2 決着の時機

 いつもの紋付きを脱ぎ捨て、庶民的な着物に半纏姿の草は、鼻歌混じりにソードルセイドの町外れをうろついていた。できるだけ人気が少ない通りを選び、降りしきる雪に寒気を覚えながらも、さも上機嫌を装ってふらついていた。
 「どきどきでやんす___」
 そんな彼を物陰から見つめる三吉。気が気でない様子だった。
 これはまさに囮捜査。辻斬りの犯人をその手で引っ捕らえるために、彼らは危険な賭けに出た。これは草の提案であり、同僚たちにも報せていない独断の行動。昼にいつもの飯屋できつね蕎麦を食べながら決めたことだった。
 (早く出てこい悪党め___!)
 草が苛立ちを感じはじめたころ、通りの奥手からこちらに向かってくる人影が見えた。男が軽い足取りで近づいてくると、草は懐中の十手を握りしめ、緊張を隠しながら進んだ。
 「こんちは、おっといけねえ、こんばんはだね。」
 草の身なりを見て商売仲間とでも思ったのだろうか。男は簡単な挨拶をしてすれ違い、寒そうに肘を抱えながら立ち去っていってしまう。
 「違ったか___」
 緊張が解け、草は一つ白い息を吐き出した。気を取り直してまた鼻歌混じりに歩き出す。
 「ああ、心の臓に悪いでやんすよ___」
 押さえつけなければ胸から心臓が飛び出しそうだった。三吉は緊張の連続で、草よりも先に自分が参ってしまいそうだった。
 さて、ふらつきながら歩くこと三十分。辻斬り犯はおろか、すれ違う人さえいない。雪の絨毯は当たり前のように厚みを増し、草の足取りも重くなってきた。
 「ああ、寒いでやんす___もうそろそろ切り上げてもよさそうだってのに。」
 三吉も寒さが堪える様子で、草に遠巻きについて歩くのが億劫になってきた。
 サクッ___
 背後の音。それは雪を踏みしめた音だった。
 「?」
 振り返った三吉。目に映ったのは雪越しの月光に照らされた一人の男。長い袴に灰色の装束。長髪の侍は刃を月明かりに曝していた。
 「ひっ!!」
 一瞬の出来事だった。侍が振り下ろした刀は三吉の首筋から腹まで、一気に切り開いた。 「___ああぁぁ___!」
 それはむしろ声ではなく、切られた衝撃で三吉の身体が発した怪音だった。そしてそれは近くにいた草の耳にも届く。
 「まさか!」
 草は声の出所に駆けた。不安が胸を渦巻き、すぐに現実の波となって彼を飲み込んだ。先の路地に隠れていた三吉は、通りに身体を半分飛び出させていた。仰向けに、血を溢れ出して雪を染めながらピクリとも動かない。蠢いているのは彼の傷口だけだった。
 「三吉ぃ!」
 草は壮絶な後悔と自責の念に襲われ、彼に駆け寄った。目を見開いて驚きに我を失った死に顔。今まで幾つも見てきた辻斬りの被害者と変わらない形相だった。
 「!」
 事件の衝撃によって草の感覚は研ぎ澄まされていた。彼は素早く十手を抜き、振り向き様に突き出した。甲高い音がして、十手は血塗られた刃を食い止めていた。
 「よく止めた。」
 低い、重みのある声。影になって顔は見えないが、長髪で長身痩躯、侍風の男。ついに草は辻斬り犯を目の当たりにしたのだ!
