1 さらばミロルグ

 黒鳥城のテラス。全身に乾いた血の跡を残したミロルグは、黒い輝きと共にこの場に降り立った。
 「う___」
 さしものミロルグもあまりにも魔力を消費しすぎた。両手の指先が小さく震え、これをなかなか止められない。
 「帰りのヘヴンズドアの魔力を残しておかなければならない___」
 超龍神はすでに彼女がここに戻ってきたことを知っているだろう。だからこそ黒鳥城の内部をイメージしたのに、何らかの力に阻まれてテラスに降り立ってしまったのだ。
 「スレイのところまでは簡単にたどりつけるだろう。問題はそこから先だ___」
 超龍神の気性は理解しているつもりだ。ミロルグは真っ直ぐに、リュキアの部屋を目指した。
 「___」
 黒鳥城内には蒼い炎が灯されている。いつもにまして薄暗く、元々静寂な城ではあるがより一層静かに映る。居慣れている城のはずなのだが、とても自分の住処だという気持ちにはなれない。ミロルグは一度だけ唾液を飲み込み、迷うことなく走った。

 ベッドに横たわるリュキアの面持ちは安らかだった。サザビーはただ彼女の側で煙草を吹かしていた。
 「ミロルグはスレイって言ってたよな。スレイって誰なんだ?」
 疲れた身体を休めるように、椅子に腰掛けている百鬼が尋ねた。だがサザビーは彼を一瞥しただけで、白い煙を吐き出していた。フローラが百鬼の側によって、首を横に振る。
 「スレイは___」
 だがサザビーは呟いた。視線がその背に注がれる。
 「ゴルガの言葉で『孤独な愛』さ。」
 それが何を意味するのか。ゼルナスはつぶさに感じ取り、小さく唇を噛んだ。
 「なかなかいい名前だろ?」
 サザビーは煙草の灰を陶器の皿に落とし、言った。
 「いい名前だろって___おまえまさか___!」
 「俺はリュキアとミロルグの肩を持っていた。ローレンディーニではスクレイザ・ビットフォールだったリュキアを庇うために嘘を付き、均整を破壊させた。そしてさっきはミロルグに風のリングをくれてやった。」
 事実であるのは間違いないだろう。しかしそれにしても、裏切りにも等しい行為に皆は言葉を失う。沈黙の中、部屋の隅で腕組みしていたゼルナスが彼に近づいていった。
 「サザビー。」
 ゼルナスの声にサザビーは顔を上げる。
 「それがあんたのやり方なの?」
 ゼルナスの顔に滲む怒りをサザビーは強く感じた。
 「あたしが怒っているのは___あんたが他の女と愛し合い、子供を作った事じゃない___風のリングのことだ!」
 彼女は手を出すことはしない。
 「風のリングはクーザーの象徴___あたしだけじゃない、代々に引き継がれてきた伝承の品___あたしは___あたしは!あんたなら大丈夫だと思ったから!クーザーを愛してくれていると思ったからリングを渡したのに!」
 ゼルナスの怒声が救護室に響いた。
 「ごめんな。」
 だがサザビーの返す言葉はそれだけだった。その一言は、彼がゼルナスの心を知ったうえでの決断だったことを意味する。ゼルナスはただ拳を震わせて踵を返し、去り際に薬品棚を蹴飛ばして救護室を飛び出していった。
 「サザビー___!」
 釈然としない思いをぶつけようと立ち上がった百鬼の腕をフローラが掴んだ。
 「やめて、無駄な事よ___」
 「でもよぉ、これじゃあこいつは___初めから俺たちを裏切るつもりで近づいてきたようなもんじゃねえか!」
 百鬼は激しく天を仰ぎ、声を荒らげた。サザビーが新しい煙草に火をつけているのを見て、百鬼は憤りを腹に抱えたまま、再び腰を下ろした。

 一方、黒鳥城___
 「スレイ、良かった___」
 それなりに小綺麗なリュキアの部屋。小さなバスケットの中で、スレイは眠っていた。ミロルグは小さな彼を抱き上げて、ひとまずは母性的な笑みを浮かべた。だがそれも束の間___
 シュルルルル!
