3 女の意地

 「いつつ___くっ___はぁっはぁっ___」
 黒鳥城の一角、自室に籠もり、リュキアは酷く苦しんでいた。
 「ぁはっ___うう___」
 下腹部を押さえて蹲り、口を開けて舌を突き出すように息をして、蒼白な顔に脂汗を一杯に浮かべていた。立ち上がることさえままならない。酷いときはこうして動けなくなってしまうほど、下腹部の疼痛は凄まじかった。息苦しい。胃の中のものがこみ上げてきそうな気持ちの悪さが、体中を支配する。回復呪文も気休めにすらならない、だってこれは傷による痛みではないのだから。
 それでも彼女には助けを呼べない理由があった。
 痛みの原因を自分なりに理解しているから呼べなかった。
 魔族の身体に人間の種を宿すことがこうも辛いとは、正直想像もつかなかった。まるでこれまで人間を拒んできた反動が、そのまま痛みとなって押し寄せているかのようだった。しかし嗚咽は堪えるしかないのだ。人間の子を宿したことが知れれば、超龍神の怒りの鉄槌を喰らうのは目に見えている。
 だが___このまま隠し通せるとも思えなかった。
 コンコン。
 部屋の扉をノックする音。こんな時に___リュキアは必死に呼吸を落ち着けて、両手足を杖のように突っ張って、立ち上がった。壁に凭れながら次は声を絞り出す。
 「今取り込み中なの___!」
 「ミロルグだ。召集がかかった。」
 「すぐ行く___先に行ってて!」
 ドアの向こうの切羽詰まった声は気になったが、ミロルグは言うとおりにその場を立ち去った。
 「はぁはぁ___」
 気迫が痛みを押し殺したのか、少し落ち着いてきた。
 「これくらいがなんだっていうのさ___あたしは魔族だ!」
 そして一つ気合いをつけ、彼女は汗を拭うと歩き出した。

 謁見の間に側近の四人が勢揃いした。比較的珍しい光景である。彼らを眺める超龍神の顔は、肉体を取り戻し、自信に満ちあふれていた。人間の姿に変化はないが、今までは空洞的だった彼の身体に、内から満ち溢れた力を感じる。それはまさに肉体あってこそのものだった。
 「ミロルグ、バルバロッサ、そしてリュキア。均整破壊の任務ご苦労だった。特にリュキア、おまえの働きは評価できるものだ。私に楯突いてまでおまえを可愛がったミロルグに感謝するのだな。」
 「___」
 リュキアもミロルグも立ちつくしたまま何も言わなかった。リュキアは言えなかっただけ。ミロルグはむしろ超龍神を睨み付けたようにも見えた。そんな彼女を見て超龍神は口元を歪める。
 「さて次の任務だが、言わずとも分かるであろう___リングの回収だ。既にその大半をデュレン、いやサザビーと呼ぶか___」
 ピクッ。サザビーの名前にリュキアは下腹部の疼きを感じる。こんな時に、また痛みが波に乗ってやってくる___!
