2 ハイラルドの悲劇
 
 アモンが期日とした一週間後、ゼルナスは彼と共にセルセリアに向かった。彼女は混沌とした世界の中で、クーザーを平静に保つことを第一と考えていたが、その概念を変える案を法王が示したことが大きな転機となった。
 「国を取り払おうと思う。」
 それはクーザー城にたまたま法王、ゴルガの王、ソードルセイドの王、そしてゴルガから舞い戻ってきたクーザーの女王が居合わせたからこそ、口にした言葉だった。
 「時間は掛かるかも知れないが___これだけの世界だ、全てを連邦として一律にまとめ、十から二十の小地域に分けることもできる。統治は組織に一括され、各地域はその政策状況を年に一度通達しなければならない。」
 それはケルベロスのような巨大組織を作らせないためでもある。
 「君たちの統括地域も小さくなる。」
 「いや、王家に拘る時代じゃない。できればそっちは誰かに任せたいくらいです。」
 そう言って百鬼は苦笑いを浮かべた。
 「君たちの目指すものについては理解しているつもりだ。勿論この案の趣旨はケルベロスの解体と、監視にある。正直、今のタイミングでなければできないことだと思うのだ。もしこの方策に賛成するのであれば、君たちが今ある地域をどのように分け、それぞれにどのような統括者を設けるのか、考えてくれ。それを君たちの最後の仕事にしてもらっても私は構わない。」
 国を動かすことは彼らでなくともできる。いや、むしろ彼らより優れた人物はたくさんいる。だが、超龍神やアヌビスという世間的にはあまりにも未知ながら、驚異的な存在を追いかけるのは彼らでなければできない。法王ランス・ベルグメニューはそう考えていた。
 「フィラ・ミゲルよ。扉を開くことがおまえにしかできないと言うのであれば、おまえはその使命の重さを感ずるべきだと私は思う。」
 そしてゼルナスにまでそう諭した。この言葉は彼女の心を大きく揺れ動かし、そしてその背を押したのはサザビーだった。
 「クーザーは俺が何とかする。」
 「あんたの言葉を信じろって言うの?」
 ゼルナスは法王の前でもお構いなしに言い放ったが___
 「信じてくれるならな。」
 サザビーと見つめ合ううちにその顔から強ばりは失せていった。
 「分かったよ。そうするのが一番良さそうだし。」
 かくしてゼルナスはセルセリアに飛び、他のメンバーも一時の解散を迎えることとなった。
 百鬼はアモンの力を借りて棕櫚と共にソードルセイドへ帰った。一刻も早くソアラに事態を伝えなければならないという思いは、彼を必要以上に急がせた。棕櫚に関しては、時が来るまで美濃屋の手伝いでもしているつもりのようだ。
 ライは陸路カルラーンに向かった。彼はケルベロスから解放された懐かしい土地で、来るべき時に向けて鍛練を積もうと考えている。サザビーは暫くクーザーに残って、ランスと諸問題について話を進めるつもりだ。
 そしてフローラは、もう一度ハイラルドの土地へ足を運ぼうと考えていた___
 だが彼女を待ち受けていたのは、両親の穏やかな微笑みではなかった。

 「___」
 フローラはベッドの前で崩れ落ち、放心していた。父は後ろでしゃがみ込み、そんな娘の背中をそっと抱いてやる。
 「おまえは最善を尽くしたのだ___悔いることはない。」
 ベッドの上にはすでに物言わぬマーガレット・ハイラルドが横たわっていた。フローラが屋敷に戻ってきたとき、マーガレットは肺炎をこじらせて体調を崩していた。しかしそれからフローラが診察し、適切な処置をし続けること三日、病状は快復に向かっていたのだ。しかし___
 「信じられない___」
 今朝、突如容体が急変した。時は既に遅く、もはや一切の処置も受け付けてはくれなかった。医師にとってこれほど口惜しいことはない。娘としてこれほど悲しいことはない。フローラはただ顔を覆って呻いた。
 私は母を救うことができなかった___その思いは彼女の心を打ちのめしていた。
 「___」
