い歯を見せて微笑んだ。
　「知的レベルの低いモンスターなら、ちょっとしたコツがあるんですよ。」
　スレイが矢筒から取りだしたのは少しだけ撓った木製の矢。彼はその矢に素早く何度か指を宛っていく。翼竜はその間も執拗に彼を追い回し、スレイはできるだけシンプルに逃れる。
　「よし＿＿＿！」
　スレイは満を持して弓を引き絞り、木製の矢を空の高見に向かって放った！
　「なにやってんだあいつ！」
　矢は翼竜とはまったく関係ない、それこそスレイの真上に勢いよく放たれた。
　「笛だ。」
　彼の意図は手に取るように分かるのか、サザビーがポツリと呟く。
　「グゥゥゥゥ＿＿＿！」
　翼竜が突然失速し、首をすくめた。スレイは落下してきた矢を握り、矢の端の穴に紐を通して振り回しはじめた。すると翼竜は急に気勢を失い、翼を大きく広げてゆったりと皆の側へと降りてくる。
　「うわっ！来たよ来たよ！」
　ライが驚きと好奇心で目を輝かせる。
　「でもちょっと様子が違うよ？」
　フローラの言葉通り、翼竜の顔つきにはこれっぽっちの闘争心もない。むしろどこか虚ろだった。
　「犬笛ってあるだろ、あれのモンスター版だ。」
　「どうやったんだ？」
　百鬼が訝しげに問う。
　「矢に穴を開けて飛ばしたのさ。多分あれは中が空洞になってるんだろ。高速で飛ばせば人の耳には聞き取れない音が鳴る。」
　サザビーは納得の様子でスレイを見ていた。スレイは確かめるように翼竜の頭に降り立つ。モンスターを操る笛、実はポポトルにいた頃、リュキアに見せびらかされたことがあった。あのときは＿＿＿まさかスレイが生まれるなんて事は考えもしなかった。
　「皆さん！こいつにゾヴィスまで運んでもらいましょう！」
　翼竜の角に手を触れ、スレイはにこやかに手を振っていた。

　「＿＿＿」
　キュクィ車の幌から見える景色。街道は崖に沿ってくねるようにして続き、遠くには開けた暗闇が見える。
　あれがゾヴィス湖だった。
　ソアラが子供たちと一緒に幌の上へと登り、はしゃいでいる声がする。ゾヴィスはもう目と鼻の先。レミウィスも聖杯を置いて御者席を覗きに出ていた。
　だが彼は至極冷静だった。
　バルバロッサのように無口ではなく、皆が楽しんでいるときはそれを共有する。でもどこか不思議な一面を持っていて、顔は女性的。
　「潮時だな。」
　幌から森影を見やり、棕櫚は呟く。それは彼にとって待ち侘びた時だった。
　失った己を取り戻す、最初で最後のチャンス＿＿＿
　このためにここまで旅路を共にしてきた。でもそれも終わり。迎えがすぐそこにまで来ている。
　「棕櫚さん？」
　棕櫚が立ち上がり、キュクィ車の縁に足をかけた。幌にでも登るのだろう＿＿＿ナババはそう思った。しかし＿＿＿
　トンッ＿＿＿
　棕櫚は飛び降りた。
　「棕櫚？ちょっと！」
　棕櫚が突然キュクィ車から飛び出し、森影へ消えていく。ソアラは反射的に幌を蹴り、それを追っていた。
　「リンガー！キュイを止めて！」
　不思議だった。飛び降りた瞬間そう叫んだソアラだったが、その後がぱっとしなかった。　（なんで？）
　何でキュクィ車を止めさせなければならなかったのだろう。
　「いや＿＿＿誰かを追いかけるのよ！」
　「どしたの姐さん！？」
　妙な違和感に苛まれながらも、ソアラは街道から森の傾斜へと飛び込んでいった。
　「何でしょう、突然。」
　「さあ？」
　レミウィスの言葉にバットが首を傾げる。幌の中を覗いてみても、聖杯が無くなったわけではない。一体何が？
