3 エスケイプ・ラン

 玉座にて神妙な面持ちでいるフィラ・ミゲル。城内では人々が慌ただしく動き回っていたが、やがて彼女は全ての喧噪を断ち切るように立ち上がった。
 「降伏する。」
 そしてたった一言、そう言い放った。一瞬沈黙した家臣たち。ある者は崩れ落ち、ある者は声を荒らげた。だが決断の人、海賊ゼルナスの心に迷いはなかった。
 クーザーの空には大地に影を落とす赤い船が留まっていた。ベルグランは城の物見台で振られる大きな白旗を発見すると、ゆっくりと着陸を始めた。永世中立国への侵略。これでケルベロスの宣戦布告は全世界へと向けられたことになる。
 そのころ、フュミレイと棕櫚を乗せた馬車は、ソードルセイド近郊へとさしかかっていた。行き先が近づくと、どうしてか人はお喋りをやめるもの。二人とも先程から沈黙していた。そんな中、フュミレイは棕櫚の横顔を眺め、切り出した。
 「棕櫚、おまえはあらゆる点で魅力的だ。」
 フュミレイは棕櫚を賞賛する。だがその面持ちはこれまでとは少し違った。鋭く、左目の輝きは獲物を見つめる鷹のようでもあった。
 「光栄ですね。」
 棕櫚は作り笑いで答えた。
 「正直、おまえの能力については理解に苦しむところだ。だがそれでも納得してしまう自分があたしには気に入らない。ただそうでもしなければ、おまえの全てを理解することもできない、そう感じる。」
 フュミレイは棕櫚から目を逸らそうとしない。棕櫚も振り返って視線を交錯させた。
 「言っている意味がよく分かりませんね。」
 フュミレイの詮索を断ち切るように、彼ははぐらかした。
 「おまえは重大な秘密を隠している。おまえは彼らに同行することに目的はないと言った。しかしそれは違う。おまえは何か、我々には理解しがたいような目的を持っているんじゃないのか?」
 棕櫚はそれを聞いて苦笑する。
 「ロマンティストですね。あなたがそんな冗談を言えるとは思いませんでした。」
 「私は___」
 隻眼だからこそ現れる迫力。一つの眼球に集中された彼女の洞察。棕櫚は心の奥底を抉り取られるような迫力に、久方ぶりに「息を飲む」という心地を味わった。
 「おまえはただの人間じゃないと思っている。」
 ___鋭い。そう感じたのはミロルグに続きあなたが二人目だ___
 「ご冗談を、確かに俺は普通じゃないかもしれません。ですがそんなことを言ってたら、あなただって人間扱いされなくなりますよ。」
 棕櫚は芝居に徹し、ふてくされるようにして吐き捨てる。
 そこで彼女から返ってきたのは奇妙な言葉。
 「いつ私が人間だと言った?」
 一瞬の空白。そして棕櫚が笑った。フュミレイもつられたように微笑む。
 胸に締め付けるような痛みが走った。フェイロウからの警告だろう___

 「フュミレイ!?」
 ソードルセイド城の謁見の間。ケルベロスの使者に備えて緊張を高めていた百鬼だったが、棕櫚と共に現れたフュミレイを見た瞬間、立ち上がって声を上げてしまった。アウラールに注意されて口元を押さえる百鬼の姿には、威厳もなにもあったものじゃなかった。
 「ケルベロスより使者をお連れしました。フュミレイ・リドン様以下調査員の両名です。」
 棕櫚の紹介でフュミレイは前に歩み出て、深々と礼をした。
 「書状、確かに拝見いたしました。ケルベロスはすでに物資の一部をこちらに輸送しております。」
 「___」
 「陛下。」
 「!___あー、了解した、感謝する。」
 やれやれ。フュミレイの登場で百鬼はすっかり動揺してしまっている。アウラールは思わず頭を抱えた。
 「援助していただけるのなら、こちらはケルベロスとの結束を約束します。」
 「その言葉、信じましょう。すぐに追加物資を要請します。」
 ソードルセイドの有様は、フュミレイを含むケルベロス使者たちの想像以上だった。結果として調査員たちはすぐさまソードルセイドへと飛び、先行物資とともにやってくる作業員の監督者として、フュミレイだけがソードルセイドに残ることとなった。
