2 百鬼を___と呼ぶ女

 「あ〜懐かしいなあ。ほんと、やっぱりこの街並みが落ち着くぜ。」
 まるで初めてやってきた観光者のように、百鬼は笑顔を絶やさずにキョロキョロと周りを見回しながら歩いていた。
 「ねえ、あなたは城が家なんでしょ?何で長屋街が落ち着くの?」
 「俺は暇さえありゃあ、家臣の目を盗んで城下に遊びに行ってたからなあ。何しろこの長屋街が大好きで、よくやんちゃをやらかしたもんさ。」
 百鬼は少し小走りになって先の路地を覗き込み、ニコニコしながら一人で頷いている。子供のように無邪気な彼を見ながら、ソアラも笑顔で歩いた。
 「___」
 だが気になったのはどうも回りからの視線が厳しいこと。往来の人々が希有な者を見るような顔をするのは慣れたことだが、それにしてもこの街の人々は何故こうも睨むような目でこちらを見てくるのだろう。
 「うは〜、ここもかわってねえなぁ。」
 「ねえ百鬼。」
 ソアラが肩をすくめるようにして百鬼に追いついてきた。
 「ん?」
 「なんかさ___周りの人に嫌われてるみたいな気がするんだけど___」
 ソアラは怖々と往来を気にしながら百鬼に言った。彼女の色なら視線が向けられるのはいつものこと。ソアラの恐怖心は百鬼の気を引いた。
 「ああ、長屋街は外から来る奴らに厳しいんだよ。でも俺がいれば大丈夫。それに本当はみんな暖かい奴等ばかりなんだぜ。」
 百鬼はソアラのことを気遣って、彼女の肩を抱いて歩いた。ソアラは彼の暖かさにささやかな幸せを感じながらも、やはり往来の目線が気になってしまう。
 でも___
 「百鬼が言うなら信じられるわ。」
 「そうか?」
 百鬼はソアラに微笑み掛け、さっきまでのようにはしゃぎ回ることはなくなった。
 「あ、そういえば、これからどこに行くの?」
 ソアラはてっきり城に向かうものだと思っていたのだが、どうやら百鬼には目指す場所があるようだ。
 「旅の疲れもあるし、今日はゆっくりしたいだろ?俺の友達が温泉旅館をやっててさぁ、そこなら泊めてもらえると思うんだ。」
 「いいね。任せるわ。」
 それから二人は暫く寄り添いながら長屋街を歩き続けた。だが突然___
 「あっ!」
 向こうからやってきた女性を見つけて百鬼が声を上げた。
 「あいつは___」
 「知り合い?」
 「多分___ちょっと御免な。」
 百鬼はソアラから離れ、駆け足で着物姿の女性へと近づいていく。
 「珠洲丸!」
 突然名前を呼ばれた珠洲丸は驚いて百鬼を見た。彼女の反応で確信した百鬼は、にこやかに駆け寄っていった。
 「やっぱり珠洲丸か!」
 「あなたは___?」
 だが珠洲丸は訝しげに問うた。
 「俺だよ俺。もう十年ぶりくらいだから覚えてないかも知れないけど。」
 それを聞いて珠洲丸も気が付いたようだ。ハッとして口元に手をやった。
 「もしかして___ニッちゃん!?」
 「そう!」
 百鬼は真っ白な歯を見せて、なにやら拳を突き上げてみせる。
 「うわぁ、久しぶり!突然で驚いちゃった!」
 珠洲丸はそれまでの淑やかさが嘘のようにはしゃいで、百鬼の手を取った。
 「俺も驚いたよ、やっぱり珠洲丸はすっごく綺麗になっちゃってさ!」
 「そんな、ニッちゃんも大きくなって驚いたわ。昔は私の方が背が大きかったのにね。」
 昔の思い出話に花が咲く。そんな二人を邪魔しないように、ゆっくりとソアラが追いついてきた。
 「ニッちゃんは無事だって信じていたけど___帰ってきてくれて良かったわ。」
 「みんなには心配掛けちゃって___」
 「もうお城へ行ったの?」
 「いやまださ。明日行こうと思って。」
 百鬼が一つ掌を叩き、少し離れたところで見ていたソアラを手招きした。
 「こんにちは。」
 「こんにちは、お連れ様?」
 ソアラと短い挨拶を交わして珠洲丸が尋ねた。
 「旅仲間でね、ソアラって言うんだ。その___恋人ってやつ。」
