3 思い焦がれて
再び旅が始まった。
ホルキンスの谷には、谷でも極一部の者だけが知っている抜け道がある。山中の洞窟であるここを抜けた出口は、幻影の魔法が配されており、外見には岩壁に見えるという仕掛けだった。
「うーん!たまには下の空気もいいわね。」
待ちに待った紫が復活し、明確なる目的も手に入れた。馬車の中にもいつになく明るいムードが広がるが、いよいよもって超龍神のしもべたちと本格的に戦うときが訪れる。四つの均整について超龍神がどの程度のことを知っているのか知らないが、この先均整に結界を張ろうとすれば、何らかの妨害があることは考えなければならない。それこそ、エイブリアノスのような出るだけの相手ではなく、だ。
「やあっ!やあっ!」
夜になると、ソアラは額に汗しながらリハビリに励む。まずは筋力を取り戻すために、真っ直ぐと拳を突き出し、突きの動作を繰り返す。ソアラのリハビリは、リハビリと称した修行だった。再び戦える身体を取り戻すために、彼女は暇さえ有れば修行に時間を割いている。
「___」
フローラはそれを見守ってはいても、止めることはしなかった。
病気はきっとまた再発するだろう。激しい戦いを繰り返せば五年、ゆったりとした生き方をすれば十年もした頃に。そしてもうその時は、ソアラを手術することはできない。腫瘍はその都度規模を拡大し、強さを増していく。次に症状が出たときには、恐らくもう手遅れだから。
「はああっ!」
勿論ソアラは五年を選んだ。フローラもそれを認めた。それが、ソアラの望む道だと強く感じたから。流れるだけの十年間を生きても、彼女は納得しないだろうから。
「うーん、やっぱりおまえは戦ってる姿がよく似合う。」
「どういう意味よ、それ。」
「男っぽいほうがいいってことさ!」
「言ったなこの!」
ソアラと百鬼はまるで子供のようにはしゃぎあっていた。だが二人で何かゆっくり話しをする時間はない。馬車の中にはいつも誰かがいるし、常に移動を続けているので二人きりになる時間もなかった。じゃれあっていてもどこか物足りなさを感じる。でも、無意識に照れくさくて、お互いを誘い合うことはしなかった。
「カルラーンに向かうのはいいけど、お城に入れるかなあ。」
「トルストイ将軍とか、デイルさんにあえればいいんだよ。」
夕食の後、男衆は焚き火を囲んで今後のことを話し合っていた。馬車の中では、フローラがソアラの身体を問診中である。早々とサザビーが覗こうとして、便乗した百鬼共々殴られたのは言うまでもない。
「もしそれが無理なら、アレックスの墓を見舞って、ゴルガに行こう。」
ソアラがいないこの時間は、サザビーにとって非常に有意義な煙草の時間でもある。
「いざとなったらアモンさんの所だな。」
「あのじじいならバドゥルに運んでくれるかもってところか。他力本願だねぇ。」
今後の予定について少々説明しよう。まずはカルラーンに向かい、できればトルストイやデイル、アルベルトといった顔見知りと接触を取りたい。カルラーンの図書館で、バドゥルのことや、或いは大山岳地帯を踏破した冒険家の手記があれば手に入れたいという思惑があった。カルラーン本部がどうなっているかも気になるし、ケルベロスとの状況を聞く意味合いもある。そして、戦没者の慰霊碑、恐らくあるであろうアレックスの墓に祈りを捧げ、アンデイロからまずはゴルガを目指す。大山岳地帯は、ゴルガの東だ。
「あ、もうベルグランはいないね。」
「当たり前だろ、あれから何日経ってると思ってるんだ。」
本気なのかなんなのか分からないライの言葉にサザビーが応えた。
「ベルグランが来てたの?」
ソアラは馬車の後ろから身を乗り出していたライの横に、顔を覗かせて尋ねた。風が吹きつけてソアラの髪を揺さぶる。ソアラの髪型はいつものポニーテールに戻ってはいるが、少々伸びすぎて、風に煽られると自分でもかなり煩わしそうであった。
「そう、本当はホルキンスに行く前にカルラーンに寄ろうかと思ってたんだ。でもケルベロスの王様が来てるからチェックが厳しくってなかなか入れなさそうだったんだよ。」
「ケルベロスの王様?王様じゃなくって王子様じゃなかった?アドルフ・レサって。」
ソアラはキョトンとして尋ねた。
「うーん、王様って門番の人は言ってたけどなあ。」
「即位したのかも知れないぜ。」
と、サザビー。ちなみに手綱は百鬼が握っている。
「即位か___」
ソアラは真顔になって呟いた。
「気になるか?ケルベロスの動き。」
「まあね。」
そう、ソアラもケルベロスがいつまでもじっとしているとは考えない。それではアレックスを殺した意味がないから。
「フュミレイは来ていたのかしら?」
「えぇっ!?わ、わかんないよ。」
ライはソアラの前でその名前を出さないようにと考えていたようだが、逆にソアラは淡々と言ってのけ、彼を驚かせた。
