1 魅惑の車内

 「はい、あ〜ん。」
 ソアラはスプーンをフローラの口に運んでやる。フローラは少し気恥ずかしそうにそれを含んだ。
 「おいしい?」
 「うん。」
 フローラは変わらない微笑みを見せる。焼けてしまった髪を切りそろえ、ボーイッシュな髪型に変わりはしたが、彼女の顔は今まで通り美しいままだった。
 「呪文は無理そう?」
 「うん___」
 フローラ憂いげに頷いた。首筋まで巻かれた包帯の影から、酷く焼けただれて変色した肌が覗いていた。彼女は全身に火傷を負ったが、棕櫚の素早い処置で一命を取り留めた。女の意地が魔力を絞り出し、彼女に顔の治癒だけはさせたが、そこで魔力は底に至った。以前アモンから聞いた話だが、魔力はその一部が身体に残っていれば、そこからねずみ算のように増えて回復するのだという。しかしその初めのネズミになり得る部分まで使い切ってしまうと、回復には相応の時間を要する。体力そのものが弱っていればなおさらだ。
 「ごめんね、あたしがもっとしっかりしていれば百鬼やライの傷も治療できるのに。」
 「なぁにいってんの。あなたを守れなかったあいつらが悪いのよ。」
 ソアラは自分でもフローラ用の食事を食べてみる。
 「今までだってそう。あなたを当てにしていたから、みんな捨て身で戦えたのよ。あなたが今までどれだけの人を救ってきたか___もちろん、あたしも含めてね。」
 ソアラはにこやかにフローラを励ました。
 「たまにはあたしたちにも助けさせて。ゆっくり休みなさいな。」
 「___うん。」
 フローラはソアラの運んだ食事を含み、少し申し訳なさそうに微笑んでいた。
 街では先ず、ほぼ全ての建物が燃えてしまった長屋街の掃除が行われている。しかしこれが大変だ。何しろ街中に黒い炭の塊が積み上げられているのだから。
 「うひー!片手じゃきつい!」
 肩の傷が癒えないライも必死に作業に励んでいた。力仕事とはいえ、健常であれば男女問わず作業に協力していた。その中には石川珠洲丸の姿もあった。処罰を申し出た彼女だったが、今はみんなと一緒に働くことが先決という百鬼の計らいで、額に汗しながら作業に臨んでいた。
 そんな中、棕櫚を乗せた馬車はケルベロスに向かって旅立っていった。
 ケルベロスまでの道のりは長く険しい。雪の多い大陸であり、ローレンディーニ以東は内陸の起伏こそ激しくないが、幾本もの大河と急峻な沿岸地域を持つ。陸路で行き来するにはあまりに厳しい。
 そこでフランチェスコ・パガニンはこの地に、自身最初の大規模プロジェクトともいえる発明、鉄道を走らせたのだ。これはケルベロスに大きな恩恵をもたらした。足では一年かかっても不思議はないというソードルセイドからケルベロスまでの道のり。その中途、ローレンディーニ北のベルナットの街より首都ケルベロス近隣のクラムの街まで続く鉄道、通称リーブル・ラインを用いることで、この区間の往復がおよそ三週間で可能となる。ちなみにリーブルとは、以前百鬼とソアラをソードルセイドまで運んだ雪山羊のこと。どんな吹雪にも平然としていられる雪の申し子の名を頂いたというわけだ。
 「___」
 棕櫚がベルナットで鉄道に乗り込んだのは、ソードルセイドを発ってから一週間後のこと。胸にはしかとアウラール・サー・レイニーの記した念書が抱かれ、その末尾にはニック・ホープの名も記されていた。
 そのころ___
 「カルラーンの軍事整備が完了、ベルグランの調整もあと数日あれば終わる。」
 アドルフ・レサに化けたフェイロウは、玉座にて悠然と呟いた。
 「さて、次はどこだ?ゴルガか?」
 彼の横に立つのは___
 「ゴルガは先のポポトル大戦で甚大な被害をうけた都市。今だ回復には至っておりません。力を示すのであれば、永世中立を笠に着た国からが妥当かと。」
 銀髪のフュミレイ・リドン。彼女は職務に戻り、今まで以上にアドルフに重宝され、活躍していた。勿論それはフェイロウに気に入られているだけで、フュミレイがこれを望んでいるわけでもない。だがそうせざるを得ないのだ。フェイロウの一念で、もはや彼女の身体はケルベロス城を吹っ飛ばす。
 「クーザーを攻めるのか。大胆だな。」