 追加物資は貨物を利用して既にベルナットの街に集まっている。届くまでがおよそ十日前後。監督期間数日を入れたとしても、フュミレイに用意された時間は十数日。彼女はこの間に信頼を裏切り、リングを奪わなければならない。
 「フュミレイ!いったいいつ復帰したのよ___!」
 「フフ、相変わらずだな。妊婦はもう少し大人しくしていろ。」
 ソアラをはじめ、数多くの面々と再会を果たしたフュミレイ。彼らの目を欺き、果たしてリングを奪うことなどできるのだろうか。道のりは険しい。

 舞台は変わってゴルガ城。
 ゴルガ城を切り盛りしていた人々は、素直にサザビー・シルバの帰還を喜び、先代ポロ・シルバの秘蔵っ子が帰ってきたことを国民に大々的に伝えた。だが一方で、彼がケルベロスの侵略に対応するために戻ってきたという事実が、国民を複雑な気持ちにさせた。ゴルガにはかつての国民たちが戻りはじめ、ようやく商売が回りだそうかというところだった。その気勢を断たれるのは実に恐ろしい。
 「ケルベロスの手を逃れることは簡単じゃない。だがケルベロスも、維持するのに手間が掛かる都市を持っていたいとも思わないだろう。もし奴等がゴルガを占領しに来たのなら、奴等に国を復興させるのも一つの手段だ。」
 サザビーは常々そう語った。それはつまり、彼にはケルベロスを止める手段は見つからないと言っているのも同然だった。国民はその言葉にがっかりしたものだが、時が経つに連れてサザビーの言葉に理解を示す者が増えているのも事実だ。
 彼はこれといって大きな動きを見せることはしない。ただ、常にビジョンだけは持っていた。
 「ケルベロスを止めるのは決して難しい事じゃない。ケルベロスがベルグランを作ったのは世界制覇の絶対的な兵器を持つためだが、それだけじゃない。前回の世界制覇から二十年近くが経過したが、それでもケルベロスはかつてほどの兵力も財力も持ってはいない。ベルグランはそれを補うために必要だった。逆に言うならば、ベルグランが無くなったら何もできないということだ。」
 逆転の鍵はベルグランにある。それを奪うことができれば、情勢は一転するだろう。
さてもう一つ、彼が気に掛けなければいけないのはアヌビスのこと。先日ランス・ベルグメニューより手紙が届いた。
 『クーザーマウンテンは神殿奥より、山の内部に向かって洞窟状に居住空間が作られている。この居住空間の奥の奥に、よほど丹念に調べねば分からないほど、壁に細工を似せた扉が発見された。その向こうには長い階段が続き、突き当たりは小さな部屋になっていて、その中央に石碑があった。石碑にはこれといった文字は記されておらず、ただ六つの窪みがあっただけだ。』
 六つという数字がサザビーを確信させる。クーザーマウンテンこそ、アヌビスの封印が眠る場所に違いない。ことは確実に極に迫っている。その前兆だろうか、ゴルガに珍しい人々が帰ってきた。
 「よう、まさかおまえが玉座に座るとは思わなかったなあ。」
 サザビーが国王の座に着いたと聞きつけて、ゴルガに戻ってきたのがアモン・ダグだ。彼は相変わらず都市に住もうとはしなかったが、それでもゴルガ近隣の村に住み着いた。そしてもう一人___
 「久しぶりに帰ってきてみりゃ、なにやってんだおまえ。」
 ケルベロスに占領されたカルラーンから逃げおおせ、アンデイロもエンドイロも滅びた中で海を渡ってゴルガにまでやってきた男、デイル・ゲルナ。彼はゴルガに危機を伝えるためにやってきたが、それはすでにサザビーの口から伝わった後だった。
 だが彼が持ってきた情報はこれだけではない。
 「ジャンルカがケルベロスにいる。」
 「本当か?」
 ゴルガはいま首都ゴルガのことで精一杯だ。ジャムニやシィットと言ったところまでは気が回らない。それは科学技術研究所にしても同じ事。
 「フランチェスコ・パガニンが死んだんだ。それでベルグランの整備がおぼつかないから、ジャンルカが呼ばれた。」
 「フランチェスコ・パガニンが死んだって___本当なのか?」
 「ああ。体調を崩しながらベルグランに付きっきりだったらしいからな。」
 三大頭脳と呼ばれた人物だ。その死をケルベロスが公表していないのであれば、それはベルグランを細部まで知り得ているのは彼だけだということを意味する。ベルグランが完璧でないことを、周囲に知られたくはないのだ。