「会ってみたいなぁ、フュミレイと。」
「ソアラ___本気で言ってるの?」
フローラが怪訝そうに問うた。
「勿論本気よ。確かに殺されかけたけど___あたしは彼女を嫌いになったわけじゃない。」
それは興味の関係もある。異質な色をもつもの同士、彼女との縁は保っていたいという気持ちだ。
「僕は嫌だよ___フュミレイがどういうつもりで父さんを手に掛けたのかは知らないけど、僕は許せない。」
一方でライの心中は穏やかではない。恨みや憎しみを口にしない彼が、「許せない」と言うなど、よほどのことである。
「そうね___その罪は確かに許されるものではないわ。それは___正されなければならないことよ。」
ソアラはライの肩に手を掛けた。軽はずみなことを口にした己を戒め、彼を慰めるように優しく。
北国ケルベロス。
季節昼夜を問わず暖炉に火が入るこの国では、今も窓の外を見れば、夜景に小雪が散っていた。お気に入りの黒い私服に身を包み、彼女はテーブルに何冊かの古びた本を積み重ね、手製のノートを開いたまま、腿の上に開いた一冊を読み耽っていた。そして不意に紙面から視線を外し、ポツリと呟く。
「___超龍神な。」
ケルベロス城の一角にあるフュミレイの私室。国家の参謀たる彼女の部屋はケルベロス城の奥手に位置する。広々として荘厳なこの城は、ケルベロスの王族であるレサの一族を守り、崇めるための城と呼ぶに相応しい作りになっている。その一つとして、王と宰相の部屋は本城から長い渡り廊下を経た先にあり、これ以外の侵入口はない。いや実際は非常用の抜け道くらいはあるが、とにもかくにも、この離れの下層には宰相が部屋を構え、親衛隊の詰め所がある。国王の私室はその上。渡り廊下の途中にはいくつもの門があり、かつてはこの一つ一つに門兵がいたと思われる。ある種刑務所にも似た脅威のセキュリティだ。
コンコン。
一方で、宰相になれなかったフュミレイの部屋は、広々としていて豪華だが、隔離されるには至らず、門もない。メイドでさえも容易に近づけない王の部屋とは訳が違う。
「誰だ?」
「クリスヴェラをお持ちしました。」
「セルチックか、入れ。」
扉が開き、カートを押しながら、小柄で細身のメイドが入ってきた。フュミレイは本を閉じて彼女の様子を眺めた。栗色の髪は顎のラインを隠す程度のボブカットに切りそろえられ、色白の頬には幾らかの雀斑。だが彼女には初々しさはなく、一歩間違えれば座っているようにも見える瞳は、実に落ち着きに溢れていた。セルチックと呼ばれたこのメイドは、かつてダビリスの召使いをしており、奴がケルベロスに移住したのを機に解雇された口だ。だが彼女はフュミレイに気に入られて、今はお着きのメイドをしている。
「クリスヴェラの三年ものです。」
セルチックはフュミレイの側へとカートを押し進み、雪を敷き詰めた器の中に埋もれるワインを取り出すと、フュミレイにラベルを示してみせた。
「ほう。」
クリスヴェラとはケルベロスの銘酒。古くから伝わる伝統のワインで、比較的暖かなケルベロスの西部に広がるブドウ園で製造されている。
「手間が良いな、三年前は豊作だったはず。上等な品だ。」
「ありがとうございます。」
セルチックは表情一つ崩さずに、まるで機械のように沈着に、そして正確に仕事をする。このポーカーフェイスぶりをフュミレイが気に入ったのだ。今も、誉められても笑顔一つ見せず、力むことなくワインの栓を明け、グラスへと注いでいる。
「どうぞ。」
「ん___」
フュミレイはグラスを受け取り、軽く香りを楽しんだ。
「カートはそのままでよい、下がれ。」
「では頃合いを見て、また参ります。」
セルチックは会釈をし、一歩後ずさった。
「ああ。」
「五分後にバンディモ様がお出でになられるそうです。」
「了解した。」
「失礼いたしました。」
セルチックは姿勢一つ崩さずに、扉も静かに閉じて早々と部屋を後にした。だが彼女の動作にぎこちなさはなく、意図して慎重にしている素振りもない。人間味には欠けるかもしれないが、これはこれで面白味もある。フュミレイは大いに彼女を気に入っているからこそ、ワインを口にした後、笑顔になっていた。
五分後。
「失礼いたします。」
「入れ。」
武骨なノックの後に重厚な声。フュミレイは今度は本を読むことをやめようとはしなかった。扉が開くと見るまでもなくバンディモがやってきた。彼はすぐさま懐から手紙を取りだし、フュミレイはバンディモに温められてなま暖かくなっているそれを受け取った。この間僅かに二秒。無表情のやり取りで会話もない。
「悟られてはいるまいな。」
「無論であります。」
「つぶしの利く奴等は良いが、ザイルに勘繰られぬようにな。我々のやっていることは、国家を敵に回す。」
