1 温もり
「ふぅ___」
今の季節、フィツマナックの畑では収穫を終えた農地の手入れが忙しい。また休閑地を耕して、土を養う季節でもある。オーバーオールに麦わら帽子という出で立ちのフュミレイは、鍬を持つ手を休めて汗を拭いながら空を見上げた。
「いやな天気だな___このところいつもこうだ。」
空には灰色の雲が蔓延っている。ケルベロスでは珍しくない天気だが、晴れの日が多かったフィツマナックには似合わない空だ。そればかりか、雲が空に掛かっているわけでもなく、何というか___空が灰色がかって、日射しが弱くなったように見える。
「おーい、リドンさん。」
畑の向こうから、親しくしている農民の女性が声を掛けてきた。
「あ、こんにちは奥さん。」
「さっきねぇ、あんたのことを聞いて回っている男にあってさぁ。」
体格の良いそのおばさんは、フュミレイに近づいてくると口元に手を添えて言った。
「男?」
「なぁんか汚らしくてねえ、あんたがどこに住んでいるかって聞いてきたから、でたらめを教えてやったよ!」
そして陽気な笑い声を上げる。心当たりの無かったフュミレイは農作業を少し早めに切り上げ、島の中でも一番小さくて貧しい小屋へと戻っていった。
(あいつか?)
家の回りを誰かがうろついている。大柄で、本当に薄汚れた服を着ている。首にはマフラーを巻いていて、ぼさぼさの髪がいかにも不潔だ。フュミレイは煙たい顔をして、それでも臆することなく男に近づいていった。
「おい、あたしに何か用でもあるのか?」
フュミレイは鍬を男に向け、強い口調で言った。男は振り返ると、驚いた様子で目を見開いた。
「フュミレイ!」
「えっ?わっ!」
男は躊躇い無しにフュミレイに近寄って、鍬など気にせずにその肩を取った。
「な、なにを___」
「俺だよ俺!」
男は口元を覆い隠していたマフラーを刷り下げ、不精髭の顔でニッコリと笑った。フュミレイは漸く彼が百鬼その人であることに気が付いた。
「ニック___!」
驚きの顔から敵意が消えた。
「久しぶりだなぁフュミレイ!会えて良かった!」
百鬼はたまらずに彼女を抱きしめようとするが、フュミレイは彼の胸に手を突っ張って堪えた。
「頼む!頼むからまずその薄汚れた身体をどうにかして___!」
百鬼はキョトンとして嫌がるフュミレイを見ていた。
「いやぁ!さっぱりした!」
百鬼は湯気の立った身体でニコニコしながらフュミレイの家へと戻ってきた。中では白いワンピースにエプロンをしたフュミレイが料理の用意をしていた。
「お帰り。ちゃんとお礼は言ってきた?」
「おう、もちろん。」
フュミレイの家には風呂がない。手足を洗うくらいは水瓶でできるが、身体を洗うにはもっぱら隣家の風呂を借りるか、桶を借りての水浴びだ。
「そう、それくらいすっきりした顔が似合うよ、ニックには。」
髭を剃り落とし、体中の汚れを洗い流して、服まで貸してもらった百鬼はすっかり好青年の顔に戻っていた。
「そう言うおまえもなかなかお似合い。」
百鬼はフュミレイのエプロン姿をまじまじと眺めた。フュミレイは照れたように笑って厨房へと向かった。
「それにしても、いきなりだからな。驚いたよ。」
フュミレイは百鬼の来訪をまったく予想していなかった。牢獄の中で彼との思い出を顧みる日もあったからこそ、笑顔が絶えなかった。
「なんか手伝おうか?」
「おまえに野菜の皮をむけるかな?」
「へへっ、まかしとけって。」
百鬼は胸を張って厨房へと向かう。フュミレイはそんな彼とのやり取りを楽しんでいた。
「ライとは会ったかい?」
「ライ?どういうことだ?」
百鬼をテーブルに待たせ、フュミレイはバケットにパンを入れて厨房からやってきた。
「何だ、ライにここのことを聞いてきたんじゃないのか。」
「いや、バラバラに飛ばされて俺は直接ここに来た。」
フュミレイはそれを聞いて呆れたような顔をした。
「ライはここに飛ばされてきたんだ。みんなローレンディーニを目指しているんだ、って意気込んでたよ。」
