2 凋落

 ゴルガンティとの激闘を終えたグレルカイム。フローラによる傷の治療も終わって、再び合流したメンバーは一月ぶりの再会を喜び合った。しかしそれは短いもの。この戦いで失われた命への悲しみは、喜びを半減させた。
 アルベルトの死はあってはならないことだった。彼がサラを失った事実に、強く立ち向かうことができればこんな死はあり得なかったに違いない。それは非常に口惜しい、残された者に歯痒い気持ちを残す死に方だった。
 「そう言えば、均整はどう?結界は張れた?」
 「いや、それがまだ見つかってないんだよ。」
 百鬼の答えを聞いてソアラはしかめっ面になる。
 「なぁによそれ〜、一体なにやってたわけ?」
 ソアラは百鬼の脇腹を肘でつついた。
 「いやこっちにも色々あってさ。」
 「バルバロッサとリュキアは撒けたんだ。あとはここにある均整を探すだけ。」
 「ねえ、あれはなに?」
 不意にフローラが、崩れ落ちた神殿の方向を指さした。
 「あ。」
 するとそこには、岩壁に埋もれるようにして立つ女神像の姿があった。
 「いや〜、神殿に隠されてわかんなかったんだ!多分あれゴルガンティの後ろに立ってたんだな!」
 サザビーは頭を掻きながら笑った。一服をしたいところだが煙草がない。
 「んったく、しっかりしてよね。」
 ラミアを含めた六人は女神像に向けてリラックスした面持ちで歩いていく。そしてその神々しい面立ちをはっきりと見えるほどまでに近づいたその時。
 「ストームブリザード。」
 女性の声が風に乗って聞こえた。
 「あっ!」
 そして女神像が氷に包まれる。空にいた人影に気付いて慌てて走り出したときにはもう襲い。
 「ディオプラド。」
 虚しくも女神像は砕け散り、破片が彼らの足下に転がってきた。
 「油断したな。」
 宙に浮遊するミロルグは、嘲笑を浮かべて振り返った。
 「ミロルグ___!」
 「なんてことすんのよ!」
 ソアラが怒りを剥き出しにして怒鳴りつけた。
 「ゴルガンティを倒してくれたことに敬意を表して、祝福の花火さ。」
 「なんてこった!」
 愕然とするばかり。なにしろ苦労が報われない。
 「それでは、また会おう。次の均整への案内、期待しているよ。」
 「待ちなさいよ!」
 ソアラは必死にミロルグを呼び止めようとする。何というわけでもないが、このまま簡単に帰らせるのは悔しかった。ミロルグはそれを無視してさらに高い空へ飛び立とうとした。しかし突然の大地の揺れ、それに伴う奇怪な現象が彼女の脚を食い止める。
 「こ、これは!?」
 ミロルグは驚愕の面持ちで自分の周囲を見回した。だが驚いたのはソアラたちも同じ。
 「な、なんなの!?」
 神殿の瓦礫の下から大量のツタ植物が空へと伸び、ミロルグの身体に絡みついていく。そして一気に彼女の身体を縛り付けてしまった。突然のことにミロルグは面食らい体を動かすと、ツタはよりきつく食い込んでいった。その場に居合わせた誰しもが、この状況を理解できなかった。
 「なんだこいつは___んっ___」
 ミロルグは視線の先に一人の見慣れない男を見つけた。いや女かも知れない。とにかくだ、不適な笑顔のそいつを見つけたミロルグは、何故かしら戸惑いを感じた。
 「棕櫚!」
 ミロルグの視線を辿り、瓦礫の外れに立つそいつを見つけたサザビーが声を上げた。
 「誰?」
 ソアラも棕櫚に目を移す。
 「貴様___何者だ!これは貴様が!?」
 ミロルグが棕櫚に厳しい口調で問うた。
 「ご想像にお任せしますよ___」
 なんて気色の悪い奴___ミロルグは棕櫚の視線に不愉快さを覚え、関わりたくないと感じた。
