2 遺言
すでに時は満ちた。ゴルガが襲撃された日の夜、フェイロウの元には六つのリングが集結し、彼女はアドルフ・レサになることをやめた。
久方ぶりに爆弾以外は自由な状態で自室に戻ることを許されたフュミレイは、引き出しに納められていた命のリングをフェイロウの元に持ち帰らなければならなかった。だがここに、一つだけフュミレイの用意した罠がある。
(ばれたときが死ぬときかもしれないが___)
彼女は引き出しの奥から、もう一つのリングケースを取りだした。それを開くと見た目には本物の命のリングと寸分違わぬ代物が現れた。もともと六つのリングの造形は単純で、命のリングの宝石は見た目には大きなパールと変わらない。
「これを使うときが来るとはな。」
贋作はこのリングを手にしたときに作っていたもの。貴重な品物には保険として精巧な贋作を作っておくべきだと父の友人に勧められ、ケルベロス一の職人の手で作られた。結局日の目を見ることもなく、今日のこの時まで机の奥で息を潜めていたのだが。
「___」
フュミレイは一つの覚悟を胸に、左手の指に二つのリングをつける。そして静かに魔力を高めた。輝いた方のリングだけを引き抜いた彼女は、それを靴の踵にある隠しポケットへと押し込んだ。
「時は満ちた。」
偽物のリングを握り、フュミレイは胸元で十字を切った。彼女の隻眼には強い意志が滲んでいた。
「これが命のリングだ。」
部屋に戻ったフュミレイは、フェイロウに命のリングを手渡す。彼女が贋作をじっくりと見眺めたときは多少息詰まるものを感じた。
「フフッ、これで六つ揃ったわ。」
小さく身震いしてこみ上げる笑みを殺せないフェイロウ。その彼女の反応を見て、フュミレイは作戦の成功を確信した。
「さて、早速クーザーマウンテンに行くわよ!」
フェイロウは手を叩いて飛び上がり、ローゼンスクとセルチックも立ち上がる。
「フュミレイ!ヘヴンズドアでちゃちゃっとクーザーマウンテンまですっ飛ばして頂戴!」
「無理。」
だがフェイロウの気合いを肩すかしするように、フュミレイは淡泊に答えた。
「なんでよ!?」
「重すぎるから。」
フュミレイはローゼンスクを指さし、フェイロウは厳しい視線で彼を睨み付ける。ローゼンスクはただおたおたするばかりだった。
「あれで行きましょうヨ、お嬢様。あれデ。」
ローゼンスクの言うあれとは、彼がこの城にやってきたときに乗っていた平べったい浮遊石だ。しかしあの石は少々スピード感にかける。
「あんなので飛んだらクーザーにつくのは明日の朝になっちゃうわよ!」
「いいじゃないか、それくらいの時間で何かできる人間なんていない。」
ローゼンスクを殴ろうとしたフェイロウの手を取り、フュミレイは笑みを見せる。フェイロウはまるで何かを悟ったように落ち着いているフュミレイを見て、ちょっとだけ顔をしかめた。
「あんた変わったわねぇ。」
「どうすることが楽なのかを知っただけさ。セルチックはもっと前からそれに気付いている。」
そう、セルチックはまだフュミレイがフェイロウを忌み嫌っていた頃から、もはやフェイロウのメイドとして盤石の働きぶりを見せていた。この切り替えの早さこそ、ポーカーフェイスの源である。
「まあいいでしょう。あたしもあんたがいると色々やりやすいからね、ここはあんたに免じて浮遊石で我慢してやるわ。」
「ホッ。」
ローゼンスクは銀色の頬をちょっとだけ桃色に染めていた。
「ところでフェイロウ、あたしを立ててくれると言うのなら一つ頼み事があるんだ。」
「なにかしら?」
フェイロウは小首を傾げる。
「短い時間でいい、実家に帰りたいんだ。」
「はぁ?」
フェイロウは眉を波形に見えるほどしかめた。フュミレイのこの願いは、駄目で元々のつもりだった。
「いや、駄目ならいいんだ。どうしてもというわけじゃない。ちょっとあたし自身のことで気になることがあったから、父の遺品を探ってみたかっただけなんだ。」
「う〜ん、なんだか良く分からないけどまあいいでしょう。リングはあたしが全部握っているわけだし。あんたはヘヴンズドアでクーザーマウンテンにおいで。いいね。」
