1 母の抱擁
「本当かよ___?」
キュクィ車に揺られ、百鬼は愛刀の手入れをしながら訝しげにソアラを見る。
「ちょっと想像もつかないわ。」
負傷の激しいスレイに治癒の呪文を施しながら、フローラが呟いた。
「間違いないわ。そう考えないと説明の付かないことばかりだもの。アヌビスは時を止められるのよ。」
激しい戦いの後とはいえ、内なる難敵から逃れることができたソアラは生気に満ちあふれている。改めて、いかに胸の汚れが体全体を蝕んでいたかが分かった。
「時を止めるとどうなるんだ?時間が止まってるだけで自分も動けないんじゃないの?」
素っ頓狂なことを行ったリンガーの横で、バットが首を傾けた。
「それじゃ意味ないだろ。自分以外の時を止める、いや、自分は止まった時の中で動き回れる___ってことじゃねえの?」
「そう、その通り。」
ソアラは大きく頷き、バットは浮かれた様子でリンガーに勝ち誇った笑みを見せた。
「しかしそんな能力があったら勝ち目はねえな。」
いつものように幌の外に顔を覗かせ、くわえ煙草でサザビーが言った。
「確かにね、手の打ちようがないかも知れない。」
ソアラも腕組みをし、諦め半分のようなため息をついた。つい先ほどまでソアラにいちゃついていたリュカとルディーは、御者席でライのお手伝いだ。
「おまえにそう言われるとぐうの音も出ないんだけど。」
刀を鞘へと収め、百鬼が苦笑する。
「そう長い時間はね、止められる訳じゃないと思う。まあそんなの気休めにしかならないんだけどさ___」
「さすがに神の力ですね。」
「大丈夫、神の力に手向かうために、私たちも神との出会いを求めているのですから。」
熱心にルーペで聖杯を観察していたレミウィスが、顔を上げて微笑んだ。
「竜神帝か___」
ソアラはこれまでも時々、神の姿を思い浮かべてきた。今もそうしてみる。雄々しくも神々しい竜の姿___
「私たちのやるべきことは光の復活ですね。」
フローラのしっとりした声にレミウィスが頷く。
「そのためにはネルベンザックに行くんすよねぇ、怖えなぁ。」
リンガーが肩を竦めた。やはり地界の住人はネルベンザックを恐れて止まない。
「ところでさ、あのメリなんとかが___」
「メリウステス。」
「そうそう、そいつが聖杯を狙ってたってことは、アヌビスもそれを欲しがってるってことだよな。なんでだ?」
「そりゃおまえ、光の復活を阻止するためだろ。」
サザビーは当たり前だろといわんばかりに、木の縁に煙草をこすりつけながら言った。いつも同じ場所で火を消すものだから、縁の一カ所だけ黒ずんで少し窪んでいた。
「どうかしら___アヌビスはそのなんていうかさ、そんなに必死じゃないのよ。例えばあたしを鍛えてみたことにしてもそう。本気で反乱分子全てを抹殺しようと言うならそんなことしないでしょ?」
「つまり、アヌビスは光の復活など眼中にないと。」
棕櫚はキュクィ車に乗り込む前に摘んだ花に一念を込める。花は綿毛の種子に変わり、それをターバンに詰めた。
「あいつは狙いがあって聖杯を取りに行かせたんじゃないかしら。いや、もしかしたらあたしたちと戦わせるために、あたしたちが目標にするであろう場所に八柱神を差し向けたのかも知れないけど。」
「それはあなたの考えを重視すべきでしょう。何しろ私たちの中でアヌビスを肌で感じたのはあなただけなのですから。」
アヌビスを「あいつ」と呼べてしまう接点の深さだ。レミウィスの言葉通り、他の皆もソアラの考えを尊重する。
「それに聖杯がなんたるかもまだよく分かっていません。ただ竜神帝に関わるというだけ。聖杯をアヌビスが狙っているというのならますます興味深いじゃありませんか。」
「そうですよ。まだどうすることで光の復活につながるのか、それを竜神帝の城に求めることが正しいのかさえよく分からないのですから。」
レミウィスとナババは口々に語り、お互いに笑いあった。
「まあ今は慌てたって始まらない。とりあえずネルベンザックに辿り着くまでは、目の前のやるべきことを一つずつ片づけていくだけだ。」
それなりにまとめたサザビーの言葉にあわせるように、リュカとルディーが幌の中に駆け込んできた。
「お父さんトランプ!」
「トランプやろうトランプ!」
ライに愛想を尽かされたのか、二人は百鬼の腕を両側から引いてしきりにはしゃいだ。
「よしっ、やるか!」
百鬼も乗り気。すぐにソアラ、バットにリンガーが加わる。
「僕もいいですか?」
スレイも加わってサザビーに棕櫚も輪を作る。始まった大トランプ大会に、たまらずバルバロッサは幌の上へと移動した。そして___
「なんていうのかしらね、こういうの。人が真剣に調べものをしている横で___目先のことから片づけるからって遊ぶことはないと思いません?」
「ははは___」
