3 昇華

 ドゴォォォォンッ!
 夜明け前、派手な爆音が大理石の山を駆けめぐる。
 「なんだ!?」
 床に就いていたランス・ベルグメニューはあり得ないことに驚いて飛び起きた。
 「申し上げます!」
 寝装束のままの男がランスの寝室へと滑り込んできた。
 「銀髪の女が空から飛来し、法王様を出せと___!」
 「銀髪___?」
 早くも冷静さを取り戻したランスは、怪訝そうに呟いた。
 「うりゃあああ!」
 法王の守護兵たちがフュミレイに襲い掛かる。だがフュミレイの側にはシザースボールの球体が浮遊し、彼女が微動だにせずとも激しく動き回って兵を弾き飛ばした。
 「手出し無用!私は法王に話があるだけだ!」
 篝火に銀髪を煌めかせ、フュミレイは声高に言い放った。声は法王堂の神殿全体に響き渡ったが、ルビアーニ率いる守護兵は決して構えを解かなかった。
 「やはりフュミレイ・リドン___!」
 神殿の奥から重い声が聞こえた。そちらを振り向いたフュミレイは、現れたランスの姿を見て口元をほころばせた。
 「ランス・ベルグメニューか!」
 ランスの前に、彼を守ろうと守護兵たちが立ちはだかる。ランスも特に彼らを退けようとはしなかった。
 「随分な時間にやってくるのだな。」
 「前置きはいらない、すぐにここを立ち去れ!」
 「貴様!法王様の御前で!」
 シザースボールが向かってきた守護兵を阻む。フュミレイが急いでソアラのもとを去ったのには理由があった。フェイロウがやってくる前に、法王ランスをこのクーザーマウンテンから逃がさなければならない。アドルフの突然の失踪、クーザーマウンテンの崩壊によって世界は混沌とするだろう。それを平定させるにはランスの力が必要になる。
 「ただ無碍に立ち去れと言われても、ここは私が守らねばならない場所だ。」
 ランスは沈着な口調で言った。フュミレイは神殿の柱の一つに手を向けた。
 「ここは戦場になる。おまえに死なれては困るんだ。速やかに立ち去れ。」
 「何を戯けたことを!」
 ルビアーニは怒声を張り上げたが、それは爆破音にかき消された。フュミレイが呪文で柱に風穴を開けたのだ。
 「戦場とはどういうことだ?ケルベロスが攻めてくるのか?」
 「やってくるのはアヌビスの復活を望む魔獣だ。」
 フュミレイは守護兵の向こうのランスだけを見つめて話した。
 「やはりアヌビスか___だがここにはアモンの張った結界がある。」
 「そんなもの___私でも破れる。」
 フュミレイは嫌悪を込めて吐き捨てる。
 「魔獣ごとき我々で食い止める!」
 ルビアーニは声を荒らげるがフュミレイは一笑に付し、彼の足下の大理石が激しく砕けた。
 「法王、私はあなたが理解のある人物であると知っている。もしあなたが、このクーザーマウンテンを失うことも厭わないのであれば、全てを私に任せていただきたい!」
 ランスはただ真っ直ぐに彼女を見つめた。その強い眼差しは、奇行に走った人間のそれではなかった。
 「良策があるのか?なぜおまえが魔獣と戦える?」
 「有無は言わせない、もしこれ以上選考に時を要するのであれば___ここにいる者たちを一人ずつ殺す!」
 フュミレイの掌の先にいる守護兵が震えた。彼女の手は指先からぼんやりと白く輝きはじめる。
 「分かった。」
 「!?」
 ランスは深く頷いた。ルビアーニが驚いて彼を振り返る。
 「ここを去ろう。」
 「できるだけ早く、できるだけ遠くに向かってくれ。」
 「ああ、貴殿の武運を祈る。」
 ランスは手を翳し、早急にクーザーへ撤退せよとの司令を告げた。最後まで不満を口にしていたルビアーニも勅令には逆らえない。至上命令には実に忠実で迅速。法王の旅団は日の出の光を受けながらクーザーマウンテンを下りていった。
 「よし___」
 がらんどうと化した神殿をクーザーマウンテンの山中へと進む。ランスより聞き知ったアヌビスの封印の在処へ、フュミレイは急いだ。

 決して複雑ではないクーザーマウンテンの回廊を進み、壁に模した扉を抜けて長い長い階段を下る。その先に、問題のものはあった。
 「これか___」
 なんの変哲もない空洞の中央に、石碑がある。周囲の壁は大理石だが、どうやらこの石碑は違った鉱物だ。
 呆れるほど簡素な空間___ただ普通でないのは、石碑がぼんやりとした光に包まれていることぐらいだろう。光の発生源は、石碑の前に備えられている宝玉。壁に埋め込まれた油燈に火を入れると、光は炎に合わせて煌めいていた。
 「アモンの結界か___」
 フュミレイは壁に手を触れて、微弱な魔力で大理石の一部を切り取る。それを石碑に向けて放った。
 バシュッ!
