1 敢えない断絶
その日の夜、ケルベロス国の首都ケルベロスでは僅かに雪が舞っていた。優れた芸術家の手によって設計されたケルベロス城は、美しさと雪に絶えうる力強さが同居している。
「ふんふん、ここがあたしの城になるわけか。」
闇に紛れた二つの影が、城の姿を見下ろしていた。一つは浮遊するフェイロウ、もう一つは浮遊の力を秘めた平べったい石に乗っているローゼンスク。フェイロウは城を一望し、満足げに頷いた。
「しかしお嬢様。お嬢様の巨体と角では怪しまれてしまいますヨ。」
ゴガッ!
殴られるローゼンスク。石がぐらついて少し慌てた。
「巨体って言うな!あんたの方がよっぽどでかいじゃない。」
「三センチじゃでかいうちには入らないウゲッ!」
「あんたの場合は体高だろ!体長は四メートルはあるじゃないのさ!」
「三メートル五十八でス。」
また殴られた。ここにやってきてから既に三発。しかしこれがいつものこと。
「まあ何かに化けた方が侵入しやすいのは確かね。」
「ゴキブリなんてどうでス?」
「殺されたい?」
フェイロウの右手が火花をちらつかせる。
「ジョークですっテ。」
「ま、取り込むわけだし、この姿で襲ってやるか。」
「そうですネ。」
取り込みはフェイロウの変身術でも最も高度なもの。対象が持つありとあらゆる人物像を、自分の中に吸収する。それは外見や記憶だけに留まらず、嗜好や性格などもだ。フェイロウの人格とは別に対象者の判断基準が確立され、変身している間はそちらが優先される。ただそれを採用するかどうかを決めるのはフェイロウの思考だが。
「それにしてもお嬢様、どこの部屋を襲うんでス?」
ローゼンスクはいつもの笑顔で問いかけた。フェイロウは口を尖らせて虚空を見つめた後、振り返ってニッコリと笑った。
ボガッ!
「なんで殴るんですカ___」
「うっさい、今調べてくるから待ってな。」
フェイロウは一瞬の念の後、黒い光に包まれて小鳥に姿を変えた。
「ずっとその姿でいれば可愛らしいのニ。イダダダダ!」
フェイロウはローゼンスクの額に嘴突きの連打を喰らわせる。
「ピッ!」
そして怒ったように一声鳴いて、城の方へと飛び去っていった。
暫くして___
小鳥が帰ってくると一つ宙返りをして、たちまち元のフェイロウの姿に戻った。
「分かったわ、あそこよ。」
「どこですカ?」
「あそこ!」
「はァ。」
フェイロウが指さした方向を眺め、ローゼンスクは気持ちのない返事をした。フェイロウは伏し目になって、金属光沢を持った蛇のオッサンを睨み付ける。
「分かってないでしょ。」
「そりゃあもウ。」
バキッ!
「___」
風呂を上がったアドルフに、メイドたちがローブを着せていく。ある者は髪をとかし、ある者は冷えた水を用意した。完璧に仕事を心得たメイドたちは、ただ寡黙に自分たちの仕事をこなしていく。
「セルチック、薬を持ってきてくれ。他の者はもう休んでいい。」
寝装束のできあがったアドルフは、メイドたちにそう指示する。数人のメイドの中に、かつてフュミレイのメイドをしていたセルチックの姿があった。彼女はその冷静且つ正確無比な仕事ぶりが認められて、アドルフ付きのメイドになっていた。メイドたちは部屋の出口に整列して礼をすると、一人ずつ扉の向こうへと消えていった。
ケルベロスの色である赤を基調とした絢爛な部屋。一人になったアドルフは真っ直ぐにベッドへと向かった。
「羨ましいわねぇ___粒ぞろいのメイドたちがあんなに、はぁ〜、ゾクゾクしちゃう。」
「お嬢様ったらお盛んなんだかラ。」
「いつもなら殴るとこだけど、後にとっておいてあげるわ。」
アドルフの部屋はケルベロス本城より、長い渡り廊下を経た離れの二階にある。一階には宰相の私室と親衛隊の詰め所があり、離れの外壁には侵入が困難なようにと滑りやすいニスが塗られている。ただそれも、空中からの侵入者は想定していない。まさかフェイロウが窓から覗いていようなどとアドルフは考えもしなかった。
「ふぅ___」
アドルフはベッドに突っ伏して溜息を付く。いつものことだ。気丈を装っても、国家を動かすことはあまりに重荷だった。大人たちの醜悪な笑みを見るのは実に不愉快な気分だった。眠るのにも睡眠薬が必要になるほどだった___
ガチャ。
あり得ない音がした。窓が開いたのだ。錠も落としていたはずだが、なによりここは二階だ。アドルフは驚いてベッドから顔を上げた。そこで見たのは異様に長身の女だった。
「はぁい。」
フェイロウは大きな唇でニッと笑顔を作り、アドルフに手を振った。
「何者___!」
アドルフはベッド側の紐に手を伸ばす。それは親衛隊の呼び鈴だ。しかし紐はピクリとも動かなかった。見れば既に紐には別の糸が絡んでいた。辿ればそれはフェイロウの髪の毛だとすぐに分かった。
「邪魔くさいことしないでくれる?」
彼女の髪は異常に伸び、そして一念と共に紐を断ち切ってしまう力強さを持っていた。
「だ、誰か!」
ベッドから飛び降りて、助けを呼ぼうと駆けだしたアドルフ。しかしすぐさまその足にフェイロウの髪が絡みつき、転倒した彼の腕、首、腹を締め付ける。そればかりか助けを呼ばせないために大量の髪が口の中へと入り込んできた。
「___」
その時、部屋の入り口が少しだけ開いていた。四つん這いになって、恐れを必死に殺しながら部屋の中を覗いていたのはセルチック。カートが邪魔にならないように、扉の前から遠ざける冷静さは健在だった。それでもさすがに冷や汗は押さえきれない。