 「!」
 壁を黒い蛇が這うように、超龍神の暗黒の気配が蹂躙していく。まるで触手のように部屋の至る所からわき出してきた黒いオーラは、すぐさま部屋の入り口にその息吹をびっしりと張り巡らせ、逃げ道を塞いだ。
 『良くもぬけぬけと帰ってきたな___ミロルグ。』
 姿は見えども、その憎き化け物の声は部屋を圧迫するように響く。
 「忘れ物を取りに来た___あたしがここにいるのは今日これまでだ!」
 ミロルグはスレイを胸に抱きしめ、彼女の警戒を嘲笑うように部屋中を包み込む超龍神の気配に、敵対心を剥き出しにする。
 「ミロルグ、もう一度私の子を孕ませてやってもよいぞ?おまえの魔道の素質は目を見張る。私が肉体を取り戻した今ならば、リュキアよりも遙かに優れた戦士が生まれるだろう。」
 冗談か本気かは別だ。だがミロルグはその言葉を嘲笑った。
 「仮にも神を名乗る存在の発言とは思えぬな。やはりおまえは蔑むべきモンスターよ!」
 彼女が侮蔑の言葉を吐き捨てると、間髪入れず床を這っていた黒い触手が彼女の足に絡みつく。
 「ぐううっ!?」
 そればかりか黒い触手は、まるで砂の中にでも入り込むように彼女の体内へと潜り込んできた。足首の辺りの皮膚が一気にどす黒く変色していく。ミロルグはたまらず逆の足で黒い触手を踏みつけた。しかしそれはまるで煙を踏むようであり、彼女の片足に入り込んでいた黒は霧散していったが、踏み散らされた部分がまた触手の頭となって足に迫ってきた。
 「これは___闇食いか___!」
 超龍神の体の中には、この触手のような漆黒の血液が巡っている。それは彼が体内に持つ、全てを暗黒色に染めるオーラによって黒くなったと言われている。彼自身まったくどこで身につけたのか分からないというこの黒いオーラの力で、普段は空を闇色に染めようとしているのであり、今はミロルグを闇色に染めようとしている。闇食いと呼ばれるこのオーラに身体を支配されたが最後、彼女は自由を失うだろう。
 「くっ!」
 ミロルグは乏しい魔力で呪文を放つ。だが放った炎は闇食いに触れると瞬く間に暗黒色に変わり、それは彼女の指先にまで飛び火してくる。
 「う___ああっ___!」
 指先が黒ずむ。次から次へと、部屋を覆い尽くした闇食いが彼女の身体に伸びてくる。すでに両足は黒く染められ、ノースリーブの腕も肘の辺りまで黒と肌色がまだらのようになっていた。頬にまでうっすらと、黒い斑紋が浮かぶ。ミロルグは自意識を保つのが精一杯。そして全ての意識を脱出することではなく、スレイを抱きしめることに向けた。祖父の邪悪に恐怖したのだろうか、彼女の胸の中でスレイは泣きじゃくっていた。
 もはや自分が失われることを半ば覚悟し、サザビーに詫びた。
 「ここまでか___」
 超龍神のせせら笑う声が、脳に直に浸みてくる。闇食いはもはや彼女を食い尽くそうとしていた。ミロルグが全てを諦めたその時___
 ザンッ!!
 何かが切り裂かれる音と共に、壁に一筋の光明が走る。それは亀裂だった。
 ザッ!ザンッ!ザンッ!
 薄らぐ意識の中で、その音はミロルグの正気を呼び覚ます警鐘のように響く。そして部屋の入り口があった壁から闇食いが一気に蹴散らされた。壁が崩れ、現れた男は漆黒の剣の鍔元に埋め込まれた真っ赤な宝玉を輝かせていた。その光を嫌った闇食いがどんどん退けられ、ミロルグの身体から失せていく。
 「おま___え___」
 ミロルグはその男がここにいて、しかも自分を救おうとしていることが不思議でしょうがなかった。立っていられずに崩れ落ちながらも、必死に膝で踏み止まる。
 「なぜだバルバロッサ___」
 ミロルグは必死に顔を上げ、男に問いただした。
 「___」
 屈強で寡黙な彼は、いつも通りの沈黙で、ただミロルグに近寄ると彼女を抱き起こした。一度退けられた闇食いが勢いを取り戻しはじめている。
 「逃げるぞ。」
 バルバロッサはミロルグに肩を貸し、走った。
 「なぜだ___なぜおまえが___!」
 ミロルグは思うように動かない足を引きずるようにして、必死にバルバロッサに縋り付いた。胸の中のスレイは代わらずに泣きじゃくっている。
 「賭けに負けたからだ。」
 バルバロッサはただ一言だけ答え、うまく走れないミロルグを担ぎ上げるようにして走った。そう、彼は棕櫚との勝負に負けたから、棕櫚の意向でミロルグの救出に動いていた。ミロルグはそんな彼の顔を見て、少し奇妙に感じた。
 (こいつの瞳はこんなに赤み帯びていただろうか___?)