 「チャンスだとは思わないか?俺もベルグランを奪えれば、というおまえの考えには賛成だ。」
 逃亡生活ですっかり髭の伸びたデイルは、頭を掻きながら言った。
 「確かにな。ジャンルカならベルグランを動かせる。」
 だが結局この話は、案の一つと言うことで先送りされた。しかし三日もした頃には実行に移されることとなる。きっかけは、ゴルガにやってきた一羽のカモメだった。
 「こ、これは!」
 ゴルガ城門に止まっていたそのカモメは、足に伝書用の筒をつけていた。小さな紙切れに記されていた一文は、門番をしていた兵を驚かせ、彼をサザビーの元へと走らせた。
 クーザー陥落。
 フィラ女王投降す。

 『___というわけだ。サザビーは風のリングを持っているが、いまここにはいない。居場所はゴルガだ。』
 フュミレイ人形が流暢に語る。フェイロウは憮然として「報告」を聞いていた。念のために一念を込める。
 『いちいち苦しませるな___あたしは嘘はついていない。』
 すぐに返答があった。彼女もそれで納得する。
 「ローゼン、水晶用意。超龍と連絡を取るわ。」
 「はイ。」
 ソードルセイドには水、大地、魂の三つのリングしか無いという。残りの一つはゴルガにあるそうだが、フェイロウは手駒を使い切っていた。だから超龍神に任せようというのだ。
 だが一方でそのサザビーは___
 「俺はケルベロスに行く。フィラ・ミゲルを助け出したいからな。」
 「し、しかし王!」
 今まで静を決め込んでいたサザビーが突然動き出したことに、家臣たちは慌てた。
 「ケルベロスはこのゴルガにもやってくるやもしれませぬ!」
 「歓迎してやれ。奴等は無血占領を決め込むつもりのようだからな。」
 家臣たちは閉口する。サザビーは策もないまま自らケルベロスに乗り込もうというのだから、家臣たちは彼のことをいかれていると思っただろう。ただ、この彼の考えに賛同したのがデイルだ。
 「協力するぜ。」
 唖然とする家臣たちを後目に、デイルはすっかり身だしなみを整えて現れた。二人は互いの思惑を感じ取ってニヤリと笑った。
 「俺はフィラを救う。ジャンルカのほうはおまえに任せるぜ。」
 「おうよ。」
 その言葉で、事情通の家臣がピンときた。
 「ま、まさか国王!ベルグランをも奪われるおつもりで___!?」
 「期待して待ってな。」
 彼の一言で、ゴルガ城内はちょっとした盛り上がりを見せた。

 喧しい機械音が牢獄にも響いた。ベルグランが着陸態勢に移っているのだ。ベッドもトイレもある上に個室の監禁室。ゼルナスは大した不自由もなくケルベロスまで運ばれている。惜しむらくは部屋に窓がないこと。できれば空から大地を眺めてみたかった。
 「着陸だ、ベルトに身体を固定しろ!」
 牢獄前の廊下にも慌ただしい声が轟いた。
 (ベルト?そんなものないじゃんか。)
 ゼルナスは牢獄に身体を固定するものがないと知って苦笑いを浮かべた。
 「まてよ___」
 だが固定という言葉が、彼女の心をときめかせる。
 「チャンスじゃないか___」
 女王といっても海賊上がり。ゼルナスにお淑やかは似合わないというものだ。捕虜というところが扱いを優しくしているのか、彼女は両手さえ自由な状態にあった。そしてヘアピンの一本でもあれば、牢獄の鍵ぐらい開けられる自信がある。
 「___」
 牢獄は幸いにも格子式。格子の隙間もそれなりの広さで、鍵穴に手が届く状態だった。番兵は扉のすぐ横の壁に付随したシートに、身体を固定している。
 (瞬間で開ければ___)
 ゼルナスはシャツの袖口のボタンを一つ引きちぎり、格子の隙間から番兵の向こう側、シートの下を通すようにして放り投げた。
 「ん?」
 それは番兵の興味を引き、ゼルナスはその隙にあらかじめ細く伸ばしたヘアピンを鍵穴に差し込んだ。
 「ん?」
 次に番兵が気を引かれたのは、カギが解けた音だった。
 「!」
 しかしその時、彼の目の前には一気に蹴り開けられた鉄格子が迫っていた。
 ドガッ!
