2 かの地の主
ネルベンザック大陸___
地界最大の大陸であり、最高の繁栄を誇っていた。
しかし数年前、大陸の枢軸であるネルベンザック城が魔の手に落ちた。
一夜にして、悪の中枢と変わったネルベンザックは、地界に蔓延した闇の権化として、人々から恐怖される存在となった。
悪魔の住む土地。
それがネルベンザックの代名詞となった。
足を運ぶ輩などいるものか___
彼らもまた、死にに行くのだと白い目で見られながらも、この土地へと海を渡った。
そして、降り立った。
「___」
自然と緊張が走る。
独特の感覚が背筋を駆け抜け、運命を感じた者たちは肩を竦めた。
ネルベンザック。
そこは澱んだ空気と、歪んだ「魂」に覆われた大陸。
闇に犯され、痩せ衰えた「大地」が震える大陸。
唾液に塗れた舌のように、湿気た「風」の吹く大陸。
渇いた心に憎悪を満たす、黒い「水」が巡る大陸。
健やかなる者を呪い、罵り、悪しきの「炎」で焼き尽くす大陸。
そこは、清らかなる「命」の存在を許さない大陸。
六つの力は導かれ、今この時を迎える。
亡き命を心に宿し、指輪に魅入られた者たちは、果敢にその時へと歩みを進めるだろう。
「好きになれないな、爽やかからは正反対よ。絶対に観光では来たくない。」
幌から周囲の景色を見渡し、ぬめるような生暖かい風にソアラは身震いした。
「確かに。ここに来てもう五日目だが、日に日に気分が悪くなってくるな。」
サザビーはいつもよりもせわしなく煙草を口にしていた。
「そうね、なんだか胸が落ち着かない。」
「どれ、みせてみ___」
ボコッ。フローラに近づいたサザビーの頭を、百鬼丸の鞘が叩いた。
「変わってねえじゃねえか、おまえは。」
かくいう百鬼も、今日はキュクィ車の中にいながら百鬼丸を握りしめている。落ち着かないのは確かだ。
トントントントン___
ライは指先で床板を叩く。時々幌から顔を出してあたりを見渡したり、心が安まらなかった。
なぜか。
「別に普通だと思うけどなぁ。確かにちょっと不気味だけどさ。思ったほどでもねえかな〜。」
まだモンスターとも遭遇していない。バットは余裕風を吹かせてみせる。
「どうかしら___でもなんだか変なのは確かよ。」
ソアラは近くにいる子供たちの頭を撫でた。そういえば二人もどこかおとなしい気がする。
「無理もなかろう___」
珍しい。キュクィ車の隅で沈黙を守っているあの男が、重い口を久方ぶりに開いた。
「この大陸にいるのは超龍神だ。」
バルバロッサは気配の主を如実に感じ取っていた。長い間そいつの側にいたからこそ、この大陸に足を踏み入れたその時から、近いと感じていた。
なるほど___
五人の顔が納得の表情に変わり、それとともに心の動揺が消えていった。
翌日、この大陸で初めての街へとたどり着いた。ただ、街の亡骸といった方がいいのかも知れない。街並みは無惨なほどに崩壊し、ゴミと瓦礫であふれかえっている。街全体に崩壊の仕方が均一で、まるで大津波でも食らったかのような滅びかただった。
「ジュライナギア___か。」
内陸の街に津波などあるはずもない。ただ、この大陸に超龍神がいるのなら、ここを滅ぼしたのは水を自在に操るあの男だろう。サザビーは瓦礫を蹴り上げ、下から現れた骸骨に短い黙祷を捧げた。
「サザビー!うちの子たちが地図見つけたって、いったん集まりましょう!」
遠くから、手に灯した炎を大きく振ってソアラが呼んだ。サザビーは煙草を瓦礫の上に投げ捨てた。
「これだけ細密な地図があると心強いですね。」
比較的健常だった寺院に集まり、レミウィスは石のテーブルに地図を広げた。ランプに灯が入り、街には久しぶりに生命の香りが宿る。
「ネルベンザック城からの支給物かな?どうやら、二人が入ったのは警備隊の詰め所だったようですね。」