フュミレイは冷笑を浮かべ、本の隙間に挟んであった手紙を抜き取ると、バンディモに渡した。バンディモはすぐさまそれを懐へとしまい込み、一度髭を撫でた。
「また頼む。」
「宛先はいつも通りで?」
「いつも通り___アモン・ダグだ。」
フュミレイが受け取った手紙。その封書の隅にも「偉大なる魔術師」との刻印があった。
「我々の密通ラインにも限界は御座います。アドルフ様の遊説が終了するまでが限度かと。」
「分かっているよ、返事は期待しないと添えておいた。下がれ、あまり長くいるものではない。」
「畏まりました。」
バンディモはフュミレイに敬礼し、素早く部屋を出ていった。
フュミレイ・リドンはポポトルで超龍神を感じたあの日以来、ケルベロスの野心に消極的になっていた。ケルベロスには、白竜に介入し、直接弱体化させた後に、世界侵略に動き出そうという思惑がある。かつては彼女もこの意向に賛同し、だからこそ取引に乗じたハウンゼンの司令とはいえ、アレックスを殺めることまでした。父に教えられた鉄の意志を以て、リドンであるからこそ、レサのために腐心しようと心に決めていた。
その気持ちを揺るがしたのが超龍神だった。
彼女は酷く後悔した。既に遅いことと割り切ってはいたが、今更ながら、アレックスが言っていた「秘密兵器」の存在に恐怖を感じていた。
まずなによりも、超龍神に対して無知であることを恐れた彼女は、アモンと接触を取り、超龍神について訓示を受けることを望んだ。そして始まったのが、このアモンとの内通である。
「さて___」
一人きりになるとフュミレイは手紙を開いた。その文面の冒頭に記された一文に、フュミレイは驚き、暫く硬直していたが、やがて晴れ晴れとした笑顔になった。
「そうか___生きているのか___」
微笑みを抑えきれない。
「フフフ___」
後の内容なんて正直どうでも良くなってきた。
「おまえには黙っていたが、ソアラは生きている。そして、俺は病気持ちのあいつを死んだことにしてとある場所で療養させていた。先日様子を見に行ったが、ソアラはすでに治療を終え、旅だった後だった。か___」
思わず音読してしまった。らしくもない、気持ちがのぼせ上がっている。彼女にアレックスの死の真相を暴露されれば、ケルベロスの進退に関わるというのに、生きていてくれたことの嬉しさが勝っていた。
「これはいい___近頃では最高の吉報だ!」
すっかり上機嫌になったフュミレイは、グラスのクリスヴェラを簡単に飲み干した。カートを回収に来たセルチックは、部屋を出てから小首を傾げたという。
あのフュミレイ様がお酒で上機嫌になられるなんて___と。
「いやぁ、やっぱりベッドはいいなぁ。」
「カルラーンに帰ってきたのに、宿屋に泊まらなきゃならないのは残念だけどね。」
ベッドに横になって、すっかりリラックスしている百鬼に、ライがそう声を掛けた。
「確かにそうね。あたしが言うのもなんだけど、ここに来ると帰ってきたって気分になるもの。自分の家がある街で宿を取るなんておかしな話よ。」
ソアラも百鬼と同じように、ベッドの上に大の字になって天井を見つめながら話した。
「あら、もうみんな気が早いのね。」
パーティーの金庫番、フローラがチェックインの手続きを終えて部屋に上がってきた。カルラーンの中央を貫く大通り沿いにある大きな宿屋、ここの二階にある広々とした四人部屋が今日の寝床だ。
「あれ?サザビーは?」
「一服してから来るって。」
「好きだねぇ、煙草の何がそんなにいいんだろ。」
ライは呆れた様子で窓から顔を出した。下を見れば、宿屋の入り口の側に寄りかかってサザビーが煙草を吸っている。彼の側には見知らぬ女性がいて、まるで知り合いのように楽しげに語り合っていた。
「知らない女の人と喋ってるよ。」
「ハハッ、サザビーらしくていいじゃない。あなたたちも女の一人くらいはべらかしてみたら?」
ソアラは勢いをつけて上半身を起こした。
「ぼ、僕はそんなことしないよ!」
「何しろ俺たちは真面目一筋だからな!」
百鬼は大袈裟に笑った。
「よく言う〜、エロ本持ってるくせに。」
「て、てめえ!それは内緒だって言ったろ!」
百鬼は慌ててベッドから飛び起きる。
「内緒って言うことは___」
フローラは白い目で百鬼を見た。
「い、いや、デイルさんに貰ったんだ、本当だよ!」
百鬼の慌てぶりを見てソアラは足をばたつかせて笑っていた。
「そ、そんなことよりもさ、サザビーが来る前にベッド全部陣取っちゃおうぜ!あいつだけ床に毛布!」
「ハハハッ、必死じゃん。」
「おまえが慌てさせたんだろ!」
百鬼は顔を真っ赤にしながらも笑っていた。やっぱりソアラとのふざけあいは楽しい限りだ。
「ほーら、もう寝ようぜ寝ようぜ。」