 鉄格子の直撃で、番兵は気を失ってしまう。ゼルナスは揺れ動くベルグランの牢獄からまんまと脱出した。
 「でもここは空の上だ___逃げ切れるか!?」
 ゼルナスはベルグランの中を慎重に歩きはじめた。金属的な壁、廊下、いろんな部屋があるが迂闊に飛び込むことはできない。人の目をかいくぐるように、ゼルナスは安全な場所を探した。だが、五分もしないうちに___
 「!?」
 ベルグラン内に派手なサイレンが鳴り響いた。
 「早いな___!」
 「いたぞ、こっちだ!」
 突然のサイレンに驚いて立ち止まっていたゼルナスを、ケルベロス兵が発見した。
 「ちっ!」
 ゼルナスは舌打ちをして走り出す。着陸が近いせいもあってか、兵士たちは大挙して追いかけてはこない。二人掛かりでゼルナスを追ってきた。
 「待て!」
 ベルグラン内には行き止まりが少なく、回廊のように廊下が続く。逃走劇は数分続き、痺れを切らしたのはケルベロス兵のほうだった。 
 「!」
 渇いた音の後、左足の腿に走った痛みでゼルナスは倒れた。鮮血が溢れ出し、彼女は歯を食いしばりながら廊下をのたうち回った。
 「ば、馬鹿者!捕虜とはいえ一国の女王を簡単に撃つな!」
 「だって〜。」
 不幸中の幸いか、銃創は致命傷になるようなものではなかった。それでも彼女は、アドルフ・レサへのお目通りを前に、ケルベロス城の医院に運ばれて治療を受けることとなる。およそ三日の入院。しかし、この三日が彼女の命運を分けることとなった。
 「あーんもうっ!馬鹿兵士!もっと早くフィラ・ミゲルがあたし好みの女だって分かってたら___ああ悔しい!」
 「お嬢様ったラ、たまってますネ。ウゲッ!」
 「じゃかあしい!」
 もし傷がなければ、彼女はすぐにでもこのけだもの女の餌食になっていたのだから。

 「あんだとぉ!?俺にケルベロスまで送れだぁ!?」
 サザビーとデイルは連れだってアモンを尋ねた。彼らの要求にアモンは片方の眉をつり上げた。
 「頼むよ師匠〜。」
 「頼むよ〜。」
 実はデイルもアモンとは知り合い。二人はアモンの両側から肩を揉みながら頼み込んだ。
 「それとさぁ、法王堂に行ってこいつを施してきてほしいんだよねぇ。」
 サザビーはアモンの目の前に光り輝く宝玉を取りだした。
 「こいつぁ___てめえらやっぱり結界を張れなかったんだな!」
 「まあまあ。」
 アモンに睨み付けられたサザビーは苦笑いするしかない。彼が取りだした宝玉は、本来均整を守るためのものだったホルキンスの結界である。
 「肝心なのはアヌビスのほうさ。そこで、法王堂の奥で見つかったという祭壇にこいつを施してきてほしいんだ。ランス・ベルグメニューも世界的大魔導師の師匠なら顔パスだろう?」
 「まあな、そりゃたしかにそうだ。」
 アモンはニヤリと笑った。
 「だが俺は面倒くさいのは嫌いでねぇ。もうミロルグみたいな奴と戦うのも御免だ。」
 「宝玉の扱いは魔道に長けた人がやらねえとさぁ、うまくいかないかもしれないぜ。」
 「ソアラかフローラにやらせりゃいいだろ。」
 「駄目だ、二人ともソードルセイドにいる。それにソアラはこれだ。」
 サザビーは腹の所で、空を丸く撫でるような仕草をする。それはお腹が大きいことを意味した。
 「な!ななななな!なんだとぉっ!?」
 アモンは飛び上がらんばかりに驚き、目を剥いてサザビーに掴みかかった。
 「だ、誰の子だ!?」
 「百鬼にきまってんだろ。」
 アモンはサザビーから手を離し、指をスナップして舌打ちした。
 「なぁに悔しがってんだよ、じじいのくせに。いでっ!」
 ほくそ笑んでいたデイルの頭を叩き、アモンは腕組みして座り込んだ。
 「よし、気が変わった!手伝ってやろう!ケルベロスだったな?」
 「お、いいねぇどういう風の吹き回しさ?」
 サザビーはアモンの頭を肘で小突いてみせる。
 「俺は人妻には手をださねえ性分でな!やけっぱちって奴よ!」
 そんなポリシー、誰も認めてはくれないぞ。と思いながらも、サザビーとデイルはアモンの協力を素直に喜んだ。

