2 アヌビスと呼ばれた邪悪 

 回復呪文というのは便利なものだ。本来ならば、胸を切り開いたのだ。十日は痛みとの格闘が続き、歩き始めるのにもさらに数日を要する。しかし回復呪文を用いることで、傷口は跡形もなく消え失せ、残存する痛みもなくなる。勿論、体調そのものが簡単に戻るわけでもないが、ソアラは二日後には自由に歩き回れるほどに回復していた。とはいえ、まだまだ養生のためにベッドの上にいる時間が長く、彼女は紫色の長髪を下ろしたままでいる。いつものポニーテールに戻るには、もう少し時間が掛かりそうだった。
 「いや〜それにしても___」
 ライは歩きながら溜息をついた。百鬼、フローラ、サザビー、みんなどことなく足取りが重い。決してソアラの歩調に会わせてというわけでもなく。
 「ごめんね、なんだか沈ませちゃったみたいで___」
 ソアラは苦笑いしてライと肩を組むと、彼の頭をなで回した。やっとこさ、ソアラにいつもの明るい表情が戻ってきたようである。
 「いや、知らないよりは知っていた方がいい。」
 「そうそう、別に謝る事じゃないわ。」
 サザビーとフローラがソアラに言葉を掛けた。
 「しっかし___」
 一番後ろを歩く百鬼は、頭の後ろに手を組んで、悩ましげな顔で空を見上げた。
 「邪神アヌビスねぇ___」
 「本当にいるのかなあ。」
 「いるんじゃない?超龍神がいたんだもの。」
 ソアラはあっさりと答えるが、それは余計に気分を沈ませる言葉だ。
 彼らは今、オウルの所で長い話を終え、間借りしているエストラダの隣家へと戻るところだった。話の内容は___新たなる邪悪についてだった。
 その名も、邪神アヌビス。
 ___
 その話はソアラは既に耳にしていたことで、彼女が彼らをこのホルキンスに呼んだのは、この話を伝えなければならないという思いもあったからである。テーブルを挟んで、オウルとソアラ、対面に四人がならび、会話が始まった。
 「まず、お主たちが持っているリングについて語らねばなりますまい。」
 「あたしたちが持っているリングは四つ。炎、水、風、魂。リングには他に、大地と命があって、全部で六つよ。」
 「この六つのリングについてお主たちはどの程度知っておるのじゃ?」
 「超龍神が何かの封印だって言っていた。」
 「でも自分の肉体じゃ無いとも言っていたよな。」
 「それは超龍神さえもが崇拝する、わしらには想像もできないような邪悪な存在の封印じゃ。」
 「そいつの名前は『アヌビス』よ。」
 正直誰もが、あの超龍神よりも強烈な存在がいるなんて信じられない気持ちだった。超龍神は肉体を取り戻せばきっとより強烈な存在になるだろう。それを更に上回るというのか?
 「ここホルキンスは、古代の英知が生き続ける秘境。ここには古き伝説、封じられた邪悪に関する資料がたくさんあるの。聞いて驚かないでね、超龍神をああいう風に変えたのは、他でもないアヌビスなのよ。」
 「超龍神は完璧な邪悪ではないのじゃ。元はと言えば、竜の大神の僕としてこの世界を見守る、善良な神の使いじゃった。それをアヌビスが暗黒に染めたのじゃ。」
 「ただ超龍神は、最後の善良な心を賭して、アヌビスを封じることに成功した。人の力を借りてね。」
 「その時に使ったのが六つのリングか。」
 「六つのリングはアヌビスの封印を守る重大な代物じゃ。また同時に、封印の鍵でもあるのじゃ。」
 「この世界のどこかに、アヌビスの封印石がある。それは台座のようなものだと推測されているわ。六つのリングを填め込む穴があって、そこにリングを収めれば封印が解けるのよ。」
 「リングを破壊しても封印は解けると思われる。何しろ、このリングの力が封印の均衡を保っておるのじゃからな。」
 リングの神秘性、そこから感じる力は確かに底を見出せないほどのものがある。魔法に関してまったく何の知識もなかったフローラやソアラの魔力を引き出した。それだけでも、このリングが秘めた脅威の力が伺える。
 「アヌビスっていうのはどんな奴なんだ?」
 「わしにも分からぬのじゃ。何せ見知らぬ者の話じゃからな___そう、それほど驚異的なのかさえ分からぬ。」
 「何しろアヌビスに関する資料はまったくと言っていいほど無いのよ。それこそ、六つのリングが封じているっていうのが分かっているだけ。アヌビスという名前しか分からないわ。」
 「だが六つのリングは実在する。そして実際に力を秘め、超龍神はこいつを集めたいと思っている。アヌビスが何なのかは別としても、邪悪にまつわる封印があるのは確かだろう。」
 「そう、サザビーの言うとおり。そしてその封印を守るために、リングの守護者に選ばれた私たちは超龍神と戦わなければならない。」
 「僕だけまだリング持ってないんだけどね。」
 「まあまあ。」
 「さて、次に話さねばならんのは、超龍神の肉体の封印についてじゃな。」
 「爺さん!それ知ってんのか!いでっ!」
 「相変わらず失敬な奴ね!オウルさんは偉大な方よ。」
 「アモンはわしより偉大じゃと思うがのお。」
 「いえ、あたしはあれは認めてませんから。」
 「命の恩人に言う言葉じゃね〜な。」
 「さて、超龍神は『四つの均整』によって封じられておる。」
 また新しいカテゴリーの登場。今度も封印だが、その名は四つの均整。
