3 いざ! 

 王妃としての些細な仕事を終わらせたソアラは、陽気な顔で部屋へと戻ってきた。
 「リュカー、ルディー、ちゃんといい子にしてたかしらぁ?」
 扉を開けてひょっこりと顔を覗かせる。
 ブンッ!
 彼女の目前を銀色の煌めきが過ぎ去り、紫色の前髪がはらりと床に落ちた。
 「え。」
 ブンッブンッ!
 「えーい!えーい!」
 部屋の中には、一般兵の持つ剣をよろめきながら振り回している小さな男の子がいた。まるで雛鳥のようにつんつんした髪は栗色で、瞳は碧眼。ただその面立ちは百鬼にもソアラにもどことなく似ている。
 「だあああ!なぁにやってんのリュカ!」
 そう、彼こそソアラのベイビー。今年で早くも五歳になるリュカ・ホープだ。
 「剣のお稽古〜!」
 「本物でやっちゃ駄目って言ってるでしょっ!」
 ソアラは素早い身のこなしでリュカの太刀筋をかいくぐり、彼の腕を捕まえた。
 「えへへへっ!おかーさんすごーい!」
 「まあね!身のこなしには自信が___って、そうじゃないでしょっ!」
 ゴチッ。リュカの頭に軽い拳骨が落とされた。まあこれがいつものことなのである。見れば家具やら絨毯やら、そこら中が切り裂かれている。ソアラは小さな溜息を付いた。
 「あれ?ルディーは?」
 「あっち。」
 リュカは奥の部屋を指さした。向こうは寝室だ。
 悪い予感がする。ソアラが顔をしかめたその時。
 ガシャーンッ!
 「!」
 豪快に窓ガラスの割れる音がした。ソアラは慌てて寝室に駆け込むと、そこには栗色のショートヘアに碧眼で、膝小僧に擦り傷の跡がある、いかにもソアラに似ておてんばな雰囲気の女の子がいた。
 「えへへへ。」
 彼女は舌を出してばつの悪そうな笑みをソアラに見せた。部屋の窓ガラスが叩き割られている。
 「なぁにやったの〜?」
 ソアラは引きつった笑みで指を軋ませながら問いかけた。
 「杖がポーンって。」
 「ポーンじゃない!」
 ルディーも拳骨を喰らったのは言うまでもない。しかし中庭では拳骨以上に強烈な二階からの杖を喰らった兵士がのびていた。
 「まったく、二人とも誰に似たのかしら。」
 言うまでも無かろうに。ソアラは自嘲気味な笑みを見せ、今度は二人ではしゃいでいるやんちゃな双子を見つめた。
 そう、ソアラは五年前に二人の赤ん坊を生んだのだ。一人は男の子、一人は女の子。出産の感激は言葉にできないほどだったが、一方で髪の色も瞳の色も至って一般的だったことにソアラを酷く安心したという。名前は百鬼が決め、男の子はリュカ、女の子はルディーと名付けられた。五年間の子育ては悪戦苦闘の連続だったが、幸せな日々だった。しかし、それも明日には一つの終わりを迎えなければならない。
 「しばらく___お別れか。」
 明日、魔導口に向かって旅立つ。ソアラはできる限り子供たちを不安にさせないようにと、つとめて明るく振る舞っていた。二人にはすでに旅に出ることを伝えたが、あまりにもあっけらかんに「いってらしゃぁい」と返事をしてくれた。ただ、それはソアラにとって拍子抜けではなく、実感がないだけなのだろうとむしろ不安が募った。
 そしてなにより、自分が寂しくて仕方なかった。
 「ふん、万全だな。」
 長屋街の腕利きの鍛冶屋に鍛え直してもらったのが一週間前のこと。百鬼は生まれ変わった百鬼丸の煌めきを満足げに眺めていた。側ではソアラが道具類の点検を行っている。
 「張り切ってるわね。」
 「ああ。なんていうかさ、少し楽しみでもあるんだよ、向こうに行くのが。」
 ソアラにもその気持ちは分かる。落ち着きのない人生を歩んできた彼女たちにとって、いつの間にか新しい刺激は生きるために必要なものになっているようだった。
 「それに、早くなんとかしねえとどんどん世界がおかしくなっちまうだろ?超龍神が向こうに行ってから、こっちの空が今以上に薄暗くなることはなかったけど___農作物にも影響が出てるっていうしな。」