カリカリしながら何度も眼鏡の位置を直すレミウィスに、ナババは苦笑いするしかなかった。
また貨車が重くなったキュイにとってはさすがに重労働だが、旅は順調に進む。だがこの順調さも、はやる気持ちを抑え、時の流れを感じながら進むからこそあり得るもの。キュイを休ませるだけでなく、十分な睡眠を取ることで良好な体調を維持する。睡眠時にはキュクィ独特の臭気がモンスターの来襲を退け、安らぎを約束してくれる。
「お?」
腰のベルトを直しつつ、草むらから出てきたソアラ。キュイを取り囲むように、皆が眠っている。野営の最中、皆が寝静まった頃に用を足しに行くのはソアラの定番だった。
「誰かいない___」
目を凝らすと、毛布が一つ空になっているのが分かった。バルバロッサは御者席に座して眠るのが近頃の定番だ。棕櫚は聖杯を植物で縛り付けて眠っている。
「レミウィスだ。」
そういえば白髪がない。レミウィスと自分の頭髪だけは、地界の闇でも浮き上がって見えるはず。
「___」
自然と足がそちらを向いた。草が少し踏み分けられていたのは確かだが、ソアラは躊躇いなく暗黒の木立に踏み込む。木立の向こうがぼんやりと光っている。
現れたそこは、大きな白い岩がいくつも転がっていた。
(いた____)
岩の上でレミウィスが目を閉じ、ただ静かに座っている。微風が白い長髪を優しく撫でると、まるで竪琴の弦のように見えた。
「レミウィス。」
彼女が醸す雰囲気にどこか心をくすぐられたソアラは、岩へと飛び上がって声をかけた。
「ソアラ___」
レミウィスはいつもと変わらない落ち着きでソアラを迎えた。目が合うと___つくづくよく似た姉妹だと感じる。
「何してるの?」
「眠れないだけですよ。」
レミウィスは安坐を解くことなく、一つ深呼吸した。
「なぜ?」
「時としてあるでしょう___ごく小さな思考の時間です。」
ソアラが合流してから数日が過ぎたが、ここまで馴染みのメンバーや、子供たちとのやりとりばかりで、レミウィスと二人だけで話す機会は全くなかった。
「あなたがフュミレイのお姉さんだって___改めて言うようだけど本当に驚いたわ。」
レミウィスは微笑みで答えた。
「あ。」
ソアラは首筋に手をかけ、首飾りを髪に引っかけながら外した。
「これ、受け取ってくれる?」
レミウィスは託された首飾りの小さな宝石を握り、仄かな光に晒した。
「これは?」
「フュミレイのものよ。あたしが彼女と最後にあったその時、彼女が落としていった首飾り。あなたが持っていた方がフュミレイも落ち着くわ。」
ほんの一時、レミウィスは首飾りを胸に宛い、思いを込めた。そうすると、大人になった妹の姿が浮かぶようだった。
彼女にはそれで十分だった。
「ソアラ。」
レミウィスはソアラを隣へ座るように促し、ソアラは体が触れない程度の位置に腰を下ろした。岩の冷たさに肩を竦めたときにはもう、ソアラの手に首飾りが返ってきた。
「これはあなたが持ちなさい。」
諭すような彼女の声は、年を重ねた者の柔らかさがある。
「私はもはやリドン家ではないのです。それに、フュミレイを側で感じるのはあなたの方がいい。」
「でも彼女の形見の品よ。同じ血の___」
ソアラの血に対する思いは強い。最大の結束である血縁は、ソアラが追い求めているものでもあるから。
「十分です。妹の臭いは、あなたたちといれば感じることができますから。その首飾りはあなたが中庸界からここへ運んだ、唯一の妹の遺志。彼女はあなたとともに戦ってきたのですから、これからもあなたと戦い続けたいのではないですか?」
「それはそうかもしれないけど___」
「ソアラ。あなたを見れば、フュミレイのことを思い浮かべるのは簡単です。」
「え?」
ソアラはレミウィスの、色に乏しい瞳をのぞき込んだ。互いの視線が交錯する中、思い浮かべたのはフュミレイ・リドン。幼き彼女を知らないソアラと、大人になった彼女を知らないレミウィス。だが二人が思い浮かべた人の姿、雰囲気はほぼ同じだった。
「顔の形や体つきではない、あなたが少なからず妹から受けた影響。時折その片鱗が見えるから、私にフュミレイを彷彿とさせる。」
レミウィスの白い肌、髪、瞳、微笑み___ソアラは何も言えなくなり、むしろ少し照れくささまで感じて「分かった」と呟きながら首飾りを握った。
風が過ぎ去る。レミウィスは相変わらず静寂な心で風と戯れ、ソアラは膝小僧に手を突いて、少し鼻息を荒立てた。
「あ、そうだ。聞いて貰いたいことがあるの。」
「私に?」
「ええ、だって竜の使いのことを一番理解してるのはあなただから。」
その竜の使いに問いかけられるのは不思議だが、ソアラの眼差しが縋るようだったのでレミウィスは快く頷いた。
「聖杯から声が聞こえた___って言ったら信じてもらえる?」
「声?」