 「四つの均整とは、世界全体を巨大なフィールドに見立てた大がかりな封印じゃ。封印というのはな、封魔の術を直接対象に施すことも可能じゃ。だがそれでは物体や、弱い生き物しか封じることはできん。もちろん複数の優れた魔術師が、一斉に同対象に向けてこの術を施せば大きな効果がある。実際に、超龍神の魂はこうしてクリスタルに封じられたそうじゃ。」
 「なるほど。」
 「じゃが、超龍神の肉体はこんな単純な封印ではよういかんのじゃ。そこで、封魔の力を込めた道具を特定の点に配置することでサークルを作ったのじゃ。」
 「魔法陣って奴よ。魔道の力っていうのは、そのバランス次第で威力が膨れ上がる。魔法陣はただ闇雲に丸いわけじゃないのよ。あれに書かれている文字は、それぞれの点に意味があって、そしてその全てが集中する最も優れた空間が陣の中心なの。」
 「つまりこの封印も、一種の魔法陣じゃ。四つの点に封魔の力を送り込むことで、封印の魔力は、陣の中心にて超絶的に増幅される。そればかりか、封魔の力を込めた道具が維持されている間は、陣の効果は延々持続する優れものじゃ。」
 「なんだか僕にはよくわかんないなあ。」
 「つまりこう言うこと?この世界のどこか四箇所に、その魔力の籠もった道具があり、そして超龍神の肉体はその中央にある。」
 「そう、まさにその通りよ、さすがフローラ。」
 「ソアラ、地図を。」
 「はい。」
 ソアラがテーブルに大きく広げたのは世界地図。都市の位置などが詳細に描かれているばかりか、一般の都市では見向きもされていない、いわゆる秘境と呼ばれる土地についてもなんかしらの記述がある。ホルキンスの神秘がなせる技か、随分と優れた地図だ。
 「その魔力の籠もった道具というのは、人々から寵愛されるようにと、巨大な女神像を象っておる。これが四箇所、まずここ、ゴルガの東部、大山岳地帯の中央にある山岳民族の村、バドゥルに一つ。」
 「へ〜、こんな所に住んでる人がいるんだ。知らなかったなぁ。」
 「もう一つはここよ。ジャムニの南、ゴルガの南西端は大砂漠地帯の中、グレルカイムに一つ。」
 「グレルカイムっていや、新興宗教のアクトゥマ教とかいうのが総本山にしているって話だな。」
 「さらにはここじゃ。ケルベロス国西端の大都市、ローレンディーニ。ここの女神像は有名じゃそうじゃな。」
 「そうだぜ、ローレンディーニ名物さ。芸術祭の優秀賞者だけが見られる最高の芸術品だってな。」
 「詳しいな。」
 「まぁね。デイルさんか誰かから聞いた話さ。」
 「そして最後がここよ、ケルベロスの北東にある希望の祠。ここはケルベロス城から徒歩で簡単に行けるほどの距離だそうだ。」
 「ケルベロスか___えと、これの中央は___」
 「糸で結べば分かるわ。ほらっ。」
 「!」
 それは実に見事だった。地図でこの四点を、線が交差するように結ぶと、その交点はものの見事に世界の頂点を示した。法王が住む聖なる社___『クーザーマウンテン』にピタリと一致したのである。
 「クーザーマウンテン、法王堂か!」
 「また厄介なところに___」
 「お主たちにはこの四つの均整を守って欲しいのじゃ。」
 「守ると言われてもなあ。」
 「均整は一つでも無事ならばその効果は持続するわ。かといって、ずっと一つの均整に止まって守るわけにもいかないでしょ?」
 「そうね、超龍神が直接やってきたら手も足も出ないわ。」
 「そこで、このホルキンスの『結界』を使っていただく。ここホルキンスが長きに渡り、邪悪の浸食を受けず、古の知識を抱き続けられたのはこの結界のおかげなのじゃ。」
 「ホルキンスの谷の回りには光の結界が張られていたのよ。それはとんでもない威力で、触れた者を見境無く消し飛ばしてしまうほどにね。」
 「なるほどそれで人跡未踏か。」
 「うわ〜、えぐいなぁ。」
 「と、とにかく。オウルさんはこのホルキンスの結界を解除して宝玉に閉じこめてくれたわ。私たちは、この結界を四つの均整のどれか一つに張るのよ。まずは守るものを守らないと、超龍神と戦うこともできないからね。」
 「そういうことじゃな。」
 ___
 結局話はこれで終わった。
 四つの均整のこともあるが、それ以上に彼らの気を引いてやまなかったのはアヌビスの存在だった。
 「まあぐだぐだ考えてもしょうがねえよな。とりあえず、出発に向けて準備をするとしようや。」
 百鬼は吹っ切れたように手を広げると、すぐ側にいたサザビーの背中をバンバンと乱暴に叩きまくって笑った。
 「いって〜。」
 「そういうこと、誰かあたしのリハビリにつきあわない?今日から本格的に動いてみようと思うの。」
 ソアラは陽気に力瘤など作って見せながら言った。
 「そういうのは私が決めることです。」
 しかしフローラにその後ろ襟を引っ張られて息を詰まらせる。
 「リハビリのプランは私が状態を診ながら決めるから。分かったわね?」
 「へ〜い___」
 何はともあれソアラが復活してからというもの、メンバーはすっかり活気づいた。もし彼女の復活がなかったら、アヌビスの話などまともに聞いていられなかっただろう。
 「やれやれ、これから騒々しい旅になりそうだな。」
 サザビーもソアラの前では禁煙命令が下っている。実は彼が不安を感じていたのはアヌビスのことではなく、煙草を禁止されて調子が狂いやしないかということだったとか。




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