3 情熱の炎
「やっぱりそうだったのか___」
百鬼は落胆した様子で呟いた。自室で身体を休めていた彼は、深刻な顔つきになった。
「今は眠っているわ。身体を縛って、草さんと小夏さんが見張っているけど___二人ともすごくショックを受けていて___」
フローラは城へと戻ってきていた。百鬼に事の次第を報告するためである。
「それにしてもおまえ大丈夫か?」
「ああ腕ならもう治療したから。」
「それはそうだが___」
百鬼が心配しているのは彼女の魔力。聖堂で大勢の人々の治癒に奔走し、草の重傷、そして今度の傷の治療。フローラは休む間もなく魔力を使い続けている。
「四条と石川の関係も分かったのよ。」
やってきたアウラールがフローラにそう教えた。
「石川は四条隆光の妻の家系だったんだ。」
「それじゃあ___」
「確実に繋がっていると思う。」
百鬼は確信の様子で頷いた。
「どうする?私はまた美濃屋に戻るけど。」
「ああ、俺も行く。」
二人が連れ立って美濃屋に向かおうとしたその時。
「大変だ大変だ!」
ライが猛然の勢いで駆け込んでくる。彼がやってきたのは百鬼の部屋に付随するテラスからである。
「どうしたんだ!?」
「街が光ってるんだよ!」
それが何を意味するか、瞬時に感じ取った百鬼はテラスに駆けだした。
「これは___!」
そして愕然とする。テラスから見える長屋街が閃光の海に包まれている。それは炎となって巨大に揺らめき、空に白い煙を立ち上らせている。長屋街のほぼ全域が炎に包まれているのだ。
「火事!?」
「鬼援隊なの!?」
フローラとアウラールも自らの目を疑った。
「決着をつけに来たんだ___珠洲丸が捕らえられたことがきっかけになったか!」
百鬼は部屋へと戻り、素早く皮のベストに片袖を通して百鬼丸を握った。
「アウラール!動ける奴は総動員で消火にかかれ!煉瓦街にも協力を要請するんだ!」
「あなたは!?」
「俺は美濃屋だ!四条はきっと珠洲丸を取り返しにくる!」
「百鬼さん!」
異常を察した棕櫚が部屋に駆け込んでくる。だが逆に百鬼が彼を押しのけるようにして飛び出した。
「うわっと。」
「ライは百鬼を手伝って!あたしと棕櫚は消火活動、いいわね!」
「ラジャ!」
三人も百鬼を追って部屋を飛び出していった。アウラールはまずは城の混乱を正すべく、急いだ。
外に出るなりきな臭い匂いが鼻を突く。長屋街の気温はソードルセイドにあり得ないほど上昇し、それ以上に考えがたいのが炎の勢いだ。幾ら長屋街が木造建築といっても、雪をかぶって湿気にまみれた中であまりにも火の回りが早い。
「あいつら!」
劫火の街に飛び込めば、逃げ惑う人々の他にすぐ鬼援隊を発見することができた。鬼援隊の忍びは手にした油壺付きの松明を所構わず長屋の屋根に、玄関に投げ込んでいる。百鬼は走り去ろうとする忍びを追いかける。しかし今にも焼け落ちんばかりの長屋の玄関先に倒れる人の姿が目に留まり、足を止めた。そこには崩れた天井の下敷きになり、息絶えた親子の姿があった。若い母親は、生まれて間もないであろう赤ん坊を胸に抱いていた。赤ん坊も息絶えてしまってはいる。それでもそこには、母親が必死に我が子を守ろうとする情景が克明に残されていた。
「___」
百鬼は絶句し、慄然と立ちつくして親子の骸を見た。
「百鬼!」
追いついてきたライが声を上げる。振り向きもしない彼に駆け寄ったライも、彼が何を見ていたかすぐに気が付いた。
「ライ___こんなことが許されると思うか___?」
百鬼は親子から視線を逸らさず、絞り出すように問いかけた。
「思わないよ___許されるわけがない!だから僕たちで倒すんだ!」
その瞬間、長屋が崩れて親子は燃えさかる材木の下に消えた。
「百鬼!あたしたちが消火するから、あなたは四条を!」
フローラが追いついてきた。彼女はすぐさま水のリングを輝かして消火にあたり、棕櫚も水分を豊富に含んだ植物を放っていた。
「いくぞライ!」
そして、百鬼とライは炎の街を突き進んでいった。
「何かしら___この妙な高ぶり___」
