1 フローラの決断
「このホルキンスに来たことで、彼女の病の進行速度は非常に緩やかにはなっている。しかし、ホルキンスの清潔な大気は彼女の病気を抑えることはできても治癒することはできない。また私にも、彼女を治療する術はないのだ。」
崖は回り道をすれば別の橋があって越えることができた。そこからさらに暫く進むと、あの崖とは比べものにならないほど巨大な谷があり、そこには街並みがあった。
風がいつも吹き抜け、いくつもの風車が回り、日射しは場所によってはまったく差し込まないこともある。
そこはホルキンスの谷。かつて断層の変動によって大陸より遠ざけられた人々。彼らの末裔は今もここで暮らしていた。
「私は医者だが、彼女の病の進行を見届けることしかできない。このホルキンスには先祖伝来の秘薬もいくつかある。だが、どれも彼女の病を癒すには至らない。」
ソアラを迎えに来たのは、ここホルキンスの谷ただ一人の医学者であるイバン・エストラダ。彼の小さな医院にあるベッドにソアラを寝かせ、ソアラとの関係を彼に教えた四人は、イバンからソアラの容態について説明を受けていた。
「ソアラは一体どうしてここにやってきたんだ?」
意気消沈して言葉少なになっている三人に変わり、サザビーがエストラダに質問した。
「私は彼女がここにやってきてから治療に携わっている。彼女は長老に連れられてここへとやってきた。顔色は悪く、悪い咳をしていた。彼女はホルキンスで療養をし、日毎に症状は良化していったが、胸元に強い衝撃を受けたり、運動で息を切らすと、血の混じった咳をしてしまう。」
「長老に連れてこられる前だよ。」
「さあ、私は聞いていない。」
「アモンさんに連れてきてもらったのよ___」
ソアラが唐突に語った。既に彼女は意識を取り戻し、ベッドの上で目を開けていたのだ。俯いていたフローラやライも顔を上げる。
「あのとき___私はフュミレイの呪文を胸に受けたことで、病巣を刺激され、血を吐いて倒れた。意識を失った。でもアモンさんの強力な回復呪文のおかげで一命を取り留めることができたの。ただ___呪文で傷はふさげても、病巣を取り除くことはできない。私の病気は相も変わらず胸に居座っていた。」
ソアラはまた軽く咳き込んだ。しかし短いもので、喀血もなかった。
「このままでは、戦うことはできない。病気を隠しながら、みんなと一緒にいることはできない。命だってもう、きっと長くはないと思った。でも私は生きていたかったし、みんなの挑戦を邪魔したくもなかった。アモンさんから、サザビーの手紙の内容を聞いて、余計に生きる気持ちが強くなったの___」
死にたくなかった。世界の行く末を見ていたかった。それを変える力がある彼らとの旅に未練は感じたが、生きるためにそれを離脱し、せめてその挑戦を見守りたかった。そうソアラは言った。
「だから、アモンさんには私が死んだことにしてもらったのよ。そして、この清涼なる秘境、ホルキンスの谷で養生するようにと、アモンさんはヘブンズドアで私をここに運んでくれた。アモンさんとここの長老は友人なの。」
実際にここの澄んだ空気はソアラの身体をある程度回復させた。だが、今のままでは、ホルキンスを離れた途端、彼女はまた死の淵へと立たされるであろう。
それではこの再会にいったい何の意味があるというのだろう。結局、ホルキンスにいたとしても、ソアラの身体が病魔に蝕まれ続けていることに何ら変わりはないのだ。ただ、少し長く生きられるだけだというのに。
「炎のリングを使って___俺たちを呼んだのはおまえか___?」
椅子に浅く腰掛け、膝に両肘をかけて俯き続けていた百鬼が、漸く顔を上げてソアラに問いかけた。その口調は決して優しくなく、ソアラを戒めるかのように強く、若干震えているようだった。
「そう___」
その答えを聞いて百鬼は立ち上がった。椅子が倒れるほど乱暴に。彼は爪が食い込むほどに拳を握り、首筋に血管を浮き上がらせていた。憤りの塊だった。
「何で呼んだんだ!?」
百鬼が怒鳴った。フローラは彼を止めようとするが、百鬼は聞く耳持たなかった。
「そんな身体で、何でまた俺たちの前に出てきたんだ!?俺は___俺は、おまえが死んだと聞いたときにとてつもなく悲しかった___地の果てに叩き落とされたようだった!だからさっきおまえが生きているのを見てどんなに嬉しかったか!なのに___なのにおまえは!!」