 アドルフはニヤリと笑った。フュミレイを手に入れたことで当面の満足を得たフェイロウは、アドルフの顔で自分の笑みを見せる。それが幼さの残るアドルフの顔にはあまりに似つかわしくない。
 「___」
 そして周囲の誰もが、常にどこか憂いの差し込むようなフュミレイの顔色を気にしていた。しかし誰もがその原因は、彼女がアドルフの世界支配を嘆いているからだと考えた。また、それでありながら彼に手向かおうとしないフュミレイを弱い女と揶揄する声もあった。

 棕櫚がケルベロスに降り立ったその日は、まさにベルグランがクーザーに向けて飛び立とうかという時だった。しかしカルラーン制圧から次の行動まで、あまりにも時間がかかりすぎている。これはベルグランの整備が思うように進まなかったからだ。原因は伝えられてはいないが、整備場でフランチェスコ・パガニンの姿を見ていないと城の兵士たちは噂していた。
 「フュミレイ様、ソードルセイドより使いの者が参りました。陛下よりの命で、謁見をお願いいたします。」
 「了解した。」
 家臣の言葉にフュミレイは淡泊に答え、家臣は一礼して退室した。彼女から笑顔が消えたと不思議がるメイドや家臣は多かった。元々笑顔の多い人物ではなかったのだが、従僕たちには柔らかく、優しく接していたのがフュミレイだった。
 「うっ___!」
 そればかりか時折部屋から呻き声が聞こえるとの噂もあった。それは事実だ。
 「うああ___!」
 その時彼女は頭を抱えて苦しんでいるが、誰かが気遣って声を掛けると牙を剥いたように怒るのだという。
 これは発作のようなもので、時間が経てば消える。
 「はぁはぁ___」
 原因は分からないが、彼女はこれを魔力のせいだと考えた。頭痛を和らげるには手を輝かして炎でも灯せばいい。フェイロウによって魔族に身体を変えられたといっても彼女の見た目に変化はない。目に見えない変化は、かなり打たれ強くなったことと、以前にも増して強力な魔力を取り戻したこと。
 「はぁ___」
 その魔力が急激に、それも大量に戻ったことが精神的な部分を刺激し、その痛みは頭に集中されている。もちろんフェイロウとの日々が、彼女の精神を著しく痛めつけていることも加味しなければならないが。
 「いかなければ___」
 フュミレイは掌で自分の額を軽く叩き、息を落ち着かせて部屋を後にした。

 「お待たせした。」
 現れた彼女を立ち上がって出迎えた棕櫚は、驚いたと同時に期待の眼差しを隠すことはできなかった。
 「私は棕櫚と申します。ニック・ホープ国王陛下の命を受け、アウラール・サー・レイニー閣下の記した念書を抱き、馳せ参じました。」
 「ご苦労であった、しかしニック・ホープ国王と言ったか?」
 フュミレイは落ち着いていた。
 「はい。先達て内々に即位なされました。」
 「隣国にそのふれが届かぬうちに別件で使者が来るか___よほどのことだな。申し遅れた、私はフュミレイ・リドン。」
 「存じております。それだけに、職務復帰されていたことには驚きました。」
 フュミレイはしばし彼と目を合わせ、腰を下ろすように促した。棕櫚はフュミレイの瞳に神秘を感じ、興味を掻き立てられた。それはソアラとはじめて出会ったとき、紫色の瞳に吸い込まれそうになったあの感覚にそっくりだった。
 「早速、頂こうか。」
 棕櫚は念書を差しだし、フュミレイはそれを自らの手で開いた。中には丁寧な文字でアウラールからの嘆願が記されていた。
 「内紛というのは鬼援隊だな?」
 「左様です。しかし首謀者、四条寸之佑および田村幸正、石川元禄とも死亡、組織は壊滅いたしました。しかしソードルセイドの長屋街もまた壊滅状態です。」
 百鬼の仇討ちが終わったことに一種の感慨を受けるフュミレイ。被害状況の検討はその後だった。
 「具体的にどれほどの被害が?」
 「長屋街は全壊と言って差し支えないでしょう。死者も五千を越えたと思われます。」
 「重大だな___」
 フュミレイの面持ちが辛辣なものに変わる。
 「しかし長屋街に住んでいた人々は、未だに長屋へのこだわりを捨てません。彼らはこれまで通り長屋に住みたいのです。しかし現状ではソードルセイドにこれを立て直すほどの力が残っておりません。どうか慈悲深き返答を。」