 超龍神が魔導口を抜けて地界に入ったという話はアモンから聞き及んでいた。魔導口の異変に関しては天衣巫女のニーサがつぶさに感じ取る。そして世界は相変わらず晴天のない日が続いていた。各地で食物の実りが悪く、特に照りつける日射しを頼りにするゴルガでは、色々な問題が浮上していた。
 「帰ってこれるかしらね。あたしは少し不安だわ。」
 「らしくねえなぁ。」
 百鬼は百鬼丸を鞘に収め、ソアラを振り返った。
 「リュカとルディーなら大丈夫さ。」
 ただソアラの顔色は晴れなかった。子供たちの前では絶対に見せない表情だった。
 「でも___やっぱり親として無責任よ___」
 「俺だって二人が大きくなるまではちゃんと見守っていたいさ。でもだからって、俺たちが地界に行かないわけにもいかない。超龍神やアヌビスに食らいついていくのは俺たちだ。そう思ってるから、おまえだってその服を着ようって決めたんだろ?」
 壁に一着の服が吊されていた。青を基調としたその服は耐久性に優れ、戦闘服として申し分のない機能性を備える。ソアラが旅立ちに選んだ服はフュミレイから譲り受けた士官服だった。
 「フュミレイ___」
 精悍な青を見ていると、ソアラの心から迷いが消えていく。フュミレイの姿を思い浮かべるとそれにはなお拍車が掛かった。
 中庸界には、自分たちの住むべき世界には勇敢な魂が幾つも揺らめいている。彼らが切り開いてくれた活路を無駄にしてはいけない。多くの犠牲の上に今の自分があり、それはアヌビスとの戦いのために払われた。
 「そうだね、しっかりしなくちゃ。それに、あたしにはまだ追いかけなきゃならないことがあるし!」
 そう、自分の色のことはまだこれっぽっちも分かっていない。子供が産まれ、彼らが紫でなかったこと、既にソードルセイドに住み慣れたことが、ソアラの活力でもある探求心を削いでいたようだ。
 「俺たちは地界に死にに行くわけじゃない。必ず帰って来るんだ。そうだろ?」
 「うん。」
 百鬼の問い掛けに、ソアラはしっかりと頷いた。
 そして翌朝___
 出発の時。雪の降る季節ではなかったが、曇天が続く日々が気候に変化をもたらしたのか、朝から白い雪が降りしきっていた。
 「ごめんねリュカ、ルディー。お母さんたち、暫くお出かけしなくちゃならないから。しっかりお留守番していてね___」
 「まかせてちょっ!」
 リュカがニコニコ顔ではしゃぎ、ルディーが彼の額を叩いた。ペチッと可愛らしい音がして、笑いあっている二人を見ているとソアラはたまらなくなってしまった。
 「いい子___」
 ソアラは跪き、二人を優しく抱擁した。母の妙な行動にルディーは不思議そうな顔をしている。
 「どうしたの?お母さん。」
 「リュカ、ルディー、しばらく会えなくなるけど我慢できるか?」
 愛おしさを押さえきれないでいるソアラの気持ちを察し、百鬼が陽気な笑顔で二人に問い掛けた。
 「うん!」
 「できるよ!ねーっ。」
 留守の間に、いつもならば怒られてしまうことをやろうという魂胆なのだろう。二人はソアラの腕の中で顔を見合わせてニコニコしていた。
 「おみやげ忘れないでね!」
 「ああ、とびっきりの奴を持って帰るよ。」
 百鬼は二人の頭を撫でてやる。
 「絶対だよ!」
 「___ええ、約束ね___」
 ソアラはもう一度、二人を強く抱きしめた。
 棕櫚が手綱を取る雪山羊車は軽快に進む。ソードルセイドの街並みは徐々に遠くへと霞んでいった。
 「___」
 ソアラは百鬼の肩に身体を寄せ、百鬼はただ黙って彼女の肩を抱く。ソアラはこみ上げるものを押さえきれず、彼の胸で泣いた。子供たちの前では絶対に見せなかった涙。
 パンッ___
 手綱が揺れる。棕櫚は二人を気遣って、できるだけ車を急がせた。ただソードルセイドの景色が霞に消えようとも、リュカとルディーの温もりは決して消えはしないだろう。

 「よー、おまえとは五年ぶりだなぁっ!」