同じ人間の、しかも愛おしい人間の死を二度も味わうなんて、それほど辛いことがあるだろうか。彼女に回復の見込みがないからこそ、余計にもどかしく、彼女を慰める言葉さえ浮かばなかった。
「俺はそんなおまえに会いたかったんじゃない___それが分かっていたからおまえだって、あのときに自分を死んだことにしたんだろ!?なのに___今度はそんな身体で俺たちのことを呼んで___!ふざけるんじゃねえぞ!!」
「いい加減にしたまえ君。ここは病院。彼女は患者だ。」
エストラダが思い余って百鬼の前に立ちふさがり、彼を鋭い眼光で睨み付けた。
「ソアラ___何とか言え!」
百鬼はそれを無視して問うたが、ソアラからは何の返答もなかった。百鬼にはそれがまた歯痒かった。せめていつものように、食ってかかってきて欲しかった___
「くそぉっ!」
百鬼は医院から飛び出していってしまった。険悪な空気だけが、診療室に残っていた。
「まあ___わからんでもないがな、あいつの言い分も。」
「でもあんまりよ、あんな言い方___」
サザビーとフローラの間でも意見が分かれる。
「いいのよ___百鬼の言うとおりだもの___」
ソアラは寂しそうな笑みを浮かべた。そして目に一杯たまった涙を見せないように、顔を背けた。
病気で死に逝く自分のために、彼らに無駄な心配をさせたくはなかった。彼らに前へと進んでもらうために自分は死という形で彼らと別れを告げた。だが、アモンから彼らがポポトル打倒に旅立ち、そしてポポトルが滅びたというニュースを聞かされると、会いたい思いが募るばかりだった。
堪えきれずに彼らを呼んでもらった。長老にも警告されたはずだった。より多くの悲しみを煽るだけだと___それでも彼らに会いたい気持ちは変わらなかった。
再会の瞬間、幸せだった。
そして今、こうしてベッドの上で彼らと向かい合う。
わたしは___
いったい何度彼らを裏切れば気が済むのだろう___
「ソアラ___」
ソアラは泣いていた。背を向けてはいたがソアラはきっとたくさんの涙をこぼしている。全ては___彼女の病が原因。あれさえ治れば、みんなが幸せを取り戻せる。
ソアラの酷く小さく見える後ろ姿に、魂を奮い立たされたのはフローラだった。彼女は、悲しみに覆われていた顔色を一変させると、スクッと立ち上がった。
「エストラダ先生、向こうでお話をさせていただけますか?」
彼女の心は、強い決意に漲っていた。
「手術ですか___?」
エストラダは困惑の顔をする。フローラからの申し出は、ソアラの手術に踏み切らないか?という内容だった。
「いや、私は外科手術は盲腸の切除くらいしか___」
「私が執刀します。」
フローラは胸に手を当てて、強く申し出た。
「なんですと___あなたは?」
「私はアーロン・リー・テンペストの教え子です。フローラ・ハイラルドと言います。」
「テンペスト!あの世界的な外科医ですか!」
「エストラダ先生には助手をしていただきたいんです。私は、ソアラの手術をテンペスト先生の助手として一度見ていますから。」
フローラにとってこれは大いなる決断だった。エストラダは好意的に協力を引き受けてくれたが、フローラはこの手術に自信があったわけではない。現に彼女は、ミスティ・リジェートとして、体中に腫瘍を作ってしまったテンペストを手術した。身体の各所の腫瘍を除去する手術は長時間に及び、結局、テンペストは手術中に息を引き取った。テンペストは手術をしなかったにしても一年と生きられない身体であったが、結果として死を早めたことは事実。手術は失敗に終わったのだ。その後遺症は今も不安として残っている。
「ソアラ、私にあなたの命を握らせてくれる?」
ソアラは、フローラの唐突な申し出に驚いた顔をしていた。
「それって___」
「手術させて欲しいの。」
ソアラはフローラの強い言葉に胸を打たれた。彼女は控えめで、いつもソアラの影に隠れているようだったのに___なんと強く成長したことだろう。友人というよりは、姉妹のようにして育ってきた二人だから、ソアラは余計にそう感じていた。
「ただ成功するかどうかは分からないわ。勿論最善を尽くすけれど___ポポトルのように設備は万全じゃないし、執刀するのもテンペスト先生じゃなくて私だから。」
「何言ってるの。私はフローラの腕はテンペスト先生にだって負けないと思ってるよ。」
「ありがとう。でもね、本当、やってみないと分からないところもある。医者が患者に対して、こんな間の抜けたことを言うのはおかしいけれど___」
