1 最悪の一致

 ケルベロスの上層部。ハウンゼンを中心とした国家の中枢は、ケルベロスの世界制覇に向けて動き出そうとしていた。機は熟した。今ならば何ら問題なく世界をその手にできるとの考えからだった。しかしフュミレイはこれに異を唱えた。軍事参謀とはいえ、若すぎる彼女を快く思わない老人たちは多い。勿論その筆頭がハウンゼン。ポポトルとの大戦の頃は従順だった彼女が、ここに来て大いにハウンゼンの方針に手向かうようなった。そして彼女がアドルフ・レサの信頼を得ていることがハウンゼンを苛立たせる。国家の広告塔でもあるフュミレイは、民衆の受けも良く熱い支持を託つ。彼女が反目を示せば、国民がそちらに傾きはじめる可能性だってあるわけだ。もしアドルフが彼女に同調を示したことが世間に伝われば、国民は確実にそちらへ流れるだろう。若い国民は若い力が好きだし、若くはない国民もケルベロスはレサ家とリドン家が治めるべきだという思想が強い。
 国民の支持を最も集めているのがアドルフ・レサ国王陛下であり、次ぐのは宰相のハウンゼンではなく軍事参謀のフュミレイ・リドン。ハウンゼンが苛立ち、焦りを感じるのは当然のことだった。
 「邪魔だ___あの小娘は!」
 どうにかしなければならない。アドルフを完全に掌握するためには。

 「今日、向かわれるのですか?」
 フュミレイの部屋を訪れたバンディモは、彼女の身支度を手伝っていた。
 「そうだ。今発てば夕刻までには戻れる。」
 フュミレイは厚手の防寒具を身に纏い、しっかりとしたブーツを履いていた。その両手に革手袋をつけ、概ねの用意を完了していく。
 「誤魔化しきれますか?フュミレイ様自身が向かわずとも___」
 「あたしがこの目で見たい。私用で外出するのだ、そうだろ?」
 「はっ。」
 気づかれれば確実につけられる。しかしそれにしたって、希望の祠にあるであろう女神像を見に行くだけだ。調べても何が出るわけではない。
 「私用が裏口から抜け出しますか?」
 フュミレイは暖炉の脇の壁、その下部を脚で小突いた。何かからくりのようなものが外れる音がした。
 「言うなよ。あたしがいないあいだ頼むぞ。」
 「心得ております。」
 フュミレイは書棚を押すとそれはスムーズに回り、奥に暗い抜け道が現れた。
 四つの均整の調査にこの日、この時間を選んだことが、彼女の全てを狂わせるなどとは想像だにしなかったであろう。
 「ハウンゼン様___」
 ベルグランに関する技術者からの報告書に目を通していたハウンゼンに、家臣が近寄って耳打ちした。それを聞いてハウンゼンはこみ上げてきた笑みを隠せなかった。
 「そうか___遂に動いたか___」
 「現在ザイル様が追跡しております。」
 「いやまったく___私が何年前からこの城にいると思っておるのだ___」
 ハウンゼンは笑いを含み殺すので精一杯だった。フュミレイの部屋の隠し通路は当然熟知している、すなわち隠し通路を覗き見ることができる場所も。そして彼女が何らかの際にそれを使うことも承知の上。彼女の弱みを握るために、部下に高い金を払って泊まり込みで見張らせていた価値があるというものだ。
 「さすがに冷えるな___」
 息を吐けば白く色づく。ケルベロスの城を、街を離れると大気の肌寒さが身に浸みた。城の中は暖かいものだ。極寒の土地にあってあの暖かさが、人を駄目にするのかも知れない。こうして人気のない森を進むとケルベロスの薄暗さと寒さを改めて実感する。
 (あたしだってケルベロスの理想をたたき込まれて生きてきた女だ___レサ家の世界統治を否定したりはしない。でも今はそんなことをしてもすぐに潰れる。超龍神がいる限り、人間たちの戦いは無意味だ。)
 雪を踏みしめ、針葉の木々の狭間を進む。その時も考えるのはケルベロスの、アドルフの、ハウンゼンの、超龍神のことばかりだった。
 (___こんな方向に何がある?)