煉瓦街のいずこかにあるという鬼援隊のアジト。外の喧噪とは裏腹に、牢獄は静かなもの。それこそ物音の一つさえしない。さっきまでは何事かと思うほど騒がしかったアジトも、今やまるで蛻の空だ。
「気分が悪い___」
暗い牢獄の隅でソアラは額に手を当てた。昨日は眠ることだってできたのに、今日はどうしても気分が落ち着かない。目を閉じればすぐに悪夢が浮かび、頭の中をいくつもの悲鳴が駆けずり回るような___何ともいえない不快な気分だった。
「炎___なにかしら?」
自分でも分からなかった。しかし浮かぶ悪夢はどれも炎に包まれて終わる。それが不可解でたまらなかった。
「ああ〜___」
ソアラは頭のもやもやを消し去るように、長髪をかきむしった。
そのころ、火の海が広がるソードルセイドの空では、彼女が感嘆の声を漏らしていた。
「空から見れば実に美しいが___これほど残酷な芸術もあるまい。」
燃えさかる炎が織りなす巨大なキャンバスの生きた絵画。空から見ると人々の動く様が鮮明に照らし出され、その場所それぞれに生きたドラマが見える。
「人も魔族も変わらない___アンディ、おまえは私にそう呟いて愛を語った。だが違いはあるよ。魔族は残酷に強い生き物だ。私はこの状況下にあっても、リングを奪いにいけるのだから。」
ミロルグは上空から一人の人物に狙いを定め、一気に下降していった。
「さあ、はやく煉瓦街へ逃げて下さい!」
燃えさかる長屋に水をぶちまけ、フローラは飛び出してきた住人に指示をする。住人たちは彼女に感謝しながら長屋街へと向かったが___
「ぎゃぁぁっ!」
壮絶な叫び声。振り返ればそこでは、鬼援隊の忍びが残酷にも住人を切り捨てていた。
「なんてことを!」
忍びはそのままフローラに突進してくる。フローラも呪文で応戦しようとしたその時、不意に忍びの首から上が弾け飛んだ。
「___!?」
忍びは鮮血をまき散らしながらフローラの目前に倒れ込む。その光景に目を奪われた彼女だったが、すぐに壮絶な悪寒を感じ取って顔を上げた。
「ミロルグ___!」
「忍びの死に様にも情を抱けるおまえは幸せな女だ。まったく憧れるよ。」
フローラの顎先から汗の滴がしたたり落ちる。一方のミロルグはいつものマントこそしていないが、炎に照らされようと汗の一つも浮かべていない。
「あなたが絡んでいたのね___」
「そういうわけではないさ。私は四条を使ってリング集めをしていただけだ。」
「!」
ミロルグは右手のリングを示した。フローラは見覚えのあるリングに絶句した。
「まさかソアラを!」
「これは四条から貰った。案ずることはない、奴には考えがあるようでソアラは無事だった。もっとも___安心するのはおまえが無事でいられればだが。」
ミロルグの瞳が醸す威圧感。炎の輝きを受けても彼女の瞳は黒いまま。沸き立つ魔力がフローラの神経を震え上がらせる。だがそれでも、フローラとて幾度の修羅場を生き抜いてきた!
「これまでのようにはいかないから!」
「回復屋のおまえが私と戦えるか?」
「ウインドビュート!」
フローラの掌が輝き、突風がミロルグを襲う。ミロルグは素早く浮上して風をやり過ごし、素早い飛行でフローラとの距離を取って再び地に降り立った。
「暇じゃないんだ。一気に始末をつける。もっとも水のリングを渡すというならそれも結構。」
「いや!」
リングは最後の砦。命を張ってでも守らなければならない!即答がフローラの確信を物語る。
「そうか。ではリングを残して消えろ。」
急激に、ミロルグの周囲の炎が歪んだ。彼女の波動が炎さえ圧しているのだ。そもそも距離を取ったのは彼女自身が自分の呪文に巻き込まれないためである。劫火の中でミロルグが選んだのは、更なる火炎を巻き起こす呪文だった。
「ドラギレア!!」
それは炎を超越した炎。長屋に広がる炎さえも焼き尽くす地獄の火炎。輝いたミロルグの両手から吹き出した炎は、周囲のどの火炎よりも強く、熱く、激しく、大きく、フローラを飲み込もうとする。避けることも、受けることもできない。できるのは___
「水のリング___!」
立ち向かうことだけ!