 二人が降り立ったのは夜のケルベロス。光の筋がやってきたことに、街を巡回していた兵士たちは慌ただしく動き回ったが、デイルとサザビーは素早く人気のない路地に入り込んで難を逃れた。街は静かだ。ケルベロスは侵略行為の真っ直中にあるが、国民たちは今だ侵されたことのない本国に反撃が及ぶことは心配していない。ただそれでも、何らかの逆襲に対する用意のため、町中では大勢の巡回兵が警戒を敷いていた。結果として住民の行動は制限され、街は静かだったわけだ。
 「どうするんだ?城に入るのも難しそうだぞ。」
 暗い路地に身を潜め、サザビーはデイルに尋ねた。デイルは落ち着いてスパイ道具を確認している。
 「道っていうのは色々ある。門や壁を越えるだけが脳じゃないさ。ただ生憎俺はケルベロスの構造に詳しくないがね___」
 デイルは頭のバンダナを巻き直した。
 「ジャンルカの位置は分かる。だが問題はおまえの女王だ。ベルグランはきっと戻ってきているだろうが、彼女を捜すには城の構造を把握して、どこに彼女が居るのかを特定しなければならない。侵入してから探すのは無理だ。」
 「ならどうするんだ?俺はおまえと違って、スパイは慣れてない。」
 サザビーの問い掛けにデイルは腕組みして考え込んだ。来たはいいもののあまりに行き当たりばったりだ。そんなとき___
 「おい、おまえら。」
 頭上から声を掛けられ、二人は慌てて空を見上げた。路地に面した建物の二階、そこにある小さな窓から誰かが覗いている。暗くて顔は分からないが、声は太く、低かった。
 「慌てるな。俺はおまえたちの顔見知りだ。」
 警戒心を削ぐように、男は興味深いことを言う。
 「そこに窓があるだろう。そこから入って二階まで上がってきてくれ。きっと力になれる。」
 二人はあっさりと男の指示に従った。こちらのことを知っていると言って、声を掛けてきたのだ。会って損はないだろう。
 そこは廃アパートで、人の住むような建物ではなかった。床は今にも抜けそうに軋んだ音をたてる。あらゆる場所が埃だらけで、寒さを凌ごうと虫やネズミたちがそこら中に集まっていた。
 「来たな。」
 二階の一室、そこだけは人が住める状態だった。部屋の入り口近くに小さな蝋燭が一本だけ立ててある。部屋の明かりはそれだけで、炎を豊富な光に変える工夫もない。部屋はとにかく薄暗く、待っていた男の顔は未だにはっきりしなかった。
 「暗いな。」
 「私も潜伏している身だ。これ以上の明かりはつけられない。」
 男の顔立ちははっきり分からない。だがどうやら、髭を生やしていることは分かった。体格は良く、やせ衰えている様子でもない。そして決して聞き覚えのある声ではなかった。
 「顔見知りと言ったが___俺は知らないな。」
 サザビーは目を凝らして男の顔立ちを伺う。そして訝しげに言った。
 「私は表には立たないからな。おまえたちが知らないと言うのならそれもそうなのだろう。」
 デイルは部屋の様子を一望する。そしてローソクの下に置かれたテーブルに、小さな写真立てを見つける。彼はそれを手にとって、目を見開いた。
 「フュミレイ・リドン___」
 「なに?」
 写真の中にいたのはフュミレイ・リドン。それもまだ幼い彼女の笑顔だった。
 「おまえまさか!」
 そしてデイルは気が付いた。彼女の幼少期の写真を持っているなど、よほど縁のある人物でなければ不可能。彼女に近い人物で、髭の男で、消息不明といえば一人しかいない。
 「デナンドロイ・バンディモ___!」
 「そうだ。おまえはデイル・ゲルナだったな。そしてそちらはデュレン・ブロンズだ。」
 バンディモは二人に近づいてきた。光が彼の顔を照らし出し、漸くはっきりとした。
 「俺はサザビー・シルバさ。」
 「おまえはここで何をしているんだ?いや、確か指名手配中だったな___」
 デイルの問い掛けにバンディモは頷いた。
 「もちろん手配から逃れるということもある。しかしそれ以上に、フュミレイ様の動向が気になるのだ。」
 バンディモは生真面目な顔をさらに引き締めて語った。
 「フュミレイ?フィツマナックじゃないのか?」