 それはバルバロッサの些細な変化だった。彼は逃げながらも時折足を止め、前から後ろから迫る闇食いに、剣の宝玉を輝かせる。それだけでなく、片方の肩にミロルグを担ぎながら、逆手で前方から伸びる黒を切り捨てていった。だがミロルグは確実に彼の足を引っ張っている。数を増していく闇食いに遂にバルバロッサの足が止まった。
 「ちっ!」
 舌打ちして彼は自分の膝元に食い込んできた闇食いを切り捨てる。しかしその時には別の闇食いが腕に滑り込んできた。
 「プラド!」
 だがミロルグが掌を輝かせて、バルバロッサに食らいつく闇食いを蹴散らした。しかし黒鳥城の暗黒の中で、闇食いは際限なく沸いてくる。
 『逃げられると思うなバルバロッサ。何を血迷ったのかはしらぬが、裏切りを許すわけにはいかない。』
 黒鳥城の廊下に鈍い声が幾重にもなって響く。
 「あたしを置いていけ、バルバロッサ。」
 闇食いが身体を捕らえようとするなか、ミロルグは彼の耳元で呟いた。彼女の頬には黒いまだらが浮かび上がっていた。
 「スレイをサザビーの所へ連れていってやってくれ。あたしを下ろせば逃げられるはずだ。」
 「できんな___」
 ミロルグの言葉に被せるようにして、バルバロッサが言った。彼の首にもまだらが浮かび始めている。
 「ヘヴンズドアはおまえにしかできない。おまえに死なれては困るのだ。」
 「___」
 ミロルグは辛辣な面持ちになる。
 「この黒を振り払う術を教えろ。それともおまえの知識では及ばぬか?」
 バルバロッサは自身に広がってくる黒のまだらにも動揺を見せない。ミロルグは彼のその精神力を信じた。
 「光だ。陽光の中では微弱な闇食いは動けない。」
 「充分だ。」
 バルバロッサは剣を縦に構え、鍔元に埋め込まれた宝玉を目の高さにまで抱え上げた。
 「!?」
 ミロルグは彼の身体の奥底から、怒濤のようにして拭き上がってきた膨大な力に目を丸くする。
 「そいつを傷つけたくなければ、しっかり抱いていろ。」
 ミロルグはバルバロッサの肩から黒の蠢く床に降り立つ。だが彼の顔に漲る自信を目の当たりにすると、黒の中に足を投じることもさほど不安には思えなかった。
 「集え___」
 バルバロッサは剣を高々と掲げあげる。その切っ先に力が結集している。黒の中で薄ぼんやりと輝く白い波動は実に明白だった。そして___!