 「っ!」
 派手な音と光をまき散らし、結界に触れた大理石は粉となって消え失せた。
 「なかなかやっかいなものを___」
 アモンが張った結界のエネルギーは強烈。彼の技術により、結界の力を石碑に集中させる形になっている。なるほど、これだけの威力があるのなら、四つの均整の守護に使おうとしたことも頷けた。
 「威力___?」
 妙案。フュミレイは本気で口元を歪めた。
 「これは使えるかもしれない___この結界の破壊力ならフェイロウを一瞬で葬ることもできる___!」
 「やっぱりそうだったんですね。」
 閉鎖空間にいきなり声が割り込み、フュミレイは驚いて振り返った。反射的に恐れと敵意を抱いたが、背後に立っていたのはフェイロウではなく、笑顔のセルチックだった。
 「___セルチック___か。」
 セルチックの表情がいやに明瞭だったので、フュミレイは思わず彼女をフェイロウの変身ではないかと疑ってしまった。
 「フュミレイ様のことだから、きっと何か秘策を練っていると思いましたわ。」
 だが彼女の笑みは純真無垢で、フェイロウのそれとはほど遠い。
 「大きな口をきくようになったな。」
 フュミレイは漸く小さな笑みを見せた。
 「フェイロウは?」
 「上でフュミレイ様を捜してます。」
 それを聞いたフュミレイは、素早く結界の解除に取りかかった。光に両手を翳して魔力の波動を高めていくと、石碑を包んでいた輝きは徐々に宝玉の中に吸い込まれていく。
 「おまえは先に戻って、あたしが結界の解除をしていることを伝えろ。」
 「それを武器に使うのですか?」
 「ああ。そうだ、おまえはフェイロウをここへ導いたらそのまま逃げろ。」
 短い時間で結界は解かれ、宝玉の中に全てのエネルギーが封じ込められた。
 「何かなさるのですか?」
 「おまえには言えない。とにかく、おまえは隙を見て逃げろ。」
 フュミレイは絶対にセルチックを戦いに巻き込んではならないと考えていた。セルチックが今ここにいるのはフュミレイのミスであり、彼女はずっとそれを気に病んでいた。
 「自爆なさるおつもりでしょう。」
 「!」
 だがセルチックはそんな彼女の心を見透かしたように言った。
 「水くさいですよ、フュミレイ様。死にたいのはあなただけじゃありません。」
 その言葉。フュミレイはセルチックがどれほど我慢強く、ただ顔に表さない能力に長けているだけかを思い知られた。
 「最後までお供します。」
 「いや、それは許さない___」
 だからこそ余計に生き残って欲しかった。フュミレイはセルチックの肩に手を掛ける。
 「おまえは生き残れ。」
 「説得力ありませんわ。フュミレイ様が言っても。」
 「なっ___」
 無表情に語るセルチックにフュミレイは閉口した。だが確かにそうかもしれない。セルチックが肌で分かるほど今の自分は死に急いでいる。人に生きろと諭したところで、受ける感銘などこれっぽっちもあるまい。だから___
 「私はただでは死なない。可能性のある限りは生きてみせる。」
 フュミレイは少しだけむきになって反論した。
 「その言葉を待ってました。」
 セルチックが微笑んだ。その時フュミレイは気付いたのだ。
 「おまえ___あたしを説得___」
 「生き残るために戦いましょう、フュミレイ様。その武器、あたしが使います。」
 「できるのか___?」
 「手ほどきいただければ、自信があります。」
 死で全てを終わらせることはない。生きる方法をできる限り探すのが、生命である者たちの使命。それはセルチックからフュミレイへのメッセージだった。
 そして___
 「この奥だ。リングを埋め込むであろう石碑があった。」
 壁に模した隠し扉を開き、フュミレイはフェイロウに告げた。
 「でかしたわフュミレイ!さあ、いよいよね!」
 フェイロウは少し窮屈そうに隠し扉を通り抜け、石碑に向かって意気揚々と階段を下っていく。その後ろにローゼンスクが続く。フェイロウは先頭に立ちたがる気性の持ち主。背後を取ることはまったく難しくなかった。
 「___」
 フュミレイとセルチックは一度だけ目を合わし、フェイロウを追った。
 「ここね___ああ、なんだかドキドキするわ。」
 フェイロウはほんのりと頬を上気させ、豊満な胸に手を当てた。
 「珍しいですネ。」
 「あたしだってドキドキワクワクすることくらいあるわよ。」
 フェイロウはローゼンスクを振り返ってはにかんでみせる。
 「綺麗な女の人を見るといつもドキドキワクワクじゃないですカ。」
 ゴガッ!