「実はね、あたし胸に持病を持ってるの。命に関わるほどのね。」
レミウィスが少しだけ目を大きくした。驚きはあったようだが顔色までは変えない。
「今まではフローラのおかげで生き延びてきたけど、ここに来てまたそれが再発していて、メリウステスとの戦いの時も竜の力を発揮した自分が先にまいってしまった。」
何も言わず真摯に耳を傾ける。
「でね、もう駄目だって時に声が聞こえたのよ。私に救いの手を差し伸べる言葉で、はっきりしていたけど耳から聞こえたのとは少し違っていた。」
「知った声では___」
「なかったわ。女性だったけど___」
神の声___ソアラはそう考えている。
「それで声が聞こえた方、いやそっちから聞こえた気がしたんだけど、そっちを振り向くと___」
「聖杯があった。」
ソアラは眉間に力を込めて頷いた。
「それを手に取った瞬間、あたしの体から苦しみが消えたの。一過性じゃない、胸の病そのものが消え去ったようで___今まで自力で発揮することができなかった竜の力を簡単に引き出すごとができた。」
レミウィスは一度ソアラから視線を外し、再び振り向いた。
「それなりの答えは返せるかもしれません。」
「本当?」
「その前に、あなたはその声の主を誰だと思いました?」
レミウィスの方に体を傾けていたソアラは、姿勢を戻して空を見上げた。
「竜神帝かも知れないと思ったわ。でも女性の声だったし___」
「そう思えることがあなたの覚醒でもあるのです。」
「でも___ちょっと怖いんだ。」
決して意外ではなかった。竜の使いの使命に目覚めつつあるからこそ、目覚めてしまうことが怖い。
「あたしがあたしでなくなるんじゃないかって___だってさ、今まで生きてきた中であたしは竜神帝なんて知らなかったし、これっぽっちの意識をしたこともなかった。でも自分が竜の使いであると知ってからは、それがどんどん重くなってきて___一番心配なのは子供たちのことよ。竜の使いは戦士。そして子供を育てるのは戦うことをやめた竜の使いのやることだって、そうドラゴンズバイブルに書いてあったし___」
「ただの言い伝えですよ。神がそう語ったわけでもありませんし。」
笑顔の消えているソアラに、レミウィスは慰めのような言葉をかける。
「ソアラ、聖杯を誰が作り上げたのか、私は今少しだけ疑問に感じているのです。」
「?」
「少なくとも、今まで私が見てきた竜神帝に関する物とは少し違うのです。物の作りというか___装飾に竜神帝を連想させる紋様が描かれていない。」
「それって___」
レミウィスもまだ確信には至っていない。しかし一つの仮説が生まれていた。
「私はあれは竜の使いが作った物ではないかと思うのです。もちろんそんな気がするというだけですよ。でも今のあなたの話を聞いて、余計にそう思いました。聞こえた声が女性だったこと、あなたの汚れを消し去ったこと。条件は合っています。あくまで一つの定説ですが、竜神帝は男性神ですから。」
ソアラは真剣な、切羽詰まったような顔でレミウィスの話を聞いていた。
「あなたが竜神帝への意識を強く持つことはやむを得ないことです。帝はあなたの真実を伝えられるお方であり、あなたは真実を求めている。ただ、だからといって今のあなたが変わるわけではない。暗示的に、自分は竜の使いだからと追い込むのはよくありません。」
「分かってるんだけど___ナーバスになってるんだ。それがどうにもならない。」
「恐怖心ですね。でも竜の使いだから我が子が愛せなくなるなんて、そんなことはありえません。それに、忘れました?」
レミウィスはソアラに体を寄せ、そっと彼女を抱きしめた。クールで清潔な彼女の体温に、心癒されるのを感じる。母に抱かれたことのないソアラにとって、この抱擁は体がとろけるほどに切なかった。
「あなたは純粋な竜の使いではない。アヌビスがそう言ったのでしょう?それは、たとえ竜の使いの中に常識があろうとも、あなたはそれを逸脱することができるということを意味している。」
レミウィスの腕が強くソアラを抱く。ソアラが彼女の胸に縋っているかのように、強く。そこに、亡き妹の幻影を浮かべて。
「己の血潮に誇りを持つのです。竜の使いであれ、一人の人。あなたはソアラ・バイオレットでしかなく、他の何者でもありません。己に自信を持ち、己が正しいと思う道に邁進する___それでいいじゃないですか。」
目を閉じると、ソアラは母の胎動にいるようだった。レミウィスの胸の拍動が体に響き、顔も知らない母と血をともにしていた頃を考える。不思議だった。でも、とても安らいだ。
女性に抱きしめられることが、こうも心を穏やかにするとは思わなかった。
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