 「ウインドランス!」
 ミロルグは風の呪文を巻き起こしてツタを根こそぎ切り飛ばした。
 「ヘヴンズドア!」
 そして間髪入れずに黒い輝きにその身を包むと、虚空の彼方へと消え去っていった。
 残された瓦礫の山と大量のツタ。しかし棕櫚がその手をツタに翳し、ほんの左右へ数回揺らめかせると、ツタは見る見るうちに瓦礫の下へと消えていってしまった。
 「な、何者なの?彼?」
 ソアラはただただ唖然呆然としてその様子を眺めるばかり。
 「さあ、俺にもよくわからん。」
 答えたサザビーも同じだった。棕櫚はこちらを振り向いてニコリと微笑んでいた。

 「あーっもうっ!あんたが重いから余計に魔力が掛かる!」
 「そういうものか?」
 リュキアとバルバロッサは素早くグレルカイムに戻れず、手を拱いていた。集中力を欠いたせいかヘヴンズドアをしくじり、グレルカイム近くの砂漠にやってきてしまっていた。
 「それにしてもなんて悔しいのかしら___!」
 ソアラへの怒りをぶちまけて、リュキアは砂を蹴り上げた。しかし一陣の風がその砂を彼方へと吹き飛ばす。いつの間にか二人の近くにはミロルグが現れていた。
 「あんた___!」
 リュキアはミロルグを睨み付けた。
 「なにしに来たのよ!」
 「おまえたちの不甲斐なさに呆れてな。グレルカイムの均整は私が破壊しておいた。」
 「余計なことを!」
 リュキアはミロルグに向かって砂を蹴り上げる。ミロルグは魔力を労さず、マントを広げてそれを払った。
 「私が行かなければ結界を張られていた。」
 「うるさいよ!均整の破壊はあたしたちの仕事のはずだ!」
 「いや、一度黒鳥に戻れ。」
 「やだ!」
 リュキアはまるでだだっ子のように頑固だった。ただソアラに仕返しがしたい。しかしその理由はあまりに子供じみている。
 ミロルグは躊躇わずに彼女の頬を張った。リュキアは驚き、頬に手を当ててミロルグを睨み返す。
 「そういう気持ちがおまえを不甲斐ない方向へと導いていることが分からないのか?」
 「偉そうに___あたしに指図するな!」
 リュキアはミロルグに食ってかかろうとするが、その手をバルバロッサが掴んだ。
 「なにするんだよバルバロッサ!」
 だがバルバロッサの厳格な瞳と視線が交錯すると、リュキアは反発の声を失った。
 「ミロルグを困らせるな。いまは黒鳥城に戻る。」
 暫く無言になったリュキアは嫌悪の顔つきになって舌打ちをした。
 「リュキア、冷静になれ。おまえはソアラなんかに傷つけられるような女ではないはずだ。」
 「分かってる!いちいちうるさい!」
 リュキアの身体が光に包まれ、バルバロッサは彼女から手を離した。そしてヘヴンズドアにより空へと消えていった。
 「色々手間を掛けるな、バルバロッサ。あの娘の扱いには手を焼くだろう?」
 ミロルグは苦笑して尋ねた。
 「いや、俺は黙っているだけだ。」
 バルバロッサの答えを聞き、ミロルグは納得する。なるほど、おしゃべりには無口か。
 「いこう、リュキアはきっと超龍神に戒められる。思い詰めないように後を見ねば。」
 ミロルグはバルバロッサの腕を取った。
 「やけにリュキアの世話を焼くな。煙たがっているぞ。」
 「分かっている。でもあの娘はまだ子供だ。現実というものを良く知らない。大人が見てあげなければなるまい___」
 バルバロッサはミロルグの別の一面を見た気がした。この女は魔族であり、超龍神の僕でありながら思いやりや優しさを持つ。いや、もとより魔族が冷徹なだけの種族だなどと、誰が決めたのかは分からないが。