 「空牙裂砕!!」
 怒声一発、バルバロッサは渾身の力で剣を振り下ろす。すると解き放たれた白い波動が軌跡に沿ってうねりをあげ、暗闇で覆われた黒鳥城に激震をもたらした。
 「なに___?」
 その破壊力には、超龍神さえ驚きを隠せなかった。
 「これは___」
 ミロルグは唖然とした。いつの間にか自分の身体は陽光に包まれ、闇食いは全て消え失せてしまっている。それは、全てを闇に包んでいた黒鳥城の壁が、バルバロッサのまさしく「必殺技」によって粉砕されていたからだった。
 「もうここは黒鳥の外だ。飛べるか?」
 壁を破壊したと言ってもここは黒鳥城。そんなに脆いものではない。それも一枚破壊しただけではないのだ。幾重にも重なる壁を全て、一瞬で粉砕した。それはまさに、エクスプラディールにも匹敵しかねない破壊力だった。
 「掴まってくれ、バルバロッサ!」
 ミロルグは彼を詮索しようとは思わなかった。彼は何も答えてくれないだろうし、彼にとっては、無駄な口を利かないことがなによりの礼だと知っているから。
 バルバロッサとミロルグは互いの手を取った。
 「ヘヴンズドア!」
 そして二人の姿は黒鳥城から消えた。

 ベルグランに向かうことを嫌ったバルバロッサと途中で別れ、ミロルグはスレイを抱いて皆のいる救護室へと帰ってきた。
 「良く無事で___」
 「思いがけない助っ人がいたから___」
 部屋は険悪な空気を呈したままだったが、ミロルグが生還したことで、皆はとりあえず安堵の顔を見せた。ミロルグは棕櫚に視線を送ると、彼は微笑んで控えめに指を立てて答えた。やはりバルバロッサは彼の差し金らしい。それだけ確認すると、ミロルグはサザビーの元へと歩み寄っていった。
 「サザビー、スレイだ。」
 「ああ。」
 サザビーはスレイを胸に抱き、リュキアが残した結晶に感慨深いものを得る。
 「う___」
 「はしゃぎすぎだな。」
 ミロルグに近寄ったアモンは、よろめいた彼女に回復呪文を施してやる。
 「ミロルグ、聞きたいことがある。」
 百鬼の問いに、ミロルグは振り返った。
 「サザビーのことだ。このままだと俺たちは___サザビーを信じることができない。」
 それを聞いたミロルグはすぐにサザビーに目を移し、小さく歯を食いしばった。
 「サザビー___あたしはおまえに身を削ってまで優しくしてほしくはない!」
 そして彼に一言だけ言い放ち、すぐさま百鬼に向き直った。
 「勘違いはしないでくれ___この男が何をおまえたちに伝えたかは分からないが、サザビーは間違いなくおまえたちの力になってきた男だ。だが___彼は私やリュキアの悲しみを知ってしまったから___そして優しいから___私たちを守ってくれただけなんだ。」
 ミロルグは椅子に腰掛ける百鬼の前に跪き、縋るようにその手を取った。百鬼は面食らいながらも、間近で彼女の懇願するような目を見つめた。
 「どういうことだ?」
 「リュキアがおまえたちに勝てなかったこと、そして私があの子に真実を語らなかったことが悪かったんだ。あの子が私と超龍神の子であること___」
 「超龍神___!」
 リュキアがミロルグの娘であることにも驚かされたが、その父が超龍神であることにはさらに唖然とする。
 「超龍神はリュキアの邪悪だけを育て、その素質に期待していた。だがリュキアの実力は知っての通りだ___超龍神にとって彼女はプライドを踏みにじる汚点に変わっていた。」
 ミロルグは簡単な言葉で語っていく。だがその当時の彼女の心情は極めて複雑だったろう。そして口惜しかったに違いない。中でもフローラは、ミロルグの姿が母マーガレットに重なるようで、自ずと感傷的になった。
 「追いつめられた彼女には手柄が必要だった。そして挑んだのがローレンディーニの単独での均整破壊だ。しくじれば死が待っている、過酷な任務だった。だが私も、彼女に真実を証すことはしなかった___」
 むしろ単独で任務に臨むことを持ちかけたのはミロルグ自身だった。だが、超龍神を認めさせるためにはそれくらいの成果が必要だったのだ。
 「そこで何があったのか、私には詳しいことは分からない。だがきっと___リュキアはサザビーによって危機へと追い込まれたのだと思う。そして彼は、リュキアに同情した。」
 「違うな、ミロルグ。」
 サザビーは立ち上がった。スレイは彼に染み付いた煙草の匂いが嫌なのだろうか、顔をしかめて泣きだしていた。
 「同情じゃないさ。俺はリュキアに惚れたんだ。」
 「言うなよ___」
 ミロルグはサザビーからスレイを受け取り、優しくあやしはじめた。そこに血塗られた魔族の面影はない。
