3 血化粧

 「うん?」
 ソアラが正気を取り戻した。自分の掌にある聖杯に気づき、キョトンとした顔をする。
 「あれ?」
 操られていた間の記憶は定かでないようだ。明るかった街にいたはずが、周りがすっかり暗がりに包まれていることに戸惑っている。感覚も鈍っているようでグルーの存在にさえ気づいていない。
 「ソアラ。」
 「あ、レミウィス___ってその顔!?」
 後ろからの声で振り向いたソアラは、炎で己の姿を照らしたレミウィスを見つけた。
 「!」
 ようやく目が覚めたか、グルーの邪気に感づいたソアラは険しい顔になって振り返る。
 「グルー!そういえばあたし___!」
 暗闇の中に白い顔だけが浮かび上がるようなグルーを睨み付け、ソアラは首筋に片手を当てた。
 「聖杯があなたを呪縛から解放したのです。」
 「そうだったの___」
 ソアラは思わず聖杯をきつく抱きしめた。あのとき、グルーに食らいつかれたときのあの恍惚。唐突にあれを思い出して酷い寒気が走った。
 「うわっ!暗いなここ!」
 「レミウィスさん!姐さんも!」
 騒がしい声を響かせて、バットとリンガーがやってきた。その後ろから棕櫚も駆けてくる。
 「遅くなってすみません。リュカ君とルディーちゃんの説得に手間取りました。」
 「二人は!?」
 「一番安全そうな場所に預けてきました。」
 棕櫚は胸の前で手を合わせて祈るような仕草をした。偶然とはいえ、この相手には最良の場所だ。
 「さあどうするヴァンパイア。これであたしたちの手駒はそろった。いよいよおまえがその手で私たちと戦うのか?」
 頬の傷もそこそこに、ナババに回復呪文を施しながらレミウィスは挑発的なことを言う。
 「そんな必要がありますか?」
 ゲーブルがグルーの側にゆっくりと歩み寄る。しかし彼はソアラたちに対して横を向き、グルーには背を示した。
 「血を吸う人物は選びますが、操るのは相手を選ばない。」
 しなやかな指先がゲーブルのうなじのあたりに触れる。暗くてはっきりとはしなかったが、グルーが何か針のようなものを抜き取ったのが見えた。
 「ぐああああ!」
 ゲーブルが絶叫する。首筋から真っ赤な霧が噴き上がり、ゲーブルの体は見る見るうちにやせ細り、白く干からびていく。おぞましい光景を凝視し、バットとリンガーは肩を竦めて唾を飲み込んだ。
 「ソアラは蘇る術を持っていました___しかし私の支配に落ちたその時が死でもあると思っていただきたい。」
 グルーの姿が闇に溶けるように消えた。
 「まて!」
 ソアラはドラゴフレイムの炎を広範に放つ。輝きが辺りを照らし、街灯に光を取り戻させる。しかしグルーの姿は消えてなくなっていた。
 「厄介なことになりましたね___」
 グルーは逃げ去ったわけではない。
 「無差別に牙を剥かれたら大変なことになるわ。」
 ソアラは腰のベルトを抜き取って聖杯に結び、肩の辺りに縛り付けた。
 「借りるよ、レミウィス。」
 「ええ。」
 「棕櫚、みんなを守ってリュカとルディーのところへ行って。あたしは聖杯があればグルーと戦える。」
 ソアラは気を引き締め直すように頬を叩き、力強く言った。
 「分かりました。ただソアラさん___」
 「?」
 棕櫚はターバンから小さな種を取りだした。

 空に昇って見下ろした街は広く、光で満たされている。
 「どこだ___どこにいる?」
 グルーの狙いは聖杯。ならば奴を街から引き剥がすため、ソアラは空高くへと昇った。
 「はやく見つけないといけないのは分かってるけど___」
 いくら街が明るいと言っても、この高さからグルーを見つけるのは不可能___ではない。
 「いや、街の中に隠れてくれたのはむしろ良かった!」
 グルーを見つけた!ソアラはキッと一点を睨み付け、一気に急降下した。
 「ククク___」
 グルーは暗がりの中で容姿端麗な女性を背後から抱きしめ、今まさに牙を突き立てようとしていた。