 ミロルグとバルバロッサもまた、光に包まれて空へと消えた。

 「___」
 フュミレイは雪の道をケルベロスへと向かっていた。頬の傷の痛み、口内の痛み、だがそれよりもなによりもそれを治療できない傷みが重くのし掛かる。
 (今まであたしがいかに魔力に頼ってきたかということか___)
 ケルベロス城が見えてくる。また人目を避けて裏道を通らなければならない。
 「しかしこの傷をどう弁解するか___あたしが呪文で傷を封じることができるのは、周知のこと___」
 いや、考えても仕方がない。とにかく今は暖かいケルベロス城の中へと帰りたい。
 場外の古井戸跡から暗い道を進み、梯子を登る。登り切った先を少し進んで、光が漏れている壁の隙間を押す。暖かな空気が流れ込み、フュミレイをフッと安堵が包む。しかしそれも一瞬のことでしかなかった。
 「___」
 隠し扉が彼女の背後で閉まる。フュミレイはただ沈黙して今の状況を理解した。
 「抵抗するとためにならんぞ___フュミレイ。」
 部屋の中には銃を構えた兵士が数人居並び、その後ろにはハウンゼンとザイル。
 「バンディモはどうした___」
 「共謀者として拘束し、牢にぶち込んだ。当然のことだ。」
 ザイルが冷笑を浮かべて言った。
 「共謀?どういうことか?」
 フュミレイは強気の姿勢を崩さずに尋ねた。
 「とぼけても無駄だ。貴様が魔族なる怪しげな人物と、北西の祠で結託する姿をこのザイルがしかと見届けた___」
 「悪く思うなよ、リドンちゃん。」
 フュミレイはザイルを一瞥し、またすぐにハウンゼンに視線を移した。
 「巧くやったものだなハウンゼン___そんなにあたしが目障りか?」
 「黙れ。貴様が国家の転覆を企てていたことは明白___すぐにでも裁きにかてやる。」
 ハウンゼンは強くフュミレイを罵り、兵たちは慎重に距離を詰めていった。
 「結託とはこのように傷を負うものか___?」
 「貴様は傷の治癒ができるはずだろう。これ見よがしにわざとらしい怪我を残しても、信じる者などいはしない。」
 いちいち癇に障る男だ。あたしはただ治療できないだけだというのに___ま、そんなことを話しても嘘だと詰られるだけだろう。
 フュミレイの両手を手枷が拘束する。国家の参謀が、反逆を企てていたことが発覚し逮捕されるなど、それこそ計り知れないスキャンダル。見せしめのために首が飛ぶことだって___充分にあり得る。
 この日より、フュミレイは暖かい部屋を追われ、外と変わらないほど冷え切った牢獄で過ごすこととなった。与えられた毛布だけでは肌寒かったが、それ以上の心の寒さは彼女を震え上がらせるほどだった。
 「付けが___回ってきたな。アレックス___」
 人殺しが罪にも問われず生きられる理不尽など無いのだ。力を失い、生活を失ったフュミレイが思い出した面影は、アレックスだった。
 それからの日々。フュミレイを待っていたのは厳しい取り調べと、過酷な拷問だった。
 「しかし、とんだ失態だったな。フュミレイ。」
 「おまえは大した手柄だったな。」
 取り調べはザイルによって行われる。テーブルを挟んで二人は向かい合い、部屋の四隅には兵士が立っていた。
 「さて、こちらに必要なのは真実じゃない。おまえが国家内乱罪を認めるという言葉だ。そして明確な証拠になり得るものだ。」
 「無理強いか___どうしても私を国家から追いやりたいんだな。」
 ザイルはフュミレイの前髪を乱暴に掴むと、力任せに彼女の顔をテーブルに叩きつけた。
 「___!」
 塞がりきっていない口の傷がまた開き、鼻からも血が滴った。