 「サザビーをはじめとする一党が握っている。何かと我々に縁深い奴等だ。」
 超龍神は更に続けた。ミロルグは、自分の斜め前方に立つリュキアの足が、少し震えていることに気が付いた。
 「手段は問わぬ。残りのリングについては、フェイロウがうまく探し出してくれよう。おまえたちは構わずに、奴等を殺してリングを奪ってくればいい。わかったな?」
 「随意に。」
 ミロルグとカーツウェルはそう答えて深々と一礼した。バルバロッサは沈黙を守っているが、彼の沈黙は了解と等しい。
 「うう___」
 だがリュキアはただ一人、なにもできず、ついに苦しみのあまりよろめいた。
 「なに___?」
 彼女の異変に気付いた超龍神は、視線を厳しくしてリュキアを睨み付けた。
 「どうしたリュキア___?」
 痛みに負けたリュキアはその場で蹲ってしまった。超龍神はただ悶えているだけの彼女に苛立つ。
 「答えぬか!リュキア!」
 その一喝は、謁見の間の空気を激しく揺さぶった。しかし恐怖で震えたのはリュキアだけ。バルバロッサは無表情に、カーツウェルは楽しげに、ミロルグは深刻な顔つきでリュキアを見ていた。そう、ミロルグは超龍神の一喝には驚かなかったが、いまリュキアが直面している現実に、運命の悪戯を感じて戦いていた。
 「も___申し訳御座いません___」
 リュキアはひれ伏し、額が床にこすれるほど深く頭を下げた。その間も彼女の下腹部は脈打つような衝撃に襲われていた。
 「私は___人間の子供を宿しています___」
 バルバロッサは一つ長い瞬きをした。ミロルグは唇を噛んで真っ直ぐにリュキアの背中を見つめ、カーツウェルは珍しい事例の登場に、研究者として目を輝かせた。そして超龍神は冷徹な蒼い目で、リュキアを睨んだ。
 「もう一度言って見ろ。」
 リュキアは恐れた。いずれ来るであろう恐怖の瞬間が、こうも早く訪れるとは。超龍神が醸し出すプレッシャーが、一心に己の身に降りかかる___なんと恐ろしいことか!
 「___こ、この前の任務で___私は人間の男に愛を教わりました___」
 そんな柔らかな表現が、リュキアの口から愛などという言葉が出るとは。ミロルグは驚いて目を見開き、超龍神は___
 「うがっ!」
 魔力を込めて目を見開いた。ひれ伏したリュキアの胸を波動が突き上げ、舞い上がった彼女の身体をさらに正面から別の波動が打ちのめす。リュキアはとてつもないスピードで闇の壁に一直線だった。
 ヴォン___
 しかし闇の壁の手前で、黒い魔力がネットを作り出し、彼女の身体を柔軟に受け止めた。
 「おやめください。彼女が宿した命を殺す気ですか?」
 止めたのはミロルグだった。超龍神もそうだろうと思っていた。ここに来て日の浅いバルバロッサはリュキアの心境の変化と、ミロルグのリュキアに対する献身を不思議に思っていたが、超龍神、そして古参のカーツウェルは勝手知ったる笑みを浮かべていた。
 「生ませたいのか?ミロルグ。」
 ミロルグは沈黙した。
 「生ませて下さい___お願いします!」
 「貴様は黙っていろ!」
 リュキアは震え上がって閉口した。何故普段は強気の自分が、超龍神に対してはこんなにも、負け犬のように弱くなってしまうのだろう。ミロルグはあんなに強い瞳で、あの超龍神を睨み付けられると言うのに___
 「生ませたいらしいな、ミロルグ___おまえのために。」
 「___黙れ___」
 それは超龍神にも届かない、彼女の口内だけでの呟きだった。
 「生ませるべきです。魔族の成長は早い。ましてリュキアほどの素養を持った者の子であれば、貴重な戦力となる可能性もあります。」
 「ふん___ご託を並べて___」
 ミロルグの気丈な言葉を超龍神は鼻で笑った。
 「ミロルグに免じて生ませてやろう、リュキア。」
 「本当ですか!?」
 リュキアの顔色が一気に晴れやかになった。痛みさえ吹っ飛んでしまったかのようだった。
 「出産が完了するまでは任務も与えない。ただしだ、カーツウェル。」
 「はぁい。」
 細身で片眼鏡、妙な髪型の男に声が掛かる。カーツウェルは女々しい声で返事をした。