 「ったくあんたはいつも一言多い!」
 「取り柄ですかラ。」
 ローゼンスクの額が軽くへこんでいたが、すぐに元の形に戻っていった。
 「漫才はいいから、早くリングを填め込んだらどうだ?」
 少し離れて二人の様子を見ていたフュミレイが落ち着いた突っ込みを入れる。
 「分かってるわよ。」
 フェイロウは六つのリングを取りだし、まずは炎のリングをつまみ上げてぺろりと一嘗めした。
 「いくわよ___」
 フェイロウは鼓動の高ぶりを感じながら、石碑の窪みの一つに炎のリングを填め込んだ。宝石を奥にして填め込まれたリングはぼんやりと輝き、石碑の一角を内側から朧気に光らせた。
 「次___」
 水、風、大地___次から次へとリングは石碑に填め込まれ、石碑にいくつもの彩りが生まれていく。そして___
 「これで最後___」
 フェイロウは命のリングを摘み、石碑へと近づけていく。フュミレイは絶対的な冷静さを維持しながら、少しだけセルチックを気にする。だが彼女のポーカーフェイスは完璧のまま。来るべき瞬間を前にしても一切の動揺もない。
 「はまった!」
 遂に命のリングが石碑に填め込まれる。フェイロウはすぐさま何らかの変化を期待して目を輝かせたが___
 「あら?」
 贋作の命のリングは輝きもしない。フェイロウは石碑からリングを抜き取って、怪訝そうに覗き込んだ。そのとき___!
 「フェイロウ!!」
 閉鎖的な空間で、フュミレイが彼女の名を叫ぶ。声は幾重にも共鳴し、驚いて振り向いたフェイロウの目前でプラドの白熱球が目映く爆発した。
 「くっ!?」
 「お、お嬢さマ!」
 激しい光にフェイロウの目が眩む。そしてこの瞬間、彼女の動きは確実に止まった。
 「セルチック!」
 フュミレイがその名を呼んだとき、すでにセルチックの手の中で、宝玉は白い輝きを発していた。詠唱は完了した!
 「放てぇぇっ!!」
 セルチックが心の奥底から叫んだ。宝玉が一際強く輝き、壮絶なエネルギーが金色の柱となって噴き出す。壮絶な輝きは部屋から全ての視界を奪い、フェイロウを飲み込んでいく。やがて圧倒的なエネルギーの流出に絶えかねた宝玉がセルチックの掌で砕け散り、金色の柱は潰えた。しかし彼女は確かな手応えを感じていた。
 「やった___!」
 光によって純白と化した視界の中、セルチックはポーカーフェイスを崩して最高の笑みを見せる。しかし___
 「いや___!」
 視界に彩りが戻る。そして二人が目の当たりにしたのは、立ちつくすフェイロウだった。
 「そんな!」
 失敗だ。セルチックの顔から笑顔が消し飛び、フュミレイは口惜しそうにフェイロウを睨み付けた。しかし___どうも様子がおかしい。フェイロウはただ愕然と立ちつくし、その視線を己の足下に向けている。彼女が我を失っている原因。それは彼女の視線を追うことで分かった。
 「______」
 震えるフェイロウの足もと。そこには茶色くくすんだ尻尾が転がっていた。それは普段ならば輝かしい金属光沢を放っている、彼の尾だった。
 ローゼンスクは身を挺してフェイロウを守ったのである。
 ガク___
 フェイロウの膝が折れた。彼女はその場に崩れ落ちる。頬には大粒の涙が伝っていた。フュミレイにはそれが信じられなかった。
 あのフェイロウが泣くなんて。
 「ローゼン___ローゼン___ローゼン!ローゼェェェンッ!」
 フェイロウは愛しき僕の名を叫び、変わり果てた彼の尻尾を抱きしめた。本当に大切なものを失う気持ち、フェイロウは今それをはじめて知った。
 「うああああああああっ!!」
 フェイロウの身体から壮絶な殺気が噴き出した。それは紺色の波動となって彼女の身体を燃え上がらせ、その豊富な髪が激しく踊り狂った。神殿を揺さぶるほどのどす黒い威圧感、憎悪以外の何物でもない力にさしものフュミレイも怯んだ。