ギュン!!
その瞬間はいつもと違った。リングに力を送り込むのではなく、リングから力が身体に流れ込むようだった。
「ウインドランス!!」
呪文の威力だけでもいつも以上だったが、合わせるようにして光り輝いた水のリングから吹き出した水流を風が取り込み、巨大な水の柱となってドラギレアに真っ向からぶつかっていった。そして水は炎を真っ向から押さえつけたのである。
「ほう___」
ミロルグは感心の笑みを見せた。余裕はある。食い止められたが押される感触はほとんどない。
「水の___リング___!」
むしろ押されていたのはフローラ。服の袖が焼け、両腕が痺れた。しかし彼女の危機を感じるようにして、水のリングはさらにその輝きを強めた!
「むっ___」
ミロルグの顔色が変わる。両手に魔力が逆流するような、押し込まれる感触があった。美しい指先の皮膚が少しだけ破れ、沸騰した湯のように血が弾けた。
「そのまま!」
風の渦流が炎を押し込んでいく。フローラはとにかく念じることに必死だった。それこそ気でも狂ってしまいそうだった。だがミロルグにも味方はいるのだ。
「生憎だが、今日は私もリングを持っている。それを忘れるな。」
残酷なまでに冷静な一言。魔道を極めた彼女にとって、リングに眠る魔力を呼び出すなど雑作もないこと。
「そんな!」
すぐに炎のリングが輝きを発し、ドラギレアは一気に隆盛する。爆発的に威力を増した火炎の前に、水流は成す術ない。力の歯止めを失うように弾け飛び、一瞬にして無防備になったフローラを炎が飲み込んだ。
「____ぁっ!!」
声が出なかった。口の中が一挙に焼き尽くされ、肺が燃えさかる。全身に引き裂かれるような痛みが走り、髪が燃えるのが分かった。意識が途絶える瞬間、自分の皮膚が崩れるのを感じた。これが死なんだと直感する。
シュルルルッ!!
青々とした植物がフローラの身体を包み込み、炎から救い出す。棕櫚だ。
「ッ___また貴様か。」
ミロルグは不愉快そうに呟き、姿を消した。
「なんてことを___」
棕櫚はフローラの姿に愕然とし、思わず顔を覆った。彼女の有様はまるで___生きていることを喜んでいいのか、疑心暗鬼してしまうほどだったのだ。
火の手はソードルセイドの長屋街全体に広がっている。それは美濃屋とて例外ではない。
「小夏!はやく逃げなさい!」
すでに宿泊客と使用人を逃がした女将の千春は、なかなか旅館を出ようとしない小夏を急かした。
「すずことみっちゃんがまだ部屋にいるのよ!」
「小夏!」
だが小夏は無謀にも、燃えさかる宿を奥へと進んだ。
「珠洲丸さん!珠洲丸さん起きるんだ!」
草は未だに目覚めない珠洲丸を必死に揺すり起こしていた。すでに彼女を縛っていた縄は解いたのだが___
「珠洲丸さん!」
彼女の頬を掌で軽く叩く。火はもはやすぐそこまで迫っている。煙もたちこめはじめた。
「ん___」
「珠洲丸さん!」
珠洲丸がうっすらと目を開ける。草はここぞとばかりに呼びかけ、彼女は意識を取り戻した。しかし___
「貴様っ!」
珠洲丸は足で草の胸を蹴飛ばし、素早く身を引いた。距離を置いてはじめて、部屋が炎に包まれはじめていることを知る。
「火事なんだ!今は逃げないと!」
「黙れ!」
珠洲丸は足下に転がっていた自分の短刀を拾い上げ、刃を煌めかせる。
「なに馬鹿なことやってるんだ!」
さすがの草も血相変えて言い放った。
「このまま戻っては四条様に顔向けができない!」
「四条___鬼援隊の親玉か!そんな奴のどこがいいっていうんだ!」
「あたしには四条様しかいない___なっ!?」
その時だった。鬼援隊の忍びは美濃屋にいる珠洲丸を消すべく、彼女の部屋の屋根に爆弾を叩きつけた。威力はさほどでもなかったが、天井が崩れ、一気に珠洲丸を襲った!