 「ちっ!」
 しかし舌打ちをして素早く飛び退く。次の瞬間、突っ込んできたソアラが素早く女性を抱き寄せた。
 「逃がさないよ!」
 「よく見つけましたね。」
 「行く先々でいちいち街灯を消してれば、馬鹿だって分かるわ。」
 ソアラは気絶している女性をその場に横たえ、グルーをじっと睨む。絶対に目を逸らしてはいけない。僅かな隙を与えるのも危険だ。
 「ああ、ついつい習性ですね。どうもやはり明るいのは好ましくないのです。」
 グルーは作り笑顔で空を仰ぐ。その時ソアラは「誘われた」と感じた。
 「!?」
 背後に不快な音を聞き、ソアラはとっさに体を捻る。
 「くっ___!」
 後ろには拳銃を持った令嬢が立ちつくしていた。銃口は煙を上げ、弾丸はソアラの左腕に抉り込んだ。
 「こ、これは!」
 グルーから目を逸らして初めて気がついた。そこは周囲にアパートが建ち並び、その窓の所々から若くて美しい女性が顔を覗かせている。ある者は拳銃、ある者はナイフや包丁、ある者は植木鉢を手にソアラを睨み付けていた。
 「あんたは___どこまで卑怯な男なんだ!」
 ソアラは口惜しさを剥き出しにして怒鳴りつけた。彼女の熱をやり過ごすかのように、グルーは微笑み続けている。
 「負けず嫌いなだけですよ。」
 グルーが指をスナップすると、操られた美女たちの目つきがより一層鋭くなる。上空へ逃れればこの危機を脱するのはたやすいが、それではグルーを見失うだろう。
 (どうする___?)
 手はずが思い浮かばない。せめてこの罪なき女性たちを抑えることができれば___
 「ディヴァインライト!」
 凛とした声が暗闇を劈いた。目映い光はソアラを背後から狙っていた女性を包み込み、彼女の体から赤い霧があふれ出す。グルーが渋い顔をした。
 「吸血による支配であれば、浄化の呪文で解き放つことができそうです。」
 顔の治療を終え、レミウィスがその精悍な姿を現した。
 バババババ!突然周囲のアパートの壁に、蔦が深く蔓延っていく。窓どころか、出入り口まで完全に塞ぎ止められた。
 「ここは俺たち任せてください。」
 棕櫚がソアラにウインクを送る。
 「助太刀ですか。なかなか味なことをしますね。」
 グルーの体がフワリと上昇し、闇に溶けるように空に紛れていく。
 「逃がすか!」
 ソアラはすぐさまそれを追った。上空は光の届かない闇の世界。それはグルーの世界だ。
 (きた!)
 類い希な集中力はソアラの感覚を研ぎ澄まし、真横から迫った鋭い爪を回避させる。
 「よく避けました。さすが元八柱神。」
 「候補よ。あんたみたいのと一緒にしないで。」
 「ふふ、手厳しい___」
 グルーの気配が変わった。あからさまな殺意が威圧するかのようにその身から沸き上がっている。
 (本気になったな___)
 ソアラは空中で拳を握り、構えを作る。どうもしっくり来ないが、街中で戦うよりはいい。
 「それにしてもあなたは聞きしに勝る無鉄砲だ。そうやってわざわざ聖杯を見せびらかしながら戦うのですね?」
 「あんたに小細工を使わせないためよ。」
 「いや、それにしたって不用心すぎますよ。」
 グルーが闇の中を流れるようにソアラに迫った。ソアラは素早く身を翻し、爪の一撃から逃れる。スピードもパワーもそれほどではなさそうだが、あの「爪」に何かがあるような気がして恐ろしい。
 「ドラゴフレイム!」
 ソアラは距離を取り、呪文で応戦する。炎を選んだのは目映さでグルーを怯ませるためだった。だがむしろソアラにグルーの姿を見えづらくした。
 「そこ!」
 横から迫る黒い影を感じ取り、ソアラは大きく後方へ飛ぶ。しかしそれはグルーではなく、彼のマントだった。
 (見失った!?)
 相手を見失わないためには攻めるのが一番。なのにそれができなかった自分は、いったい何をそんなに怖がっているのだ?