 「口のきき方に気をつけな。もうおまえは軍事参謀のフュミレイ・リドン様じゃないんだぜ。」
 「う___」
 テーブルを血で濡らしながら、フュミレイは体を起こした。
 「ふん、無様だな。俺の上官だったおまえが。」
 「フフ___そうだな___」
 笑ってやがる。ザイルにはフュミレイが正気とは思えなかった。そしてこの全てを見透かしたように嘯く小生意気な女の、鼻っ面をへし折ってやりたいと強く感じた。
 「ザイル様。」
 無味な意志に囲まれた取調室に、兵士が飛び込んできた。
 「なんだ?」
 そしてザイルに近寄って耳打ちする。フュミレイは手枷をされた手の甲で、鼻と口についた血染みを拭った。ザイルがニヤッと笑ったのは気にならなかった。どうせあれが見つかったのだろう。
 「おまえの部屋からアモン・ダグの手紙が幾つも見つかったらしい。」
 「個人的なやり取りだ。」
 「内容は超龍神だとかいう奴のことだってな。おまえが魔族と会っていた祠のことも書いてあったらしい。」
 「それはおまえたちが知るべき事ではない。」
 ザイルは突如として立ち上がり、フュミレイの首元を掌で強く突いた。息のつまりと共にバランスを失い、フュミレイは椅子ごと転倒した。
 「いい加減その話し方を正せ。おまえは容疑者なんだぞ。」
 「そんなつもりは毛頭ない___内乱を企てたつもりもな___」
 「おいおまえら!」
 変わらないフュミレイの態度に業を煮やしたザイルは部屋に居合わせた兵士を呼びつけた。
 「俺は暫く席を外す。おまえら、好きにしていいぞ。」
 フュミレイの顔色が変わった。手足の左右を繋ぐ枷のせいで巧く起きあがれずにいたが慌てて身を起こそうとする。
 「や___やめろ___!」
 怖い。抵抗する手段を持たないというのはこんなに怖いことなのか。男たちの力任せに抗う手段を持たないというのは、こんなに恐ろしいことなのか。
 「おっと、その女の魔法には充分に気をつけてな。」
 兵士たちがフュミレイの服を鷲掴みにし、力任せに引き破っていく。その都度に身体が痛み、その都度に心が震えた。羞恥ではない、恐怖だ。助けがあり得ないこの空間で残るのは絶望ばかり。
 「フュミレイ、『ザイル様助けて!』って叫んだら、やめさせてやるぜ。」
 十八の娘の裸、それは男の欲望を掻き立てる。だがこの時のザイルをそそらせたのは、これから訪れる恐怖に引きつり、怯えきったフュミレイの顔だった。
 「ザイル___」
 「もっと大きな声で言ってみな?」
 フュミレイの小さな呟きに耳を傾け、ザイルは薄ら笑いを浮かべながら問いかけた。
 「ザイル___おまえがここまで悪趣味な男とは思わなかった。」
 怖かった。恐ろしかった。だがそれでも___こんな諂うことしかできない男のために、プライドを捧げることはできない。それは彼女の権力者としてのプライド、戦士としてのプライドだけではない。なによりも女としてのプライドが許さない。
 捨てるくらいなら、傷つけられるほうがましだ。
 フュミレイは覚悟を決めた。そして嘲笑を見せ、言った。
 「最低だな、ザイル。」
 ザイルは心底不愉快に感じ、大きな舌打ちをする。
 「後は任せた。気が済んだら牢に放り込んでおけ!」
 ザイルはそれだけ言い残して取調室を後にした。
 「くっ!やめろっ!ああっ!」
 すぐにフュミレイの悲鳴が耳を劈いた。
 ザイルは爪を噛み、やるせない気持ちに苛まれる。こんなことをしてもフュミレイが罪を認めるわけではない。ただ苛々を解消するためにフュミレイのプライドを引き裂こうとしたザイルは、自分のプライドが深く傷つけられていることに気付く。
 ドンッ!