ナババの言葉ににっこり笑ったリュカとルディーは、鼻高々で手を叩き合った。
「ゾヴィス___あった、ここだ。遠いなぁ。」
早速ゾヴィス湖を見つけたライが地図を指さした。場所はネルベンザック大陸の北方。南方から大陸に入った一行にとっては、正反対の位置に当たる。
「まっすぐ北に突っ切るとなると山越えだな。少し遠回りになるが、この山を迂回していった方がいい。」
百鬼の言うように、海岸沿いとまではいかないが、地図上に記された街道に沿い、円を描くように北を目指すのが良さそうだ。
「街は廃墟でしょうが、野宿よりは休まるでしょう。保存食も少しは残っているかも知れませんからね。この街道に沿って山脈向こうの___パライーバですか、この街を目指しましょう。」
「城はいかねえんすか。この街でもちょっとしたお宝があったんだし、城に行けばもっといい物があるかも。」
リンガーはがらくたのような金属を手に、浮かれた口調で言った。
「目的変わってるわよ、あんた。」
城に向かうにはこの街から北方に進むが、街道からは大きくはずれる。
「余計です。そこに向かうだけで十日以上遅れます。」
レミウィスはリンガーの提案を全く相手にしなかったが___
「城には行く価値がある。」
バルバロッサが割って入った。驚いた顔で皆が彼に注目する。
「む。」
恥ずかしかったのか不愉快だったのか、マントで口元を隠した彼は討論の輪から離れようとする。
「あ、ごめんなさい。それってどういうことなの?」
ソアラに問いかけられると彼は立ち止まり、低く小さな声で言った。
「超龍神がいるのはそこだ。」
「なるほど、確かに奴が居座れそうな場所はここだけだ。」
サザビーは灯のともっていない煙草で、地図上のネルベンザック城を指した。
「___無視できないな。」
百鬼は口を結び、唾を飲み込む。
「無駄な戦いには賛成できませんね。」
まずは竜神帝を目指す。レミウィスの気持ちは頑なだ。
「無駄じゃないよ。僕らが今ここにいるのは、超龍神がきっかけなんだから。」
ライの気持ちはすでに超龍神に傾いている。中庸界で築いた大きな思い出、中でも別れの大半は超龍神がきっかけを握っていた。
「死んでいった人たちのために超龍神との決着はつけたいわ。特にフュミレイのためにね。」
ソアラはレミウィスを見つめて言った。
「俺たちはリングに導かれてここまで来たんだ。そしてリングは超龍神に辿り着く道標でもあった。前に対峙したときはどうにもならなかったけどよ___今は違う。俺は超龍神にもう一度挑みたい。」
百鬼が語る。超龍神を知るものの思いはまっすぐだ。
そして何よりも、彼の思いは格別だった。
「僕は___超龍神には言葉にできない思いがあります。」
母であるリュキアの思いを受け継いだ、スレイ。精悍なる青年は、情熱を滲ませて言った。
「別行動はどう?レミウィス。」
ソアラがまじめな顔で、突飛なことを言い出した。
「あたしと百鬼、ライ、フローラ、サザビー、スレイ、それにバルバロッサはネルベンザック城を経由して、山越えの最短ルートからゾヴィスを目指すわ。レミウィスは最初の予定の道を通っていく。」
戦力の分断は問題だが、それほど超龍神に対する気持ちは強い。中庸界でのいきさつを知らないレミウィスたちには理解できない話だが。
「しかし___」
レミウィスが不快にも近い顔をする。だが彼女が止める口を利くまでもなく、ソアラの心は揺れ動くこととなった。
「僕たちも!」
「お母さんと一緒に行く!」
「え!?」
二人の子供たちは「離れたくない」と言わんばかりに、大まじめでソアラの足に抱きついた。ソアラの顔が困惑に、そして唇を噛んで自嘲にかわる。
(あたしは___!)