 ザイルはフュミレイの行方を不可思議に感じながらも、軽快に且つ慎重に彼女の後を追った。
 首都ケルベロスを囲むタイガを北西に進むこと三十分。
 「あれか?」
 並び立つ直線的な木々の奥に、なにやら石の建物らしきものが見えた。フュミレイは足早にそちらへと向かった。
 「間違いなさそうだ___」
 近づくにつれて石の建物が祠であることが分かった。女神像を保護しているだけの建物のようで、高さの割に小さく見える。
 「ん___」
 だが不意に差し込んだ悪寒に彼女は足を止める。
 「なんだ?」
 そして眉をひそめた。
 (気付かれたか!?)
 ザイルは素早く木の影に隠れた。しかしフュミレイは彼を振り返ることはしなかった。それどころか、自らも素早く身を屈め、木の影へと身を潜めたのである。
 (何だ___この感覚は___!)
 だがフュミレイが身を隠したのには訳がある。彼女の鋭敏な感覚は、殺意を振りまいてやってきた二つの人影を感じ取ったのだ。
 「うーっ!寒いっ!」
 空から降り立つなり、リュキアは露出の多い身体を抱いてガタガタと震えた。一方のバルバロッサはいつもと変わらない姿。震える素振りすら見せない。
 (なんだ___あいつらは?)
 二人の様子を伺っていたミロルグは、リュキアの尖った長い耳に気が付いた。
 (魔族という奴等か___)
 何ともとんでもない偶然の一致だ。よりによってこんな奴等と遭遇することになろうとは___
 「間違いないわ!ここよきっと!」
 「結界が張られている雰囲気ではないな。」
 バルバロッサの息も白い。
 「まだ来てないってこと?なによせっかくソアラを殺せると思ったのに!」
 リュキアは腹を立てて雪に地団駄を踏んだ。
 (ソアラか。)
 やはり彼らが関わっている___
 (どうする?暫く様子を伺うにしても均整を破壊されては仕方がない。)
 と、フュミレイが対処を思案していたその時、彼女は不意な殺気に身を強ばらせた。
 バルバロッサがこちらを睨み付けたのだ。そしてゆらりと剣を振り上げる。
 「!」
 バルバロッサの立つ位置と、自分の間にはまだ距離がある。しかし彼が剣を振り下ろした瞬間に見えた黒い鋭気に危機を感じ、フュミレイは木の影から飛び出した。
 「クッ!」
 木には斜めの筋が走り、飛び出したフュミレイの防寒具、その左腕の裾が綺麗に切れていた。
 「あら?」
 リュキアは突如現れた奇妙な女の姿に目をパチクリとさせる。バルバロッサに切り裂かれた木がゆっくりと、滑り込むようにフュミレイの方へと倒れ込んできた。
 戦いになるかも知れない。手の内は見せたくなかったが身を守るためだ!
 「ディオプラド!」
 フュミレイの掌が白く輝き、目映い白熱球が倒れ込んできた針葉樹に突貫する。雪が弾け飛び、白い蒸気を巻き上げながら、倒木は粉々に砕け散った。フュミレイの身体の上には木屑がパラパラと舞い落ち、それはリュキアとバルバロッサの元にまで届いていた。
 「へぇ___凄いじゃない。あなた。」
 リュキアは掘り出し物の発見に目を輝かせている。
 「何者だ___おまえたち___」
 フュミレイも心を落ち着かせるのが難しい。未知なる相手との遭遇、そして彼らが醸す殺意は彼女にあからさまな警戒の態度をとらせた。
 「魔族。と言っても分からないでしょ?」
 フュミレイはいつでも動き出せるように若干腰を落とし、リュキアを睨み付けた。リュキアは彼女のその態度に擽られる。
 「知らないって顔じゃないわね___それにあんたソアラに似てるわ。」
 リュキアの掌が輝く。シザースボールが雪を巻き込んでフュミレイを襲う。だがフュミレイは冷静に手を揺り動かし、リュキアの放ったものよりも大きなシザースボールを放った。二つのボールはぶつかり合って弾け、威力に劣ったリュキアに散り散りになった風の刃が吹きつけた。
 「へぇ___」
 その鮮やかな髪が幾らか舞い、頬には小さな傷が付いていた。リュキアは滴った血を指でぬぐい取り、一嘗めした。
 「バルバロッサ、ソアラたちが来る前に均整を壊してきてよ。あたしはこの子猫ちゃんと遊んでみるわ。」
 「あまり甘く見るな、リュキア。」
 「分かっているって。」
 バルバロッサはマントを翻して、祠の入り口へと足を向ける。
 「行かせるか___!」
 食い止めなければならない。そうすることで四つの均整について知っていることも向こうに悟られるだろうが___今はそれどころではない!