 「呼び戻された。そして今は、急激に世界征服へと政策転換したアドルフ・レサの側近として、手腕を振るっている。」
 それは驚きの事実。バンディモでなくとも、彼女の裁判のあらましや、心理について情報を得ていれば納得がいかない。
 「あれほど反対していたのに___か。」
 「罪の償いが辛くなったんじゃないのか?恩情に絆されて___」
 「フュミレイ様はそのように薄弱な神経をお持ちではない。」
 デイルの言葉をバンディモはあっさりと否定した。
 「フュミレイはケルベロス城にいるのか。直接会ってみるのも面白いかもな。」
 と、サザビー。しかしバンディモは首を横に振った。
 「フュミレイ様は今ソードルセイドにいる。大火があったそうで、ソードルセイドがケルベロスに協力を求めてきたのだ。」
 「大火か___」
 サザビーはそれだけで、なにか皆が関わっていることだろうと想像した。
 「バンディモ。俺たちはクーザーのフィラ・ミゲルを助け、ベルグランを奪いたい。二つの居所を教えて欲しい。」
 デイルは率直に尋ねた。
 「フィラ・ミゲルは逃亡して狙撃された。命に別状はなく、今はケルベロス城の医院にいる。」
 「なにやってんだか___」
 サザビーは呆れながらもホッと胸を撫で下ろしていた。
 「ベルグランは整備ドックだ。技術士たちの手で、次の出発に向けて入念に手入れをされている。」
 「城へと続く抜け道を知らないか?例えば、ミミズ。」
 ミミズとはある種、用語のようなもの。地面の下の道を意味する。バンディモはそれを理解した。
 「水道がある。ケルベロスは寒いからな、水が凍り付くことを防ぐために地下水道網が発達している。そこから城の中庭に出られるはずだ。」
 デイルはニヤリと笑った。
 「充分だ。いい情報だぜ。」
 「バンディモ、俺たちにはおまえを手伝うことはできない。」
 「いや気を使ってくれることはない。俺はただおまえたちの助けになればと思っただけだ。」
 バンディモは紳士的な笑みを浮かべた。
 「いや本当に助かった。おまえが自由を取り戻せることを祈るよ。」
 「その言葉だけで充分だ。」
 バンディモとサザビーは握手を交わした。短い接触ではあったが、確かな友情を感じて。

 「俺がベルグランをやるよ。おまえはフィラ・ミゲルだ。」
 デイルの声が何重にもなって響く。
 「ああ、逃亡手段はおまえに掛かってるってわけだ。しっかり頼むぜ。」
 地下水道の入り口はアパートのすぐ側にあった。重い蓋をこじ開けて、素早く潜り込む。水の流れだけが聞こえるなま暖かい地下水道。壁に暖かいパイプが渡されていて、どうやらこれには温水が通っているようだった。二人は打ち合わせをしながら、城の方角に向かって進む。
 そのころ___
 「また女王らしからぬ傷を作っちゃったなぁ___」
 ゼルナスは左足に力を込めてみるが、痛みが強くて思うようにいかない。もとより腰をベッドに固定されていて、逃亡はできないがそれにしてもこの足では走ることもできないだろう。彼女の部屋は特別隔離病室で、滅多に使われる場所ではない。部屋の中にはぽつんと、拘束具の付いたベッドがあり、扉を挟んですぐの所には看護員が一人待機している。
 「___」
 もう夜も遅い。部屋には煌々と明かりが灯ってはいるが、検診は終了しているし、起きていてもどうにもならないのでゼルナスは眠りにつくことにした。しかし突然、彼女のベッドを囲んでいるカーテンが開いた。
 「?」
 目を開けた彼女が見たのは、白衣を着た髭面の男。
 「検診だ。」
 「は?さっきやったばっかり___」
 「黙れ。」
 男はニヤリと口元を歪め、彼女の顔に己の顔を近づけていく。
 「え!?う、嘘だろ!や、やめろ!」
 自分の今の状況が恐ろしい。この男が欲情に任せてキスを迫ってきたためゼルナスは慌てた。しかし___
 「俺とのキスは嫌か?」
 「へ?」
 髭に目を奪われてまるで気が付かなかった。しかし顔を近づけあった状態で男の目鼻立ちを見て、彼女はハッとした。
 「サザビー?」
 「当たり〜。」
 サザビーは顎回りの髭をはぎ取ってニッコリと笑った。しかし___
 ゴッ!