「悪いとは思ったよ。でも新聞でおまえのことを見て___もう居ても立ってもいられなかった。」
百鬼の言葉。一人の男に思ってもらえるというのは、それは嬉しいことだが___
「間違ってるよ。それは我が儘さ。」
戒めるようにフュミレイは言った。彼女の毅然とした態度に百鬼は閉口する。
「心配せずとも私はやっている。おまえが目指すべき場所はローレンディーニだ。バラバラになる前に仲間たちと共に目指していた場所だろう?」
「俺は___!」
百鬼は立ち上がりかけ、しかし踏み止まって一つ首を横に振った。
「俺は自分の気持ちに正直でいたかっただけだ。ジャムニを発つ前からそうだった。」
そう、ニックは正直だよ。昔からいつもそうだった___
「___どうぞ食べて。冷めてしまう。」
「___ああ。」
食卓には変に重い空気が蔓延った。暫くは互いに沈黙したまま、静かに食事が進む。しかしそんな沈黙が百鬼の思いを募らせ、それを言葉に変えさせた。
「なあフュミレイ。」
「ん?」
彼は真っ直ぐにフュミレイを見つめた。その実直な眼差しに、フュミレイは胸の奥が収縮するのを感じた。
「俺のこと、どう思う?」
フュミレイは何か言おうとして言葉にならず、彼から目をそらした。
「___どう思うって___」
額に手を掛け、湿っぽい声で問い返す。
「深く考えてくれなくていい、思いついたことを言ってくれれば___」
「幼なじみ___」
彼女らしくない、尻窄みな、声を殺したような呟きだった。百鬼の眉間に力がこもったように見えたが、それでも彼は真っ直ぐにフュミレイを見つめていた。たまりかねたフュミレイは首を横に振った。
「ごめん、こういうの苦手なんだ___あたし、堅いことばかりやってきただろ?___アレックスと会えなくなってからは、こんな気持ちになったこともなかったし___」
戸惑いがありありだった。どんな任務も冷静にこなし、毅然とした態度で職務に勤めていたケルベロスの銀薔薇は、たった一人の男の愛には脆かった。
「___そうだな。いや、俺が悪かった。」
「そんな___」
「んー、美味しいなあ。おまえって料理もなかなかいけるね。」
百鬼は取り繕ったように明るい笑顔を見せる。フュミレイは申し訳ない気持ちで一杯になった。ローレンディーニに向かうという使命をかなぐり捨ててまで、愛をうち明けるためにここまで来た彼に対して、こんな答えしか返せなかった。
それは、愛を聞く者としてあまりに愚鈍だと感じた。
好きなのに___好きであることに気が付いているのに___
それを言うことはできなかった。
「色々大変だったみたいだな。その傷といい___」
「___ああ、そう。色々あったよ。」
それから二人は暫く、お互いのこれまでを語り合った。だがお互いに拒んだのはソアラの話だった。特にソアラと百鬼の関係についてだ。百鬼は自ずと語ることは避けたし、フュミレイも先程の雰囲気を掻き捨てたかったので、尋ねなかった。むしろこれまでの冒険、グレルカイムのゴルガンティや、バドゥルでの戦いのことなどを百鬼はフュミレイに語り、彼女も真摯に聞いていた。一方で百鬼は、フュミレイにあまり辛い思い出を語らせたくないのか、彼女が身体に負った傷のことや、空洞の右眼について語らせようとはしなかった。しかしその右の眼窩を目の当たりにしたときの衝撃と憤怒は、表情に滲み出ていた。そして魔力を失ったことを知ったときには思わず声を上げた。
その都度フュミレイは、「本当に正直な男だ」と懐かしむように思うのだった。
「リュキアの呪いか、リュキアを倒せばどうにかなるのかな。」
「そんなに簡単じゃない。もうこの呪いは彼女の範疇から外れ、独自にあたしに食らいついているんだと思う。」
「でも___どうするんだよ。」
「どうにでもなるよ。魔力が無くても生きてはいけるし、呪いを解く方法は今も探している。」
だがフュミレイを知っている百鬼は、そんな言葉では安心しない。
「相変わらずだな。昔っからそうだよ、いっつもそうやって強がるんだ。」
「___そんなことはないよ。」