 「まあ!」
 百鬼は照れくさそうに赤面し、ソアラはそんな彼を見てはにかんだ。それから一言二言と会話して、珠洲丸が御用聞きの途中だったためにその場で別れた。
 「感じのいい人ね。」
 ソアラは率直に珠洲丸への好感を呟いた。
 「米屋の娘さ。いいとこのお嬢様って奴だぜ。」
 「あなたはもっといいとこのおぼっちゃまじゃない。」
 「まあそりゃそうかな。」
 二人はまた語らいながら歩き出した。通りの曲がり角まで進んだ珠洲丸は、小さくなっていく二人の後ろ姿を振り返って見ていた。その瞳は先程までとはまったく別物。まるで獲物を見つけた獅子のように、血気と闘争心に溢れていた。
 さてそれから___
 「ここに泊まるの?」
 「そう、由緒ある老舗の旅館さ。」
 出来過ぎた偶然というのもありがちで、二人がやってきたのは美濃屋の前。
 「ごめんよ。」
 そして百鬼が暖簾をくぐった先で見たのは___
 「いらっしゃ___あ。」
 「あ。」
 ライだった。
 
 「へえ、それじゃあソアラの勘は大当たりだったんだ!」
 フローラが悪戯っぽく笑った。
 「百鬼さん、フュミレイさんとは事件があったんですか?」
 「ないないない!」
 棕櫚の容赦ない突っ込みに対して、図星丸出しで大慌ての百鬼。隣に座っていたソアラがしかめっ面をして彼の頭を叩いた。
 「それにしても、みんなローレンディーニで大変だったんだよ。」
 「そうそう、ライは賞まで取ったものね。」
 「いや、本当にすまん!」
 百鬼は畳に額が擦れるくらい深く土下座した。三人が泊まっている和室に百鬼とソアラ、お茶を運んできた小夏までが座り込んでいた。
 「それにしても驚いたわ。みんなが待っていたのがまさかニッちゃんだったなんて。」
 「王子だっていうのにはもっと驚いたわ。」
 小夏の言葉にフローラが付け足して笑いが起こる。
 「俺たちだって驚いたよなぁソアラ。」
 「ええ。みんななかなか似合ってるわね、その格好。」
 ソアラは浴衣に興味津々だ。
 「あ、そういえば小夏さ、さっき珠洲丸に会ったよ。驚いたねえあんなにべっぴんさんになってさ、おまえなんかまるで変わらないのに。」
 「ひっど〜い。」
 小夏は頬を膨らませる。
 「そうですよ、酷いですよ。」
 棕櫚も便乗して頬を膨らませ、二人で顔を見合わせて「ね〜」とか何とか言っている。そんな二人を面白そうに見ていたソアラに、ライが近づいてきた。
 「棕櫚ってね、小夏さんが絡むとひと味違うんだって。」
 「へぇ、そりゃ惚れてるって奴じゃない?」
 ライの耳打ちを聞いてソアラも囁き、二人は声を立てずにほくそ笑んだ。
 シュルル___
 「なにか?」
 「___なんでもないっす___」
 いつの間にやら、ライの首にはツタが巻き付いていた。
 「それよりもソアラ、お腹の調子はどう?」
 「すこぶる順調よ。少し大きくなってきたしね。」
 ソアラは下腹部に手を当てて微笑んだ。その微笑みは今までのソアラの笑顔とは少し趣が違う、母性を感じさせるものだった。
 「ニッちゃんの子供?」
 「へへへへ___」
 「なに照れてるのよ、いやらしい。」
 小夏は照れている百鬼を肘で小突いた。
 「そういえばお城には帰らないの?」
 フローラがそう問いかけると百鬼は言葉に詰まり、ばつの悪そうな顔で首を捻った。
 「なんだかさっきから城の話をすると切れが悪いわね。」
 「いやそれがな___」
 ソアラはピーンときた様子。伏し目になってニヤリと笑った。
 「女?」
 「うっ___」
 本当に嘘がつけない男である。
 「なぁんだ、百鬼って意外に女たらしなんだ。」
 「違う違う!違うんだよ!そういうの抜きでちょっと会うのが怖いんだよ。」
 百鬼はむきになって疑惑を否定する。ソアラも何事かと思って首を傾げた。
 「もしかして___アウラールさんのこと?」