ソアラはそんなことはないと首を横に振り、フローラに手を伸ばした。フローラはその手を取る。
「賭けるよ、フローラ。私はあなたに命を託す。」
待っていても死がやってくるだけ。信じられる医師が執刀を志願しているのだ。賭けずにどうする。
「___必ず助けるわ。だから___また一緒に旅をしましょう。」
フローラは弱々しいソアラの手を勇気づけるように、彼女の手を強く握った。
「くそっ___」
百鬼は走り回っているうちに、街の全貌が見渡せる高台へとやってきていた。ホルキンスの谷は全体的に土色をしていて、見る者の心を和ませる。落ち着きを取り戻し始めた百鬼は、まだ怒りの燻りを感じながらも、ソアラに怒鳴ったことを酷く後悔していた。だが医院に戻る気もしない。憔悴したソアラの顔なんて見たくはなかった。
「もしもし、そこの若いお方。」
年寄り独特の籠もりきった声が百鬼を呼んだ。振り向くとそこには、酷く背の曲がった小さな老人がいた。真っ白な髪、眉、髭が顔を覆い尽くすようになって、目玉の位置さえ良く分からない。まるで動物のような老人だった。
「ソアラのお仲間さんじゃな?」
「!___何者だい?爺さん___」
「私はオウルと申します。この谷の長老ですじゃ。」
「長老、するとあんたが___」
アモンの友人で、ソアラを受け入れた人物だ。
「どうですかな、お若い方。どうやら気が立っておいでのようだ。茶の一杯でもご馳走いたしますぞ。」
オウルは髭を持ち上げて、笑みを見せた。
彼は高台の天辺にある簡素な小屋に住んでいた。百鬼が招かれた小屋の中身は酷く散らかっていて、正直落ち着ける場所ではなさそうだ。散らかっているものの多くは書物類のようだ。
「凄いところだなぁ___」
辛うじてテーブル前の椅子に座った百鬼は、目の前にあった本に気を取られた。
「魔道皆伝___」
本の途中にしおりが挟まっている。開いてみると、そこには比較的強力な攻撃呪文について、その特異性、或いは精神力に関わる影響等々、詳細が記されていた。そしてページの間には、その要旨をまとめたメモが残されていた。
「ソアラの字だ___」
そう、どうも見たことあると思えばこれはソアラの字である。
「ああ、それはソアラに貸していた本じゃよ。」
オウルが細長く奇妙な形のカップに、茶を入れて運んできた。
「貸していた?」
「そうじゃ、この辺に散らかっているものは大体ソアラに貸しておったものじゃ。いつまでも医院に置いておくのは邪魔だからとまとめて返しにきよった。おかげでこちらは片づけるのが大変じゃよ。」
「これ___全部か?」
百鬼が手に取ったのはたまたま魔法についての本だったが、見渡せば、武闘、伝説、地理、或いは一般知識、その種類はとにかく多岐に渡る。だが多かったのは、魔法に関するものだった。
「___」
だがその中で気になったのは、武闘の本だ。
「波風静武術___」
「おお、それは最近までソアラが熱心に読んでおった。わしもこんな本があったかと思っていたものじゃよ。動かざるまま相手と戦う、まさに究極の武術じゃな。」
「動かざるだって___?」
百鬼は息を飲んだ。
「そうじゃ。円の力場を巧みに操り、相手の力を最大限に利用する。受け身の格闘技だそうじゃ。」
「それは___」
つまり最低限の運動で戦う術。
「何しろ勉強熱心な娘じゃよ。特に魔道書は読むものがなくなるくらい読みあさっておった。たくさんのメモを拵えてな、もしやもすると自分で一冊の本でも作るかと思ったほどじゃ。」
「あいつは___」
百鬼は自分の愚かさが嫌になってきた。何故こうも自分は軽はずみで、相手のことを考えてやれないのだろうか。
「ソアラは___」
また、ともに旅をすることを望んでいたのは誰でもない。ソアラだ。そして彼女は、病気の身体でも戦いを潜り抜けられるようにと、身体への負担が少ない武術を学び、魔道の知識を深めようと努力していた。それだけではない、様々な知識を深めることで、せめて後方からの支援ができるようにと考えていたはずだ。
「それを俺は突っぱねたのか___」
百鬼は立ち上がった。ソアラに謝らなければ___
「まちなされ、お若い方。茶を残しておいでだ。」
はやる気持ちをオウルに止められた。百鬼は詫びを言って早々と立ち去ろうかとも思ったが、何となく、長い眉毛の向こうにオウルの瞳が見えた気がして彼を振ることはできなかった。
ガッ___
一気に飲み干すつもりで、百鬼は長細いカップを手に取った。その時だ___
ゴウッ!!