フェイロウは少し悩んだもののフュミレイの願いを聞き入れてくれた。どうやら、完全に彼女を手の内に入れたものと考えているようだ。それはフュミレイにとって実に好都合。胸の爆弾も今となっては怖くない。
むしろ心強く感じるほどだ。
「よろしかったんですカ?」
「フュミレイのこと?」
「そうでス。」
浮遊石は夜風を切ってクーザーマウンテンに向かう。ローゼンスクは少し不安げにフェイロウに問いかけた。
「あの子には何もできないわ。あの子は私に勝てる術がないと感じたからこそ、大胆になったのよ。」
「そうなんでしょうカ。」
ローゼンスクはとりあえず納得している。いや、フェイロウだって疑っていないわけではない。だが体内の爆弾がある限り、彼女はフュミレイに対して絶対的に優位なのだ。
(フュミレイ様は___何かをしようとしている。)
そしてセルチックは感じていた。確証はないが、そう感じさせるのだ。だってなにも今、このタイミングで彼女が実家に向かわなければならない意味などないのだから。
「はやる気持ちは分かるが、ベルグランはゴルガの人たちに使ってもらう。フィラ・ミゲル、ゴルガは任せたいが、頼めるか?」
ベルグランのオペレーションルームには皆を始め、ゴルガの幹部たちも集まっていた。今回の喧噪の舞台となったのはゴルガ、その対処についてサザビーが指示を下すのは当然のことだ。
「ええ。」
サザビーはゴルガの指揮をゼルナスに委ねた。彼女はまだ怒りを殺すような顔をしているが、それでも物事を割り切る術には長けている。
「俺たちはすぐにクーザーマウンテンに飛ぶ。ランス・ベルグメニューを守らなければならないし、悪の根源の横暴を許してはいけない。」
「王も行かれるのですか___?」
幹部の一人が不安げに問うた。
「俺の責任でもある。」
サザビーははっきりとそう言いきった。ゼルナスは小さく唇を噛み、ライや百鬼はこれから来るであろう戦いに向け、気合いを充填していた。飛び立つメンバーは百鬼、フローラ、ライ、サザビー、棕櫚。移動手段はアモンのヘヴンズドアに頼らざるを得ない。しかし___
「今は無理だ。」
ベッドに寝転がったアモンは、素っ気なく答えた。
「えーっ!?」
ライが不満たっぷりな顔をする。万全の武装を整え、満を持してアモンの所へやってきた五人だったが、あっさりとその気勢をそがれてしまう。
「ミロルグに魔力を分けてやったんでな、俺一人で飛ぶくらいは何とかなるが、それだけの大人数をヘヴンズドアで連れていくのは無理だ。そうだな、今日一晩ゆっくり眠れば回復もするだろう。」
アモンは落ち着いていた。彼の態度は時に怠慢にも思えるが、魔導師たるものいかなる時も冷静に、そして己を弁えなければならないのだ。アモンの落ち着きはそれを体現しているともいえた。
「おまえたちもあれだけの戦いの後だ。今はゆっくり休むべきだと思うぜ。」
だから皆も、はやる気持ちを抑えて身体を休めることにした。かつてドルゲルドの重装兵に無謀にも挑んでいった頃とは、がむしゃらだった頃とは違う。そしてこれから挑むであろう相手は、がむしゃらだけで叶うものでもない。そのためには全ての鼓動、躍動をひとたび落ち着かせ、来るべき時に爆発させる用意をしなければならないのだ。
ケルベロスの西部、ハイラルドの土地よりはやや東方、深い森林に一本の道が延びる。道は近隣の商業都市レスキフから続くもので、これを進み続ければまず錆び付いた鉄のゲートが現れる。ゲートには枯れ落ちた植物の名残が残り、すでにここが人の訪れる場所でないことを主張する。やがて正面に古びた邸宅が見えてくる。ゲートから邸宅までの長き道のりを思えば、邸宅の主が強大なる権力者であることは伺い知れる。だが邸宅そのものは、大きさも、外貌も控えめな作りだった。
邸宅にはもはや五年以上、誰も訪れる人がない。
それは主を失ったリドン家の屋敷だった。
「懐かしい場所だ。」
フュミレイは古びた石造りの邸宅を見上げ、ポツリと呟いた。全ての窓の雨戸が閉じられ、壁という壁が埃で煤けている。屋敷は数年前から眠り続けたままだ。人の手に渡ることもなく、誰の手入れも許されていない。