 ザイルは石の壁を力任せに殴った。それはあまりの口惜しさ故の行動だった。
 彼はこんな状況になっても、フュミレイに勝てなかったのだ。
 身動きのとれない女に、欲に血走った男を差し向けるなど鬼畜のすること。鬼畜にプライドは無い。鬼畜はただ忌み嫌われるだけの存在。そして弱い存在。
 「確かに___最低だ!」
 だが___後に戻るつもりもない。こうなれば、徹底してハウンゼンにつき、フュミレイに地獄を見せつけるだけだ!それが鬼畜道であろうとも。

 翌日___
 フュミレイは憔悴しきって、牢屋の中で毛布に隠れるようにして死んだように眠っていた。いや、明け方になって漸く眠れたのだ。汚れた身体を洗うことすらできない。体中の痛みが現実の枷となり、目を閉じれば辛苦の沙汰が見えてしまう。そんな状況で眠れるはずがなかった。
 涙だけは見せるまいと心に決めていても、全てがすんで牢屋に戻されたその時から嗚咽が止まらなかった。それこそ疲れ切って意識を失うまで。
 「おい起きろ!」
 「いっ!」
 突然ふっかけられた冷水に、フュミレイは上擦った悲鳴を上げて飛び起きた。
 「はっはっ、何というざまだね、フュミレイ。」
 「!」
 フュミレイに水を投げつけた兵士の横には、憎きあの男がいた。
 「ハウンゼン___」
 毛布はびしょ濡れになってしまった。フュミレイは両手で胸を隠し、腰を横に向けてハウンゼンの目を遮った。
 「何という霰もない姿だ。嘆かわしい、おまえはそれでも女か?」
 そう言いながらもハウンゼンは嫌らしい笑みで彼女の身体を隅々まで観察しようとしている。女からすれば男の視線の先はすぐに分かるもの、フュミレイはハウンゼンがザイルから事の次第を聞かされていると悟った。だから食ってかかった。
 「女を辱めることがケルベロスの拷問か!?」
 「辱める?」
 「それはどういうことだ?フュミレイ。」
 だがフュミレイの強気を殺ぐ声。
 「___!」
 ハウンゼンの後から現れた人物に彼女は戸惑い、慌ててずぶ濡れの毛布を拾い上げてマントのようにその身を包み込んだ。
 「辱めるとはどういう意味じゃ?」
 「陛下___何故このようなところに___」
 アドルフには伝えたくなかった。ハウンゼンの汚れを、大人の汚れを、人の汚れを、組織の汚れを知って欲しくなかった。
 「私が願い出た。おまえに聞きたいことがあって来たのだ。本当におまえは私を陥れようとしていたのか?」
 フュミレイは身に詰まされる思いだった。事実か否かは別としても、アドルフの思いを裏切ったのは確かだ。彼はフュミレイを信頼していた。そのアドルフの目を盗み、内密に行動していたというのは確かなのだから、それには謝罪の言葉もない。
 元首の信頼を裏切るのは、大罪に等しい。
 「私が陛下に隠し事をし、内密な行動をとっていたことは事実です___それについては詫びようも御座いません。」
 「そうか___」
 フュミレイはあまりの寒さに青み帯びた唇で、それでもしっかりと答えた。
 「ですが___こんな事を言うのは厚かましいのですが___」
 「ならば無礼であろう、言うな。」
 「申せ。」
 ハウンゼンの言葉をアドルフが遮った。ハウンゼンは横目でアドルフを睨む。
 「私を信じて下さい。陛下。」
 アドルフを味方に付けられては厄介だ。ハウンゼンは兵たちに指示をし、手早くアドルフをここから遠ざけることにした。
 「行きましょう陛下。やはりここは汚れた者の寄るところ。陛下が来てはならない場所なのです。」
 「フュミレイ、何か求むものはないか?牢での生活はあまりに不憫だ。」
 アドルフは牢に手を差し伸べて尋ねた。その手は兵によって遮られたが。
 「新しい衣服と毛布を下さい。」
 「すぐに持たせてつかわす。」
 アドルフはハウンゼンに背を押されるようにして牢から出ていった。短いやり取りだったが、フュミレイは希望を感じた。
 「成長なされている___あの方は。」