知っているというのは素敵なことだ。黙っているだけでも、ちょっとした表情一つでお互いの心が通う、それは素敵なことだ。
夜が更けてゆく。人工の明かりを消し、月明かりだけを感じて二人は語らっていた。ライと同じように、客である前に男であることを主張され、フュミレイがベッドに、百鬼が床に陣取った。
「ソアラはどうしてる?」
ランプの前では語ることのできなかった話題を、フュミレイが切り出した。それは、闇の中で心の平静を取り戻した彼女が、今の関係にけじめを付けなければならないと感じて口にした言葉だった。
「さぁな___元気だとは思うよ。」
「会いたいだろ?」
百鬼は口を窄めた。
「そりゃ___まあ、会いたいけど、でも今はおまえの方が心配だった。」
「もうこれで安心したな。」
「そんなことねえよ。俺はむしろ心配になった。」
フュミレイは小さな溜息を付く。百鬼の方に向けていた身体を仰向けにした。そうすると月明かりが僅かに顔を照らした。
「さっきの質問さ、あたしは『愛している』なんてとても言えない。」
百鬼は唇を噛んだ。
「なんでだよ___」
苦渋の問い掛けには、長い間を要した。
「私はあなたの恋人になることはできない。私はあなたたちの仲間になることもできない。私は呼ばれればケルベロスに帰る女だ___アレックスを殺した女だ。」
「そんなこと___いつまでも気にしてたって___」
「気にするな?そんなことができると思うの___?」
簡単ではないだろう。
「時間を掛ければできるはずだ。俺が解決する___」
百鬼は頑なだった。だがフュミレイには、その頑なさが重荷だった。
「詭弁だよ___」
そして呟いた。
「もしソアラが死んでいたらどう?あたしの手でソアラが殺されていたら。そうなっていたんだよ___本当は!」
「それは___」
百鬼には返す言葉がすぐには見つからなかった。
「あたしにはパートナーはいらないんだ、ニック。」
それがフュミレイの答えだ。
「私は一人がいい。これまでも、これからも___あたしに関わった人間は不幸になる___アレックスをご覧___だからあたしは一人がいいんだ。」
「そんな人生でいいのか___」
百鬼は奥歯を噛みしめ、毛布を握りしめた。
「ああ、構わない。」
「そんな寒い人生で___!」
「そのほうがいいのさ。」
フュミレイは疲れたような笑みを浮かべた。それが百鬼の引き金となった。
「!?」
突然、ベッドに加重がかかる。半ば目を閉じていたフュミレイは驚いて目を開け、そのときすでに百鬼はフュミレイを抱きしめていた。毛布の上からではあったが、忘れかけていた男の温もりがフュミレイの身体を雄々しく包み込んでいった。
「な、なにを___」
当惑の面持ちで、フュミレイは頬を朱に染め、身体を堅くした。こんな強引なやり方___あの優しいニックにできるとは思ってもいなかったから。
「暖かいだろ___?」
「え___?」
耳元での囁きに、フュミレイは女らしい声をこぼした。
「一人でいるより___ずっと暖かいだろ?」
身体全体に高揚感が迸り、フュミレイは返す言葉を思い浮かべることさえできなかった。
「おまえが寒い人生を送るっていうなら、俺はいつまでもこうしておまえを暖め続ける。たとえおまえに嫌われたって___」
「嫌うなんて___」
「二人の女を好きになるなんて___いけないことだとは思う。でもおまえがそれを気にして気丈に振る舞うなら、ニック・ホープはいつまでもおまえを愛し続ける。」
二人の唇が重なり合った。力ずくにも思えたキスだったが、フュミレイは拒まなかった。
「私だって愛している___でも___」
それじゃ駄目だって気付いて欲しい。
一人の女に温もりを与えるために、使命をかなぐり捨て、仲間たちを迷わせる。それじゃ駄目なんだ。
でもあたしがきっぱりと断ることができなかったのは___
温もりを愛おしく感じてしまっていたからだろう。
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