 「そう。」
 小夏の問い掛けに百鬼は頷いた。
 「誰です?」
 「アウラール・サー・レイニー、俺より七つ年上で、遠い親戚筋さ。今は国王代理を務めているはずだよ。」
 「若いのに立派じゃない。何をそんなに怖がることがあるの?」
 「いや___まあ会えば分かるよ。覚悟を決めて明日行くから。」
 「そ、そう___」
 百鬼はただ引きつった苦笑を浮かべるばかりだった。さすがにこれ以上追求する気にもなれない。話題は自然と変わっていく。
 「そういえば光晴は何やってんの?」
 「岡っ引きよ。最近はほら、色々あるから忙しいみたいで。」
 小夏はそう答えたが、事情を知らない百鬼とソアラはちんぷんかんぷんだ。
 「辻斬り事件が起こっているんです。今朝も一人やられました。」
 棕櫚の言葉で、笑顔が絶えなかった百鬼の顔が神妙なものへと変わる。無差別な殺人は彼に鬼援隊を連想させ、父が朽ち果てた場面を思い起こさせる。
 「___相変わらず物騒なところだな。」
 「それを百鬼がなんとかするんじゃん。」
 ライの突っ込みも尤もだ。ソアラも大きく頷いている。
 「そうだな。俺はそのために帰ってきた!」
 その日の夜、美濃屋はいつにない活気に包まれ、彼らの部屋には遅くまで明かりが灯っていた。

 光あるところに影がある。美濃屋の光と対するように、ソードルセイドの宵には影も暗躍する。
 「鬼の命にて、馳せ参じた。」
 酷く硬質で、冷気が浸み入る建物の中。二つの影が蝋燭の炎に照らされ、揺らめいている。
 「その名を語れよ。」
 「右に仕えし鬼の仮面、石川珠洲丸。」
 それは暗号のように滑らかなやり取りだった。
 「よし、通れ。」
 影が形になる。闇の中から灯火を裂いて現れたのは、昼の貞淑とはうって変わって、忍び装束に血のような赤いはちまきを締めた石川珠洲丸だった。黒い装束の背中には、朱で「鬼」の字が記されている。
 「___」
 彼女は静けさに包まれた建物を音もなく進み、廊下の殿にある金色の襖の前へと立った。
 「四条様、珠洲丸です。」
 「入れ。」
 酒焼けした声がする。襖の向こう、畳張りの部屋には橙黄色の行燈が灯り、忍び装束を緩く着た男が一人。片手に酒瓶を抱え、部屋の奥には寝床があって襦袢の女が横たわっていた。
 これがいつもの光景。
 ここは鬼援隊のアジトであり、石川珠洲丸もまた鬼援隊。
 「よう、よく来た珠洲丸。」
 珠洲丸が部屋に入ると、入れ替わるようにして襦袢の女が奥から出てきた。彼女はそのまま化粧具を手に部屋から立ち去っていく。
 残るのは、奇妙な甘い匂いと酒の匂いが混じり合った空気。
 そして目の前の男。
 髪はぼさぼさ、無精髭を生やし、服の着方だってだらしがない。いつも酔っぱらっているがそれでも自分を保ち続け、日々を享楽に尽くすこの男。
 その名を四条 寸之佑(しじょう ときのすけ)。
 「お久しゅう御座います、四条様。」
 鬼援隊の首領であり、珠洲丸を含めた全ての隊員が彼を崇拝する。
 「その顔は___何か朗報があったとみたぞ。うぃ〜、こっちこい。」
 珠洲丸は素早く四条に近づき、彼に寄り添うようにしてその耳に口元を寄せた。
 「ニック・ホープが帰還いたしました。」
 酒瓶を傾けかけた四条の手が止まった。
 「本当か?」
 「間違い御座いません。接触を果たしました___」
 四条は沈黙し、彼の態度に困惑している珠洲丸の身体を抱いてさらに引き寄せた。
 「そうか___やっぱり生きていたか。そうでなくっちゃあな___」
 四条は笑みを浮かべて酒を口に含む。さっきまでと同じ酒のはずなのに、格別にうまく感じた。それは美女たる珠洲丸のうまみと、ニックという殺意の刺激がもたらした甘露だった。
 「殺めますか?」
 「いや、監視を続けろ。ただ殺すだけじゃあ面白くない。奴がどういうつもりで帰ってきたのか、見てみるのもいいだろう。いや素晴らしい朗報だ、良くやったぞ珠洲丸。」