口には出さなかったが、ソアラは自分に対する憤りで胸がいっぱいになった。
「彼らはあなたに会いたい一心で我慢をし続けていた。それを一月としないうちに、また離ればなれになるのですか?」
レミウィスの言葉に首を横に振り、ソアラはゆっくりとしゃがみ込むと、愛しい子供たちを抱きしめた。
「リュカとルディーを超龍神に会わせたくはない___」
あの闇の気配に触れさせたくはない。真っ白なほどに純粋な子供たちだから。
「ソアラ。」
百鬼がソアラの肩に手をかけ、穏やかに微笑んだ。
「行くのは俺たちだけでいい。おまえは二人と一緒にいてくれ。」
「でも___」
「大丈夫。むしろおまえまでこっちに来たらレミウィスさんたちが心配だ。アヌビスが聖杯を狙っているとしたら余計にな。棕櫚だけじゃ大変だろ?」
価値を定める方法としては三流だが、ソアラは超龍神そのものと対峙した経験がない。その点で皆とは少し違った。あくまで己の闘争心をかき立てるのは、竜の使いが秘める覇邪への情熱。それを痛いほど感じた。
「分かった___任せるよ。でも絶対に絶対に、みんな無事で帰ってきて!」
「あったり前だ!」
ソアラと百鬼が拳をあわす。白竜軍にいた頃、時々見た光景だった。
「あ、そうだ。これをつけてよ。」
ソアラはフュミレイの形見である首飾りを外し、百鬼に手渡した。
「一緒に連れて行ってあげた方がいいでしょ?」
「俺じゃあ首が苦しいよ。」
「ならフローラ。」
超龍神に挑むのであれば、命のリングを握っていた彼女も同行しなければ。首飾りの小さな宝石は、フローラの胸元で輝いたように見えた。
「なぜだろうな。」
闇の中に男はいた。
「アヌビスの言葉を聞くと、我が身からは意志が消えるようだった。」
青い光に照らされた玉座。ただ何を思うでもなく腰掛けていた男は、そう呟いた。
「不思議なものだ___今思えば私はなぜ中庸界と地界を結び、アヌビスに出会うことを望んだのだろうか___」
男、超龍神は不遇を囲っていた。
偉大なるアヌビスに、彼はこのネルベンザック城で実質の蟄居を命ぜられた。彼の黒き血潮は漆黒の空の下、地界の大地を黒く染める。その意味で、世界の中央に位置するネルベンザックを暗黒の大地に変えるのは重大なことだが、アヌビスの命令は彼の行動を抑止した。
なぜ動けないのか。
いや、動かないのか。
「待っているのかも知れぬな___」
アヌビスの、時の縛りから逃れるために___
「あれか___」
地界は暗闇に覆われた世界。しかし色は失われていない。暗闇でありながら色を感じることができる、それが地界。
「目をこらさねえとどこにあるのかもよく分からない城だが___見失うことはねえな。」
サザビーが暗闇を睨み付ける。暗闇の中に暗闇が重なる。視線の先にあるのは、黒い岩で築かれた漆黒の居城。黒い大地に、黒い大気を纏い、黒く聳え立つ。
「超龍神の血は、全てを黒く染めていく。闇食いと呼ばれるその浸食の黒は、超龍神の体中を巡っている___」
スレイが譫言のように呟く。
「祖母が教えてくれました。」
フローラの視線を感じ、スレイは言った。緊張のせいか息が詰まったような声だった。
「そこにいるだけで周りを黒に変えていく___ということか。」
百鬼は百鬼丸の鍔を押し、刃の煌めきを確認する。
「そこにいるのが分かるから___余計に息苦しくなるね。」
ポポトルでの対峙を思いだし、ライが言った。
「うん___」
隣にいたフローラは生唾を飲み込み、ライに手を差し伸べた。
「___」
フローラがライの告白を不意にした経緯から、二人の距離はいくらか遠くなっていた。だからライは少しだけ戸惑ったが、彼女の手をグッと握った。
二人の鼓動がつながり、互いの暖かさが互いを落ち着かせた。
「行くぞ!」
百鬼が一歩を踏み出す。決戦に向け、中庸界を知る六人は一気に駆けだした。
___
城の門戸は開かれていた。城内に足を踏み入れると、出迎えるように青白い炎が回廊に漫ろと灯っていった。
炎の導きに従えば、巨大な城内でも迷うことはない。誰も声を発することはなかったが、超龍神に呼ばれていることははっきりと分かった。
「誰かいる。」
誘いの光が曲線を描いて広がっていく。舞踏場だろうか、漆黒の柱が空間の四方を支え、その支柱を結んだ交点、すなわち空間の中心に男の影。
「超龍神___?」
「いや、その前にもう一人いるだろう。」
サザビーが呟くと同時に、舞踏城の中央に青い光が落ちる。スポットライトのようにして男の姿を照らした。
「誰だ?」
人の姿は初めてだから、すぐには分からなかった。彼と対峙したことのない百鬼は余計に。しかしこの気配を感じたことのあるライとサザビーは、鋭敏に感じ取っていた。
「ジュライナギアだよ。」
最後の三魔獣ジュライナギア。皆は張りつめた空間に足を踏み入れた。
「また会うことがあろうとは思わなかった。」
低く、腹に響く声。間違いなくジュライナギアのそれだった。