　「でも＿＿＿何かが足りないような気もしないでもない＿＿＿？？？何を言ってるのかしら。」
　ついさっきまでと何が変わったのだろう？分からないが、御者席から覗き見た幌の中の景色は、いまままでと違う気がした。
　急角度な森を素早く滑り降り、ソアラは片手に灯した炎で辺りを照らす。
　（誰を捜しているのか分からないけど＿＿＿ここで納得したら何か大切なことを失いそうな気がする＿＿＿）
　確信はなかった。なぜ自分が暗黒の森の中で目を凝らしているのかさえ、よく意味が分からなかった。しかし直感が身体を突き動かす。
　（＿＿＿草？）
　立ち止まって手を触れた木の幹、そして指の迫間から覗くのは木に絡みつく草。何気ないただの植物に気を引かれたのは何故だろう？
　「どこに＿＿＿どこにいるの！？出てきて！」
　ソアラはできる限りの声を張り上げた。一瞬でも誰かを追いかけなければいけないと感じたからキュクィ車を飛び降りたのだ。記憶がないのは理解できないが、もし本当に誰か追われている奴がこの森にいて、そいつが記憶の空白を生み出したとするなら＿＿＿
　「いるのは分かってるのよ！それともあたしはこのままでいいって事かしら！？」
　出てきてもらえばいい。記憶を消されたのなら、それが消えていないふりをする。そうすれば奴は、用心のために出てくるはず。
　ザッ＿＿＿
　ほら！背後に草を踏みしめる音を聞いたソアラは、いつでも飛び出せるように軽く腰を落として振り返った。
　「＿＿＿」
　炎に照らされたのは＿＿＿女？
　「＿＿＿！」
　いや、男！ソアラは息を飲み、目を見開いた。記憶にぽっかりと空いた穴に、まったく微々たる誤差もないピースが埋め込まれる。
　「棕櫚＿＿＿」
　彼の名前が自然と口をつき、闘志が萎える。そして大いなる困惑。
　なぜ記憶をなくしたのだろう？
　なぜ彼のことを忘れたのだろう？
　なぜ彼はここにいるのだろう？
　「棕櫚よね？」
　少しだけ自信がなかった。記憶の穴は修復されたが、彼の冷血な顔を目の当たりにすると自信が持てない。
　「あなたには通じなかったのかと思いました＿＿＿迂闊にも思い出させてしまったようですね。」
　彼の言葉はいつも通り丁寧だったが、内容は違う。
　「今までお世話になりました。俺はここで消えます。」
　「どういうこと＿＿＿？」
　棕櫚が何をしたのか、考えて分かることではない。ソアラは漸く平静を取り戻し、戒めるような厳しい視線で彼を睨み付けた。
　「言葉の通りです。」
　「それがどういうことかって聞いてるのよ！」
　ソアラはすぐ側の木を拳で叩いた。片手の炎が勢いを増していた。
　「！？」
　手が突然何者かに掴まれ、彼女はギョッとしてそちらを見る。木に入った小さな罅から緑色の蔦が湧き出て拳を包み込んでいた。そのおぞましさに、彼女は反射的に炎を放っていた。
　だがそれはおかしい。
　「ギョッとしましたね？そういうことなんですよ。」
　「＿＿＿」
　植物は棕櫚の能力だ。彼は最初、小さな種を発芽させてソアラを驚かせた。だがソアラは今更ながら、そんな能力があっていいのか？と不可思議に思ってしまった。
　「今まで一緒にいることができたのは、俺が皆さんを利用していたからなんですよ。」
　棕櫚は懐から小さなビンを取りだした。
　「これは俺たちに関わる記憶だけを消し去ることができる秘宝。」
　「たち＿＿＿？」
　「バルバロッサも俺と同じですから。」
　「！」
　その名前を聞いてソアラは気が付く。バルバロッサの名前は彼女の脳裏から完全に除外されていた。