「きゃああっ!」
「珠洲丸___!」
「美濃屋の方も燃えている___!」
「急ごう!」
百鬼とライは汗にまみれながら走った。美濃屋まではあと少し。途中幾度か鬼援隊の忍びに襲われたが、気迫で勝る二人の相手ではない。だがその気迫にさえ歯止めを掛ける砦を、四条は用意していた。彼は火災を考えて広く作られた通りの中央に、炎の輝きを浴びて立ちつくしていた。
「田村___!」
百鬼が足を止めた。ライも踏み止まる。
「田村って___?」
「久方ぶりだな、ニック。」
田村は穏便な口調で言った。
「あんたが鬼援隊だったってのには正直驚いたぜ___でも光晴の傷口を見て分かった。こいつはあんたの太刀筋だってな!」
百鬼は怒りを込めて田村を睨み付け、百鬼丸の鍔を親指で押した。
「誰なんだい?」
「俺の刀の師匠。ソードルセイド一の刀の達人だ。」
ライも気を入れ直して改めて田村を睨み付ける。田村はゆっくりと、その美しい刀身を炎に曝した。
「抜け、ニック。」
そこは美濃屋に向かうためにどうしても通らなければならない道だ。ここに砦を張ったということは、この先には確実に四条がいる。そんな百鬼のはやる気持ちを察したように、進み出たのはライだった。
「おまえの相手は僕だ!」
そして言い放った。
「ライ___!」
「百鬼は先に行くんだ。田村さん、僕じゃ不服かい?両刃剣の使い手として勝負を挑むよ!」
田村は小さな笑みを浮かべた。
「良かろう。もとよりニックは四条の獲物だ。」
その答えを聞いて、ライも小さな笑みを見せて剣を抜いた。
「さあ先に行ってよ、百鬼。」
「すまん___田村は今までおまえが戦ってきたどんな剣の使い手よりも強い!はじめから全力でやるんだ!」
百鬼はライに助言を残し、葛藤を振り切るように田村の横をすり抜けて走り去っていった。
「うおおおお!」
草は渾身の力を込め、炎の熱気に背中を焼き付けながらも崩れ落ちた瓦礫を持ち上げようとしていた。瓦礫の下には肩から下、ほぼ全身を挟まれた珠洲丸がいた。
「くっそー!」
だがどうしても完治とは言い切れない脇腹が痛み、彼の足腰が先に参ってしまう。一瞬持ち上がりかけるような気がしてもそれきりだ。珠洲丸が抜け出すほどの隙は生まれなかった。
「もうやめて___」
珠洲丸は困惑の顔で首を振った。
「駄目だ!俺は珠洲丸さんを助ける___!」
「でも___あなたまで死んでしまう!」
襖はすでに炎に包まれ、部屋を浸食していく。いつまで形を保っていられるか分からない部屋の中で、草は必死に珠洲丸の救出を試みていた。珠洲丸は命を懸けてまで自分を救おうとする男の存在に、我を失っていた。
「俺も珠洲丸さんも生き残ればいいんだ___!」
草は再び渾身の力を込めた。しかし及ばない。
「畜生___!」
「何故そこまでするの___私は四条様の___」
草は憂いに満ちた珠洲丸の言葉に、彼女が歩んできた狂った現実を思い知らされる。そしていてもたってもいられずに声を荒らげた。
「四条四条って、四条が君に何をしたっていうんだ!」
「愛してくれたわ___」
「そんな奴が君がいるのを分かっていて美濃屋に火を放つのか!」
「分からない___!」
珠洲丸の目が微かに潤んでいた。
「俺だって、小夏だって、ニックだって、長屋のみんなだって!珠洲丸さんのことが大好きなんだ!なのになんで四条なんだよ!」
それは珠洲丸の胸を抉る、情熱的な言葉だった。そして彼女は自分の過ちを感じ、同時に自分が皆を裏切っていたことを痛感した。
「みっちゃん!すずこ!」
驚いたことに着物の裾を膝上まで引きちぎった姿で、小夏が部屋へと駆け込んできた。
「何で逃げないんだ小夏!」
草が憤慨する。だが小夏も手向かうように怒鳴った。
「だって!放っておけるわけないじゃない!」
小夏は袖をまくり上げ、草の横に付いて瓦礫に手を掛けた。
「すずこ、あたしは今でも信じてるから。」
珠洲丸にはもう何の言葉も返せなかった。ただ目尻から涙があふれ出るだけ。
「いくぞ!」
「ええっ!」
二人は全力を賭した。全員が生き残るために。
「四条!出てこい!」
美濃屋の近くまでやってきた。この辺りはすでに人気に乏しく、炎が音を立てて長屋を崩しに掛かっている。大量の木が一度にへし曲がるような音が響き、近くの長屋が倒壊した。火の粉が弾け飛び百鬼は顔をしかめる。その時、彼の背後には奴が迫っていた。
「っ!?」
珠洲丸の紐のような生易しいものではない。重量感のある鉄の鎖が撓りながら百鬼の首に絡みついた。そして___!