 すぐに上等な服と、数枚の毛布が届けられた。それはとても暖かいものだった。
 だが___
 ザイルは彼女に安息を与えようとはしなかった。
 「貴様その傷___」
 矛先は彼女の頬に深く刻まれた、リュキアの爪痕に向けられた。
 「これか?」
 フュミレイは傷へ手を触れることはしなかった。
 「いい加減治療したらどうだ?そんなものを残していても何の足しにもならないぞ。」
 そうとられるのも無理はない。いつも己の身体の傷を容易く消し去ってきた。この顔の傷はこれ見よがしに思えてしまうだろう。
 「傷の治療はできない。」
 「なんで?」
 ザイルは指先でトントンとテーブルを叩きはじめた。
 「したくてもできないんだ、呪文は封じられてしまっている。」
 「信用できねぇなあ。」
 フュミレイの言い分を鼻で笑う。
 「ザイル、私の言葉を少しは信じてくれ。」
 訴えるような眼差しがザイルを苛立たせる。いっそ俺がこの手でこいつを目の前から消してしまいたいと思わせるほどに。
 「いや、俺は徹底的におまえを信じないことにした。」
 「そんな___」
 「まだ二十歳にもなっていないおまえが、俺の上官で、でかい態度で国家に取り入って___まったく気にいらねえよ。」
 ザイルは立ち上がった。
 「レサだかリドンだかしらねえが、その家に生まれたってだけでこの扱いだ。」
 「___それだけではなにも出来はしない。」
 「よく言う!」
 ザイルはフュミレイの言葉を鼻で笑う。
 「蓮っ葉な家の生まれで、それこそその日暮らしの連中が、必死に努力したっておまえらの高さには届かない。生まれたときには特権を持たされているおまえらの高さにはな!」
 「それがいいことばかりだと思わないでくれ___ザイル。」
 「そういう態度が気にいらねえんだよ。そんなのは贅沢な話ってもんだぜ。まして傷を治療できるのにしないなんてのは、傲慢がなせる技。おまえの魔法はそれこそ特権じゃねえか。」
 ザイルはフュミレイの横に立ってその顎をさすり、顔を上げさせる。
 「おまえは___あたしをどうしたいんだ?」
 「傷を治療するな?フュミレイ。」
 ザイルはフュミレイの顔を見下ろして、ニッコリと笑った。
 「駄目だ。できないんだ、本当に。」
 「なら意地でもさせてやる。」
 ザイルの瞳に狂気が走る。だがその時は既に、フュミレイの瞳は地獄を見ていた。
 ズッ!!
 周囲の兵士たちも思わず「あっ」と声を上げ、そのおぞましさにある者は口に手を当て、ある者は顔を背けた。
 ザイルの頬には血と、なにやら違う液体が弾けた。
 「あああああああああああっ!!!!」
 フュミレイが絶叫した。
 それは喉の奥底から臓物が逆流するかと思えるほど、激しい叫びだった。
 彼女の双眼からはすぐに大量の涙が吹き出し、右眼からは血と、別の何かがあふれ出た。
ザイルの親指は彼女の右の眼球を押しつぶしていた。
 「そらそら!傷を治してみろよ!」
 フュミレイは拘束された手足をばたつかせる。それがテーブルにぶつかってドンッドンッ!と何度も荒々しい音を立てた。
 ザイルが指を動かして抉り混むと、彼女は声にならない叫びを上げついには___
 「チッ___気絶しやがった。」
 力のなくなった瞼の狭間を、血と涙と別の液体で濡れたザイルの指が抜け出してくる。フュミレイはぐったりと、背もたれのない椅子から床に倒れ込む。口はぼんやりと開いて、顔面は蒼白。右眼からは大量の血液が流れ出していた。
 「おい、おまえら!」
 怯えきって、兵士たちはザイルを恐怖の目で見ていた。
 「何をしている、さっさとこいつを牢屋へぶち込め!」
 ザイルは苛立ち、力任せにテーブルを叩いた。
 フュミレイを追い落とすはずが___墜ちているのは自分だ。
 暴力でしか彼女を打ちのめせない自分。
 それが腹立たしくてたまらなかった。




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