 「らしくないですね。」
 ゾクゾクッ!ソアラの全身が遠目にも分かるほど大きく震えた。いつの間にかグルーの細い指が後ろから彼女の肩を抱き、彼はその端正な横顔をソアラに見せながら、左腕に刻まれた弾痕を舌で拭っていた。
 これだ。この淫猥さが恐ろしくてたまらない。必要以上に美しい顔、妖しい仕草、奇怪な行動___全てが悩ましく、そんなつもりはないのに心を吸い込まれそうになる。
 「やめろ!」
 ソアラはグルーを振り切って向き直った。髪が広がり、彼女の首筋を隠す。紐はグルーの指先に引っかかっていた。
 「美味な傷口です___やはりあなたは格別だ。」
 グルーの舌に刷り込まれた赤い色合い。唾液を帯びて微かに広がっていく。ソアラは思わず左腕の傷口を押さえ、頬を赤くした。理由は分からないが酷い羞恥心が溢れてきた。
 「今あなたの聖杯を奪い、そしてあなたを奪うこともできました。でもそうしなかったのは、あなたの怯える顔をもっと見たかったから。」
 グルーは紐の絡んだ指で漆黒の前髪に手櫛を通す。
 「いつからそんなに恐がりになったんですか?ソアラ。」
 「黙れっ!」
 体の奥底をこねくり回されるような不快感を断ち切りたい。その衝動が、ソアラに全力を発揮させた。グルーが目元に手を翳したほどの目映い輝きを発し、彼女は竜の力を現した。
 「ほう。」
 黄金の輝きに包まれるとソアラの視線は鋭さを増し、顔つきそのものが好戦的に変わる。まだリラックスはできないが、力そのものはかなり簡単に引き出すことができるようになっていた。
 「はああっ!」
 ソアラは高ぶる気性に任せてグルーに殴りかかった。
 メキメキッ___!
 グルーはその拳を顔面でもろに受け、骨の軋む音とともに一直線に眼下の建物へと突っ込んでいった。
 「しまった!」
 気の高ぶりが冷静さを失わせるのか、ソアラは屋上をぶち破って墜落したグルーを慌てて追いかけた。
 見失ってはいけない!しかし今度はグルーが自らその姿をソアラの前にさらした。
 「慌てました?」
 現れたグルーの腕の中には、やせ衰え、骨の形が露出した女性が抱かれていた。グルーは血で真っ赤に濡れた唇で笑みを見せる。ソアラに殴られた跡などまるで感じさせなかった。そして再び上空へ。
 「___その薄笑い、消してやる!」
 こみ上げるものを止められない。少しでもこの戦いを早く終わらせたかったソアラは、グルーを追い、渾身の力を拳に込めた。
 「うああああ!」
 絶叫を上げ、ソアラはグルーの胸めがけて拳を放つ。
 一撃で仕留める!しかしグルーの嘲笑は、その瞬間も消えはしなかった。
 「はああっ!」
 聞き苦しい音が耳を打ち、グルーの赤すぎるほど赤い血液がソアラの顔にも弾け飛んだ。 「はあっはあっ___」
 ソアラは肩で息をしていた。右腕にはグルーの体が乗っていた。肘のあたりまでがグルーの胸に抉り込み、手先は背へ貫いていた。グルーはぐったりと首を折れ、ようやく落ち着きを取り戻したソアラは、なぜあれほどに恐怖に駆られたのかよく分からなかった。
 「く___」
 顔をしかめながら、ソアラはグルーの体から腕を抜き取ろうとする。が___
 「捕まえました。」
 「!?」
 グルーが勢いよく顔を上げ、ソアラの腕を両手で掴んだ。
 「そんな___嘘!」
 「フフフ。」
 グルーは笑っている。ソアラの拳が彼の胸を刺し貫いているというのに、この男は何もなかったように笑っている。彼の体温、血液、拍動を腕で感じているというのに!
 「いや、いやぁっ!」
 ソアラの足先から頭頂まで、悪寒が駆けめぐった。おぼろげに感じていた恐怖の意味が極まった瞬間。
 この男は不死なのか!?
