2 心のズレ 

 ソアラ・バイオレットがフィツマナックに降り立ったのは、百鬼に遅れること一日。まだ日も昇りきらないような、朧気な朝だった。
 「あのすみません___」
 島の様子を眺めながら歩き、畑仕事をしている老人を見つけて声を掛ける。フュミレイのことを聞くと、彼は快く答えてくれた。
 「しかしあんたも変わってるねぇ。昨日もリドンさんの所に妙な男が尋ねてきたよ。あの人の知り合いって言うのは、やっぱり風変わりな人が多いのかねぇ。」
 「妙な男___」
 ピーンと来たソアラは、老人に礼を言うと足早にフュミレイの家へと向かった。
 「あそこ___」
 小屋はすぐに見つかった。回りを畑に囲まれた見晴らしのいい場所に、ポツリと立っている。ソアラは足下に気をつけながら小走りし、小屋の側によると息を潜めて中の様子を伺った。
 「窓___」
 壁から戸板が飛び出していた。つっかい棒で開かれている。ソアラは壁際にそこへ接近し、音を立てないようにそーっと戸板を持ち上げた。
 目の当たりにした光景___そりゃ、そんなこともあるかと思ってはいた。だが実際にその様を見てしまうとそれはもう___
 「!」
 バタン!
 勢い良く閉じた戸板の音で、フュミレイがまず目を覚ました。
 「?」
 毛布で胸元を隠しつつ、身を起こした。その時に、隣で寝ていた百鬼も目を覚ます。
 「どした___?」
 「いや___」
 微睡みも束の間。また大きな音がして、フュミレイは身をすくめて裸を隠し、百鬼も反射的に上半身を起こした。音はドアが勢い良く開け放たれた音。そして押し込み強盗のような勢いで突入してきた紫色の女に、フュミレイは言葉を失い、百鬼は全身から血の気が引いていくのを感じた。
 バチン!!
 ソアラはわき目もふらずに百鬼の元へと歩み寄り、その頬に渾身の力を込めた平手を叩きつけた。それこそ百鬼が勢いで、隣にいたフュミレイへ倒れ込んでしまったほどだった。その様がまたソアラの怒りを膨れ上がらせる。
 「あんたなんか大っ嫌い___!」
 ソアラはその一言に全ての思いを込めて怒鳴りつけ、小屋を駆け出していった。百鬼はただ、頬の痛みに彼女の怒りを思い知るしかなかった。言い訳はできない。これはソアラに対する浮気である。例えフュミレイへの思いを彼女に語っていたとは言っても、実際に見せつけられては冷静でいられないのが当然だ。
 「泣いていた。」
 すでにベッドからすり抜けて下着をつけたフュミレイは、シャツのボタンを留めながら言った。
 「分かってもらおうなんてのが虫のいい話なんだよな___」
 百鬼は気落ちした様子で毛布を握りしめた。
 「あたしが連れ戻してくるよ。」
 フュミレイは乱れた髪に何度か櫛を通した。
 「いや、俺が行くよ。」
 「駄目だ。ニックは正直すぎる。」
 フュミレイは颯爽と小屋を飛び出していった。