「早いってば。」
ソアラの突っ込みも無視して、百鬼は再びベッドの上に仰向けに寝転がった。その瞬間。
「うわあああっ!」
「!?」
突然奇声を上げ、寝転がろうとしていたソアラとライが飛び上がる。荷物の片づけをしていたフローラも思わず、鞄の肩掛けに足を引っかけて転んだ。
「なんだ?」
サザビーも上を見上げていたりして。
「な、なによ!どうしたの!?」
「う、うえ!」
百鬼は寝転がったまま、頬を引きつらせて天井を指さした。
「ようっ。」
ソアラたち三人が近づいて天井を見上げるまでもなく、天井から逆さまの顔が飛び出した。
「うわあああっ!」
ただそれだけなら良かったが、現れた男の顔は頬やらなにやら、丁度巧い具合に煤けて汚れて、天井に釣る下がった洋燈がこれをいい具合に照らす。おどろおどろしく逆さになった髪と相まって、パッと見には死霊か不死体かと言った雰囲気。
「うるさいわねぇ___なんなのかしら?」
「大道芸人でも泊まってるんだろ。」
話していた遊び人の女がご機嫌を損ねたようだ。一見さんのつもりだったが、どうやらうまくいきそうにない。サザビーは二階の窓を見上げ、恨みを込めて睨み付けた。
「喧しい奴等だなぁ、俺だよ俺!」
「びっくりするじゃないですか!そんなお化けみたいな顔で出てこられたら!」
天井から現れたのは、煤だらけのデイルだった。まったく、何でこの男はいつもこうして天井からやってくるのか。
「しかしよく分かりましたね、俺たちがここに泊まってるって。」
「はっはっはっ、俺の専売特許は情報収集。例え非番であろうと、白竜が軍でなくなろうと、やることはかわらねえ。」
非番なのにこんなことしてるのか、このオッサンは___とソアラは呆れ気味。一方で百鬼はデイルの汚れた手で肩を叩かれて困惑。
「いや、久しぶりに紫色の髪をした子を見たっていう街の噂を耳にしてね。飛んできたってわけさ。」
「ふふん、あたしってばやっぱり有名人。」
「おいおい。」
今までとはどこか違う、ソアラの前向きな冗談。
「いや、しかしおまえら無事でなにより。ベルグランからの報告は、おまえらはゴルガで下ろしたって話だったからな。心配してたんだ。アレックス総帥がやられた場所だからな、何かに巻き込まれていやしないかって。」
「ああそれは___うぶっ。」
単純ぶりを発揮して、ケルベロスの策略であることを言いかけたライの口をソアラが塞いだ。
「ところでデイルさんは、超龍神を知っています?」
ソアラは素早く話を切り返した。
「ちょうりゅうじん___?なんだそりゃ?」
さすがのデイルもそれは知らないようだ。
ガチャッ。
その時、部屋の扉が開いてサザビーがやってきた。
「おまえらなに騒いでんだよ、おかげで台無しだぜ。」
サザビーはふてくされた顔で戻ってきた。ドアの側にいたフローラが彼に駆け寄る。
「デイルさん、こちらは___」
「知ってるよ。デュレンだろ?本当はサザビーの。」
デイルはそう言って、自らサザビーに歩み寄った。
「よ〜、おまえデイルか。かわんねえなぁ、そのひねた面は。」
一方でサザビーも、目を少し見開いて口笛を吹いた。
「おまえも相変わらずのエロ河童ぶり。」
「し、知り合いなの?二人は___」
唖然として二人の再会を見ていた四人だったが、ようやくソアラが確認の問い掛け。
「小さい頃の悪友だな。」
「いや、ゴルガ生まれの俺が白竜に入ろうと思ったのは、こいつがポポトルに行ったっきり戦争になっちまったからさ。仲良しの友達をポポトルから連れもどさねえとなっていう、今じゃ考えられないこの純粋な気持ち。どうだい、感動的じゃないの。」
デイルは身振り手振りを交え、芝居口調で語る。そうされると真実みが薄れていくのは言うまでもない。
「ねえサザビー、前から気になってたんだけどさ、あんたっていったい何なの?もしかして結構いいご身分なんじゃない?」
サザビーが素性を語ったのはライとゼルナスだけ。ソアラたちは彼のことをあまり知らないのだ。
「あ、言ってなかったな。俺はゴルガの王子だよ。」
「えええええっ!?」
ソアラと百鬼の喧しい声。さすがに仏の顔も三度か、今度は宿屋の主人が血相かえて部屋に駆け込んできた。
だが、心配は無用。彼らはこの宿を出ることになった。宿屋のご主人に頭を下げ、白竜軍が解体してからも白竜自警団の総本部として使われているカルラーン城へと向かう。今も当時白竜軍だった兵士の七割が自警団に残っており、宿舎も当時のままで維持されているそうだ。
つまり、彼らの家は残されていたのだ。
「現在、白竜自警団の総団長は驚くなかれ、トルストイ・ワーグナー元将軍さ。」
城へと向かう道すがら、デイルは白竜の現状について語ってくれた。
「へ〜、トルストイ将軍か。まあでも、妥当なところだよな。」