 「がああああっ!」
 そしてフェイロウが天を仰ぐ。その瞬間、彼女に変化が生じた。容姿や肉付きに派手な変化があったわけではない。せいぜい角が攻撃的に前へと突き出したくらいだ。だが彼女の顔はまさしく鬼の形相で、魔獣と呼ぶに相応しいものだった。
 「ローゼンはあたしのただ一人の友だった___!」
 「貴様は多くの人々から多くの友を奪った!それとどこが違う!」
 血走った瞳のフェイロウ。彼女の背後では髪が生き物のように揺らめいている。フュミレイは吐き気がするほどの殺気に苦しみながらも、気圧されまいと声を張り上げた。
 「殺してやる___おまえらの身体を内側から食い破ってやる!!」
 フェイロウが怒りに任せて襲い掛かってくる。だがフュミレイはこれを待っていた。彼女が残虐の衝動に駆られることを___
 「ドラギレア!!」
 フュミレイの両手が輝き、閉鎖空間が炎の地獄へと変わる。しかし炎の中でも髪は踊り狂っていた。
 「逃げるぞ!」
 「はい!」
 広い場所に出なければあの髪に捕らえられて終わりだ。フュミレイとセルチックは一気に階段を駆け上がっていった。だが___
 「あっ!」
 セルチックが転倒する。すでに彼女の足にはフェイロウの髪が絡みつき、炎の奈落から髪が上へ上へと伸びてくる。
 「セルチック!」
 フュミレイは呪文を使ってセルチックに絡む髪を切り捨てようとするが、髪は切断された場所からも容赦なく絡みついてくる。
 「フュミレイ様、私は構いませんから!」
 セルチックはフュミレイに強く訴える。
 「見捨てられるわけないだろ!?」
 セルチックの下半身が髪に覆われ、ついにはフュミレイにまで襲い掛かる。彼女は自分に迫る髪を焼くだけで精一杯だった。
 「私はあなたの側にいるときが一番幸せでした___」
 「セルチック!」
 セルチックの身体がゆっくりと、奈落に引きずられていく。
 「さようなら。きっとフェイロウを倒して下さい___」
 そして、まるで谷を滑り落ちていくように、セルチックは大量の髪に飲み込まれながら階段の下へと消えていった。
 「セルチック___くそぉっ!!」
 フュミレイは両手からドラゴフレイムを放って髪に牽制をかけ、一気に階段を駆け上がっていく。逃げ際にディオプラドを放って階段を砕き、彼女は朝日差し込む神殿まで一挙に駆け抜けた。
 「はぁっ___はぁっ___」
 フュミレイは肩で息を付きながらも神殿で立ち止まり、玉座へと向き直った。
 ここでフェイロウを待つ。だがその前に、余計な被害を押さえる用意が必要だ。
 「暗黒の呪縛、空間の監獄を築き我を封ぜよ。我が夥しき息吹の一切を塞ぎ止めよ___クリムゾンサークル!」
 フュミレイは空に両手を突き上げた。すると彼女の掌から青黒い輝きが空へと伸び、高見に留まる。そして大地に向かって黒き光の架け橋を築くと、コンパスのように深い円を刻み込んでいった。クーザーマウンテンを包むように巨大なサークルが大地に刻まれる。するとそこから空の光に向かって青み帯びた波動が立ち上りはじめた。
 クリムゾンサークルは暗黒の大呪文。いわばディヴァインライトと対になり、さらに上回る呪文だ。暗黒の壮絶な波動で一切の力を塞ぎ止める。つまりこのサークルの中で放たれた力はこれを突き破って外界へ被害を及ぼすことがない。
 「魔族になって良かったかもな___これだけの大呪文が使えるんだ___」
 フュミレイは自嘲的な笑みを浮かべ、全ての魔力をクリムゾンサークルの形成に注ぐ。しかし空に突き上げていた手は、吐息を整えながらゆっくりとおろした。
 「よし。」
 サークルの完成にはもう少し時間が掛かる。フェイロウに悟られないためには、両手をあげているわけにはいかない。
 ちょうどそのとき___
 ズドシャアアアッ!