 「てめえが三吉を!」
 草は力任せに十手で刀を押し込んだ。その力は侍を驚かせたが、感情に走った挑戦者は冷静な実力者には叶わない。
 「なっ!」
 侍は素早く身を引いた。草はつんのめるように前へと進み、身体を横に流した侍は、がら空きになった彼の脇腹へと刃を振るった。
 「っ!」
 痛みが全身を駆けめぐったが、草は呻き声さえあげなかった。脇腹から血を吹き出しながらも、そのまま前転して立て膝ながら侍に十手を向けた。
 「ほう___見上げた根性だ。」
 草の着物を血が赤く染めていく。切り裂かれた脇腹を押さえる手はすでに真っ赤で、あふれ出る血液は彼の視界を揺さぶった。
 「その心意気に免じて、次で仕留めてやろう。」
 侍は上段に刀を構えた。捕らえてやりたいという意志はある、しかし身体はいうことを聞いてくれない。
 「___ここまでか___」
 草が玉砕覚悟で十手を握る手に力を込めたその時。
 「きゃああああっ!」
 「!」
 たまたま通りかかった女性が、血に染まった雪を見て悲鳴を上げる。それは冷え切った空気の中、実に良く響いた。
 「ちっ___」
 機を逸したと感じた侍は、そのまま闇の中へと走り去っていく。
 「しくじったか___」
 闇を駆け抜ける侍の名は田村幸正(たむら ゆきまさ)。四条の古き友人であり、鬼援隊のもう一つの核を成す男。完璧なまでの辻斬りにぼろが生じたことに、彼は舌打ちをしていた。
 「待ちやがれ___!」
 根性で発した一声。しかしその直後に草は口から血を吐き出し、そのまま前のめりに雪の上へと倒れた。

 「光晴!!」
 報せを受けた百鬼は、フローラと棕櫚を伴って美濃屋に駆け込んできた。あのとき悲鳴を上げた女性は、美濃屋に入ったばかりの女中だったのだ。現場も近く、虫の息だった草はすぐに美濃屋へと運ばれた
 「みっちゃん___」
 小夏は献身的に草の額に浮かぶ脂汗を拭いてやる。側では医師の老人が予断を許さないという顔をしていた。その重苦しい空気を消し飛ばすように、廊下から騒々しい足音が聞こえてきた。
 「光晴!」
 「うぐっ!」
 勢いよく襖を開け、息を切らした百鬼が叫んだ。その声が傷に響き、草は身体を痙攣させた。
 「これ!静かにせんか。」
 老人に注意され、百鬼も漸く落ち着きを取り戻す。小夏が今にも泣き出しそうな顔でこちらを振り向いていた。
 「どうなんだ、光晴は。」
 「生きてはおるが出血が酷くて___もうあまりもたんかもしれん。」
 「そんな___!」
 小夏はついに顔を手で覆い隠してしまう。
 「何とかならないんですか?これではあまりに___」
 百鬼に遅れてやってきた女将の千春も、目に涙をためていた。
 「何とかなるさ。生きているなら___フローラ!」
 「ええ。」
 フローラの右手が強い輝きを発し、少し時間は掛かったが草の傷は癒え、彼の顔から汗が引いていった。彼は息を吹き返したのである。老人はただ唖然とし、小夏はついに緊張の糸が切れてワンワンと泣き出してしまった。
 「ニックか___久しぶりだな___」
 草はまだ身体が痛むのだろう、掠れた声で呟いた。
 「ああ。おまえが本当に岡っ引きをやっていたこと、俺は嬉しく思うぜ。」
 百鬼は彼の手を取り、力を送り込むつもりで強く握った。
 「なあ君、三吉も治してやってくれよ___」
 草の願いにフローラは首を横に振った。
 「___死んだ人を生き返らせることはできません。」
 それを聞いた草は、一際落ち着いた顔になって目を閉じた。しかしその唇は小さく震えているようだった。