 ソアラの足取りは、畑仕事の人たちに聞くとすぐに分かった。そして辿り着いた先は、砂浜だ。
 「いたいた___」
 波打ち際にまるでヤドカリのように、ぽつんと丸まって座っているソアラがいた。不謹慎だが、いじけた彼女の背中が愛らしくてフュミレイは微笑んだ。
 「ソアラ。」
 フュミレイは彼女の側によって、構わずに声を掛けた。
 「フュミレイ___久しぶりね。」
 冴えない顔を上げ、ソアラは応えた。
 「さっきの威勢はどうしたんだ?」
 「ああ、どっか行っちゃった___」
 フュミレイはソアラの隣に腰を下ろした。彼女と同じように、膝を抱くようにして。
 「なにより、無事で良かったよ。」
 「ああ、それならもういいのよ___死にかけたおかげで得たものもあったわ。」
 そう、その中には百鬼との愛の結晶もある。それが今は忌々しかった。ソアラは冷静を装っているが、フュミレイとはこれっぽっちも目を合わせようとしなかった。意味のない沈黙が続くと、彼女は必要以上に苛ついた。
 「なにしに来たのよ。」
 「連れ戻しに来た。」
 「よく言う___」
 ソアラは砂を掴むと、その場で放す。その動作を繰り返した。
 「当てつけのつもりならゴメンよ。あいつはローレンディーニじゃなくてあなたを選んだんだから、今更あたしにどうしろって言うのよ。」
 風がうるさく髪をいじる。ソアラは何度も髪を掻き上げた。
 「彼のパートナーになってほしい。」
 「ふざけないで!」
 フュミレイの言葉をかき消すようにして、ソアラが強く言い放った。
 「どういうつもりか知らないけど___あなたが愛し合って、身体をあわせた男のパートナーになれですって?馬鹿にするのも大概にしてよ!」
 ソアラは遂に振り向き、力のこもった瞳でフュミレイを睨み付けた。それでもフュミレイは顔色一つ変えなかった。
 「信じてもらえないかも知れないが、あれが最初で最後だ。あたしが求めた。人恋しさに、昔のよしみで彼に縋った。温もりが欲しかったんだ。ニックは___」
 「それよ!」
 ソアラがフュミレイの声を断ち切った。
 「あなたは平気でニックと呼べる。それなのよ___」
 そしてまたフュミレイから顔を逸らしてしまう。
 「あたしは呼べないわ___百鬼と呼んでしまう。でも彼は本当はニックよ___」
 「ソアラ___」
 心のずれとは些細なことから生じるものだ。他人にとってはどうでも良いことでも、人によってはそれが大きな意味を成すことがある。それを理解し合えるかどうかが、心の食い違いの大小を決める。
 「ああ___馬鹿みたい。また嫉妬してるわ___」
 ソアラは悔しさを噛みしめるようにして、俯いて横顔を隠した。膝の間に埋めた顔。でも涙は砂を濡らしてしまっていた。
 「こんなだから余計に腹が立つのよ___嫉妬しているぶんだけ___あたしはあいつのことが好きなんだってまた思い知らされて___」
 フュミレイは彼女の情熱に感服した。そして、その一途な愛を卑しくも踏みにじった自分が憎かった。
 「すまなかった。私も彼も軽率すぎたんだ。彼は間違いなくおまえの恋人だよ。」
 「___」
 「ソアラ___」
 「いいのよ、もう過ぎたこと。それに、あたしはもうあいつにしがらみを作ってしまったから。」
 ソアラは顔を上げた。涙の名残をぬぐい去り、漸く少し落ち着いた顔を取り戻す。涙の滴が、彼女から毒気さえも洗い流してくれたようだった。
 「あいつがローレンディーニじゃなくてここに向かったっていうこと、それは本当に頭が来るけど___あたしも信じてなかったのよ。だからこうしてここに来てしまった。それは謝らなくてはいけないわ。」
 ソアラは続けた。
 「百鬼は___自分がニックであると教えてくれた、それは彼があたしを信じてくれたから。フュミレイとあたしを比べることはできないとも言っていた、あなたに愛情を抱いているとも。それはあたしを信じてくれたから言った言葉だった、あたしはそれを踏みにじった。それは良くない事よ。」
 「蟠りは消せる、そう思わなくては。それが恋人だよ。」
 それを聞くと、ソアラは少しだけ笑った。
 「意外ね、あなたから恋愛論を聞けるなんて思わなかった。」
 「百鬼を許してやってくれるか?」
 「ニックて呼んだら?」
 「百鬼の方が似合っているよ、あのがさつな男には。」
 「そりゃそうだ。」
 ソアラが立ち上がった。
 「なあソアラ、一つだけ聞かせて欲しい。」
 「ん?」
 フュミレイも立ち上がる。服に付いた砂を払い落とした。
 「しがらみって何だ?」
 「ああ。」
 ソアラは少し照れたような顔になる。だが当面のライバルの前で、これを言うのは少し卑怯に思えた。
 「子供がね___」
 「!!」
 フュミレイは驚いて目を見開いた。
 「___できたのか?」
 息を飲んで問い返すとソアラは頷いた。
 「早く伝えたかったの。だから余計に腹が立っちゃった___でもあんまり怒ると良くないからね。」
 「そんな大事なこと!さあ、早く報せよう!」
 フュミレイは思った。きっとソアラが育む新たな命は、二人の絆を永遠のものに変えてくれるだろうと。
 それは、少し寂しかったが___彼らにとっても、自分にとっても、望ましい道なのだ。
 小屋に戻ると、百鬼が土下座で出迎えた。二人はそれを少しからかって、ちょっとした悪戯で苛めた。ソアラがそんな彼を見て笑い、百鬼はキョトンとして顔を上げ、フュミレイが彼にソアラの妊娠を伝えた。
 「___」
 百鬼は沈黙したまま暫く固まってしまっていた。しかしすぐにこれ以上ない笑顔になると、ソアラを力一杯抱きしめた。お腹が圧迫されそうなので、慌ててフュミレイが止めたほどだ。だがそれでも彼の興奮は暫く冷めやらなかった。
 そしてこの時、彼の心に一つの決意が芽生えたのである。
 