 クーザーマウンテンの麓。空から伸びてきた光が急降下して、大地へと派手に激突した。光が弾けて現れたのは___
 「いてててて___」
 「着陸失敗___?」
 百鬼とライが腰や肩を押さえて立ち上がる。
 「珍しいな、師匠がヘヴンズドアをしくじるなんて___」
 サザビーも額に手を当てて首を振った。
 「いやいや___」
 「もう触らないでぇっ!」
 フローラに折り重なるように倒れていたアモンは、彼女の胸を後ろからまさぐっていた。
 「うぎっ。」
 そして首を棕櫚の植物で締め上げられる。
 朝日眩しきクーザーマウンテンに、彼らもまた降り立ったのだ。
 「な、なんだこれ!?」
 クーザーマウンテンの様子を見たライが、驚いて声を上げた。山は肉眼でも分かるような蒼い光に包まれかけている。光はもはや山の中腹まで壁を築き、今も頂上に向かってゆっくりと上昇していた。
 「なるほどクリムゾンサークル___こいつに阻まれたのか。」
 アモンが首をさすりながら舌打ちした。
 「阻まれた?」
 「こいつは一種の結界呪文だ。」
 「呪文?」
 ライは首を傾げながら、クリムゾンサークルに手を伸ばす。それに触れた瞬間、身体に電流のような痺れが走り、彼はすぐに身を引いた。
 「な、なんだこりゃ!?」
 「呪文ということは、使い手がこの山にいるということになりますね。」
 棕櫚が呟く。
 「ということは___フェイロウが封印の解除を邪魔されないために!」
 フローラが色めきだった。ライや百鬼も焦りの色が隠せない。
 「叩き切ってやる!」
 「やめろ!」
 壁に斬りつけようとした百鬼をアモンが止めた。
 「クリムゾンサークルに触れるのはある程度魔力の強い奴じゃなくちゃならん。俺が探りを入れるから、下がってろ。」
 アモンは両手に白い魔力のグローブを作り、ゆっくりと皆の前へと歩み出た。そしてクリムゾンサークルに手を伸ばし、慎重に触れた。一瞬の痺れはあったが、アモンの掌で白と黒が中和され、彼が反発されることはなかった。
 「___なんてこった___」
 神殿の中央に立つフュミレイの額には汗が滲んでいた。クリムゾンサークルに邪魔が入ったことを感じ取り、しかもそれが誰であるか分かったからフュミレイは引きつった笑みを浮かべた。
 「これは___」
 魔力には人それぞれの質がある。アモンも感じていた。
 『やめてくれるか?アモン。』
 アモンの脳裏にフュミレイの声が響き渡った。
 『やっぱりおまえか___』
 アモンからの答えもまた、フュミレイの頭に直接届く。高度な魔導師だからできる、魔力の糸での通信だ。
 『邪魔はしないでくれ。あたしはこれからフェイロウを倒す。』
 フュミレイは強い念を込め、クリムゾンサークルに注がれる魔力が勢いを増す。
 「くっ!?」
 中和が崩れ、アモンは激しい痺れを感じて弾かれるように後ずさった。
 「どうしたんだアモンさん?」
 よろめいたアモンを百鬼が受け止める。
 「俺にもさっぱり分けがわからん。だがフュミレイが邪魔をするなとさ。」
 「フュミレイ!?」
 百鬼はアモンの前に回り込んだ。
 「フュミレイがいるのか!?」
 「唾飛ばすなって___」
 アモンは煙たそうに顔を拭った。百鬼は彼から離れてクリムゾンサークルの壁に体ごとぶつかっていった。
 「ぐっ!?」
 だが彼の身体はそれこそ壁にぶつかったように食い止められ、反発の力によって激しく弾き飛ばされる。
 「やめておけ、あいつなりの考えがあってクリムゾンサークルなんて大呪文を使ってるんだ。好きにやらせてやれ。」
 「フュミレイはなんて言ってたんだ!?」
 百鬼は振り返ってアモンに問いかけた。アモンは一つ溜息を付いてから、大地に胡座をかいて答えた。
 「フェイロウを倒すとさ。」

 ゴゴゴゴコ___
 プレッシャーの接近をフュミレイはつぶさに感じ取った。玉座の向こう、山の内側への入り口からまずは髪が姿を現す。そして___
 「来たな。」