 打ちひしがれるフローラとアランをよそに、サンドラ・ハイラルドは自慢の金髪に手櫛を通しつつ、部屋の隅で他人事のように様子を眺めていた。
 「ふ___」
 時にその口元を歪めながら。

 「お母様___」
 涙の枯れたフローラは、それでもまだ母の側を動こうとはしなかった。アランはもはやこの事実を真っ直ぐに受け止め、自室で得意先へこの旨を伝えるための手紙を綴っていた。サンドラは勿論、メイドたちさえ部屋からは消えていた。
 「もっとお話ししたかった___」
 フローラはマーガレットの冷たい手を握る。少しでも温もりのあるうちに、その手に頬を寄せたいと感じてのことだった。だがその時、彼女の目は娘のそれから、医師のそれへと変わった。
 「え___?」
 フローラだから気付いた小さな異変。マーガレットの爪の内側には血痕が残り、指先は若干黒ずんでいる。
 「まさか___」
 悲しみは吹き飛び、戦慄が襲う。フローラは立ち上がって母の服の襟元に手を掛けると、少しだけその胸元を開いた。首筋に真っ直ぐに赤い筋が浮かんでいる。そして身体には若干の斑紋が浮かんでいた。
 「これって___!」
 フローラは虚しく広げられた医療ケースに駆け寄り、幾らかの試験薬を取り出す。それを一つ一つ、紙に塗ってマーガレットの口内に触れさせる。それは薬物反応の試験だった。
 「!」
 一つ、陽性を示した。
 「パルドレース___!」
 フローラは震えのくる思いだった。この事実をまず自分の中で整理するのにどうしたらいいのか、分からなくなる___だが認めるには声に出して自らに言って聞かせるのが一番。ソアラにそう教わっていた。
 「死因は___毒殺!」
 フローラは必死に吐息を落ち着かせ、母の骸を凝視した。この穏やかで心優しい母を、いったい誰が殺めたというのか?考えたくはないが考えなければならない。だが不運にも、彼女が自らを言い聞かせるために放った言葉は、たまたま扉の向こうにいたメイドの耳に入ってしまっていた。

 (パルドレースは毒茸で、粉状にして扱われることが多い薬物。害獣の駆除に用いられる危険な品で、許可無しでの取引が禁止されているが、実際はこれを使った殺人が少なくない。即効性の猛毒だけれど、母様の場合は飲まされた量は決して多くない___もし大量に摂取すれば瞬間的に死に至る。)
 フローラは丹念にマーガレットの身体に浮き上がった斑紋を調べていた。
 「口から摂取したのは確かね___」
 首筋に一本の筋が入っているのは食堂周辺が激しい炎症を起こしている証拠。パルドレースは体粘膜を一気に腐食させ、内出血させるため、死亡時に身体に血の浮き上がったような跡が残ることが特徴だ。
 バンッ!
 「フローラ!」
 ノックも遠慮もなく、アランが勢いに任せて駆け込んできた。若干だが、前髪も乱れていた。
 「お、お父様___?」
 そのアランの動転ぶりに、顔に滲んだ血の気に、フローラは肩をすくめた。
 「毒殺だというのは本当なのか!?」
 「えっ!」
 できれば父にだけは知って欲しくなかった。彼は妥協を知らず、そして短気で直情的だ。
 「本当なのか!?」
 アランはフローラの肩を両手できつく掴み、激しく揺さぶった。黙っていることはできない___いや、黙っていたところで意味がないという方が正しいだろう。
 「本当です。パルドレース、ご存じですね?裏世界では名の知れた毒薬です。」
 フローラはできる限り冷静に、医師の顔で答えた。だがアモンの憤りが治まるはずもなかった。
 「誰がやった!?」
 「それは分かりません___」
 「屋敷の中の人間か!?」
 「___」
 フローラは答えなかった。恐らくこの屋敷の中の誰かの仕業であるには違いない。しかしそうと分かれば、アラン・ハイラルドは全ての使用人たちを、柱に縛り付けて鞭打ちにしかねない激昂ぶりだった。
 「時間は!?それは分かっているはずだ!」
 「危篤状態に陥ったときが、およそ毒を飲まされた1分後程度ではないかと考えています。」
 「よし___!」