 「囮捜査をやったんだ___馬鹿だったよ、自分の実力も弁えないで___三吉を死なせて___」
 草は目を閉じたまま語った。声は消え入りそうになったり、強まったり___閉じられた瞼の端から涙の滴が零れた。
 「言うなよ、光晴___」
 「なあニック。」
 草は目を開け、真っ直ぐに百鬼を見つめた。
 「俺を切った男は、背が高く、痩せ形で、髪の長い男だ。格好は胴着に袴、声の低い侍風の男だった。どう考えたって長屋の人間さ。間違いない、あいつはきっと鬼援隊だ___!」
 「男でしたか。」
 無言でいた棕櫚がポツリと呟いた。
 「あんたは?」
 「棕櫚っていうんだ。旅仲間さ、彼女はフローラ。」
 百鬼は漸く笑顔になって、草に二人を紹介した。ちなみにライは留守番だ。
 「するとあんたが美濃屋の事件を解いてくれた人か___」
 「棕櫚、男かといったな。まさか辻斬りも珠洲丸がやったと思ったのか?」
 百鬼は何気なく彼に問いかけたつもりだった。しかしその一言は草と小夏の顔色を変えさせた。
 「珠洲丸がやったって___それどういうこと!?」
 小夏は血相を変えて百鬼に問いかけた。
 「まさかおまえ、珠洲丸さんを疑っているのか!?どうして!友達だろう!」
 草も痛む身体を押し、半身を起こして百鬼の襟首をつかまえた。
 「厳しくいかなきゃならないときだってあるんだ。俺だって信じたくはないが___あいつが本当に鬼援隊なら、俺はあいつの目を覚まさして、四条から開放してやりたいんだ。」
 百鬼の顔が、目が、言葉があまりにも真剣で、小夏も草もそれ以上のことは言えなかった。
 「悪いな二人とも、今後はなるべく珠洲丸との接触を避けてくれ。フローラ、光晴についてやってくれるか?」
 「ええ。」
 草は信じたくなかった。しかし百鬼をあそこまで真剣にさせるのは、確固たるものを得ているからだ。だがそれにしたって、愛しの石川珠洲丸を疑う気にはなれなかった。

 夜更け___
 鬼援隊のアジトに一人の訪問客があった。黒いマントに身を包んだ黒髪の美女。
 「よう、待ってたぜミロルグ。」
 四条は魔族の女を笑顔で迎え入れた。ミロルグもまた小さな笑みを見せて畳敷きの部屋へと足を踏み入れた。
 「早速見せてもらおうか。」
 「ほら、こいつだ。」
 ミロルグが腰を下ろすとすぐに、四条は彼女に小さなものを放り投げた。
 「ほほう___」
 ミロルグはそれを光に翳してみる。それは紛れもなく、四条がソアラから奪った炎のリングだった。
 「本物だ。良くやってくれた。」
 ミロルグは納得の様子で頷き、リングに指を通した。
 「ソアラって女が持っていた。」
 四条は鼻を高くしながら言った。
 「ソアラか___いるのか?」
 「いるぜ。なあそれよりもだ___」
 「褒美か。」
 ミロルグは妖艶に微笑んだ。
 「俺はおまえの体がいいなぁ。」
 四条は相変わらず包み隠さない。
 「私だって女だ。体を許すのは好きになった男だけにしたい。」
 ミロルグがそんなことを言うと、四条は驚いたような顔をして笑い出した。
 「魔族ってのにも愛があるのか?」
 「無論だ、実にプラトニックだよ。」
 それを聞いた四条は声を上げて笑った。
 「爆発呪文プラドをくれてやる。それで納得しろ。」
 「わかったよ。」
 四条の潜在的な魔力を引き出し、ドラゴンブレスとマグナカルタを与えたのはミロルグだった。これはこの地方にあると目された大地のリングの所在を、彼が突き止めてくれたことに対する報酬だった。ミロルグは四条を利用し、四条は利用されることで力を得ていたのだ。
 (それにしても気になるのは、四条が何で呪文を使えるのかってことよ___)