なぜなら、シャツキフがこの屋敷を棺桶にしたからだ。
シャツキフはこの屋敷の地下に埋葬されている。それは彼の意志であり、フュミレイはそれを守ることを命ぜられた。
「父上___あなたが自らの命と共に隠し続けたものがなんであるか、娘の当然の権利として、確かめさせていただきます。」
フュミレイは玄関の前で胸に手を当て、まるで神に捧げる言葉のように小さく呟いた。シャツキフ・リドンが自らの命の蓋に屋敷を選んだのには理由がある。それは一部の者たちだけが知っている彼の研究だ。彼はこの屋敷に特殊な研究室を持ち、そこに立ち入ることは家族でさえ許されていなかった。フュミレイの姉であるレミウィス・リドンは若くして病死したと伝えられている。だが使用人の中には、恋人と心中しただとか、駆け落ちしただとかとの噂が流れていた。どちらにせよ父と姉の仲が険悪であったことは間違いなく、その原因が父の研究にあった可能性も否定できない。
(あたしだって自分の色のことは気になる。その点ではソアラと同じだ。しかしあたしには手がかりがある。それはソアラとは違う。)
その手がかりを証すために、彼女は棺桶の蓋を開けた。
「___」
暗黒に閉ざされた自宅。石造りのこの建物をイゼライルで明るくすることは簡単だが、自宅でそれをするのはあまりにも忍びない。フュミレイはマントを玄関先の掛け棒に吊し、側のランプに火を入れる。目指すのは、父が籠もっていた地下室だ。だが、そこに向かう前に行っておきたい場所があった。
ギィ___
ドアの軋む音、昔と変わっていない。その昔は、時折ここに帰って来るつもりでいた。だからどうしても必要なもの以外はそのままに残していた。それは家具類をはじめ、幾らかの思い出の品も。
数年ぶりに帰ってきた自室は、かつてここを使っていた頃よりも狭く感じた。
「ここで過ごした日々は、幸せだったが残酷だった。」
思い出したようにデスクの引き出しを開けたフュミレイは、中から厚みのある本を取り出す。それは思い出の詰まったアルバムだった。改めてそれを眺めれば、中に残された思い出は幸せな情景ばかり。ただ、幸せのままで終わった思い出は一つもない。
アレックスと寄り添って撮った写真。厳格な父と共に映っている姿。バンディモから譲りうけた幼少期の姉の写真。幼い自分とニック・ホープ。
そのどれもが、思い出の一部に影を落とす。
「___ん。」
突然だった。フュミレイの手の中でアルバムが燃え上がる。古き思い出たちは炎の中に葬られていく。
「いくか。」
過去の全てを灰に変え、フュミレイは自らの部屋を後にした。もう二度とここに帰ることはない、そう思いながら。
地下室の入り口は父の部屋にある。
「そのままか___」
この屋敷の中でも最も広々とした父の部屋。彼は几帳面で、メイドの手を借りずともこの部屋は常に清潔感に溢れていた。だが父が死を迎えた瞬間、部屋のデスクには幾らかの書類、書物がちりばめられていた。使用人はその日のうちに屋敷を追放されたため、このテーブルを片づけられるものは誰もいなかった。
「___あたしは触れないよ。あなたの机にあるものは触れてはいけないというルールだったから。」
フュミレイはそのまま、入り口近くの壁に掛けられた絵画の前に歩み寄り、額縁の下に指を這わせる。小さな金具を見つけ、それを横へと滑らせた。すると書棚の背後から何かが外れる音が聞こえ、彼女は迷うことなく、四つ並んだ書棚のうち左端の棚へと向かっていった。
「覗き見したわけじゃない。でも___知っていたのは何でだろうな?」
棚の端を蹴飛ばす。するとそれは重々しく横に回転し、フュミレイは開いた隙間に身体を滑り込ませた。すぐに螺旋状の石階段が現れ、それをほんの少し下ると小さな部屋に出る。冷え切った石で覆われた地下は非常に寒い。そう、まるで霊安室のよう。
「___!」
その小さな部屋の真ん中には、石のベッドがあり、その上に一人の男が眠っていた。フュミレイは一度だけ生唾を飲み、ゆっくりと男に近づく。
「シャツキフ・リドン___」