 アランは大きく頷いてフローラから手を離すと勢い良く廊下に飛び出した。
 「全ての使用人を私の部屋に集めろ!誰一人例外は認めん!」

 アランの部屋には屋敷に仕えるメイドや調理師、およそ十人が集められた。重苦しい空気の中、アランはステッキを片手に険しい顔で、居並ぶ者たちを睨み付けていく。フローラは部屋に入ることを禁ぜられ、サンドラは呼ばれなかった。
 「マーガレットは毒殺された!そして犯人はこの屋敷の中の人間だ!」
 アランの怒号にメイドがたちが肩を震わせる。
 「すなわち、貴様らの中に犯人がいると言うことだ!」
 アランはステッキを突き出し、一人一人を差していく。メイドも調理師も、怖々の顔でただ気を付けすることしかできない。ただ、小心者のメイドがアランの目を見ていられずに、顔を背けてしまった。
 「貴様か___!?」
 アランはステッキを突き出し、その先端がメイドの顎に触れた。彼女は震えながらただ首を横に振る。
 「貴様、今朝マーガレットが苦しみだしたときに、どこにいた!?」
 「その時間は___!」
 隣にいたメイドが彼女を庇って答えようとしたが、アランはステッキをその頬に容赦なく打ち付けた。メイドは口元から血を弾かせながら倒れ、床には彼女の歯が転げ落ちた。
 「貴様には聞いていない!」
 「わ、私は給仕場にいました!彼女と一緒に___!」
 友人を守ろうと、小心者のメイドが必死に答えた。アモンは舌打ちして彼女を睨み付ける。
 「貴様ら二人が共犯なのではないか___?」
 「そんな!」
 「アラン様!」
 暴走とも言えるアランの愚行にたまりかね、赤毛のメイドが声を張り上げた。
 「なんだ!?おまえがやったのか!?」
 「違います、私は見たのです。」
 彼女の名はリゼ・ルティアット。ほんの一週間も前にやってきたメイドだが、明るく勝ち気な性格で、早くも仲間から親しまれる存在になった有望株だ。
 「見ただと___?」
 アモンは眉間に皺を寄せ、ルティアットを睨み付けた。
 「今朝、奥様のご様子を伺いに部屋へと参りました。その時___サンドラ様がお一人でお部屋に入っていくのを見たのです。私はお邪魔をしてはいけないと思い、その場を後にしましたが___それからすぐに奥様が___!」
 アランが止まった。返す言葉を失い、まるで視点を失ったような目でいた。だが時間と共に、彼の顔は紅潮し激昂へと変わっていく。
 「貴様___サンドラが犯人だというのか!?」
 アランはルティアットに突進し、乱暴に彼女の襟首を掴んで締め上げた。
 「わ、私は見たままを申し上げただけです___っ!」
 ルティアットは悲鳴にも似た甲高い声を挙げ、アランは彼女を放り投げるように突き放した。そして肩で息をしているうちに、額に滲んだ汗が彼を少しだけ冷静にさせた。
 思い当たる節がないと言ったら嘘になる。サンドラは彼の娘ではあるが彼を恨み、マーガレットを実母のクローディアの仇と憎んでいた。以前は頻繁に口論をしていたが、食事を含めそれでもアランの前に姿を見せた。だが最近は姿を見せることも少ない。ただ静かに、部屋に籠もっていることが多かった。
 「___おまえらは仕事に戻れ。ただし一歩たりとてこの屋敷を出ることは許さん!」
 口惜しいが会って確かめるしかないだろう。アランは整髪料の塗られた髪をかきむしった。

 「___まだ残っている可能性が高い。」
 フローラは被害者となってしまった母の前で、深刻な面持ちでいた。問題なのは殺害に使用されたパルドレースの量である。恐らく致死に至るまでの時間から計算しても、マーガレットが摂取したパルドレースは、闇市場での単一取引量に満たない。犯人は処分したか他の用途に使っていない限り、まだパルドレースを持っていることになる。
 「失礼します。」
 ノックの後に聞き知ったメイドの声がした。
 「どうぞ。」
 現れたのはルティアット。互いにここに来て間もないこともあってか、フローラと彼女はすぐに意気投合していた。
 「邪魔だった?」
 「いえ、誰かいてくれた方が嬉しいわ。」