シュッ!
鋭い小太刀は皮のベストを切り裂き、百鬼の背中に線を刻みつける。血が放射状に弾け飛び、百鬼は激痛に顔を歪めた。
「よう。」
そして声。奴は片手で鎖を強く引き、百鬼の耳元に口を寄せて呟いてみせたのだ。その憎らしい声色で。
「うごっ!」
百鬼は鞘ごと刀で後方を突く。それは四条の脇腹にめり込み彼は鎖から手を離して後ずさった。百鬼はすぐさままとわりつく鎖を外して放り投げる。背からあふれ出る鮮血で、彼の装束は赤色に染まりだしていた。
そして二人は遂に対峙したのだ。
因縁を盾に傍若無人な振る舞いを見せる四条寸之佑と、因縁の火種となった一族の末裔であるニック・ホープ。
「四条___!」
「でかくなったもんだなあ、あのときのガキが生きて帰ってきたんだから。」
四条は小太刀についた百鬼の血液を一嘗めし、すぐに唾と一緒に吐き捨てた。
「決着をつける!四条!」
長き戦いに終止符を打つため、百鬼は伝家の宝刀を抜いた!
ギンッ!!
甲高い音を立て、刀と剣がぶつかり合う。寸でのところで田村の一太刀を食い止めたライだったが、腕には刃が一瞬だけ掠め、浅い裂傷が付いた。一瞬の鍔迫り合いの後、互いにタイミングを盗んで引き合い、距離を取る。
(攻める隙がない___)
田村の刀は疾風怒濤。素早く、そして重く、ときに不意をつくようにしてあり得ない角度から繰り出され、軌跡の弧の大きささえ時々によって変わる。ライはそれを直感的な反射神経でかわすか、剣を盾に守るしかなかった。
彼も剣術戦闘を数多く経験してきた身。田村に対して攻めに転じれば、田村は確実にこちらの隙を見つけて的確に刀を走らせる。それは想像できた。
「素晴らしい防御だ。」
田村は構えを解き、ライに賛辞を送る。ライは決して構えを解かない。
「しかし攻めることはできないようだな。」
田村は嘲るように言うと、刀から左手を放した。
「加減してやろう。私は片手でいい。」
「!」
それはライの癇に障る言葉だった。あれほどの長剣を片手で扱うことなど不可能に近いのだ。明らかにこちらを見下した態度だった。
「なめるな___!」
ライは剣を握り直し、ついに攻めに転じた。田村に向かって一気に駆け出す。田村は冷静な瞳を冷徹に変え、片手のまま中段に整然と構えた。
「うあああっ!」
ライが斬りかかる。剣を振り上げ、斜め下に向かって切り下ろす袈裟切りの形。田村は彼が剣を振り下ろす瞬間まで微動だにしない。はったりだ!そう心に言い聞かせ、ライは剣を振り下ろした!
「!」
田村の身体が横に流れる。剣の軌跡をまったく読みきって、彼は掌でライの剣の横腹を押しのけた。まったく信じられない。しかし田村は精密だった。
ズッ!