 そのころ、ソアラは牢獄の中で座り込み、岩壁の冷たさに震えながら考えていた。
 「?」
 不意に奇妙な気配を感じ、ソアラは牢獄の扉に付いた格子窓に目を向けた。コツコツ___と、忍びらしからぬ靴の音が聞こえてきた。誰かがこちらに来るのだ。
 「ソアラ。」
 格子窓の向こうに現れた顔に、ソアラは驚いて目を見開いた。
 「あんた___ミロルグ!」
 反射的に飛び上がり、彼女は攻撃的な態度をとる。
 「案ずるな、私は様子を見に来ただけだ。」
 ミロルグは穏やかに言った。だがソアラは彼女を睨むのをやめない。
 「あんたが裏で糸を引いていたってわけか、どおりで四条が呪文を使えたり、リングに目を付けたりするわけだわ。」
 「私はそこまで計算高くないよ。彼に大地のリングの所在を突き止めるように依頼はしたがね。」
 ミロルグは小さな笑みを浮かべてソアラの詮索を否定した。
 「子供ができたそうだな。それが気になってここへ来た。」
 「___だからなによ___」
 ソアラは本能を剥き出しに、ミロルグに警戒を向ける。母となるものの当然の心理だとミロルグも納得していた。だから彼女は___
 「取れ。」
 格子の隙間から黒いものを差し込んだ。
 「?」
 「牢獄は冷える。おまえの身体は一人だけのものではないのだ。」
 ソアラは訝しげに歩み出て、ミロルグが差し込んだ黒いものを引っ張った。それはスルリと牢獄の中へ滑り込んでくる。
 「マント___?」
 それはミロルグが愛用している漆黒のマントだった。
 「じゃあな。いい子を産め。」
 ミロルグはそれだけ言い残して立ち去ってしまった。
 「ちょっと___!」
 ソアラは必死に小さな格子窓から彼女の背中を見ようとするが、それは叶わなかった。
 「___」
 疑いの目は拭いきれないが、それでもソアラはマントを身体に羽織ってみた。それは想像以上に暖かなもので、彼女の顔は自然と安堵に変わっていく。
 「___ありがと。」
 礼の言葉も、自然と呟いたものだった。

 翌日。
 「あ、ここだ。」
 傷こそ塞がったものの熱を出してしまった草のために、フローラの注文で薬の買い出しに出かけている小夏。美濃屋の近所にあまり足を運んだことのない薬屋があることを思い出した彼女は、そこへと向かっていた。
 「ごめんください。う___」
 店の名前は田村堂。簡素な暖簾の向こうには薄暗い空間が広がっていた。ただ漫然と目の前に番台があり、その後ろに薬の棚がある。人がいないかと思われるほど静かで、どうにも薄気味悪い。小夏は少したじろいだ。
 「何か用か?」
 奥の部屋から男が出てきた。長髪を後ろに束ね、薬屋には似つかわしくない雰囲気の男。小夏は彼のことを知らないが、もし草が彼を見たならば武者震いを起こしたことだろう。それは紛れもなく辻斬りの男、田村幸正である。
 「あの___この薬を頂けますか?」
 小夏は恐る恐る彼に近づき、フローラから受け取った紙を渡した。
 「少々待たれよ。」
 田村は紙切れを手に、後ろの棚に向き直った。小夏はその間、店の様子を眺める。薬屋とはいえ驚くほど清潔。塵の一つもないかと思わせるほど、店の中は整然としていた。
 「破傷風の薬だなこれは、美濃屋に誰か怪我人が?」
 「そうなんです___酷い傷を負いまして、少し熱が出ているから念のためって___」
 小夏は旅館の仲居だ。世間話には自然と口が動いてしまう。草が美濃屋にいることはなるだけ伏せるようにと言われていたことも、うっかりと忘れていた。
 「左様か。気をつけるのだな___」