 四条は珠洲丸の装束の襟元を引き、彼女の首筋を剥き出しにすると強く唇を当てた。
 「___光栄です___」
 珠洲丸の返答は切なげで、若干の恍惚が織り込まれているようだった。
 これがいつものこと。彼女はこの瞬間がたまらなく好きだった。
 四条のために尽くす事への迷いなど何一つない。
 ___全ては鬼の命ずるままに。

 翌日、昨夜までは百鬼とソアラの二人だけで城に行く予定だったが、彼がしきりに大人数を帯同したがったので、結局ライ、フローラ、棕櫚もくわえた五人でソードルセイド城へと向かうことになった。これも彼がアウラールを恐れてのことだろうが、他の四人にはまったくその恐怖の意味が伝わらない。アウラール・サー・レイニーという女性に対する四人の興味は増すばかりだった。
 「よっ。」
 城門前までやってくると、百鬼は軽々しくも尊大に番兵に近寄った。
 「なにやつ!」
 他国の兵と同じような制服で固めた番兵は、視線を厳しくして百鬼に槍を向けた。
 「や、やめろやめろ!俺はニック・ホープだ!」
 百鬼は慌てて名乗りを上げる。
 「なに___?」
 番兵は訝しげに百鬼の全身を眺め、騒ぎを聞きつけて出てきたもう一人の番兵に声を掛けた。
 「アウラールに取り次いでくれ。あいつなら分かるはずだ。」
 「国王代理に対して軽々しい口を利くな!」
 槍が百鬼の頬を掠めた。
 百鬼のやり方にはソアラたちから賛否両論あったが、暫く待つうちに門の向こうから番兵がやってきた。
 「許可が出た。入っていいぞ。」
 門が開かれた。番兵は相変わらず怪しむような目でこちらを見ていたが、何とか本城までは辿り着けそうだ。
 ソードルセイド城は歴史が浅いだけに、他国の城に比べて高層建築となっている。さらに随所に木製品が施され、他国ならば剣が飾られているであろう場所に刀が、騎士の甲冑が飾られるであろうところに、武者甲冑が飾られている。実にらしさの見える城だった。
 「変わってねえなぁ。」
 城内に一歩踏み込むと、百鬼は感動の面持ちで周囲を見渡した。入り口から正面にいきなり大階段が延び、二階へと続く。一階は番兵の詰め所や厨房やらがごった返していて、小間使いたちがそこら中を動き回っていた。
 「殿下でらっしゃいますか?」
 折り目正しき着物姿の老翁が、大階段の前で百鬼を出迎える。彼の周囲には兵士が警戒を敷いていた。
 「ニック・ホープだ。証が欲しいなら___」
 老翁の顔を百鬼は見知っていた。彼は祖父の時代から仕える最古参の家臣だった。だからこそバンダナを外し、差し出したのだ。
 「これが父の形見だ。」
 老翁はバンダナを手にとってまじまじと見つめた。彼の瞳に熱がこもるのに大した時間は掛からなかった。
 「これはまさしく___!」
 亡きライオネルの形見!百鬼はその台詞を期待していたし、老翁もそのつもりでいたのだが___
 タタタタタ!
 ヒールの音をけたたましく唸らせて、何者かが大階段の真ん中辺りまで駆け下りてきた。ドレスの裾をつまみ上げるおてんば丸出しの元気な顔。そして彼女は情熱の詰まった鳶色の瞳で百鬼の姿を見つけ、はち切れんばかりの笑顔になる。
 「よ、よう、アウラール___」
 百鬼は階段上の彼女に、苦笑い半分で手を挙げた。そう彼女こそアウラール・サー・レイニー。百鬼が恐れる女である。希有な人物を想像していたソアラたちは、器量も良く、陽気そのもののアウラールに少しがっかりした。しかしそれも束の間___
 「ダーリン!!」
 アウラールの口から出た言葉に、その場に居合わせた全員が卒倒しかけた。
 「だ、ダーリン?」
 危うく倒れそうになったソアラは棕櫚に掴まって頬を引きつらせた。この時みんなが思ったことは、ただ一つの突っ込みだった___
 ダーリンって___!?