 「均整は全部破壊されちまったのか___」
 百鬼は辛辣な顔で言った。落ち着きを取り戻した三人がはじめたのは厳しい現実の話だった。
 「そう。気付いているかもしれないけど、均整が全て破壊された日から、あたしは晴れを知らないわ。これは偶然じゃないと思う。」
 「超龍神が完全復活した影響___」
 「と思って間違いないでしょうね。百鬼、魂のリングは?」
 「ちゃんと持ってるぜ。」
 百鬼はソアラに向かってリングを示した。
 「これからはリングが狙われるわ。超龍神は必ずアヌビスの封印を解こうとする。命のリングはケルベロスにあるそうね?」
 「そうだ、あたしの部屋にある。迂闊にも置いてきた。」
 「それで正解よ。戦う手段を失ったあなたが持っていたら、それこそ心配だわ。」
 フュミレイが右眼を失ったことは衝撃だったが、魔力を失ったという話はそれ以上だった。魔道においてソアラは彼女を目標にしていたから、残念で仕方がなかった。
 「これで在処の分かっていないリングは一つ、『大地のリング』だけ。」
 「逆に言えば、リングの三分の二をおまえたちが所有していることになる。」
 「そう。魔族の攻撃は私たちに集中するでしょうね。」
 「これからが大変ってことか、ソアラも戦えないしな。」
 百鬼はソアラに笑顔を送る。
 「ゴルガンティを倒せたことは自信に繋がるけど___まだ三魔獣もジュライナギアとフェイロウが残っている。特にフェイロウにはいつどこで襲撃されるか分からない。」
 「そうだな___」
 「何者なんだ?そのフェイロウというのは。」
 「マネマネ女よ、人の真似ばっかりするの。でも言葉をくり返すとかそう言う事じゃなくて、顔や声、全ての容姿、場合によっては性格や記憶まで完璧に成り代わるって話よ。」
 「___恐ろしいな。」
 フュミレイは魔族が持つ特異な能力の怖さを知っている。その言葉には実感が籠もっていた。

 その日のうちに、ソアラと百鬼はフィツマナックを発つことにした。ソアラに至っては同じ船でのとんぼ返りである。他のメンバーから取った遅れを少しでも取り返さなければならない。そして目指すは百鬼の故郷ソードルセイド。
 「いいもの貰ったな。」
 甲板で風に当たりながら、二人は遠くなっていくフィツマナックを見ていた。
 「でもタイトな服だから、暫くは着れないよ。」
 ソアラは布の袋を持っていた。中には一着の服が入っている。それはフュミレイがはじめて士官登用されたときに、祝いとして作られた士官服だ。彼女のためだけに作られたオリジナルで、ケルベロスを連想させる要素はない。しかし、当時十二才だった彼女。仕立屋が注文の寸法を何かの間違いと勘繰って、大人のサイズで作ってしまった。そんな経緯から結局彼女はこの服に袖を通していないと言う。
 「なあソアラ。」
 「ん?」
 百鬼は何気なくソアラを見つめた。ソアラも普通の顔で首を傾げる。
 「結婚すっか、ソードルセイドで。」
 「___」
 ソアラは何度か瞬きした後、苦笑いを浮かべた。
 「あんたって相変わらずデリカシーないわね。昨日の今日で良く言えるわ。」
 「駄目か?」
 「いいよ。」
 ソアラはニッコリと微笑んだ。
 「なあ、子供っているの分かるのか?」
 「うーん、まだ良く分からないよ。」
 百鬼の決意が言わせた言葉は、二人の間に生まれた心のずれを正していく。言葉を掛け合うことはごく自然で、何気ないやり取りの中に喜びが生まれていた。




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