と百鬼。彼は道ばたをうろついている遊女の艶めかしい衣服に、視線を誘われていた。
「なぁに、みてんのよ。」
「いひぇひぇ。」
はべらかせとか言っておきながら、ソアラは百鬼の頬を抓ってムッとしていた。
「それにしても___少し街の雰囲気が変わったみたいですね。」
確かにフローラの言うとおり。かつてのカルラーンは、夜であってもあまりいかがわしい連中はいなかった。そういう商売はなかったはずである。
「今までも裏ではあったんだ。ただ、裏を取り仕切っていたダビリスが撤収したからね。奴等が表に顔を出すようになったのさ。」
「撤収?」
「ダビリスはアイザックの退陣と同時に、カルラーンを離れた。いまじゃ、ケルベロスのスポンサーだって言う話もある。アイザックもそこで働いているらしい。まあ、これは俺の独自の情報だがね。」
デイルの顔つきが厳しく変わる。彼はダビリスを好きではないし、どうもダビリスとアイザックは以前からケルベロスと何らかの密約を持っていたのではないかと勘繰っているという。そしてソアラは知っている。アレックス暗殺の裏にはダビリスがいると。
「まあとにかくだ、ダビリスがいなくなったおかげで、白竜の大口資金源はなくなった。いまじゃ運営のために看破を乞うているところもある。まあ、商人の幾らかも支援してくれたが、数はそれほど多くない。このままじゃ、組織は小さくなる一方だな。」
「それをケルベロスが狙っている。」
ソアラも百鬼やライほどではないが、言葉をストレートに発する。ただ彼女の場合は、あえて婉曲な表現を取らないだけだが。
「チッチッ、カルラーンとはいえ、そういう言葉は禁物だ。いいな。憶測だけにしておけ。」
デイルは舌打ちしながら人差し指を振って、ソアラの言葉を戒めた。
「そういえば他のみんなはどうしてます?アルベルトさんやサラさんは___」
「ああそうか、知らないよな___」
デイルの声のトーンが下がった。悪い予感がする。
「サラは死んだよ。」
事情を知らないサザビーは別として、ソアラたち四人は思わず息を飲み、絶句した。ソアラなど、一瞬足を止めてしまったほどだった。
「ポポトルで、爆撃で崩れた建物の下敷きになった。噴火もあったからな、遺体を見つけるのは無理だろうが。」
あのサラが___四人は、それぞれの中にあるサラとの思い出を顧みる。それはどれも明るくて、サラの気立ての良さばかりが印象にある。ソアラは、ラドを撃ち、必死に自分を慰めてくれた、あのときのサラの顔が焼き付いて離れなかった。
「アルベルトはサラのことがきっかけですっかり気落ちしてな、白竜を辞めて放浪の旅に出た。諦めきれないらしいぜ、あのバカは。」
デイルはサラの死を直視できず、逃避する道を選んだアルベルトが気に入らないらしい。彼の舌打ちが物語っていた。
「なあデイル、ケルベロスの事情も教えてくれるか?この前ベルグランが来ていたらしいが。」
重い雰囲気を断ち切るためか、サザビーが別の話を切りだした。
「ああ、アドルフ・レサが国王に即位したのさ。それで今、ベルグランで世界中を回っている。お披露目遊説だな。まあ、遊説といっても紙に書かれた台詞を読んでいっただけだったが。」
「カルラーンに最初に来たのか?」
「そう、それからゴルガ、クーザー、ソードルセイドと回って行くらしいぜ。今はクーザー辺りかも知れないな。」
「クーザーか___巧くやってるかな、あいつ___」
サザビーは、外交なんて勿論未経験のゼルナスのことを案じた。
「アドルフってまだ十三歳だったっけ?」
ソアラが尋ねた。
「十四になったらしいぜ。」
「飾りだけの国王陛下って所かしら?」
「そうだな、相変わらず実権を握るのはハウンゼンだろう。即位したといっても、元摂政、現宰相のあいつが掌握しているのは間違いなさそうだからな。」
城門に掲げられていた白竜軍の旗が、別のものに変わっている。ただ、白い竜をデザインしたものには違いなく、これが新生、白竜自警団の旗であろう。
「遊説に帯同しているのは誰?」
「おまえらの知っているところではハウンゼンだけさ。例のリドンちゃんは留守番だよ。さ、手続きをしてくるからちょっと待ってな。」
そう言ってデイルは門番の所へと話を付けに駆けていった。それから___
「まあ三四日はゆっくりしていけよ。おまえらも何か独自の旅をしているみたいだが、せっかくのカルラーンなんだからな。」
久方ぶりに潜るカルラーンの城門。懐かしいと同時に、心が落ち着くのを感じる。見慣れた城の姿を目の当たりにすると、もう難しい話など抜きにして、早く自分の「家」へ帰ってリラックスしたいという気持ちが芽生えた。ここ数ヶ月、止まることなく動き続けてきたのだ。蓄積した疲れ、そして安らぎを求める気持ちは強かった。