 「きゃーっ!ダーリィン!」
 アウラールは転倒しそうになりながら階段を駆け下り、すべて下りきらないうちにジャンプして老翁をなぎ倒し、百鬼に抱きついた。
 「おわっ!」
 百鬼はよろめきながらもアウラールを受け止め、アウラールは彼の首にしがみついて、色白の綺麗な頬を擦り付けた。
 「激しい自己アピールですね___」
 思わず棕櫚が呟く。ライとフローラは唖然としてみていた。
 「あたし何となく分かったわ___あいつが嫌がっていたわけが。」
 確かにこの勢いは恐怖に値する。ソアラもただ見守ることしかできなかった。
 「ダーリン___あなたが帰ってくるのをずっと待っていたのよ!ああ愛しのダーリン!」
 アウラールは一人で悦に入って金髪を振り乱し、百鬼の胸に顔を埋める。百鬼はすっかり困り果てた顔をしていた。
 「こ、国王代理___こちらは本当に殿下なのですか___?」
 「当たり前じゃないの!ね、ダーリン!」
 「あのなぁアウラール、俺だって来年には二十歳だ。おまえだってもう二十六なんだしさ、なんつうかその___ダーリンはやめてくれよ。」
 百鬼の言葉にいつもの覇気がない。それは苦手意識の現れだった。
 「いいのいいの!気にしないの!」
 アウラールは百鬼の頬に何度も口づけしてみせる。あまりに開けっぴろげすぎて、ソアラは微塵の嫉妬も抱かなかった。ただ愉快なものでも見るような顔をしている。アウラールは回りの目などこれっぽっちも気にせずに、子供のように百鬼に甘え続けていた。
 「帰って来るって信じていたわ___ダーリンは約束は破らないものね、あたしをお嫁に貰ってくれるって!」
 「何が約束だよ、あんなの無効だ!」
 「え〜!」
 「三つの俺に菓子をちらつかせたんだ!詐欺だよ詐欺!」
 アウラールは百鬼に抱きついたまま頬を膨らませる。まるでどちらが年上だか分からなくなるようなやり取りだった。
 「もう、ならここで約束してよ。あたしの心は決まってるんだから!」
 「駄目だ。俺だって一人で生きてきたわけじゃない。」
 アウラールの顔から笑顔が消えた。急に真顔になって百鬼を見つめる。それは彼の言葉が冗談ではないと感じたからだった。
 「俺の仲間たちだ。真ん中にいるソアラと俺は結婚しようと思っている。」
 アウラールは少し離れたところで見ていたソアラたち四人を振り返った。ソアラはばつが悪そうに一つお辞儀をした。
 「ソアラは身籠もっているし、俺も懐かしい空気を吸いたくなった。だから戻ってきたんだ、アウラール。」
 アウラールが手を離した。百鬼の胸を突いて、自分がよろめいて後ずさる。
 「十年待っていたのよ___あたしは本気だった___だから頑張れた___」
 アウラールは俯いてしまう。顔を上げてくれない。百鬼も沈黙し、暫くして声を上げたのはアウラールの方だった。
 「ダーリンの馬鹿!」
 捨て台詞を吐いて、やってきたときと同じ勢いで階段を駆け上がっていく。家臣たちは呆然とその姿を見送った。
 「百鬼、行ってあげなさいよ。」
 ソアラは百鬼に近づいて声を掛けた。彼女はアウラールの捨て台詞が震えていたことに気が付いていた。
 「いや、これくらい突っぱねないと後が怖い___」
 パンッ!!