ライの左肩に田村の刀が食い込み、切っ先は肉を切り裂いた。片手であるからこそ身体を開き、ライに対して横を向いた状態でも「突く」ことができる。腕の分だけ射程距離は伸び、ライには喉笛に飛んできた切っ先から逃れるだけで精一杯だった。
「この!」
右腕一本で、地にめり込んだ剣をそのまま田村に向かって切り上げるライ。
ガッ!
しかし田村は素早く刀を引くと、こともあろうかその柄でライの剣を受け止めたのだ。
「馬鹿な!」
ライの剣は田村の刀の柄と鍔の接点に食い込み、完全に止まった。田村はその勢いを利して後方に飛び、ライの剣の射程から完全に逃れた。
「武具の使い道を刃だけとは思わぬ事だな。」
ライは田村の力に気圧された。利き腕である左の肩を切り裂かれたことはあまりにも大きい。だがそれ以上に、刀の全てを知り尽くしている田村の偉大さに後込みした。
「貴様の剣は片手で扱うことはかなわない。あまりにも大きすぎるからな。そして両刃の剣は直線を描く武器だ。しかし刀は、この流麗な曲線をして様々な軌跡を描くことができる。それが差というものだ。」
直線___
両刃___
ライの頭の中に二つのキーワードが浮上した。彼の眼差しに強さが戻り、田村に学ぶという心が生まれた。
(何かに気が付いたか___)
田村も彼の顔つきが変わったと感じる。そして___
「いくぞっ!!」
ライは左肩の痛みも顧みず、両手で剣を握った。田村は一方で、刀を握った右手を高々と抱え上げた。まるで切っ先で空を指さすように。
「うあああっ!」
ライは剣を振りかざして田村に斬りかかる。そこまでは先程と同じ。しかし彼は距離を見計らうと田村に向かって飛んだのだ!
「!」
跳躍とは不安定なもの。ライは一気に田村との距離を縮め、そして渾身の力を込めて剣を振り下ろす。
「直線の軌跡は変わらぬ。」
だが軌跡を読みきった田村はほんの一歩後ずさるだけ。ライの切っ先は田村の流れた長髪を少しだけ切り落とし、着地のために彼は膝を深く曲げた姿勢になっていた。田村の目前にはまったく隙だらけのライがいる。田村は天に向けた剣を、断頭台の如く彼に振り下ろすだけでよかった。
鮮血が舞い飛ぶ。だが飛んだのはそれだけではなかった。
「___」
田村の腕と刀も、である。直立の状態ではあまりの負荷のため、まっすぐに振り下ろした剣をすぐさま同じ軌跡で振り上げることはできない。だがライは跳躍を用いることで着地の力を身体に蓄え、それを大地にぶつけた反作用を利用した。つまり、膝を曲げ腰を落としたことで、腕だけでなく、下半身の力も加えることで剣を勢い良く振り上げたのである。
「見事。」
結果としてライの剣は田村の断頭台を切り落とした。もちろん彼が全てを計算してやったわけではない。天性の感が成せる一撃だった。
「この!」
腕を切り飛ばされても倒れるどころか顔色一つ変えない田村に、ライは追い打ちをくわえようとする。
「無理をするな、俺はもう戦えぬ。」
田村の一言がライの張りつめたものを消し去った。無理をさせた左腕に凄まじい衝撃が走り、彼もまた剣を落としてしまう。
「おまえのような仲間を持つニックの強さは推して知るべきか。」
田村はゆっくりと、通りに突き刺さった己の刀へと近づいていった。右腕はしっかりと柄を握ったままだった。田村は刀から右腕を退けると、左手で抜いた。そしていずこかへと歩き出した。
「どこへ!?」
ライは陽炎に霞む彼の背に問いかけた。
「けじめをつけにいく。」
ライが田村を見たのはそれきり。近くではまた長屋が一件崩れ落ちていた。
「この野郎!」
百鬼の剣が空を切る。横へ飛んだ四条を追って百鬼はさらに斬りつけた。
「っ!」
だがドラゴンブレスの火炎が百鬼丸の刃をかいくぐって彼の顔面に打ち付け、燃え上がった。そして追い打ちをかけるように彼の額に四条の跳び蹴りが炸裂した。
「うがっ!」