 フュミレイは暫く念書を見つめていた。彼女の目の行き先が、念書の末尾に向けられていることは棕櫚からも分かった。ニック・ホープの名に郷愁を抱いているのだろう、しかしそれにしても彼女の目はあまりに憂いに満ちていた。
 (嫉妬?いや違う、もっと絶望的な___)
 それこそ自殺でもしかねない人の目をしていた。だが彼女は一つ目を閉じると、瞳に元の力を取り戻した。
 「そちらの意志は分かった。しかし、我が国の現状を理解しているのか伺い知らねばなるまい。」
 「ケルベロスの世界への動きを否定しようとは思いません。それは国王陛下も承知の上での決断です。」
 二人はまたしばし見つめ合う。フュミレイは棕櫚の余裕と、まるでこちらの全てを見透かしたような目線に半ば呆れた。
 「真偽の確認をしたい。これは両国が同盟関係を取るに等しい重要な国交だ。ソードルセイドの支援要求をケルベロスは、貴国の他国干渉停止という条件で飲むだろう。」
 「ではそちらから使者を出し、共にソードルセイドへ向かっていただけるのですね。」
 「そういうことだ。」
 フュミレイは念書を畳み、立ち会っていた家臣にそれをアドルフの所へ運ぶよう命じた。謁見の間には棕櫚とフュミレイ二人だけになる。そうそう、彼女が身につけているイヤリングは一種の盗聴装置になっているため、迂闊なことはこれっぽっちもしゃべれない。フェイロウは用心深い女なのだ。
 「笑わせるな、まったく。」
 「はい?」
 フュミレイが突然そんなことを言うので棕櫚は首を傾げた。
 「おまえはニックの仲間だな。ソードルセイドの士官じゃない。」
 「良くお分かりで。」
 棕櫚はニッコリと微笑んだ。
 「まず喋りすぎだ。服装も態度も、平伏が感じられない。そして私を楽しむように眺める目。やれやれだな___ニックは国の指導者として手腕を振るわねばならない身だ、それに身重のソアラも気になる。ライでは物足りないし、フローラもこういうことには向いていない。適役と思われるサザビーは別行動中だったな___そこで裁量と際立った冷静さを持つおまえの出番だった。」
 棕櫚は思わず拍手した。何しろ自分への評価も含め、間違っているところが一つもない。
 「まるで人の心を覗き見たように言いますね。」
 「ふざけるな、おまえが見せつけてあたしを試したんだろ?」
 「___素晴らしい。」
 フュミレイは舌打ちする。
 「まったく、気に入らないな。」
 「いやすみません。」
 フュミレイは小さな笑みを見せた。実に久方ぶりの笑顔を。

 「___というわけだ。」
 「___『だ』じゃない。『です』でしょ。」
 フュミレイの首に巻き付いた髪が強く締まった。真夜中のアドルフの部屋。煌々と明かりが灯ってはいるが、かつて誰かから奪った闇色の壁という術法で外からは暗闇に見える。部屋の中でフェイロウは、本来の姿でフュミレイからの報告を聞いていた。彼女の肩を揉んでいるのはセルチックだ。
 「___」
 「言いなさい。」
 「___です___」
 ようやく髪が緩められた。
 「あんたは本当に素直じゃないわね。少しはセルチックを見習いなさいよ。」
 ローゼンスクが紅茶を入れてフェイロウに手渡した。
 「対処はどうする___のです?」
 「そうそう、いいじゃない。うぁっちぃ!」
 茶がこの世のものとは思えないほど熱く、フェイロウは舌を火傷しながらローゼンスクの頭を拳骨で殴った。
 「対処は?」
 小馬鹿にするような口調で言ったフュミレイをフェイロウはキッと睨み付けて締め上げる。
 「ふむ___あんたが行きなさい、フュミレイ。」
 「!?」
 「そしてリングを奪ってくるのよ。」
 フュミレイは絶句した。フェイロウがその手に炎のリングを遊ばせていたからだ。
 「貴様それは___!」
 髪がフュミレイの全身に伸びてきつく締めつけた。
 「ミロルグちゃんが持ってきてくれたわ。せっかくだからあたしがリング集めをやってやろうと思ってね。今回のはいい機会だわ。」
 「ソアラは___!」
 「知ったこっちゃないわよ。」