 「嫌だ!放せ!放して___!」
 彼女は黄金に輝いているのに、嘘のように非力だった。痛みの残る左手でグルーの胸を叩いたが、なんの意味もなさない。右腕はグルーの体内でピクリとも動かなかった。
 「フフフ___恐れなさい。あなたのその顔が素敵でたまらないんです。」
 グルーの血に濡れた掌が、指先が、ソアラの頬を撫で、鮮やかな血化粧を施していく。 もう駄目だ。
 恐怖が闘争心を超越し、黄金の輝きは弾けて消える。紫の髪が流れ落ちた。
 「ああ美しい___血塗られた恍惚をあなたと共に!」
 「んっ!」
 唇が強引に奪われた。抜けない腕、変わらない距離。ソアラは必至に身をよじったが、唇をこじ開けてグルーの舌が口腔に入り込むと、体から力が抜け落ちていった。
 長いキスだ。ソアラの体から緊張が失われるまで、グルーのキスは続いた。ようやく唇が離れたとき、赤い唾液を滴らせ、ソアラはぼんやりとした目をしていた。
 「ん___」
 今度のキスは短い。最初に震えただけで、ソアラの抵抗が消える。血の匂いが強い。
 「ソアラ___この闇がある限り、私は不死なのです。そして私が不死である限り、私はあなたと繋がり、あなたを愛し続け、あなたの美しさを体で、心臓で感じることができる___」
 聖杯を結んでいたベルトが断ち切られ、銀色の杯はグルーの手に渡った。だがソアラはそれを気にとめることさえできない。
 「助けて___助けて___」
 譫言のように呟き、彼女は泣いた。悲しみや喜びで涙を流したことは何度もある。しかし恐怖で泣くなんて___
 「感じますよソアラ___あなたの恐怖、あなたの鼓動、あなたの吐息___あなたの全てが私の体内に響き渡る。なんという快楽でしょう___」
 グルーは目を細めてソアラに微笑みかけた。胸から血をすくい取り、ソアラの顔に塗りつけていく。血はすぐにソアラの肌に紋様となって染みついた。吸血ではないが、これも支配の手段の一つだった。
 「さあ___私の血を感じてください___」
 ソアラの口から言葉は漏れなかった。もはや意識も宙に浮いていた。
 端麗な容姿の男が、女にその胸を貫かせ、なおも微笑みながら己の血を女の肌に塗りたくる。あまりにも異常な光景だった。
 「全身で味わいなさい___恍惚の坩堝へ墜ちなさい___」
 グルーは爪をソアラの服に引っかけ、ゆっくりと破いていく。露出した肌に血を塗り込み、さらに破く。もう何も分からない。ソアラは飽和した意識の中で、恍惚を感じていた。体の内側からしみ出る快楽は、誰に愛されている瞬間にも感じたことのないもの。指先が痙攣し、息づかいが荒くなる。女の高ぶりを感ぜずにはいられなかった。
 ただ、自分ではどうすることもできない。
 「私には力の勝負であなたに勝つことはできない___ですが女性であったことがあなたの不幸。女性はヴァンパイアの前には無力となるのです___」
 もはや勝機は絶たれた。聖杯は奪われ、ソアラはグルーの手中に墜ちた。
 「不幸、いえ幸福ですね。こうして永遠に私の寵愛を受けられるあなたは幸福です___」
 グルーも完全勝利を確信した。聖杯を奪うのが役目ではあったが、どうやらソアラも手に入る。しかし彼も少し夢中になりすぎた。
 先ほどから光の帯が街の上空を激しく動き回っていたことなど、気づくよしもなかった。
 「いた!あそこだ!」
 望遠鏡を覗き見て、バットが声を上げる。
 「よし!」
 リンガーが回転する大きな塊を動かす。二人がいるのは街の物見櫓。そこには可動式の巨大照明が備え付けられていた。箱の内側にいくつもの鏡を宛い、松明の輝きを一筋の光線にして放つ装置だった。
 パアアアアアッ!!
 「くっ!?」
 突然二人の体が光に包まれた。グルーの顔が苦痛を浴びたかのように歪んだ。
 「こ、これは!?」
 物見櫓は三棟ある。一つ目の光を追うように、残りの二つの櫓からもグルーに光が注がれた。
 「耐えかねる___ここまで追いつめておきながら!」
 光はソアラの肌に塗り込まれた血染みさえも消していく。グルーは大きな舌打ちを残し、ソアラから抜けた。
 聖杯を奪ったのだからよしとしなければ___口惜しさに牙を覗かせ、グルーは光から闇へと逃亡する。どこかに身を隠したのではなく、完全に姿を消した。グルーから解放されたソアラに意識はなく、光を抜けて落下していく。
 目尻には涙の名残が光っていた___



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