　「なぜ俺がこんなものを持っているのか。それは俺もバルバロッサも罪人だからです。」
　「意味が分からないわ＿＿＿まず率直に棕櫚が何者なのかを教えて。」
　あなたがとは言えなかった。彼の名が本当に棕櫚であるかも、この状況ではあやふやに思えてしまう。彼はまさに全てを覆そうとしているように思えた。
　「中庸界の生まれでも、地界の生まれでも、天界の生まれでもないとだけ言っておきましょう。そして俺は罪を犯し、こちらという異世界へと飛ばされたわけです。」
　理解するのは難しいだろう。だが彼がこんな行動に出た理由＿＿＿納得のいく理由だけは聞いておきたかった。
　「そして刑期の終わりが近づいてきました。俺とバルバロッサは元の世界に戻るため、俺たちの存在、俺たちの世界、全ての記憶をこちらから消さなければなりません。それはこの秘宝の力で簡単に行えます。」
　棕櫚はビンの蓋を開けた。ビンの口からは赤み帯びた光が漏れていた。
　「今からもういちどあなたの記憶を消します。」
　「大人しく従うと思う＿＿＿？」
　「殺されたくなければ従うべきです。」
　ソアラの足下から大量の草が吹き上がり、彼女の身体に絡みついた。草の中には、赤黒く刺のある枝が混ざっている。恐怖を抱くには充分だった。

　「姐さん＿＿＿姐さん＿＿＿」
　「ん＿＿＿」
　リンガーの呼び声で目を覚ましたソアラだったが＿＿＿何故か胸元が暖かい。
　「あ〜ねさ〜ん。」
　「いっ！？」
　リンガーは両手でソアラの胸を揉んでいた。
　ポカッ！！
　「何やってんのよあんたはっ！」
　ソアラはリンガーの頭を平手で叩き、顔を真っ赤にして怒鳴りつけた。
　「いや〜ん、せっかく起こしてあげてたのに〜。」
　「起こすんなら起こすで肩揺するとかほっぺ叩くとかあるんじゃないのっ！？」
　「ずんまへん＿＿＿」
　頬を思いっきり抓られ、リンガーあっさり降参。
　「それより姐さんこそこんなところで何してたんすか？倒れてるからビックリしちゃいましたよ。」
　そんな状況で胸を揉むのか？ソアラは伏し目で彼を見る。
　「あれ？」
　ここで何があったかなんて、いくら意識を失っていたとはいえ覚えていそうなものだ。しかし記憶の紐を解こうとしても、まるっきりその切れ端さえつかめない。
　「何やってたんだろう＿＿＿覚えてないな。」
　「？？？大丈夫っすか？何かあったんじゃないっすか？何ならボディチェックを＿＿＿」
　「すんなっ！」
　「はい＿＿＿」
　ソアラは腕組みして首を傾げる。しかしまったく思い出せない。自分が何故こんな所にいたのかさえ思い出せない。キュクィ車の幌の上で子供たちとゾヴィス湖を見ていたのが、最も新しい記憶だ。
　「わかんない＿＿＿何もないよね。」
　「俺に聞かれてもわからねえっす。」
　ブチッ＿＿＿思いを巡らせながら、ソアラは下草をむしった。
　「＿＿＿」
　なぜか無意識に、そのまま草を見つめる。だが＿＿＿
　「わかんないや。」
　すぐに捨てた。
　「戻ろう。ごめんね、暗いのに大変だったでしょ。」
　「人妻の乳を揉めたので最高っす。」
　ポカッ！
　＿＿＿
　ソアラの記憶が完全に失せていることを、棕櫚は闇の奥底から見届けていた。
　「さよなら、皆さん。」
　あまりに鮮やかな記憶の略奪。その別れは突然だったが、破綻は皆無だった。



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