父とは呼べなかった。既に死してから五年以上の月日が経っているというのに、男の身体は骨になっていなかった。原因がこの寒さにあるというのは分かっていたが、それにしてもあまりにも彼の身体がはっきりと残りすぎていて、フュミレイはおぞましくさえ感じていた。
「う___」
だが彼が死んでいることは確かだった。頭髪の一部は石のベッドの上に束になって抜け落ち、よく見れば目玉は二つとも消え失せていた。すでに唇はナイフで切り裂かれたようにずたぼろになっていて、体中の肉が青みがかっている。
「あなたは___そうまでして自らの隠し事を守りたいのか。」
これを見て怯まないものなどいない。シャツキフは自らの骸を、地下室を守る最後の砦にしたのだ。フュミレイは短い黙祷を捧げ、骸の向こう側にある金属の扉へと向かった。扉には鍵が掛けられていたが、容赦なく呪文で砕いた。
「ここか。」
そして景色は開けた。そこは想像していたものよりも遙かに狭い場所だった。入り口から見て右の壁に書棚、左の壁にデスク、奥の壁の前には手前の部屋でシャツキフが横たわっていたものと同じ、石のベッドがあった。
「___」
フュミレイは部屋のランプというランプに火を灯す。地下室には一気に生命の香りが広がり、彼女はデスクの椅子へと腰を下ろした。書棚から取りだした父の日誌を手に。
夜の闇の中に時折、白い雪が窓に触れて消える。ソアラは広々とした部屋にポツンとただ一人、ロッキングチェアに揺られて編み物をしていた。木製の雨戸を閉じることもできたが、ヘブンズドアの光を少しでも感じられる環境でいたかった。
「みんな帰ってこないなぁ___」
魔族との戦いはそうそう長引くものではない。両者とも高い破壊力を持つだけに、短期決戦になるのが常だ。それでいながら皆が帰ってこないことをソアラは気に掛けていた。
「そのままケルベロスに行ったのかなぁ___」
さっきから同じ事ばかり考えている。そうしては、あまりそわそわするのは子供に良くないと自分に言い聞かせ、編み物に打ち込むのだ。
そのとき___
「!」
ソアラは何らかの力の接近を感じ、編み物を放り出して立ち上がる。その瞬間、窓が勢い良く開いて風と共に一筋の光が部屋へと流れ込んできた。眩しさに顔をしかめたソアラの目の前で光は大きく広がっていった。そしてソアラは、彼女の姿を目の当たりにする。
「___フュミレイ!」
現れたフュミレイにまったく敵意は感じなかった。ソアラは突然の来訪に驚きはしたが、彼女にもう一度会いたいと思っていた気持ちはすぐに顔つきに表れた。
「突然現れてすまない___ただ、おまえとは話をしておきたかった。」
それは奇妙な言葉だった。まるでこれから彼女がどこかに旅立つような台詞だ。
「話?___ああそれより、この前の怪我は___」
ソアラはフュミレイに近づき、さかんに彼女の身体に手を触れた。
「問題はないよ。それよりもあたしの話を聞いてほしい。おまえに真実を伝えるためにやってきたんだ。」
フュミレイはそんなソアラの肩を取り、真っ直ぐに己を見つめさせた。ソアラはまるで男に何かを告白されるときのような妙な緊張に苛まれ、少しだけ目が泳いだ。
「分かったわ、聞くから___少し落ち着いて。」
ソアラはフュミレイがいやに焦っているように思えたから、彼女の手に自らの手を重ね、優しく微笑んだ。ソアラはフュミレイをベッドに腰掛けるよう促し、自らは寒風差し込む窓を閉じていた。
「真実って言ったわね。」
「あまり回りくどい話をしている暇はない。ニックたちには後でおまえから伝えてくれ。」
ソアラは眉をひそめた。
「なんであなたがみんながここにいないことを知ってるの?」
ソアラはフュミレイの横に腰を下ろす。座るとお腹の膨らみが余計に目立った。
「あたしが魔族だからだ。」
「!?」
「フェイロウ、正確にはフェイロウがカーツウェルという男から譲り受けた技術で、あたしを魔族にした。」
ソアラはただただ絶句して、言葉一つ返せずにいる。
「見ての通り、魔力も取り戻した。タフな身体を手に入れた。」
そう言ってフュミレイは小さくドラゴンブレスの炎を灯してみせた。