 髪が身体に強く食い込む。歯を食いしばっていたフュミレイはたまらず舌を突き出して喘いだ。
 「まあやりたくないっていうんなら、自爆させてやってもいいのよ。その上であたしがあんたに化けて奪ってくればいいんだから。」
 「くっ___」
 この術中から逃れる術はないのだろうか?フェイロウの髪がフュミレイの髪に絡みつき、そのうちの一本を抜き取った。彼女はどこからか人形を取り出すと、一念によってそれはフュミレイによく似た姿へと変わった。そしてそれの額にフュミレイの髪を押しつける。髪はスッと人形に吸い込まれていった。
 「なんか言ってごらん。」
 フェイロウの挑発的な笑み。髪の締め付けもなくなった。フュミレイは彼女を睨み付ける。
 「___このままではすまさない___!」
 『___このままではすまさない___!』
 二つの声がまったく重なった。一つはフュミレイの口、もう一つは人形の口から出た言葉だ。
 「この人形があなたの言動全てを教えてくれる。そう、あなたが何か文字を記せばこの人形も文字を記してくれるわ。」
 フュミレイは口惜しさに唇を噛んだ。人形に反唱されるのが煩わしく、それ以上はなにも言葉を発さなかった。
 翌日。
 「うーん、おみやげでも買っていきたかったですねぇ。」
 観光気分も心のどこかにあったりする棕櫚は、城の裏門に用意された馬車の前で、ケルベロス側の使者を待っていた。
 「待たせたな、棕櫚。」
 やがてそこに、皮のマントに身を包んだフュミレイが現れた。
 「寒かったろう、先に馬車に乗っていれば良かったのに。」
 「いえ、暑さ寒さはそんなに気にならないものですから。それよりも使者はどなたです?」
 「私だよ。」
 「えっ!?」
 棕櫚は驚いて目をパチクリとさせた。
 「とはいえ、伝令用と調査用にもう二人連れていくがな。彼らは別の馬車で移動する。」
 フュミレイに与えられた任務はリングの奪取。この棕櫚と二人きりで時を過ごすことで、リングの現状などがつかめればいいと感じていた。
 「しかし何故またあなた直々に___」
 「陛下の意志だ。私はソードルセイドに詳しいし、顔が利く。分かるだろ?」
 「なるほど___」
 棕櫚は納得した様子で頷くと、馬車の扉を開いてフュミレイをエスコートした。何はともあれ、彼女と相席できるのは興味深いことだ。この際だから色々聞いてみようと、彼は胸躍らせていた。
 「クラムからは急行列車に乗る。政治特権でロイヤルボックスを使うことになっているからな。」
 「いいですねぇ、期待しちゃいますよ。」
 棕櫚は浮かれた様子で答えたが、フュミレイはそんな彼を見て苦笑する。
 「___おまえは何を言っても本気に聞こえない男だな。」
 「ハハハハ。」
 棕櫚の軽薄な笑い声に答えるように、馬車が走り出した。クラムまではおよそ1時間だ。その間二人は事務的な会話に終始した。互いの私情に踏み込んだのは列車のロイヤルボックスに落ち着いてからのことだった。
 「お花差し上げますよ。いかがです?」
 棕櫚はフュミレイとより親しくなるために、自分の能力を示して見せた。彼が自らアプローチを取るのは、決まって魅力を感じた相手のみ。
 「?___ありがとう。」
 フュミレイは差し出された白い薔薇を手に取り、匂ってみる。高貴かつ濃厚な芳香がして、フュミレイは自然と目を閉じた。
 「いい香りだ___それにしても、おまえは手品師かい?」
 マントを脱いだフュミレイは、薔薇を自分のドレスの胸に差し、悪戯っぽく尋ねた。
 「みたいなものですかね。」
 「ソアラと出会った経緯が聞きたいな。」
 列車が走り出す。動きはじめた景色を一瞥して、フュミレイは尋ねた。
 「いいですよ。俺は百鬼さんやソアラさんからあなたのことを伺っていますが、あなたは俺のことを知りませんものね。」
 棕櫚は流暢にこれまでのことを語らっていった。好奇心旺盛な彼にとって、ソアラと同等の神秘を持つ人物との会話は、これ以上ない喜びだった。もはや自分がソードルセイドの使者であることを忘れてしまってはいないか、少々不安である。




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