 前触れもなく、ソアラが百鬼の頬を張った。驚いた百鬼は言葉を失う。
 「偉そうなことは言わないで。本気と冗談の区別も付かないくせに___」
 ソアラはすぐに彼に背を向ける。目を合わせたくなかったこともあるが、すぐに出しゃばる自分の手が恨めしくて、睨んでやりたかったから。
 「思う時が長ければ、それだけ反動も大きいのよ。それはあなただって分かってるでしょう?」
 ソアラは百鬼に背を向けたまま、忌々しい右手を握りしめて呟いた。百鬼は暫く沈黙し、神妙な面持ちで赤く跡が付いた頬に手を当てた。
 「爺、アウラールの部屋は昔と同じ場所か?」
 「は?はっ!はい、左様です若!」
 油断していた老翁は、その言葉で改めて百鬼を本物と確信し、浮き足だった様子で答えた。
 「サンキュー、ソアラ。」
 百鬼はこちらを振り返ってくれないソアラの肩を一つ叩き、大階段を二階へと駆け上がっていった。
 「叩いて___ごめん___」
 ソアラの囁きは彼の耳には届かなかっただろう。

 アウラールの部屋は城の二階。木製の扉の前では家臣たちが不安げに中の様子を伺っていた。
 「よう、アウラールは中か?」
 百鬼が近づくと彼らはハッとして礼をする。
 「俺には構うな、アウラールは?」
 「はっ、部屋に籠もって鍵を___」
 「呼びかけても返答をして下さらないのです。」
 百鬼は扉の前の家臣たちを退け、一つ咳払いをしてから扉をノックした。
 「アウラール、俺だ。ニックだ。」
 呼びかけに何の応答もない。扉に耳を寄せてみても動きの気配さえ感じられなかった。
 「開けてくれアウラール、話がしたい。」
 百鬼はノックを少し強くする。それでも応答がない。怒っているだけなら反抗的な声の一つくらいはあるはず。苛々を何かにぶつけて物音の一つもするはず___
 「扉を破るぞ。」
 「本気ですか若!」
 やっと追いついてきた老翁が声を上擦らせる。
 「本気だ!」
 百鬼はその場に居合わせた体格の良い家臣を呼びつけ、二人で扉に体当たりする。五回もぶつかると扉は弾けるように破れた。
 「アウラール!」
 百鬼はアウラールの部屋へと駆け込んだ。中は整理されていて、散らかした様子はない。そして人の気配が感じられないほど静かだった。
 「!」
 ベッドの上に人が眠っている。ドレスと美しいブロンドから察するにアウラールだ。百鬼は彼女に駆け寄った。彼女はシーツの上にドレスのまま突っ伏し、安らかな横顔を見せて眠っていた。百鬼は彼女の寝顔を見てホッとする。
 「眠っておられたのですか。」
 遅れて入ってきた老翁たちも安堵する。しかし何かがおかしい。彼女の寝顔があまりに安らかだったので、瞬時には分からなかったが___
 「いや待てよ___あれだけ扉にぶつかったのに起きなかったってのは___!」
 床に褐色の瓶が落ちていることに気が付いたのは百鬼だった。
 「なんてこった___!」
 瓶の中には薬が二三粒しか残っていなかった。この薬品が何であるかは別にして、アウラールのとった行動を推察するのは他愛のないことだった。
 「毒を飲んだのか___!」
 「な、なんですと!」
 「医者、いや、俺の仲間の黒髪の女を呼んできてくれ!彼女は世界一の医者だ!」
 百鬼はアウラールを抱き起こし、叫んだ。力無くぐったりと、アウラールの全体重が百鬼の腕に委ねられる。その重みは計り知れなかった。

 「飲んだのは劇薬ではないわ、睡眠薬よ。」
 一通りの処置を終え、アウラールの命を留めることに成功したフローラは息を付いた。大量の薬を飲み、それを吐き出したことでアウラールの顔は酷く青ざめ、沈痛な面持ちでベッドに横たわっていた。部屋は重苦しい空気に包まれ、百鬼はアウラールの手を握り、口惜しそうに時折歯を食いしばった。
 「国王代理は睡眠薬を服用しておられました___心労で眠りにつけないときなども御座いましたから___」
 老家臣の言葉が暗い影を落とす。百鬼はうなだれて、アウラールの手を両手で堅く握った。
 「みんな___二人だけにしてくれるか?」
 皆は互いに目配せをし、無言のままアウラールの部屋を出ていく。扉が閉じられると、部屋にはアウラールと百鬼の二人だけになった。
 「アウラール___」
 百鬼は絞り出すように呟き、ただアウラールの手を取って肩を震わせていた。




前へ / 次へ