百鬼はよろめきながら転倒した。四条の呪文は未熟なため持続性がない。しかしそれでも威嚇程度には充分だった。
「弱えなぁニック___手応えねえぜ。」
百鬼は手こずっていた。近づけば巧みな身のこなしで攪乱され、離れれば呪文やくないが飛んでくる。四条の戦いぶりも見事ではあったが、不意打ちに喰らった背中の傷が大きな枷になっているのは言うまでもない。
「どうする___」
百鬼は立ち上がり、再び百鬼丸を正眼に構えた。だがダメージと周囲の熱気で彼は全身に汗を浮かび上がらせ、肩で息をしていた。
「迷ってるならこっちからいかせてもらうぜ。」
四条はよれよれの忍び装束の内側から何かを取りだし、百鬼に向かって投げつけた。百鬼は咄嗟にそれを切り捨てたが、その瞬間それは激しく破裂し、強烈な光を拡散させた。閃光弾だ。
「!」
百鬼の視界が一瞬にして吹っ飛んだ。危機を感じた瞬間には背中に痛みが走る。それは投げつけられたくないだったが、百鬼は苦し紛れに振り返って刀を振るう。しかし刃は空を切り、その直後、右腕が引き裂かれた。
「ぐああ!」
聞き苦しい音。弾け飛んだ鮮血は、通りに飛び散ると熱気であっという間に乾いてしまう。ただそれをまたすぐさま潤わせるほど彼の傷は深かった。四条の小太刀は百鬼の右腕を手首の辺りから肘のあたりまで縦に切り裂いたのだ。肉が捲れ、骨が露出するほど深く。四条も返り血を浴び、百鬼は握っていられなくなった伝家の宝刀を落として蹲る。
「一撃で殺さなかったんだ、感謝しろよ。」
彼のすぐ側には壮絶な殺気がいた。
「もうすこしなのに___!」
草と小夏の力で瓦礫は少しだけ持ち上がる。珠洲丸も必死に力を込める。だが身体が抜けない。もはや部屋は原形をとどめていない。息苦しくなることもあったが、そこはむしろ天井に開いた大穴が煙を空へと導いてくれていた。
「もういいよ二人とも___」
「冗談じゃない!」
草は手をすり切らせながら、必死に力を込める。小夏の顔も煤けて真っ黒だった。
「小夏!」
声を聞きつけたか、なんと火炎地獄の美濃屋の一室にまた一人やってきたのだ。
「母さん!?」
女将の千春である。
「珠洲丸さん___!?」
事の次第を察した千春は、すぐさま瓦礫に駆け寄って手を掛けた。
「母さんどうして!?」
「娘を見捨てていけるわけがないでしょう。さあみんな力を入れて!」
千春の言葉が珠洲丸の心を揺さぶった。
娘を見捨てて___
自分は、父に見捨てられたのかも知れない。
「やあああっ!」
草の渾身の一声。三人の力で遂に瓦礫が動いた!
「すずこ!」
珠洲丸はここぞとばかりに肘を張って、遂にその身体を脱したのである。
「やった!」
「立てるかしら?」
「大丈夫です。」
千春の問いに、珠洲丸はしっかりと頷いた。
「さあ、急いで逃げよう!」
四人は飛び出す。その直後、部屋は崩れた。
「ニック。」
右腕を押さえて蹲る百鬼は、背後に四条の気配と小太刀の鋭敏さを感じていた。
「なんだ___?」
しかし危機的状況にあっても彼の眼差しは死んではいない。絶望から立ち上がることは、ホープ家の伝統なのだ。かつて祖父のエリックが、ケルベロスを追われた絶望の淵からソードルセイドを築き上げたように。
「ソアラはいい女だな。俺も気に入ったよ。」
「___それがどうした。」
「今日俺が勝ったら、俺がソアラを貰うことに決めた。その条件であいつは生かしてやっている。」
百鬼はそれを聞いて思わず笑みを浮かべた。
「そいつは残念だったな___勝つのは俺だ!」
百鬼は素早く寝そべると、四条の足をすくい上げるように蹴飛ばした。予想外の攻撃に、四条はこの戦いで初めて地に背をつける。しかし素早く立ち上がった。その時には百鬼も左手に百鬼丸を握り、距離を取っていた。再び真正面での対峙の時が訪れた。
「てめえにたぶらかされるソアラじゃねえさ___」
「惚れさせてやる。」
四条の不埒に腹が立った百鬼は一つ歯を噛みしめた。