 「あたしにしてくれたことを思えば分かる。おまえはリュキアを守りたかった。その分け隔てない優しさ、愛情がリュキアを一人にはさせなかったんだ___さっきあたしにそうしてくれたように。」
 ミロルグはサザビーに微笑みかけ、改めて百鬼に振り返った。
 「私はおまえたちのために力を貸すことはできない。ただ、おまえたちがサザビーを裏切り者と蔑むなら、それだけは正さなければならない。確かに、均整とリングを放棄したことは重大だ。ただ、彼は自分に正直な男なんだよ。大局よりも、今そこにある命を大事にしてくれたんだ___」
 ミロルグがそこまで彼を擁護し、訴える様は不思議だった。だがそれだけに彼女の言葉は重く、心を動かすだけの力があった。
 「何とかなるよ。」
 最初にそう言ったのはライだった。
 「何とかなる。僕だって、もしリングを渡さなければ誰かが死んじゃうなんて言ったら___きっとリングを渡す。現にみんなそうした、フローラを守るためにリングをフュミレイに渡したじゃないか。」
 ライはフローラに微笑みかけ、彼女も力強く頷いた。
 「リングはリング、命の重さには代えられない___それに、今こうしてミロルグとここにいられること、私はこういう新しい絆を大事にしていきたい。」
 フローラの言葉にアモンも納得したように一つ頷く。
 「やれやれ、まあ俺もローレンディーニの件に関しちゃあごたごた言えない立場だしなあ。」
 と言って頭を掻いたのは百鬼。
 「フィツマナックに逃避行だもんね。」
 「逃避行とか言うな!」
 ライの突っ込みに赤面しながらも、百鬼はすぐに精悍な面立ちを取り戻して立ち上がる。
 「リングはまだ全部が超龍神の手に渡ったわけじゃない。ケルベロスに三つ残っているんだ。まだチャンスはある!」
 「生憎だが___」
 前向きな思考が舞い戻ってきたところに水を差すように、ミロルグが語気を強めた。
 「それは違う。」
 「なんだって___?」
 顔を強ばらせたのは百鬼だけではない。
 「ケルベロスはすでに超龍神の手の内にあるのだ。」
 それは衝撃的な一言だった。そしてミロルグはさらに続けた。
 「君主、アドルフ・レサだったな。今の彼はフェイロウだ。」
 「!」
 「あのマネマネ女!」
 ライが叫んだ。ミロルグは頷く。
 「ミロルグ、フュミレイを知っているか?おまえを銀髪にしたような雰囲気の___」
 百鬼は少し早口になって、忙しなく問いかける。そしてミロルグも素早く答えた。
 「知っているよ。彼女はフェイロウにその美貌と素質を買われ、フェイロウの厳しい要求に絶え得るべく、魔族となった。」
 百鬼は呆然と口を開け、まるで放心したように固まってしまう。皆も同様の気持ちだった。ミロルグには彼らに掛ける言葉も見つからない。
 「正直、あのフュミレイさんが簡単に屈服するとは思えませんね。」
 棕櫚が呟く。
 「恐らく何らかの歯止めは掛けているはずだ。カーツウェルとフェイロウがなにやら語らっているのを耳にしたことがある。だがそれがなんであるかは私には分からないし、効果的な助言も浮かばない。とにかく、いま全てのリングがフェイロウの手にあるはずだ。私には健闘を祈ることしかできない___」
 百鬼は漸く我を取り戻し、現実をたたき込むかのように額を掌で叩いた。
 「いや、その言葉だけで充分さ。おかげで全ての辻褄も合いそうだ。助かったよ、ミロルグ。」
 「そう言ってもらえるとありがたい。」
 「これからどうするんだ?」
 沈黙していたサザビーが、ミロルグに問いかけた。すっかり泣きやんだスレイは、ミロルグの胸に抱かれて安らかに眠っている。
 「どこか静かなところでスレイと暮らすよ。」
 「そうか___スレイを頼むぜ。」
 「分かっているよ。そしていつの日か彼がおまえと出会うことを臨んだなら、必ずおまえの元に向かわせる。その時は父として接してやってくれ。」
 ミロルグは立ち上がったサザビーに頬を寄せ、短い口づけを交わした。
 「ミロルグ。」
 サザビーとの触れ合いを終えた彼女に、百鬼が声を掛ける。振り向いた彼女を迎えたのは、差し伸べられた大きな手だった。
 「子育て頑張れよ。」
 そして百鬼は力強い笑みを見せる。
 「ソアラによろしく言っておいてくれ。おまえはきっと全てを解き明かすと___」
 そして二人は固い握手を交わした。アモンから幾らかの魔力を譲り受け、ミロルグはヘヴンズドアで姿を消した。彼女は平穏の中に身を移し、もう恐らく、二度と再会することはないだろう。ただそれでも、互いの間にはもはや妨げるものはなく、確かな絆で結ばれていた。




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