 フェイロウが現れた。金属の靴で大理石を打ち鳴らし、その口元を血で真っ赤に染めて。
 「やはり待っていたな___」
 フェイロウはフュミレイを見つけて嘲笑を浮かべる。大きな口は、セルチックの血の口紅で一層際立っていた。
 「決着をつけよう、フェイロウ。」
 「偉そうに___あんたの身体には___」
 「分かってるさ。」
 フュミレイは両の拳を体側に構える。そして一呼吸、隻眼を閉じて息を吸い込んだ。
 「命は惜しくない。この身体で、永遠の屈辱に曝されながら生きたところでなんになる。人間フュミレイは貴様の毒牙に掛かって死んだのだ___」
 フュミレイは右の拳を突き出し、ゆっくりと掌を開く。そして人差し指につけた命のリングをフェイロウに示した。
 「あたしははじめからこのつもりだった。」
 フェイロウは一瞬だけ驚きで目を見開いたが、すぐにいつもの妖艶かつ凶暴な視線に戻り、鋭く伸びた牙を剥いて笑った。
 「大した女だね、おまえは___一筋縄じゃあいかないとは思ってたけど、これほどとはね___」
 フェイロウが何かを喚いている。だがフュミレイは彼女の言葉に聞く耳など持っていなかった。アモンとのやり取りが彼女を感傷的にしたのか、それともあの体当たりが彼女にニックの姿を浮かび上がらせたのか___
 とにかく彼女の脳裏には、捨てたはずの思い出が、人々の面影が駆けめぐっていた。
 (ソアラ、おまえは紫であることを誇りに思うときがっと来る___ニック、正直にもっとおまえと愛を語らいたかった___ライ、死んだら真っ先におまえの父に詫びを入れにいくよ___フローラ、その健気な愛には私も心を洗われた___サザビー、おまえとはなかなか会う機会がなかったな、残念だ___棕櫚、おまえはいったい何者なんだ、暴けなかったのは心残りだ___?)
 一人ずつ、思い出が駆けめぐる。そして、戦いの決意を彼女の胸に宿らせたのは___
 「陛下___ご無念は私が晴らします!」
 誇り高きリドンの血だった。
 「喰い殺してやる!」
 フェイロウの髪が伸びる。だがフュミレイは臆することなくフェイロウに突進した。クリムゾンサークルが完成するまでの間、彼女は肉体で戦う。
 戦いは一方的だった。フュミレイは慣れない武闘でフェイロウに迫るが、威力の乏しい拳はフェイロウをよろめかせることさえできない。すぐに足を髪に取られ、勢いをつけて神殿の柱に向かって投げつけられた。フュミレイは激しく身体を打ち付けるが、耐えられる。それが魔族の身体というものだった。
 「ほらほらほら!」
 フェイロウが一気に迫り、フュミレイの身体を髪で壁に縛り付ける。そして彼女の頬を右左と平手で何度も張った。口の中を切ったフュミレイは血を吐き出したが、それでも強い眼差しをフェイロウに送り続ける。そしてフェイロウが手を休めて彼女を見下ろしたとき、クリムゾンサークルは完成した。
 「ディオプラド。」
 彼女を縛り付けていた柱が一気に砕け、フュミレイは自由になった掌をフェイロウに向けた。
 「ディオプラド!」
 白熱の爆弾がフェイロウに迫る。だがフェイロウはそれを大量の髪で包み込んだ。そしてそのまま、髪をフュミレイの身体にからみつけたのである。
 「ぐぅっ!」
 髪の内側でディオプラドが破裂し、フュミレイの身体を強烈な圧力が幾重にもなって打ちのめした。
 「ふふ___」
 フェイロウの髪が根元から黄金の閃光を走らせる。
 「あああっ!?」
 フュミレイの身体に電撃が走り、目元や指先の皮膚が弾けて血が飛び散った。フェイロウは髪を緩め、フュミレイは床に転げ落ちた。
 「結構きいたようだな、今のは。」
 「!」
 フェイロウがアドルフ・レサに姿を変えた。フュミレイはこの女の気性を呪いながらも、気力を振り絞って立ち上がり、アドルフを睨み付ける。
 「私に手向かうのか?」
 アドルフが素早い身のこなしでフュミレイに迫ってくる。フェイロウは彼女が躊躇うものと考えていた、しかしフュミレイにこの手のまやかしは通じない。
 バギッ!