「小さき者のことを覚えてるのか?律儀な魔獣だな。」
サザビーは皮肉を込め、槍の柄で床を叩いた。大きな音が皆を緊張から解き放つ。
「超龍神を目指すのであれば、まず私に打ち克つこと。」
厳しい戦いが始まる。しかし冷や汗が浮かぶことはなかった。
十分に戦える___自然と体に力が漲っていた。だが___
「おまえと戦うのは俺一人だ。」
前触れもなく、バルバロッサが一歩前へと歩み出る。ジュライナギアだけでなく、皆をも驚かせた行動だった。
「何言ってるんだ!?」
怪訝な顔で彼を呼び止め、百鬼はその肩を掴んだ。
「っ___」
しかしマントの影から横顔を覗かせたバルバロッサの視線に、思わず言葉が詰まる。ジュライナギアがもたらした緊張以上の感覚が体を走った。
「超龍神はその先だ。」
ジュライナギアの背後に口を開けた廊下を指さし、バルバロッサは言った。
「相手は三魔獣の一人よ!」
「だから俺一人で十分だと言っているのだ。」
「でも!」
不安げに声を上げるフローラをバルバロッサが睨んだ。
「さっさと行け。貴様らと同等に見なされること自体が不愉快だ。」
フローラは背筋に微かな震えを感じた。青白い光の下にあって、バルバロッサの瞳が赤み帯びて見えたからだ。
ジュライナギアは静観している。彼もバルバロッサの性格を知る人物。それだけにこの無口な男が何をするつもりなのか、見ていたいのだろう。
「行きましょう皆さん。」
そんな魔獣の考えを表情から推察し、スレイが落ち着いた声色で言った。
「僕らは消耗せずに超龍神と戦える、こんなことってないじゃないですか。」
出過ぎたことかもしれない、だがスレイは先輩たちが迷っているように見えたから遠慮はしなかった。そして彼に真っ先に賛同したのが父だ。
「ここはバルバロッサに任せるぞ。俺たちがいたらこいつは全力で戦えない。そういうことだろ?」
バルバロッサは答えない。しかしそれは肯定を意味する。
「よし、いくぞ。」
「お、おい!ちょっと___」
サザビーは困惑している百鬼とライの腕を強引に引っ張った。
「行きましょう。」
スレイに声をかけられ、フローラは憂いの差した面もちで、ただ一度だけバルバロッサの手に触れる。
「気をつけて___」
それだけ言い残し、彼女もまた走り去っていった。
「勿体ない___」
はにかむようにうつむいたバルバロッサは、マントの襟を立てて再び顔を上げた。舞踏場にはもはや彼とジュライナギアだけ。ジュライナギアは過ぎ去る者たちを阻むことはしなかった。
「できるだけ多くの戦力を超龍神にぶつけようという魂胆か。大した犠牲の精神だな。」
ジュライナギアはバルバロッサに拍手を送る。だがバルバロッサは聞く耳持たずに、漆黒の長剣を握った。
「本気でそう思っているのなら、おまえは大した馬鹿だ。」
「なんだと___?」
剣に埋め込まれた赤い宝玉がぼんやりと輝き、それに呼応するようにバルバロッサの瞳が赤色を強くする。
「人間風情が、たった一人でこの私に挑めると思っているのか?」
バルバロッサは魔族ではない。それはジュライナギアも知っている。だから___
「いつ俺が人間だと言った?」
その一言は魔獣を真顔にさせた。
「バルバロッサ___奴は何者だ?」
思いがけない力の露出に、玉座の超龍神は眉をひそめた。そのとき___
「超龍神!」
闇の中に五つの光が割り込んできた。
「ついにこのときが来た___!」
先頭を切って超龍神の真正面に躍り出た百鬼が、愛刀を構える。青白い光がスポットライトのように彼を照らしていた。
「まあ、ここまでこれたってのは俺も正直驚きだがな。」
サザビーを光が照らす。スマートで、飾りの少ない槍は彼の気質を現しているよう。
「私たちの思いを___散っていた人たちの願いを!」
見守っていて___超龍神を凝視しながら首飾りを握り、フローラは祈った。
「僕らがやるんだ!」
まっすぐに、臆することなく胸を張り、ライは勇ましく剣を掲げる。
「母さん___必ずや僕が無念を晴らします!」
ただ一筋に、スレイは超龍神を睨み続ける。偉大なる竜の興味を惹くほどに。
「役者がそろったな。」
そして超龍神が玉座より立つ。
「もはや我々の間に理由などない。私はアヌビスの復活に邁進し、おまえたちはそれを阻むことに身を尽くした。出会えば___刃を交えるのが極当然のことだ。」
人の姿の超龍神。マントには時折青色が覗く。それは青いマントの上を黒がうごめいているためだった。
「来い___!」
たった一言。それとともに青白い光が謁見の間の天井全体に広がる。光の中で超龍神の体を取り巻く黒の揺らめきは際だっていた。そして___
「行くぞおおお!」
百鬼の怒声とともに駆けだした者たち、彼らの輝きは闇を劈くほどに雄々しかった。
この戦いはただの光と闇のぶつかり合いではない。
長き一つの物語の終着点だ___!
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