 フローラは憂いげな笑みを見せ、ルティアットは部屋の一角から椅子を運んでフローラの隣に座った。
 「お父様は___なにか酷いことをしなかった?」
 「ちょっとだけ首締められちゃったわ。」
 ルティアットはそう言って苦笑いし、フローラは驚いた顔をする。
 「そんなことを___ごめんなさい。」
 「あなたが謝ることじゃないわよ。それにしても驚いたわ、普段は優しそうなアラン様が怒るとあんなに人が変わってしまうんだもの。私なんかまだいいほうよ、クイン先輩なんてステッキで叩かれて歯が折れちゃったんだから___」
 それを聞いてフローラは絶句した。
 「お父様は今どこに?」
 フローラは辛辣な表情でルティアットに問いかけた。アランの暴走を黙ってみていることは彼女の良心が許さなかった。
 「サンドラ様の部屋よ。」
 「お姉様の?どうして?」
 ルティアットは申し訳なさそうな顔をする。
 「あたし見ちゃったのよ、サンドラ様が奥様のお部屋に入るところを。それを怖くなってついついアラン様に言っちゃったの___」
 フローラの顔が一気に蒼白になった。悪い予感が全身を駆けめぐり、彼女はルティアットに言葉もかけず、部屋を飛び出していった。残った赤毛のメイドは、メイドらしからぬべたついた笑みを浮かべていた。

 そのころ、アランはサンドラの部屋にいた。彼は冷静を装い、サンドラも特に厳めしくなることはなく、いつになくすんなりと彼を部屋に入れていた。
 「サンドラ、今朝マーガレットに会いに行ったそうだな。」
 「ええ、行ったわ。」
 あっさりと肯定してみせるサンドラ。アランは頬を引きつらせながらもまだ落ち着いていた。サンドラはブロンドを手で掻き上げ、椅子から立ち上がった。
 「何をしに行ったのだ___?」
 その問い掛けに、サンドラは微笑んだ。彼女の笑みをアランはもう何年も見たことがない。それはまるでサンドラが別人に見えるような光景だった。ただ、それは二人の距離がいかに離れていたかを暗示することであり、親子の間にあっていい関係ではない。そしてこの距離感が、サンドラを完全に吹っ切れさせたのだ。
 「とても良く効くお薬を手に入れたから、飲ませてあげようと思ったの。」
 「___だったら、私に声をかけてくれても良かっただろう。」
 アランの声は少しだけ震えていた。サンドラは自らのデスクへと近づいた。
 「お母様は苦しそうだったでしょ?早く飲ませてあげたかったのよ。」
 サンドラは今まで一度たりともマーガレットを母と呼んだことはなかった。マーガレットもずっとそのことを気に病んではいたが、サンドラは徹底的に彼女を拒絶していた。
 「これがその薬。」
 デスクの引き出しを明け、サンドラは小さなガラス瓶を取りだした。コルクで栓がされた瓶の中には、黄褐色の粉末がまだ随分と残っていた。
 「これを飲めば全ての苦しみが無くなって、楽になれるのよ。」
 それがサンドラの自白の始まりだった。
 「なに___!?」
 アランの驚きをよそに、サンドラが声を挙げて笑い出す。
 「そうさ!あたしが殺したんだよ!」
 サンドラは豹変した。今までの落ち着きが嘘のように、まるで悪魔のような笑みを浮かべて、アランを罵った。
 「復讐だよ___あたしのお母様が死んだのは誰のせいだと思ってるの!?あんたがあの女とうつつを抜かしている間に、あたしのお母様はあんたやマーガレットの名を叫びながら悶死した!その時あたしは誓った___必ず復讐する!」
 アランの怒りは最高潮に達した。彼は髭が反り立たんばかりに顔を真っ赤にしていたが、それはサンドラも同じ事だった。
 「貴様ぁ!」
 「おまえが少しでもあたしのお母様を気に掛けていれば、悔やんでいれば___あたしだってこんな事はしなかった!」
 突然だった。アランの顔から血の気が吹き飛ぶ。
 「サンドラさん!」
 その時、フローラが部屋に駆け込んできた。だが彼女が見たのは、パルドレースの粉を小瓶から直に自らの口に流し込むサンドラの姿だった。それは致死量を遙かに超え、サンドラは全ての粉を飲み込むよりも早く、血を吐いて倒れた。