そしてリラックスは時に郷愁を呼び、己を見つめ返す時を導く。
己を見つめ返すことにより、人は己への理解を深め、いつもとは違った、或いはいつもより進んだ所へと進むことができる。
それは大事な進歩だ。
「なにも変わっていない___」
暫くぶりに部屋へと戻ってきたソアラは、懐かしい景色に顔をほころばせた。洋燈に火を入れると、いつも通り、ベッドがあって、箪笥があって、小物入れがあって___変わらない、自分の匂いが生きていた。
「そうだ___」
旅の荷物を床に放って、ソアラは洋服ダンスへ。引き戸を開き、幾らか掛けられた服を押しのけていく。
「___」
ソアラは洋服ダンスの奥で、ひっそりと眠っていた青い輝きを見つけ、ホッとしたような笑顔になった。百鬼から唐突に受けたプレゼント。あの青いドレスは、今もしっかりと彼女の部屋に残されていた。
(懐かしいな___なんだか随分前のことのような気がする___)
初めは喧嘩ばかりしていた。ソアラにはラドがいたから、百鬼のことを恋人と思うことはしなかった。いつからだろう、こうして___
気持ちに切なさが入り交じりはじめたのは。
「あっ___」
服を着替えようと、適当な服を箪笥から選び出し、ソアラはいったんベッドの上に腰を下ろした。すると、壁に刻まれた小さな傷が目に留まる。それは、ラドとの思い出の写真立てがぶつかって、砕けてしまったときにできた傷だった。今となっては懐かしくもほろ苦い思い出___
少し歩いてこよう。
服を着替え、ソアラは思い立ったように部屋を出た。
月の綺麗な夜は、人は余計に感傷を擽られ、愛の想いを強くする。
月の光は魅惑の光。思いを焦がす蠱惑の光。
カルラーンの月は、いつも以上に輝いているようだった。
ソアラは月の光に誘われながら、その菫色の髪に月光を織り交ぜ、寝静まったカルラーン城を歩いていた。中庭を抜け、顔見知りだった徹宵の警備兵と一言二言会話して、いつの間にか辿り着いたのは演舞場だった。
「なんでかな〜、こんなところにきちゃったよ。」
ソアラは自嘲の笑みで、演舞場横のテラスへと歩み出た。水の止まった噴水が見える。そうそう、ここで口づけを交わしたんだ。でもあのときは___なんだか成り行きだけだった気もする。彼の精一杯のプレゼントへの、ちょっとしたお礼だったかも知れない。今思えば___あのキスにソアラはそれほどの意味を感じていなかった。病の進行を悟っていたから余計かも知れないけれど___
ただ、互いの気持ちに同調があったのは間違いない。だから百鬼は自然とソアラを抱きしめていたし、ソアラは目を閉じて顔を上げた。
「?」
噴水の向こうから人影がやってくるのが見えた。暗くてはっきりとしなかったが、月光で浮かび上がるシルエットは、さほど近づかないうちにそれが誰であるかをソアラに気づかせた。それは向こうも同じだったようである。
「よう、ソアラじゃねえか。」
百鬼だ。彼はシャツにショートパンツというラフな格好で、片手をポケットに入れながら近づいてきた。
「奇遇ね、こんな所で。」
ソアラは微笑みで応える。
「いや、なんだか眠れなくってさ___ちょっとぶらっとして、今から部屋に帰るとこ。」
「あたしもそんなところよ。ぶらぶらしているうちにこんなところまで来ちゃってさ。」
「暖かい季節とはいっても夜になると冷えるからな、身体に触らないうちに戻れよ。」
「うん。」
「んじゃな。」
「おやすみ。」
「おやすみ〜。」
二人はすれ違い、互いに振り返って手を振りながら百鬼は宿舎の方へと戻っていった。お互いに笑顔だったがソアラは少しだけ物足りなかった。
彼と二人きりで話をする時間が欲しい。そう思いはじめたのはホルキンスを発ってからだった。かつて二人だけの時を過ごしたこのテラスは、それに相応しい場所と思っていたから、ソアラは少しがっかりした。
百鬼は部屋へと戻る道すがら、額についた小さな火傷の跡に手を触れた。月明かりを受けると、跡が疼くような気がしていた。最初にソアラの念写が届いたその時に、痛みが走るまでバンダナの中で炎のリングが熱くなっていることに気づかなかった。普段はバンダナをしているため、フローラにも気づかれない傷。いつかは戦いの中で受けた傷と一緒に、呪文で消えてしまうかも知れないが、できるかぎり残していたかった。
「なんかな〜、違ったかなぁ〜。」
彼は正直ではあるが、ライほど単純ではないし、そこまで鈍感でもない。ただし、そのぶん照れを感じる。考えてしまう。愛情という一種の欲についても迷いがある。ただ、その人が自分の側にいないなら、一人であれば憚りはしない。
「二人でいられたのになぁ___」
好きだって言えたのになぁ。