 「ぐぉぉぉ___」
 顔を近づけあった状態で、ゼルナスの頭突きが炸裂。
 「格好つけてんじゃないわよ___!」
 彼女は回りくどい登場をしたサザビーに、頬を膨らませた。それでも自然と笑顔になっていたが。
 「ねえ、どうやって逃げ出すつもり___?」
 ようやくベッドから開放されたゼルナスを、サザビーは軽々と抱きかかえた。
 「走って逃げるさ。中庭に地下水道路の入り口があってな、とにかくそこを目指す。そっから先は俺の仲間が逃亡路の確保に成功しているかが鍵になるんだがね。」
 「仲間?ライやフローラ?」
 「いや、もっとたちの悪い奴よ。ただ、できる男さ。」
 ゼルナスは小首を傾げた。
 一方デイルは、すでにベルグランの整備ドッグに辿り着き、大勢の作業員に紛れ込んでジャンルカとの接触を果たしていた。ケルベロス城に隣接する巨大な整備ドックでは、夜も更けようというのにベルグランの整備が行われていた。その陣頭指揮に当たっていたのはジャンルカで、そればかりか科学研究所のメンバーの多くがここへと集められていた。
 だからこそ彼らが脱出のために働いてくれることを、デイルは期待したのだが___
 「嫌だね。」
 「なにっ!?」
 ジャンルカはデイルの予想を見事に覆した。これこそ天の邪鬼と呼ばれた男の返答だ。だが彼だって考え無しにデイルの要求を否定したわけではない。
 「ベルグランは爺さんの形見だ。爺さんはこれのために命を懸けてきた。」
 ジャンルカは陰険な性格からは想像もできないほど、感情的な言葉を口にした。
 「ベルグランを整備できる場所は世界でケルベロスにしかない。科学研究所はゴルガじゃ維持できないからな、ケルベロスを離れればベルグランの命だって終わる。例えこいつが世界征服に使われているとしても、俺には爺さんが命がけで守り続けた子供を見捨てることはできないね。」
 「だがよ〜。」
 デイルも分かっている。ジャンルカには人道なんて通用しない。道徳的なことを説いたところで、彼は納得してはくれないだろう。
 「なあジャンルカ、賭けで決めないか?」
 「なんだと?」
 ジャンルカは眉間に皺を寄せて問い返した。
 「俺とサザビーだって決死の覚悟でケルベロスに忍び込んだ。おまえが協力してくれないとなると、死も考えなくちゃならない。」
 整備ドッグの回廊に監視の兵隊がやってきたことに気が付いたデイルは、作業している風を装って話しはじめた。こういうところの誤魔化しで、彼の右に出る人物などいないだろう。
 「簡単な賭けさ。俺が宙に放り投げたコインを右か左、どちらかの手で掴む。もちろん掴む瞬間もおまえに見せる。おまえは俺がどっちでコインを取ったか当てるんだ。」
 「___」
 ジャンルカは一つ頷いた。
 「コインが入っている方をおまえが当てたら、俺たちは別の方法を探す。外れたら俺の作戦に手を貸せ。」
 「___」
 「ベルグランを壊さなけりゃいいんだろ?壊れる前にケルベロスに世界侵略を諦めさせればいいのさ。」
 「御託はいい、賭けに乗ってやる。」
 ジャンルカが答えた瞬間、デイルはニッと笑みを浮かべた。彼がカルラーンの一部で「いかさま王」と呼ばれていたことをジャンルカは知らない___
 「それっ!」
 コインは高々と舞い上がった。

 「いたぞ!こっちだ!」
 ゼルナスを抱きかかえたサザビーは必死に走った。
 「こっちは駄目か!」
 兵士たちは通路を塞ぎ込むようにして次々と現れ、自然と進路は制限されていく。
 「どうするのさ!中庭から遠ざかっている!」
 「やばいな!」
 前からも後ろからも迫る兵士から逃れるために、サザビーは城の二階へと駆け上がってしまう。それからも暫く逃げ続けたが___
 「げっ!行き止まり!」
 ついには袋小路に追い込まれてしまった。
 「なにやってんのさ、しっかりしろよなもう!」
 「おまえが言うなって。」
 サザビーは苦笑いを浮かべて、やむなく近くの部屋へと飛び込んだ。幸いにも部屋は無人だった。
 「ゼルナス、開けてくれ。」
 サザビーは窓へと近寄り、彼に抱かれたままのゼルナスは身体を捻って窓を開けた。風が吹きつけ、二人の髪を靡かせる。それは部屋の扉が開かれた証だ。
 「追いつめたぞ___」
 勝利を確信した兵士たちはゆっくりと部屋に入ってくる。かなりの大人数で、これを強行突破するのは不可能だろう。しかし___
 「高いな___」
 二階といえどここは城だ。高さは相当なもので、下は石畳。茂みや噴水があるわけでもない。しかし可能性に賭けるならばこちらを選ぶしかない。
 「飛び降りるぞ___」
 「本気___?」
 「無事でいられる自信はないけどな。」
 サザビーが窓から飛び出したのと、兵士たちが一斉に飛びかかってきたのは同時だった。空気を劈く音。ゼルナスはしっかりと自分を抱いてくれるサザビーの手に己の掌を重ねた。それはちょうど風のリングの上でもあった。
 ブオンッ!