「珠洲丸のようにか!?」
そして怒鳴りつけた。
その時、三つの奇跡が起こった。一つはちょうどその時、珠洲丸が美濃屋を飛び出したこと。一つは彼女が天井に潰されたのにも関わらず、充分に動けるほど健常だったこと。最後の一つはこの劫火の中にあって、研ぎ澄まされた珠洲丸の聴覚が百鬼の声を聞きつけたこと。
「すずこ!?」
煉瓦街へ向かうべきなのに、珠洲丸は声に引き寄せられた。小夏が気が付いたときには彼女はもういなくなっていた。
「笑わせるなぁニック。珠洲丸はよく働く犬さ。」
「貴様___」
四条はにやつきながら続けた。
「あいつがいると石川屋との繋がりが保証される。元禄もそのつもりで俺に珠洲丸を献上した。だから俺はあいつを飼い、いろんな芸を教えてやった。それだけだ。」
百鬼の憤怒は頂点に達する。
「てめえ本気でそんなことを!」
「犬が飼い主に懐くのは当然だろう。そして飼い主は、ときに残酷に接するものだぜ。」
四条は声を上げて笑った。百鬼はその声を止めたくてたまらなかった。
「てめえは最低の男だ!俺がてめえからソアラも___珠洲丸も救い出す!」
「その身体でよくいうぜ!馬鹿王子!」
四条が突っ込んできた。百鬼は失血で霞む意識の中、必死に百鬼丸を構えた。だがそれを見透かすように、四条は掌を突き出したのだ。
「!」
吹き出した炎から逃れるために、百鬼は横に飛んだ。当然そこには小太刀を振りかざした四条が待っていた。
「くっ!」
小太刀と百鬼丸がぶつかり合う。しかし重心の座っている小太刀に対し、片手の太刀では分が悪い。
「プラド!」
さらに四条は覚えたての呪文を至近距離から放ち、百鬼は吹っ飛んだ。百鬼丸は通りに転がり、彼は燃えさかる長屋の目前に倒れた。
「長屋の火の中で死ぬのもいいかもなぁニック。でも俺はおまえの首が欲しいんだ。勝利の証ってやつのためにね。」
倒れる百鬼の側へ、四条は歩み寄った。百鬼の身体にはもはや力が入らなかった。百鬼丸も手放してしまった今、彼に抗う手段は残されてはいない。ただ俯せの横顔で、四条が翳す小太刀を見ることしかできなかった。
「終わりだニック。おまえの子は俺が貰ってやる。」
屈辱的な言葉を吐いて、四条は小太刀を振り下ろした!
飛び散る赤い滴。
刃は肉を抉り、貫き、長き因縁に終止符を打った。
だが決着をつけたのは、二人の男ではない。
一人の女だった。
「な___んだ___と______」
四条は必死に首を捻って、自分の背中を見ようとした。
自分の背から胸へと突き抜けた百鬼丸を握る人物を。
だが見ることはできなかった。女は刃を捻り、四条は喘ぐ。彼が知ったのは彼女の声を聞いたときだった。
「私は___私はお慕いしておりましたのに!!」
珠洲丸の全ての情熱が込められた、悲痛な叫び声。
「___女だな、おまえ。」
四条は小さく口元をほころばせ、こぼれ落ちた小太刀が百鬼の顔の横に転がる。
それが最期だった。
「ああ、なんということだ!四条め、この石川にまで火を放つとは!」
石川屋主人、石川元禄は金を蓄えた蔵の中で、ありったけの金品を懐に詰め込んでいた。
「珠洲丸まで献上した私の恩を忘れおって___!」
「その心が、あの娘を腐らせた。」
「!?」
元禄は振り返る。そして恐怖のあまり腰を抜かし、失禁した。
「た、たた、田村!」
彼の背後には田村幸正が立っていた。
「貴様だけは生かしてはおけないと思ってな___俺は死に場所をここに決めたのだ。」
「や、やめてくれ___!」
元禄の懇願虚しく、田村の左手に握られた刀が煌めいた。そして全てを終えた田村もまた___
長きにわたるホープ家と鬼援隊の因縁は終結した。しかしそれは炎に包まれた長屋街と共に、大いなる遺恨として永遠に語り継がれるのかも知れない。
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