 「いたたたた。」
 百鬼がライの肩に腕を回して、彼の額に拳を擦り付けながら言った。実に五年ぶりの再会は目新しい神殿の前でのことだった。これは魔導口を保護するために勅令で建てられた神殿である。
 「久しぶり、赤ちゃん元気?」
 「フフッ、もう赤ちゃんじゃないって。まったく元気すぎて毎日くたくたよ。」
 すっかり髪の伸びたフローラがソアラに尋ねた。年齢的なこともあってか、ソアラにはフローラが五年前よりも随分と女になったように思えた。
 「棕櫚は一緒じゃないの?」 
 「あー、ローレンディーニで別れたのよ。寄るところがあるらしくって、でも日付には間に合わせるって言ってたわ。」
 「もう来てますよ。」
 重い鉄製の扉が開き、神殿の中から棕櫚が顔を出した。
 「あら、早いわね。」
 「おーす。」
 続いて現れたサザビーも、相変わらずのくわえ煙草で久しぶりの面々に挨拶する。
 「あんたなんかきったないわねぇ、髭ぐらい剃ってきなさいよ。」
 ソアラはデイルのように薄汚れているサザビーを見て、顔をしかめた。
 「いや、ゴルガからノンストップでここまで来たもんでな。それに槍で髭を剃る勇気は俺にはねえ。」
 「それよりも皆さんに会って欲しい人がいるんです。さあ、アモンさんたちも奥にいますし、入って入って。」
 棕櫚に導かれるままに神殿に入ったソアラたちは、松明の光に照らされた大きな黒い影にぎょっとした。
 「バ___!」
 無口なだけに力のある目。彼が影のように黒を好むからこそその力はより一層強くなる。この強烈な威圧感にどれほど圧倒されたことか。
 「バルバロッサ___!」
 「手伝ってもらうことになりました。」
 今まで散々戦ってきた相手だ。棕櫚にお気楽な紹介をされてもさすがに構えてしまう。
 「て、手伝ってもらうって言ってもなぁ___」
 百鬼も戸惑いを隠せない。ライとフローラも顔を見合わせている。
 「こいつは元来傭兵だ。超龍神が用済みと放ったんなら、俺たちが雇ったっていいわけだろ?」
 だがバルバロッサの気質を知るサザビーは、彼の参入を歓迎している様子。ソアラも最初は面食らったが、バルバロッサから悪意を感じないことは充分に分かっていた。
 「実はもう五年前から話を付けていたんです。根暗ですが悪い奴じゃないんで、よろしく頼みますよ。」
 「あたしは頼りにしてるよ。あんたの力はみんな身体で思い知らされてるんだから。」
 ソアラはバルバロッサにウインクする。バルバロッサは顔色を変えずに彼女に目を向けた。
 「俺は自ずからは戦わない。」
 声を聞けずにやり取りが終わるかと思いきや、バルバロッサはそう答えた。ソアラは笑顔になる。
 「いいわ。でも誰かがピンチの時はしっかり頼むよ。」
 「気が向けばな。」
 バルバロッサは煙たそうに皆に背を向ける。気が向けばでも、力になってくれることを約束してくれた彼。ソアラは、見た目こそ怖いけど思ったよりもいい奴だなと感じた。
 「さあ奥に行きましょう。三人の巫女は既に儀式を始めていますよ。」
 いよいよだ___皆は固い決意を胸に、神殿を奥へと進んだ。

 鏡のような池のほとりは丁寧に石が張り巡らされ、五年ぶりに見る魔導口は神殿内に口を開ける泉と化していた。その泉を三点から囲うようにして、三人の巫女が居並ぶ。
 「___」
 そこは静寂の中で最高に張りつめた空気で満たされていた。奥へ通じる扉で待っていたアモンに連れられて、バルバロッサを加えた七人組は神殿の最奥へとやってきたのだ。
 「ニーサたちは既に儀式に入っている。魔導口が開くまでは黙ってここで見てるんだ。」
 囁くようなアモンの声にソアラたちは頷いた。白いローブを纏った三人の巫女。
 「育ったなぁ___」
 サザビーは泉のほとりで儀式に集中するゼルナスの、その背を覆うほどに伸びた髪、より凛々しさと高貴さを増した横顔、少しグラマーになった身体にポツリと呟いた。