 石畳への激突に覚悟を決めたサザビーだったが、着地の直前にサザビーの真下から吹きつけた突風が落下の勢いを相殺した。サザビーはトンッと柔らかく地面に降り立つことができた。彼の指では風のリングが朧気に輝いていた。
 「助かったぜ、ゼルナス!」
 「えぇ?」
 「おまえと風のリングとおかげさ!」
 サザビーはゼルナスの頬にキスをして、地下水道の出入り口に向かって走り出した。
 「待て!」
 一階に残っていた兵士たちが二人を追いかけてきた。しかしほとんどの兵士はいま必死に城の二階から一階へと向かっている状況。このままでは追いつけないと感じた兵士が取りだしたのは拳銃だった。
 「くっ!?」
 狙いが悪いというのはむしろ恐ろしいもので、兵士の放った下手な鉄砲はそのうち一つがサザビーの左肩に突き刺さった。
 「サザビー!」
 彼の顔が歪んだのを見て、ゼルナスは不安に駆られた。
 「大丈夫だ!」
 しかし左腕に力が入らず、ゼルナスを抱き留めていられない。
 「右肩に身体を移せ___!」
 サザビーは一度足を止め、ゼルナスをまるで俵でも担ぐように右肩へと腹這いに乗せた。そして再び走り出す。
 「逃がすか!」
 再び兵士の一人が銃を構えたのが見えた。またも銃声が響き渡る。
 「くぅぅっ!」
 ゼルナスの苦悶を押し殺すような声。
 「ゼルナス!?」
 「構わず走れ!」
 サザビーは不安を振りきって走った。中庭の外れの茂みが見えてくると力を振り絞ってそこへと突っ込んだ。その間、ゼルナスの腕は彼の背中に凭れかかり、血の湿り気と温もりが背中に感じられた。
 「ここだ!」
 下水への入り口が開いている。サザビーは中へと飛び降り、素早く重い蓋を引きずって被せた。少しでも時間を稼ぐためだ。
 「生きてるか?ゼルナス。」
 「ああ、心配ないよ。」
 とはいえゼルナスの声色は弱かった。
 入り組んだ地下水道で兵士を撒くのは簡単なことだった。彼らは街への警戒を強め、再び二人が地下から現れたところを狙おうとしていた。しかし二人が向かったのはデイルが待つ整備ドックだ。
 「稼働は順調か?」
 監視兵を気絶させたデイルがニヤリと笑ってジャンルカに尋ねた。
 「ああ、問題ない。」
 ジャンルカは、轟音を立てはじめたベルグランを見て、ブスッとした表情で答えた。コインゲームで外れを誘うのは簡単なこと。コインを握った瞬間に袖口にそれを放り込み、どちらも外れにしてしまえばいいだけだ。もちろん用心深い人物が相手の場合は、悟られないように逆の手にコインを納めて当たりを示さねばならないが、それはデイルにとっては朝飯前だった。
 かくして数分後にはゴルガから連れてこられた研究員、ジャンルカ、デイル、そしてサザビーとゼルナスを乗せ、ベルグランがケルベロスの夜空に飛び出した。
 「今回はおまえに助けられたな。」
 「おあいこさ。」
 ゼルナスは確実にサザビーの背中に迫っていた弾丸を、自らの腕を盾にして防いだ。彼女はまた一つ女王らしくない傷を増やしてしまったが、今はそんなことよりもサザビーがケルベロスまで自分を助け出しにやってきてくれたという、馬鹿なほどの愛情が嬉しくてたまらなかった。
 真夜中の大騒動に、フェイロウはアドルフの姿で玉座に座らざるを得なくなった。ベルグランが予定外の飛行を始め、しかもそれが反逆者によって奪われたとあっては、国が騒然とするのは無理もない。
 「逃げられたなんて___ショック!」
 しかしフェイロウはベルグランがどうだろうと知ったことではない。リングの回収にはある程度の目処が立っているわけで、そのうちアドルフでいる必要もなくなるのだから。彼女がショックを受けたのは「好みのタイプ」のゼルナスを逃したことだ。




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