 「おまえの研究で妊娠を短縮できるな?」
 「もちろん。胎児の成長を速めるくらいはお手の物。」
 カーツウェルはニコニコして、首を真横に傾けながら答えた。
 「お待ち下さい、たったの十ヶ月、待たれればよいではないですか。」
 「口を挟むな。ただ生ませるほどリュキアを許したわけではない。」
 超龍神は落ち着いた口調でミロルグを窘めた。それはまるで彼女が妥協せざるをえないと知っているかのようだった。
 「リュキア、カーツウェルの手を借りて素早く子を産み落とせ。後は我が立派な邪悪に育てて見せよう、おまえのように情に絆されることのない魔族にな。」
 「はい___産めるならなんでもいいです。」
 リュキアの決断に迷いはなかった。ミロルグは辛酸を嘗めたような顔で、一足先に謁見の間の出口へと踵を返した。
 「こんな形で___同じ道を辿るのか!?」
 そして闇色の壁を叩いた。彼女の口惜しさは、彼女自身にしか分からない。もう一人その意味を知る者がいるとすれば、それは超龍神だろう。

 そのころ、同じ黒鳥城の中でも、テラスを挟んだ離れに、少し変わった空気を持った館が建っていた。この館の主はと言うと___
 「ローゼン!ローゼン!」
 グラマラスな大女、人まねに関して右に出るもの無しの悪女、フェイロウである。彼女は派手な彩りでまとめられた部屋のベッドに寝転がり、誰かを呼んだ。
 ガチャ。
 「はいはい、口うるさいお嬢様、何か御用デ?ホゲッ!」
 「なにが口うるさいだ!」
 フェイロウはやってきた「奴」に向かって、ベッドの側にあった人形を投げつけた。人形は奴の分かりづらい顎にぶつかって、跳ね上げた。
 「あ、失礼、お美しいの間違いでしタ。」
 「無理ありすぎるわよ、それ。」
 アルカイックスマイルを携えてやってきたのは、全身に金属光沢を帯びた謎の生き物。大きくて寸胴で長い身体に、つぶらな瞳。可愛らしいコミカルな顔に、胴体にぴょこんと飛び出た小さな手足。『蛇メタル』、通称『蛇メタ』。それがこのモンスターの総称であった。
 フェイロウの身の回りの世話をして幾星霜、彼はその名をローゼンスクと言った。
 「で、何か御用デ?」
 「用があるから呼んだんでしょ!」
 「はっはっハッ、そりゃそうダ。こりゃ一本とられフギッ!」
 「いちいちうるさいのよあんたは!」
 フェイロウはまたローゼンスクの顔面に手近な物を投げつけた。ローゼンスクは一瞬仰け反るが、それでも平然としている。何を隠そうこの蛇メタ、モンスターと言っても戦闘能力はゼロに等しい。ただ、打たれ強さだけは天下一品なのである。饅頭のような手でありながら、どういう訳か手先も起用。昔から、力のあるモンスターが世話係として側に置くことが多かった召使いモンスターなのである。
 「この世界で一番の権力者を調べなさい。」
 「権力者ですカ?」
 「あたしが成り代わるのよ。」
 「はっはっハッ、ご冗談ヲ。」
 ボフッ。ローゼンスクの額にフェイロウの枕が命中した。
 「ったく、あんたなんか苛めたって面白くも何ともない。ぴちぴちした可愛いメイドが欲しいわ。」
 そんなことを言いながら、フェイロウは髪を指に遊ばせていた。
 「そりゃ私はじじいですかラ。」
 「___ほらさっさと行く。三十分で調べてといで。」
 「しゃれたジョークですネ、お嬢様。」
 「三十分で戻ってこないと本格的に苛めるわよ!」
 「ひゃア〜!」
 ローゼンスクは慌てて部屋から飛び出していった。と言ってももっさりしているので、決して軽快な素早さではなかった。それにしてもこの二人、なかなかのコンビっぷりである。
 コンコン。
 「お嬢様〜。フギッ!」
 フェイロウの部屋に戻ってきたローゼンスクに呪文一閃。
 「遅い!三十四分掛かってるわよ!」
 「四捨五入で三十分、へグッ!」
 プラドの爆発がローゼンスクに強烈なアッパーをかました。それでも何ともないのが蛇メタである。
 「で、誰だったの?」
 「はイ、アドルフ・レサでス。世界征服をした一族の末裔ですヨ。ケルベロスという国の王様でス。」