 田村はいつもと変わらない冷静な面持ちで小夏に薬を差し出した。小夏が勘定を済ませ、早々に礼を言って店を後にすると、彼はすぐに暖簾を畳んで戸を閉めた。
 「___」
 一層暗くなった店から奥の部屋へと抜け、壁に掛けられた愛刀を手にする。彼が几帳面に清潔を保つのは薬のためではない。刀のためだ。
 「しくじるとはな___」
 あの岡っ引きが生きていたのなら何らかの手を打たねばならない。美濃屋にいると分かっているならば余計に。

 「四条様!」
 その日、御用聞きを終えた珠洲丸はすぐさま鬼援隊のアジトへと駆けた。襖を断りもなく開き、裸でキセルを吸っていた四条に飛びついた。
 「な、なんだ!?」
 四条は呆気にとられ、奥にいた女も驚いて体を起こした。珠洲丸は困惑の面持ちで四条の胸に顔を埋めた。さすがの四条も戸惑っている様子だ。
 「どうしたんだ急に___」
 奥にいた女に出ていくよう手で合図をする。女は襦袢を着ていそいそと部屋を出ていった。珠洲丸は四条の胸の中で小さく震えている。
 「分からなくなってしまいました___」
 「なにが?」
 四条にしてみれば今の珠洲丸が分からない。
 「どうしたらいいんです___?」
 「ちょっと待てよ、さっぱりわからん。」
 四条は困り顔で珠洲丸の頭に手を乗せた。
 「四条。」
 「お?なんでえ、今日は千客万来だな。」
 開いたままの襖、廊下には田村が立っていた。四条は困り顔になって苦笑いした。
 「取り込み中か?」
 「いや、構うなよ。なんなんだ?」
 田村は滅多にアジトに帰ってこない。今日は本当に珍しい日だ。
 「切り損ねた。」
 「おまえが?」
 四条は疑うように尋ねた。彼は田村の刀術こそソードルセイド一と確信している。これまでの辻斬りにも一切の手落ちはなく、それだけに彼の一言には驚きを隠せなかった。
 「辻斬りと鬼援隊の関係を疑っている目明かしがいてな、同心は切り捨てたが、目明かしを討ち損じた。」
 平静ではあるが、田村は悔しささえ内に隠せるだけ。長いつきあいの四条には彼の口惜しさが手に取るように分かっていた。
 「で、どうするんだ?」
 「傷を負った目明かしは美濃屋に運ばれている。それを忍びで始末して欲しい。」
 「分かった。辻斬りは暫く休みだな。」
 「ああ。私も暫くここにいる。」
 田村はそれだけ言うとあっさり背を向け、四条の前から立ち去っていった。
 「礼ぐらい言えってんだ。おい珠洲丸、そういうわけだから離れてくれ。」
 四条は珠洲丸の肩を叩き、退くように促した。しかし彼女は一転して元の強い顔つきを取り戻す。
 「私が行きます。」
 彼女は素早く四条から離れ、跪く。
 「行けるのか?」
 「無論です。鬼援隊の自覚を再認識してまいります。」
 珠洲丸の瞳は元の冷たさを取り戻していた。四条の胸の暖かみは、彼女に鬼援隊への、四条への情熱を呼び覚ました。
 「よし。日付が変わる前に戻れよ。」
 「はっ!」
 珠洲丸は颯爽と部屋を飛び出していった。
 「___ありゃ何かあったな___」
 四条は一際冷静な面持ちで立ち上がる。彼も時機というものを感じはじめていた。

 動きはその日の夜に起こった。美濃屋の天井裏で息を潜める覆面の珠洲丸。全てのきっかけは彼女だった。
 「草光晴___そしてあの女、フローラだったか___」
 部屋にはまだ行燈の薄明かりが灯っていて、その隣でフローラは座ったままうとうとしていた。一方の草は布団の中で大口を開けて眠っている。
 「___まずはあいつからだな___」
 珠洲丸はフローラに狙いを定め、極細でかつ強い紐を絡ませた左手を確認する。