「___納得するわ。それについては納得する。あたしもそれなりの覚悟はしていた___でも、あなたが簡単に屈するなんて思えない。」
ソアラは辛辣な顔を崩さず、一つ息を飲み込んでから胸に手を当てて問いかけた。
「私の体の中には爆弾がある。スイッチはフェイロウが握り、破壊力は日々蓄えられていく。いまここで爆破すれば、恐らくこのソードルセイド一帯が消し飛ぶだろう。」
ソアラはフュミレイの心持ちを察し、悲しげな目をして首を横に振った。悪役に徹していた彼女、徹さざるを得なかった彼女の心は、どれほど深く傷ついたことだろう___
それを思うとあまりにもいたたまれなかった。だがそんなソアラの心境をさらに絶望に追い込む言葉が、フュミレイの口から飛び出した。
「そしてあたしも、そのスイッチを握った。」
その言葉が意味すること、たった一つしかない。ソアラはただ凍り付いた。
「おまえには遺言を聞いてもらいたくて来た。」
フュミレイの声色はまったく変わらない。震えすらない。鉄の意志は、彼女の覚悟さえ頑なに守らせる。
「ソアラ、良く聞いて___」
「聞かない!」
ソアラは両手で耳を塞ぎ、強く目を瞑る。
「聞かない聞かない聞かない!」
そして身体を折り曲げて何度も何度も首を横に振った。フュミレイは一瞬だけ悲しげな笑みを浮かべ、彼女の頭に手を触れた。
「リングが揃ったんだ。」
言葉はソアラの感覚に直に流れ込んできた。声ではない、思考の中に直接飛び込んできた。そしてその一言に、ソアラは動きを止める。
「リングが揃ったって___みんなは!」
体を起こし、フュミレイに不安な眼差しを向ける。フュミレイはソアラから手を離し、落ち着いた声で続けた。ソアラの目元が潤んでいるのは少しだけ気になったが___
「無事だ。しかしリングは揃い、今はフェイロウの手元にある。フェイロウはクーザーマウンテンに向かい、私も後で合流する予定だ。」
「だったらみんなを連れて、そこでフェイロウと戦いましょう!あたしも手伝うから!」
ソアラはフュミレイの手を取り、少しでも彼女を放すまいと訴えた。
「フェイロウが起爆スイッチを入れるのには一秒とかからない。」
「でもだからって___死んだらどうにもならないのよ!」
「なるさ、あたしの命一つで魔獣を始末し、アヌビスだって消し飛ばせる。」
ソアラはフュミレイの冷静さが憎かった。彼女が強がりな女だと知っているから余計に辛かった。
「あたしは体内の爆弾で、アヌビスを封印ごと吹っ飛ばす。」
「やめて!」
ソアラはフュミレイの手を痛いぐらいに強く握った。しかし___
「駄目だ!」
フュミレイの一喝に、彼女は息を飲み、肩をすくめた。その時のフュミレイの瞳には、ここに来て初めて強い感情が滲んでいた。しかしまたすぐに、氷のように冷えていく。
「頼む、分かってくれ___今のあたしにできることはもうこれしかないんだ。だがもしも___アヌビスがこの世界に姿を現すようなことがあればその時は___」
短い沈黙。
「頼むぞ。」
「馬鹿___!」
ソアラはフュミレイを抱きしめた。そして憚ることなく、彼女の耳元で声を上げて泣いた。そんなソアラの豊かな感情を、フュミレイは素直に身体に浸みつけていった。
「あんたって___あんたってなんでいつもそうなのよ___なんでいつも一人でやろうとするのよ___あんたの人生ってなんなのよ___!」
フュミレイはソアラの頭に手を回し、そっと抱擁する。
「紫でありながら、健気に、気丈に、明朗に生きるおまえは素晴らしい___私はおまえとは違って絶望的なものの見方しかできない女だ___」
「そんなことない!」
ソアラは抱擁をやめてフュミレイを引き離すと、彼女の頬を両手で抱き、真っ直ぐに見つめた。
「あなたは自分の意志で生きたことなんてない!あなたは生まれたときからシャツキフ・リドンのために動き、レサのために生きることを命ぜられ、アレックスやニックへの思いまで殺し、自由まで捨ててきた___!」
ソアラの言葉は神髄を抉る。フュミレイは胸の詰まる思いだった。