 フュミレイはしなやかに身を翻すと、見事な後ろ回し蹴りをアドルフの横顔にたたき込んでいた。
 「可愛くない。」
 アドルフの顔が砕けてフェイロウに戻る。すぐさま髪が彼女の身体に絡みついてきた。そして一気に身体が引っ張られると、フュミレイの顔面の前にはフェイロウの膝があった。
 「!」
 髪が緩み、激しい一撃にフュミレイは倒れた。鼻血を拭い落として、ゆっくりと立ち上がる。決定的なチャンスが欲しい。そう思って立ち上がったフュミレイは、目の前に立つ男の姿を目の当たりにして顔色が変わった。
 「ニック___」
 「大丈夫か?フュミレイ。」
 フェイロウだ。それは分かっていた。だが___
 フュミレイは彼に会いたかった。会いたくてしょうがなかった。
 ソアラに会いに行ったとき、彼がいてくれたらとどんなに思ったことだろうか。
 彼女はたまらなく彼が好きだった。彼が遠くなればなるほど、思いは募った。
 でもそれを殺し続けなければならなかった。
 だから___
 「ニック___!」
 フェイロウでもいい。今は彼に優しくしてほしかった。
 「辛かったろう、フュミレイ。」
 フェイロウもフュミレイの豹変を楽しんでいた。彼女はニックの姿で優しい男を演じ、フュミレイを楽しんだ上で、この姿で殺してやろうと考えていた。
 「ニック___ニック___」
 フュミレイはニック・ホープに縋り付き、ニックは彼女を優しく抱きしめた。だがその間フュミレイはずっと目を閉じていた。
 ニックが髪を撫でてくれる間も、腰を掌で暖めてくれている間も、背を強く抱きしめてくれる間も、手を取って指を絡めてくれる間も、口づけしてくれる間も___
 目を開けたのは、もう全ての覚悟が決まったその時だった。
 「綺麗だよ、フュミレイ___」
 フェイロウが化けたニックの顔がすぐそこにある。間近で見つめ合った瞳は___ニックの形はしていてもフェイロウなのだ。
 それでフュミレイの心が冷めた。
 氷の篭手と鉄の意志が生まれた。
 「この時を待っていた、フェイロウ。」
 「なに?」
 フュミレイはニックを強く抱きしめ、彼の耳元で囁いた。
 「最後にいい思いをさせてくれたな___礼を言うよ。」
 「ま、まさか___!」
 フェイロウも気が付いた。恐れ戦いた。だがフュミレイの指は、ニックに化けた彼女の首に傷を付けるほど、深く食い込んでいた。決して放さないために。
 そして、フュミレイは最期の一念を込めた。

 カッ___!!!

 その瞬間、クリムゾンサークルの中の全てが真っ白になった。
 ドームは太陽のように光り輝き、大地を伝う震動と、大火山の噴火を思わせる爆音がクーザーにまで轟いた。
 「フュミレイ!」
 近き情景で百鬼が叫ぶ。
 「フュミレイ?」
 遠き六感でソアラが呟く。
 光の中で昇華する銀髪の魔女。彼女の指先で命のリングもまた昇華する。
 フェイロウも、石碑も、山さえも飲み込み、サークル内の全てが昇華していく___
 やがてクリムゾンサークルの頂点に穴が開き、溢れ出した光が真っ直ぐに天の高見へと立ち昇っていく。それは朝日の輝き以上に明るく、雲を貫き、まるで天上へと続く道標のよう。
 その光の筋に、ニック・ホープはあるものを見た。
 それはこちらを振り向いて、穏やかに微笑む銀髪の魔女だった。
 彼女はそのまま天を見上げ、霧となって光の筋に溶けて消える。
 「フュミレェェェェイッ!!」
 彼は叫んだ。それは魂の叫びだった。
 「ぁあ___ああぁ___」
 ソードルセイドにいるソアラは、理由もなく溢れてくる涙を止められなかった。何故こんな事が起きるのかは分からない。でも、直感した。
 フュミレイの死を。




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