百鬼は無関心を装って部屋に戻ろうとしている自分に舌打ちした。ホルキンスで彼女と再び出会い、彼の気持ちは爆発的に膨れ上がった。諦めていた恋心。だが、二度と会うことはできないはずの彼女がまた現れたその時、彼女の命と共にかき消された恋心も、より強いものとなって蘇った。
「悔やんでも仕方ないか___」
難しいものだ。人を好きになるという気持ちは複雑すぎて難しい。それを伝えることもまた難しい。そんな雰囲気は感じていても、相手の気持ちもまた複雑だから難しい。これからも、例えそうでなくとも一緒の時間を過ごすことが多くなるであろう人だからこそ、余計に難しい。
自分がソアラに何を求めるのか。愛情とは何なのか。百鬼は歩きながら考えた。人は猿じゃない。恋愛には感情があって、それは子孫を残すこととは別のことだ。
子作りじゃないセックスができるっていうのは、人間の特権だぜ、おまえ。やらんでどうする。と、男の雑談でサザビーが言っていた。
「でもそんな事じゃないんだ、俺のソアラへの気持ちは___」
そう。そんな事じゃない。でもどんなことかは自分でも良く分からない。単純じゃない愛情を、自分でも分かるくらい単純に解きほぐす。そして最後に残った芯棒となる気持ち、それを見いだしたかった。
部屋まで戻ってきた百鬼は、ドアノブに手を掛けたまま立ち止まった___そして徐に踵を返した。
「これ以上___胸のつかえを残したまま、ソアラと旅をすることは出来ねえ___」
彼の足は自然と、ソアラの部屋へと向いていた。
一方でソアラもまた___
(好き___だな、あたしは。)
自分の部屋を通り過ぎ、百鬼の元へ。
「あ。」
二人の再会は唐突に、廊下の角を曲がったところで起こった。
「よう___」
百鬼はまたいつものように、よくある笑顔で手を挙げてしまった。ソアラは声は出さず、ただ小さく手を挙げた。彼女は何も話そうとしなかった。こういうときはどうしたらいいか?考えて導き出された結果は、自信を持つこと。男から切り出すこと。
「その___今、会いに行こうかと思ってたんだ。」
「___あたしも。」
「部屋___行くか?」
「そうだね___立ち話じゃね___」
二人のやり取りはいつになくぎこちなかった。洋燈の橙の光が照らしているから?いや、そうでなくとも二人の頬は紅潮していた。
二人でやってきた百鬼の部屋。散らかってはいないが、男丸出しの部屋。
「変わらないね。相変わらず、あなたの匂いだ。」
「えっ!?臭いのか?」
百鬼は思わず身じろぎした。
「え?あ、違うよ。そう言う意味じゃない。」
ソアラは慌てて首を振る。なんだかおかしくなって、自然に笑みがこぼれた。
「あ、そうだ、あのドレス。しっかり残ってたよ。」
「ああ、デイルさんが気を利かせてくれたのかもな。いやぁ、何しろ俺の汗の結晶だからな。」
「やめてよぉ、そういう言い方。せっかくのドレスが台無しじゃない。」
「なに〜。」
さっきまでの高まったムードはどこへやら。部屋にやってきた途端、またいつもの雰囲気。ただ、二人ともこうしている時間が一番楽しかった。
「それにしても、あのときは大変だったぜ。」
「あたしもびっくりしたよ、何せいきなりあんなだもの。」
「いやさ、だって着る機会がないと宝の持ち腐れだろ?」
「そりゃそうだけど〜。」
二人はベッドの上で隣り合って座りながら、和気藹々と語り合っていた。話は途切れることもなく、今まで話す機会の無かったことを終始笑顔で話し続けた。
「フフ、楽しいな〜。」
「あん?」
ソアラが不意に頬杖を突いてそんなことを言った。ベッドに寝転がって話していた百鬼は起きあがる。
「百鬼と話してるときが一番楽しいかも知れない。」
「俺だってそうさ。ソアラと話しているときが一番楽しい。」
「本当に?」
「本当さ___だからおまえがいない間は本当に寂しかった。」
百鬼はソアラの肩に手を掛けた。
「___」
「あのときの気持ちって言ったらなかったぜ___本当に___思い出すだけでも、何もできなかった自分に腹が立ってしょうがなかった。」
百鬼は自然とソアラを抱き寄せ、ソアラも自然と彼の胸に身を預けていた。
「信じられなかった___何が起こったって、あのソアラが死ぬなんて___あり得ないって勝手に信じ込んでたからな。」
ソアラはただ黙って、彼の言葉に耳を傾けていた。ただ、笑顔は消えていた。
「叫んでいた。野蛮だとは思うけど、叫ぶしかなかった。それから瞑想室に籠もって、とにかく泣いた。将軍が死んだ、それも悲しかった。でもおまえが死んだと聞かされた悲しみは、比じゃなかった。その時気づいたんだよ、俺がどんなにおまえのことが好きだったかって。」
百鬼はソアラの髪を優しく撫でながら、いつになく繊細な声で語った。
「会えなくなってはじめて認めるんだぜ。バカな話だよな。おまえとキスをしたのは、凄いことだったけど___俺はおまえに好きだって言ってなかった。言えなかったんだ。」