「あたしとあなたは百鬼の取り合いをしなくちゃいけないはずだった___いえ、あなたがリドンの家柄に囚われない女だったら、私はあなたのニックを振り向かせることさえできなかった___!」
ソアラの双眼の涙は止まることがない。滴は頬から顎を伝い、彼女の大きなお腹の上にいくつもの染みを作っていった。
「あなたは生きているんじゃない___生かされているのよ___あなたは世界に、人に、運命に、生かされているだけ!そんな人生のままで終わっていいの!?今ここで死の覚悟を決めていることだって、あなたの本心であるはずがないわ!誰かのために犠牲になろうなんて、命を張ろうなんて思わないで!」
小刻みに震えていたソアラの手が止まった。
「自分のために生きなさい!フュミレイ・リドン!」
そして一言に全ての思いを込めた。
「___」
フュミレイは真っ直ぐにソアラの視線を受けていた。だが彼女の身体には、ソアラの思いさえ全て飲み尽くしてしまう、無限の空洞ができあがっていた。
「時間だ。」
フュミレイはソアラの手を退け、立ち上がった。そしてポンッと一つだけソアラの肩を叩く。踵を返そうとした彼女の手を、ソアラは必死に握った。
「行かせない。」
「離せ。」
「これから死のうとしている親友を、離せるわけないでしょ!?」
ソアラは立ち上がり、フュミレイの手を強く引っ張った。フュミレイは小さく溜息を付いて彼女を優しく抱擁する。銀と紫の髪は溶け合い、フュミレイはソアラの耳元に唇を寄せた。
「私の父はレサの片腕という肩書きの他に、陰術、すなわち古代の儀式行為の研究家という肩書きも持っていた。」
フュミレイは突然囁くように語りだした。ソアラは訝しがりながらも、そのまま彼女と抱きしめあっていた。
「父が特に興味を持っていたのは、人が持つ魔力を開放に向ける術法。」
「!」
「父は研究日誌にこう記している。陰術は全てにおいて未熟な可能性を持つ赤ん坊に施すのが最も成功率が高い。そこで私は、我がリドンの素質を信じ、娘レミウィス・リドンに術を施した。」
ソアラは息を飲む。
「彼女は魔法の使い手に成長した。興味深かったのは黒髪碧眼の彼女が、時と共に白子のように毛髪と瞳から色を失っていったこと。そうそう、彼女は自らが研究材料にされたことを酷く不快に思っているようだ。しかし、彼女は私の研究の成功の証明。失うわけにはいかない。さて研究は次の段階へと進む。すなわち、成長した生命へ術を施すのである。実験には妻を用いる。」
ソアラは鼓動の高ぶりを感じていた。息が落ち着かなかった。
「アナスタシアはレミウィスを生んだ良妻だ。可能性は期待できたが、彼女はレミウィスのように色を失ったものの魔力は発揮できなかった。そればかりか体調を崩したようだ。しかし実験はこれで終わりではない。私は彼女に子供を産ませることにした。」
それにしてもフュミレイの吐息は乱れない。
「生まれた我が二人目の娘に私は感銘を覚えた。彼女はうまれながらに光沢ある白髪と、灰色の瞳をしていた。いや、銀髪というのが相応しいだろう。私はこの娘をフュミレイと名付け、最高の検体として全て私の思うがままに育てようと心に決めた。」
フュミレイはそこで言葉を止め、ソアラから離れた。
「私はおまえの言うとおり、他人のために生かされるべくして生まれたのかもしれないな。」
呆然としていたソアラはハッと我に返る。
「おまえは自分の真実を探すときに自分しか見ていない。両親という手がかりがあることも忘れるな。」
フュミレイはすでに窓の側へと移動していた。窓は開かれ、ソードルセイドの寒風が吹き込んできた。
「待って___!」
「さらばだ。」
フュミレイは小さく手を振り、光に包まれて消えた。
残されたソアラはただ立ちつくしていた。風が彼女の残り香さえ消していく。ソアラはそのままベッドにゆっくりと倒れ、顔を埋めて震えた。
「王妃!何事ですか!?王妃!」
漸くやってきた衛兵が、けたたましくドアを打ち鳴らす。
「___一人にして___」
ソアラには嗚咽の中で小さな声を絞り出すのが精一杯だった。
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