 (___母さん___)
 そしてライの視線は、生まれてはじめて見る母の姿に釘付けとなって離れなかった。
 「あっ___」
 鏡のように微動だにしない魔導口の水面に変化が生じ始めた。ゆっくりと、渦を巻くように動き始めたのである。
 「行きましょう。」
 ニーサは泉に向けて両手を差し伸べ、ゼルナスともう一人の巫女も同じ姿勢をとる。そして三人はまったく声を揃えて何かを詠唱しはじめた。それに伴って泉の渦は力を強めていき、詠唱の声が最高潮に達したとき、ニーサの身体が薄ぼやけた赤い光に包まれた。続いてゼルナスが青い光に、もう一人が黄色い光に___
 「魔力だ___」
 ソアラはこの光に魔力を感じていた。だが呪文のそれとは少し違う、どちらかと言えば無色の魔力に近い波動だった。
 スゥゥ___
 三人の魔力は渦の中央に吸い込まれるように流れていき、三つの光が混ざり合いながら外側へと広がっていく。やがて泉が全面に目映い輝きを放ったと思うと、渦はピタリと止まり、もとの静止した水面が広がる。
 「開きました___」
 だが違うのは、泉が七色に煌めいていることだ。そしてその光は三人の巫女が結ぶトライアングルの中でだけ成立している。扉は開かれた。ニーサが確かな一言を発した。
 「行って来い。」
 アモンはしっかりと頷き、先頭に立っていた百鬼の背中を叩いた。
 「よし。」
 「あたしも。」
 ソアラは片手で百鬼の手を取り、もう片方の手では胸元の首飾りを握る。フュミレイの形見を実感することで、彼女の思いも地界に運びたかったのだ。
 百鬼とソアラは先頭を切って魔導口へと歩みを進める。水面の上には見えない架け橋があるようで、二人は波紋の一つもなく水の上を歩き、トライアングルへと足を踏み入れた。輝きはすぐさま強くなり二人を飲み込んで消し去った。
 「俺たちも行きましょうか。」
 「あ、ごめん、僕は最後にする。」
 ライを残し、棕櫚にバルバロッサ、フローラと次々に魔導口へと消えていく。次はサザビー。
 「しっかり頼むぜ、ゼルナス。」
 「そっちもな。」
 光の中で、ゼルナスは今までと変わらない口調、男勝りな笑顔を見せた。サザビーは彼女に一度だけ親指を立てて拳を突き出し、光の中へと消える。
 最後にライ。彼はゆっくりと歩み、トライアングルの中に片足を踏み入れ、止まった。正面にいる盲目の母。彼女が目が見えないと分かっていても、ライはその眼を真っ直ぐに見つめた。
 「行ってきます。母さん。」
 「!」
 ニーサの指先が小さく震えた。ライはそのままトライアングルの中へと入り込み、彼の姿もまた光に飲まれて消え去った。
 「行ってらっしゃい、ライ___」
 ニーサは微笑みを浮かべてポツリと呟く。
 「扉を閉じます!」
 「はい!」

 光に飲まれた瞬間、なにも分からなくなった。なんと言ったらいいのか、自分の夢を第三者的な視点で見ている、そんな妙な感覚だった。空間の中には自分自身も含めた七人の姿が歪んで泳ぎ回り、やがてなにも見えなくなる。今度は轟音が頭を打ち鳴らし、時折どこかで何かが光っていた。やがて長い洞窟を抜けるように目前に輝きが広がっていく。
 パァァァァッ!
 「う___?」
 意識ははっきりしていた。頭痛がすることもなかったし、しっかりと大地を踏みしめていた。まず皆が揃っているかを確認する。七人が互いの顔を見合わせると、改めて回りの景色に目を移した。
 暗い。だが景色はなぜだかよく見えた。見慣れない草原が広がり、少しだけ空気の匂いも違う気がする。だがおどろおどろしいところはなにもなく、眺望は中庸界と変わらない。だが気温はクーザーよりも遙かに寒かった。
 「夜だな。」
 「ここが___地界。」
 「___のようですね。」
 新天地は思いの外、静かなところだった。



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