 「!?」
 リュキアの顔色が変わった。フュミレイの両手に結集していた魔力が半端ではなかったからだ。
 「___呪文は自然の力___雪の降るケルベロスでは氷結呪文は使いやすくなる!」
 バルバロッサも足を止めてフュミレイに視線を移した。
 「ヘイルストリーム!!」
 「!」
 リュキアはその目を疑った。たった今出会ったばかりで名前も知らない人間の女、髪は銀色で変わっているがこんな人間が___
 「あたしにできない呪文を使う___!」
 壮絶な猛吹雪がリュキア、バルバロッサ、そしてドームをも飲み込もうとする。リュキアは必死にドラゴフレイムを放って一瞬の隙を作り逃れようとするが、凍り付いた雪に片足を取られた。ヘイルストリームは皮膚を凍てつかせ、肉に氷を刺し込ませ、全身を引き裂く脅威の氷結呪文。ただでさえ薄着のリュキアにはこれほど堪える呪文もない。
 また人間に痛めつけられるのか!?考えたくもないリュキアの思考を、黒いマントが包み込んだ。
 吹雪はなにも見えなくなるほどに吹き荒ぶ。壮絶に顔をしかめながら、後方のザイルはこの混乱に乗じてケルベロス城へと走っていた。
 「魔族か___俄に信じがたいが、奴を陥れるには充分な言葉だ。悪く思うなフュミレイ___俺は巨頭の味方だ。」
 その旨、ハウンゼンに伝えるべく。
 「はぁ___はぁ___」
 フュミレイは肩で荒い息を付き、その両手からは白い煙が立ち上っていた。彼女の前には銀色の氷粒が宙を舞い、リュキアをマントで包み庇いながら氷結しているバルバロッサと、氷漬けにされた祠があった。
 「とどめ___」
 氷漬けにされた二人の魔族をディオプラドで砕く!
 「!」
 だがそう簡単にいくはずがない。バルバロッサを包む氷に亀裂が入ると、それは一気に散弾となって周囲へ飛び散った。
 「くっ!」
 フュミレイはディオプラドをドラゴンブレスに切り替えて、氷の散弾から身を守った。
 「大した女だ___」
 バルバロッサがマントを開くと、中から身体の所々に血を滲ませたリュキアが姿を現した。しかしこの血はリュキアの血ではない。
 「なにしてくれちゃてんのさ、バルバロッサ。」
 リュキアは神妙な顔つきになって呟いた。バルバロッサの足下に血が広がっていく。
 「単純な思考だ、俺はヘヴンズドアが使えない。」
 「___そっ。」
 リュキアはその手から放った白い光をバルバロッサに与える。バルバロッサの血の広がりが無くなっていった。
 傷が癒えるのを感じて、バルバロッサは剣を振り上げた。そして!
 ドゴガガガガガァッ!!
 「なっ!」
 バルバロッサは何の躊躇いもなく氷漬けの祠に斬りつけた。祠を氷で閉じこめてしまえば手は出せまいと考えていたフュミレイの思惑はあっさりと覆される。バルバロッサの一撃は氷ごと祠を砕いた。
 二回!三回!バルバロッサが鋭い太刀筋で剣を振るうと、祠の上半分が砕き壊され、半身を砕かれた女神像が露わになった。
 「なんてこった___」
 甘かった。ヘイルストリームに賭けたフュミレイは、勝負に負けたのだ。超龍神の封印の一角が崩され、残された自分の魔力には魔族二人を相手にできるほどの余裕がない。
 「さて、あたしはあなたを可愛がる約束だったわね___」
 リュキアの右手が輝いた。プラドの白熱球をフュミレイは横っ飛びで回避した。しかしそこに迫ってきたリュキアが彼女の腕を取った。
 「くっ___!?」
 肉弾戦ではあまりにも分が悪い。リュキアはフュミレイの腹を蹴飛ばし、彼女の身体から力が抜けた瞬間に雪へと押し倒す。そしてまるで男が女を手込めにするかのように身体を重ねると、なんとこともあろうかその唇をフュミレイの唇に重ねた。
 「ん___!」
 リュキアの舌は力強く、フュミレイの唇を簡単に押し開いていく。何とも言えない屈辱感がフュミレイを蹂躙した。だがなにもリュキアはフュミレイの唇を奪いたかったわけでも、舌を弄びたかったわけでもない。
 「!?」
 フュミレイの口内に、なにやら甘みのある液体が流れ込んできた。リュキアの舌はそれをフュミレイの喉奥へと導き、フュミレイは苦しさのあまり咽頭を動かした。