 「サンドラ!」
 絶望的だった。フローラはサンドラに駆け寄るが、手を触れることもなく諦めるしかなかった。その光景を見ていたアランは、呆然とすることさえなく、忌々しそうにひとつ床を踏みつけた。そして吐き捨てたのだ。
 「馬鹿娘が!」
 フローラはその言葉に耳を疑った。徐に振り返り、アランが悲しみを押し殺す顔でなく、怒りのはけ口を失って苛立った顔をしているのを見て、彼女の中で何かが壊れた。
 「人殺し___」
 呟いた。自然に出た言葉だった。
 「人殺し!」
 声を張り上げて罵った。アランは怒りの矛先をフローラに向けて彼女を睨んだ。
 「おまえまで何を言い出す!」
 「自分の胸に聞いてみればいいのよ___なぜ二人が死んでしまったのか!」
 フローラは憤りからこみ上げる涙を隠すこともなく、アランを睨んだ。
 「出ていきます___もう二度とここへは帰ってきません!」
 そして部屋から駆けだしていった。荷物をまとめることもせず、ただ母の部屋によってその手に口づけし、屋敷を飛び出していった。
 「まったく___どいつもこいつも!!」
 残されたアランは力任せにサンドラの部屋のドアを蹴飛ばした。
 それから___
 トントントントン___
 怒りの治まらないアランはソファに深く座り込み、肘掛けを指で叩いていた。
 「お水をお持ちしました。」
 ルティアットがコップ一杯の水を持ってやってくる。アランは無言でそれを奪い取り、一気に飲み干した。その途端___
 「ぐっ___!?」
 彼の身体に異変が起こった。コップを持っていることができなくなり、床に落としてしまう。胸の回りが一気に熱くなって、息苦しくなってくる。異変に恐怖したアランは、ルティアットの顔を見上げた。
 「サンドラに毒を売ったのはあたしさ。あんたも裏の人間なら、アサシン・ルティアットの名前くらいは聞いたことあるはずだよ。」
 ルティアットは冷笑を浮かべていた。アランは口をパクパクさせて彼女に手を伸ばす。
 「サンドラはこうなることを分かっていたのさ。自分がマーガレットを殺したことを知ったら、アランがきっと自分を殺しに来る。その時は、あたしがアランを殺してくれってね。依頼ってやつ。」
 「___助けて___」
 薄れ行く意識の中でアランが最後に呟いた言葉がそれだった。
 「助けを求める前に、サンドラに詫びればいいんだ。」
 ルティアットはアランの手から放れ、侮蔑の笑みを残して立ち去っていった。
 数分後、アランの遺体を別のメイドが発見した。
 「えっ___」
 屋敷は飛び出したもののハイラルドの領に残っていたフローラは、突然の報せに恐れ戦いた。そして両手で顔を覆い、その場で泣き崩れてしまった。そう、殺しの現場にルティアットの痕跡は残されていない。報せに走ったメイドは彼女に、「アランが全てを悲観して自殺した」と伝えたのだ。フローラは自らにその責任があると感じ、心に深い傷を負った。彼女は一日にして、唯一無比の肉親を全て失ったのである。この絶望の前に、もはや泣きじゃくることしかできなかった。
 この悲劇的な結末は、ハイラルド領のみならず、商人を通じて広く世界へ知られることとなる。財閥の最後の生き残りであるフローラは、アランの財産の処理やらなにやらといった仕事に縛り付けられ、痛めつけられた。彼女は傷心を癒すことができず、後生語り継がれるであろう悲劇を胸に刻み続けなければならない。
 その後、ハイラルド領に関わる全てを捨て、ようやく逃避行につくことができた彼女は、足早にカルラーンを目指した。心癒してくれる土地、人のいる場所へ___
 「フローラ?」
 「ライィ___!」
 ライには何がなんだか分からなかった。ただフローラは彼の胸に縋り付いていつまでもいつまでも泣き続けていたという。



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