 ローゼンスクは水晶玉に映ったアドルフの姿をフェイロウに見せた。これは別にローゼンスクに占いの能力があるわけではなく、この水晶玉がカーツウェルの発明品なのだ。と言っても、リングの場所を問うたからといって答えてくれるわけでもなく、本当に分かり切った事柄にしか答えを示せない駄目水晶である。
 「げっ___ガキじゃない。あたしガキには興味ないわよ。」
 フェイロウは舌を出して顔をしかめた。
 「そういう目的だったんですカ?」
 「あ、違った。たまにはいいこと言うじゃない、あんたも。」
 はたしてそうだろうカ?ローゼンスクは悩んだ。フェイロウはまじまじと水晶玉の中のアドルフを見つめる。玉座に座ったアドルフは、家臣に対して何か指示を下していた。
 「よし、あたしはこいつに成り代わるわ。ローゼン、一緒に来なさい。」
 「無茶ですヨ。私はお嬢様みたいに変身はできませン。」
 「なら留守番する?」
 フェイロウは口を尖らせて尋ねた。
 「それも寂しいですネ。」
 ローゼンスクは照れた顔になる。じじいめ___と思うフェイロウ。
 「なら来なさい、変身術かけてやるから。あたしが疲れたときは、あんたが変わりにアドルフをやるのよ。」
 「エ〜。そんなことしたラ、きっとお嬢様サボりっぱなしじゃないですカ。」
 ドガッ!水晶がローゼンスクの額に当たって跳ねた。
 「一言多いのよ!あんたは!」
 フェイロウは己の暗躍に向けて着実に、用意を調えていた。

 「___」
 巨大な水槽のような物の中で、生々しい肉の管に絡められ、裸のリュキアが揺らめいている。緑色の液体の中で、それでも彼女は安らいだ寝顔でいた。
 「なあカーツウェル、もう少し何とかならないのか?この装置は___」
 水槽はカーツウェルの研究室の奥に設けられた。これは一種の培養槽。胎児の発育を早め、妊娠期間を飛躍的に短くする。ただそこに揺らめくリュキアを見守るミロルグが、一瞬赤面してしまうような生めかしさがある。なにって___リュキアの股間に食らいついている管が問題なのだ。
 「仕方ないでしょ、こういう仕掛けなんですから。」
 カーツウェルは女の裸体にも興味を示さない。だからといって男趣味でもない。
 「一つ質問があるのだが___」
 「なんですか?」
 「これはこの状態で出産するのだったな?赤子はどうなるんだ?」
 「あの管が引っぱり出して、養液の中をプカプカと。」
 それを聞いてミロルグは不安になり、顔をしかめた。
 「大丈夫なんだろうな。」
 「それは心配いりません。」
 だが確かに言われてみればこのリュキアの安らいだ顔。信じても問題はなさそうだった。
 「しかしあれですねぇ___」
 部屋の入り口付近にいたカーツウェルが、人間のものだろうか頭骸骨を片手にミロルグの横へとやってきた。
 「こうも同じ道を歩むとは思わなかったでしょう。」
 ミロルグはリュキアを見つめたまま、フッと郷愁的な笑みを見せた。
 「まあな。」
 「魔族なのに、人間に恋をする。あなたも意固地ですよねぇ、あんなに刃向かって___下手したら超龍神様に殺される所でしたよ。」
 カーツウェルは手の中で勝手にカタカタと騒ぎはじめた骸骨の頭を撫でた。
 「死体にしか恋のできないおまえに、この気持ちは分からないよ。愛を知った女は、時に意地になる___」
 ミロルグはカーツウェルを一瞥し、カーツウェルはニッコリ笑って骸骨の口にキスをした。彼の研究室の一角には山のような骨、そして養液付けにされた臓器がある。
 「それは女か?」
 「エミリアと言います。あなたに妬いていますよ。」
 ミロルグは苦笑いして踵を返した。
 「任務を遂行してくる。リュキアのことは頼んだぞ。」
 「分かってますよ、蔑ろにしてあなたに恨まれたら怖いですからね。」
 リュキアはカーツウェルに小さく手を振って、研究室から出ていった。ふと、過去を思い出しながら。
 「アンディ___懐かしいな___」
 己がかつて恋をした___人間の男の姿を思い浮かべて。




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