 彼女が飲み込んだことを確認するとリュキアはゆっくりとフュミレイから唇を放した。甘い液体の名残が二人の口唇の間で糸を引いた。
 「いい味してる___」
 リュキアは半ば放心しているフュミレイの上に馬乗りになったまま、その口を拭ってニコリと笑った。
 「よくも___!」
 まだディオプラドを放つくらいの余裕はある!口元の嫌悪感をそのままに、フュミレイはリュキアに向かってその手を突きだした。
 「なにしてるの?」
 しかし白熱球が現れるどころか、彼女の掌は何の異変すら起こさない。
 「そんな___どうして!」
 ドラゴンブレス。簡単な呪文を念じてみる。それでも変化がない。いやそればかりか、掌にはいつもの魔力の滾りがない。
 「まさかさっきの___」
 フュミレイはすぐに先程の甘い液体を思い起こした。愕然とするしかない。力を失った恐怖感が、自然と彼女を怯えさせた。
 「呪いのエキス。本来は男を誘惑してかける呪いよ。効果はあらゆる魔力の完全封鎖。勿論、心に隙のある相手にしか通用しないけれど___」
 フュミレイは口づけですっかり動揺していた。心の平静は保たれず、まったく隙だらけだったろう。
 「あなた、呪文『だけ』は得意そうだったからね。封じさせてもらったわ。」
 フュミレイにはなにも言葉が見つからなかった。
 「どうだい?なにもできないって___」
 リュキアはフュミレイの頬に爪を立て、ゆっくりと引きずった。いつもなら耐えてみせる痛みも、今のフュミレイには酷く厳しい。
 「ううあぁ___!」
 頬から血が流れ出し、フュミレイは呻いた。だが抵抗することはできない。魔法を失った彼女に立ち上がる術は無かった。赤い血が、銀髪を、白い雪を染めていく。
 「ふん、つまんない。」
 リュキアはフュミレイの顔に唾を吐き賭けた。
 「それにしてもソアラの奴、まるでこないじゃないか!」
 「ソアラが___来るのか?」
 リュキアの言葉が気に掛かり、フュミレイは声を絞り出して尋ねた。
 「来るさ。あたしはあいつを殺すためにグレルカイムから飛んできたんだ。」
 「グレルカイム___?」
 「手分けしたんだとさ。均整を守る結界を張るために。あいつの仲間があたしたちを惹きつけ、ソアラともう一人の女がここへ来て結界を張る。そう言っていたんだ。」
 空を見上げるリュキア。フュミレイはその話を聞いて、目をパチクリとさせた。
 「ん?」
 フュミレイが揺れている。何かと目を移したリュキアが見たものは、笑っているフュミレイだった。
 「なんだい!何がおかしい!」
 リュキアはフュミレイの襟首を掴んで揺さぶった。息が詰まり、フュミレイは噎せ返ったが、すぐにまた血に染まった顔で笑みを作る。
 「馬鹿な女だ___おまえは二重に騙されている___」
 まだ自分には口があった。肉弾戦はできずとも、こんな女にストレスを与えるのは容易い。
 「彼らはおまえのソアラに対する恨みの気持ちを利用した___おまえの単細胞を見抜いたのさ___」
 「___まさか!」
 リュキアは息を飲んだ。
 「結界を握っているのはグレルカイムのメンバーだ___まったく持って単純な罠さ___ソアラたちの考えそうなことさ___!」
 こいつ___ソアラの顔見知り!
 頭に血が上ったリュキアは、思い切りフュミレイの頬を張った。口の中が切れて、フュミレイの口元から血が滲み出た。リュキアはフュミレイを雪に叩きつけ勢い良く立ち上がる。
 「バルバロッサ!グレルカイムに戻るよ!」
 「やれやれ___魔力が持つのか?」
 「うるさい!」
 バルバロッサはゆっくりと立ち上がった。リュキアは強引に彼の腕を掴んだ。
 「ヘヴンズドア!」
 そして疾風のように去っていってしまった。
 「行ったか___」
 崩れた祠の前に倒れるフュミレイは、小さく呟いた。全身に広がる喪失感。顔を支配した傷みが恨めしい。こんな最悪な偶然あって良いものだろうか?こんな___
 「リヴリア。」
 回復呪文を唱えてみても虚しいだけだった。




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