 「くそ___何でニックのことばかり思い出す___!」
 珠洲丸は葛藤を弾き出すように首を振り、そっと天井板を外し、素早く部屋へと侵入した。
 「え___うっ!」
 うっすらと目を開けたフローラの首に正面から紐が絡みつき、急激に締め上げる。隙だらけだったフローラの首に紐は深く食い込み、呼吸が一気に詰まった。
 「っ!」
 珠洲丸は右手で素早く飛びくないを取ると、フローラに向かって投げつけた。左胸に向かって飛んできたそれを、フローラはやむなく腕で受け止める。そしてそのまま渾身の集中力を込めて珠洲丸に掌を突き出した。
 「なに!」
 フローラの掌が輝き、鞭のような風の衝撃波が珠洲丸の身体に打ち付ける。切れ味さえも持っている風は珠洲丸の覆面を引き剥がし、彼女は草の上を飛び越えるようにして、部屋の壁際まで弾き飛ばされた。
 「げほっ!げほっ!」
 紐が切れて呼吸が一気に戻り、フローラは崩れ落ちて激しく噎せ返った。
 「んが?」
 漸く草が目を覚ます。その時彼が見たのは、小刀を手にした忍び装束の珠洲丸だった。彼はこれを夢だと勘違いしていた。しかし___
 「逃げて!」
 フローラの叫びで覚醒した草は、刀を突き立てようと振り下ろしてきた珠洲丸に向かって布団を蹴り上げた。
 「くっ!」
 「珠洲丸さん!」
 草は壁際へと転がり、思わず彼女の名を呼んだ。珠洲丸が布団を振り払う隙を見計らい、フローラは彼女に掴みかかった。
 「なめるな!」
 だが珠洲丸は素早い身のこなしで、フローラの腹部に前蹴りをたたき込む。だが顔を歪めながらも必死に堪えた彼女は、くないの刺さった片腕で珠洲丸の足を取り、逆の手を彼女の眼前へと突きつけた。
 「眠りに落ちよ___エルクローゼ!」
 フローラの掌は青み帯びてぼんやりと輝き、吸い込まれるように珠洲丸の口に流れ込んでいく。珠洲丸は急に気が遠くなり、必死に堪えてはいたがすぐに意識を失った。
 「危なかった___」
 すでに彼女は短刀を振りかざしていた。呪文の効果が一瞬でも遅れていたら、フローラは刃の餌食になっていたことだろう。
 「珠洲丸さん___何で___」
 草は愕然とし、口惜しそうな顔で眠る珠洲丸を見つめていた。くないを抜き取ったフローラの腕から吹き出した鮮血が、美濃屋の畳に現実を染み込ませていった。

 「遅いな___」
 時はすでに日付を変えていた。それは、珠洲丸に戻れと命じた時間である。
 「しくじったか___」
 四条の部屋を訪れていた田村が、目を閉じて呟いた。
 「らしいな。」
 四条が立ち上がる。
 「ここも潮時だ。」
 そして唐突に言った。田村が目を開ける。
 「なぜだ?」
 「美濃屋にはニックの仲間が泊まっていたらしい。珠洲丸がただの目明かしに掴まるとも思えまい?」
 「なるほどな___」
 四条は部屋の掛け軸を殴るように取り払うと、その奥に現れた空間に手を伸ばし、篭手を取りだした。
 「どうする?」
 「珠洲丸がアジトを吐くとは思えないが___ここが煉瓦街だと勘繰られることはあるだろう。」
 そう、四条寸之佑が潜伏する鬼援隊のアジトは長屋街にあるのではない。煉瓦街にある。これこそ、鬼援隊の大義を裏切ったカモフラージュだ。
 「これをきっかけに守りに入られてもことだ。奴等はこちらにソアラがいると知っているから迂闊に手が出せない。俺は膠着状態というのが嫌いでね。」
 田村も立ち上がった。
 「決着か。」
 「そう。今日は俺がこの国を奪う日だ。」
 鬼援隊が動き出した。




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