そこにはもう一人、好意を抱いていた人物がいたからという側面もあった。だが彼女とは結ばれない。それを示すかの如く、彼女は彼から大切なものを奪い去った。
「後悔した。そりゃもう、後悔なんて一言じゃ片づけられないくらいだった。ただ今更いくら好きだっていっても、そんなのは虚しいだけだった。」
虚空に呼ぶようなもの。なにも返ってこないと分かって言う言葉に何の意味があるものか。
「?」
ソアラが小さく震えているようだったので、百鬼は気になって、長くなった髪に隠れている彼女の顔を覗き込んだ。
「ああ、ごめん。ちょっと___」
ソアラは目元を拭って、いったん彼から離れた。
「泣けてきちゃった___そんなに想ってくれていたあなたを騙していたかと思うと___」
ソアラは百鬼から距離を取って座った。
「本当にゴメン___あたし___とんでもないことをしていた。病気であることを証して、ホルキンスに行けばよかったのに___」
そして立ち上がろうとする。いたたまれなくなったのだろう、彼女は部屋を出ようかという勢いだった。その手を半ば強引に百鬼が取った。
「まったくだぜ。でも謝ることなんてねえよ。おかげで俺はおまえへの愛情を認めることができたんだ。」
二人の動きが止まった。
「ソアラ。俺はおまえと一緒にいたい。おまえを放したくない。おまえを守りたい。不器用だから、愛情ってなんなのかよく分からなかった。でも、解きほぐしていったら___俺の気持ちはそこにあると思った。」
ソアラが振り替えった。
二人の目があったその時、百鬼はただ真っ直ぐ彼女の目を見つめ、言った。
「好きだソアラ。俺はおまえを愛してる。」
「___」
ソアラはしばし言葉を失っていた。しかし、すぐに口元が緩んできた。それは百鬼も同じこと、二人が痺れを切らしたのは同時だった。
「あーっはっはっはっ!」
声をそろえて大笑いする。
「言っちゃった、ハハッ!真剣になって言っちゃったよ!」
「はずかしー!はずかしー!」
百鬼はベッドの上を転げ回り、ソアラは枕に突っ伏して、顔を隠しながらとにかく笑った。一頻り笑い終わると、二人は隣あってベッドに仰向けになっていた。手は、自然と握りあっていた。
「ありがとう。」
「ん?」
「嬉しいよ。」
「そうか?」
天井を見ながら、微笑みながら会話を交わす。
「あたしも百鬼のことが好き。」
「そう言ってもらえると、俺も嬉しい。」
「ねえ、キスして。」
百鬼は身を翻し、仰向けのソアラに覆い被さるようにして、唇を重ねた。短いキスだったが、甘酸っぱい恋のアロマは互いの心を鷹揚にしていった。
「いいよ___百鬼。」
ソアラは唇を放した百鬼の首に改めて手を伸ばし、そっと抱き寄せた。
「ソアラ___」
百鬼はゆっくりとソアラに身体を重ねた。だがそのとき___
『ニック___』
「!?」
百鬼は不意に脳裏をよぎった声に戦き、飛び退くように立ち上がってしまった。
「?」
突然のことに、頬を上気させ、身を任せようとしていたソアラも真顔に戻る。
「駄目だ、俺にはおまえを抱く資格はない。」
脳裏によぎった声。それは、あの事件が起こるまで、百鬼が違った感情を抱いていた女性。フュミレイの声だった。そして彼女は彼を、ニックと呼べる。
「___どうして?」
何を言い出すんだ?ソアラは笑止して尋ねた。
「俺はおまえにとんでもない隠し事をしているんだ___しかもこれはおまえでも教えられない___俺は百鬼なんて名前じゃないんだ___俺は___んっ!」
言いかけた百鬼の唇を、ソアラが無理矢理に口づけで塞いだ。百鬼の肩から力が抜け落ちるまで、ソアラは口づけを続け、やがて離れた。
「言わないで。そんなこと___関係ないわ。人を愛するのに資格なんていらない。それに私が好きになったのは百鬼なの。」
ソアラは鼻面が触れあうかと言うほどの距離で、語りかけた。
「でも___隠し事をしたまま___」
「秘密なんて誰だって持っているわ。私だって、嫌いな虫がいるって言ったでしょ?それ以外にもあたしの弱点があるけどあなたは知らない。そんなの誰だってそうよ。例え五十年連れ添った夫婦でもね。」
ソアラは自らの手で、服のボタンを外していく。
「このまま私に恥ずかしい思いをさせるつもり?女から誘ってさ___すっごく恥ずかしいんだからね___」
「___」
百鬼が再びその手でソアラを抱くのに、時間は掛からなかった。
洋燈が消える。
月明かりの下、二人は互いの素肌を晒した。
百鬼は、シーツに広がる紫色の髪が月明かりを受け、眩惑的に輝く姿に感銘を覚えた。
ソアラは、彼の逞しい肉体に抱かれ、守られることの幸せを噛みしめた。
そして二人は、月明かりの下で、二人だけの海へと誘われていった。
前へ / 次へ