「報せないと___」
セルチックは四つん這いのまま物音を立てないように這いずって進み、扉の前から離れたところで走り出した。
「ウフフフ___どうやって食べて欲しい?」
「んごぁ___うぶ___」
アドルフは白目をむいて、口を封じる髪の隙間からは胃液が浸みだしてきた。
「きったないなぁ___でも、嫌いじゃないわよ。」
フェイロウの髪がアドルフの全身に絡みつき、包み込んでいく。そしてその全てを覆い尽くしたかと思うと、彼女の黒髪がブロンドに変わっていった。顔は青年になりかけた男子の顔に、豊かな胸は収縮し体型もアドルフへと変貌を遂げていく。そればかりかたった今彼が身につけていた服装まで。
「完成。」
最後に長い髪が急速に短くなって、ベッドに突っ伏したせいで少し乱れていたアドルフの髪型に。髪の呪縛が解けたその中からは若干の灰がこぼれ落ち、赤い絨毯にゆっくりと積もった。
「ふふん。」
アドルフと化したフェイロウは灰に掌を向け、ウインクをした。すると灰は一斉に寄り集まって凝縮し、黒い錠剤に変わった。フェイロウはそれを拾い上げ、遅れて入ってきたローゼンスクに向かって放り投げる。ローゼンスクはそれを大きな口で受け止め、あっさりと飲み込んだ。
「これであたしが念ずれば、あんたもこの子に化けられるわ。」
「はイ、お嬢様。」
フェイロウの口調はそのままだったが、声も完璧にアドルフ・レサ。いや彼女が本気になれば、口調だってアドルフのものを優先できる。それほどフェイロウの変身は完璧だ。
その時___
「おられるではないか___幻でも見たのか?」
ドアの隙間から、今度は親衛隊員が中の様子を伺っていた。
「そんなはずは___」
セルチックがミスをしないのは、自分の仕事に確固たる自信を持っているから。幻を見るなんて想像もできないことだった。
「疲れているのだろう。早く薬をお届けしておまえも休みなさい。」
「___はい。」
親衛隊員は事を荒立てないようにと、音を潜めながら去っていく。一人残されたセルチックは疑心暗鬼に苛まれながらもカートを押し進めた。
「失礼します、セルチックです。薬をお持ちしました。」
セルチックは返事を待たずに室内へ。
「遅かったな。」
「申し訳ございません。」
中で待っていたのはいつも通りのアドルフだ。言葉や目線の作り、疑う部分はなにもない。それでもセルチックはいつにない緊張を覚えていた。彼女の注意全てがアドルフに傾けられ、開いていた窓や、部屋の片隅でオブジェのふりをしていたローゼンスクさえも目に入らなかった。
「お休みなさいませ、陛下。」
「おやすみ、セルチック。」
彼女の名前が当然のように出てくる。フェイロウは手応えを感じて笑顔になった。
「あの、普段はどうしていれば良いんでしょうネ?」
ローゼンスクが部屋の片隅で首を傾げた。
「じっとしてればいいじゃない。金属像のふり、立派な物まねよ。」
アドルフの声で女言葉というのも少し気持ち悪い。
「エ〜。」
「つべこべ言わないの。さて睡眠薬も飲んだし、アドルフはもう寝る時間よ。おやすみ〜。」
フェイロウは素早くベッドに滑り込んだ。
「あら、この坊ちゃん、眠るときはいつもシーツを握ってないと寝られないそうよ。」
吸収は至極順調だ。
完璧を好むセルチックは、自らが背負った汚点を他人に語る人物ではない。よってアドルフに対する疑惑は彼女の手で闇へと葬られ、ケルベロスではこれからも変わらぬ日々が続くのである。ただ真なる指導者は三魔獣。そしてその意志は時にアドルフの意志を覆す。
今のアドルフ・レサは、アドルフである前にフェイロウなのだから。
翌日、ことは急速に動き始めた。
それは昨日とは全く逆の方向へ、指針を転換させたアドルフに端を発する。
「これよりケルベロスは世界侵略に乗り出す。夕べ熟慮した結果、現行のままでは白竜自警団支持層を増やすだけと判断した。早急にベルグランを用いて侵略に乗り出す。正し、無血占領を前提とした侵略だ。」
無血占領という偽善を押すことで、フェイロウはアドルフの思想転換を柔らかなものとした。もとより宰相のリュングベリはアドルフに忠実であるし、現在もケルベロスの富国を望む家臣は多い。指針はすぐさま受け入れられ、ベルグランが稼働態勢に入った。
そしてアドルフに化けたフェイロウが打った奇策はもう一つ。
「フィツマナックよりフュミレイ・リドンを招聘しろ!我が有能なる参謀としてケルベロス城に迎え入れる!」
家臣たちは色めきだった。その早い対応は、アドルフが本気であると知らしめるのに充分だった。
ケルベロスの詳細を知る彼女が白竜に流れる前に、懐中に抱え、リドンの忠誠を全うさせようとしている。家臣たちはそう感じていた。しかし実際はそこまで深い意味はない。そもそも、レサ家はすでに敢えなくも「お家断絶」の憂き目を見ているのだ。
(はぁ〜、被虐的な女。そそるわぁ___)
フェイロウはただ単純に、自分好みの美女を放っておくのは勿体ないと思っただけ。彼女は本気で世界征服をするつもりなんてない。そもそも、自分の気分が満たされ、リングが回収できれば、こんな面倒な役なんて早々におさらばしたいのだから。
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