「!?」
突然、カップの口に白い炎のような揺らめきが吹き出した。それは茶の液面からまるで蒸気が形となって一気に吹き上げたようだった。
「お若いの。良い魂をお持ちじゃな。お主のその猪突猛進の如き真っ直ぐな思いは、強い『魂』に裏打ちされておる。」
百鬼はオウルを振り返った。オウルはヒョッヒョッヒョッと老人らしい笑い声を上げている。
「魂?」
「魂は意志の力。意志の力は時に命をも超越した奇跡を呼ぶ。人は意志により動き、意志によりその道を定めてゆく。己の道を決断し、真っ直ぐに見つめていけることも一つの長所ですぞ。」
オウルは諭すように語った。いつの間にやら、カップの白い炎は消えてしまっていた。
「お見事。お主の魂は、茶を全て蒸発させるほどに強いものじゃった。口に手を被せて、それを逆さにしてご覧なさい。」
百鬼は言われたとおり、カップの口に片手を添えて逆さにした。すると添えられた掌に何かが落っこちた感触があった。百鬼はカップを退ける。
「これは___」
そこには一つのリングがあった。形こそ水のリングや炎のリングと同じだが、他のリングに比べてくすんだ色をしている。銅色とでも言おうか、宝玉の部分も濁っていて、まるで金属球のようだ。
「魂のリングじゃ。持っていきなされ。」
「___いいのか?」
「気になさるな。初めからそのつもりで目を付けておったのじゃ。」
百鬼は一瞬不意を付かれたように間の抜けた顔になったが、すぐにニヤッと笑って一度リングを放り投げて宙で取った。
「ありがとうよ!オウルさん!」
「ソアラを励ましてやるのじゃ。あの娘はしょっちゅうお主のことを思い出しておったからのう。ホーッホッホッ。」
百鬼はポッと頬を赤くして、オウルに一つ手を振ってから猛烈に走り出した。
百鬼が勇んで医院に帰ってくると、医院の外でサザビーが煙草を吹かし、ライは落ち着かない様子で歩き回っていた。
「よう、どうしたんだ?」
百鬼は息を弾ませながら尋ねた。
「どこ行ってたんだよ百鬼!」
「?」
ライは落ち着かない様子で百鬼の肩を何度も叩いた。
「今、フローラがソアラの手術をしてるんだよ。」
そう答えたサザビーは、煙で輪を作って暇を潰していた。
「な、なんだと!?」
百鬼は慌てて医院の中に駆け込もうとする。しかしそのズボンのベルトをサザビーが掴んで、彼は呻いた。
「なにするんだよ!」
「フローラの邪魔をする気か?あいつは全神経をソアラの手術に傾けている。」
サザビーは冷静な忠告を百鬼にかけた。しかし彼の魂は、意志の力は簡単には屈しない。
「頼む___手術の邪魔はしないようにする___でもせめて、あいつの側にいたいんだ!」
サザビーはバンドを放した。
「フローラに聞いてみるんだな。」
「すまねえ!」
百鬼は駆け込もうとして急いだ足を落ち着けて、慎重に医院のドアを開けた。
「ヒヒッ、お熱いこと。」
サザビーは苦笑いを浮かべてまた煙草をくわえた。
「それでは執刀に移ります。胸部切開後、肺臓を露出させ腫瘍を確認し切除します。途中、魔法を要した特殊処置を織り交ぜます。」
フローラは簡単に術式を述べた。滅多に使われない手術室。しかし機材はそれなりに揃っているし、麻酔薬も優良なものが用意されていた。幸いエストラダが勤勉な人物で、彼はちょくちょく谷を出ては都会で新しい医学の吸収に励んでいるというのだ。これはフローラにとって実に頼もしいことだった。そして、ホルキンスの澄み切った大気も、せめて二次感染の恐怖を少しはやわらげることができる。
「いきます。」
ガチャッ。まさにフローラがソアラの胸部を切り開こうかかというその時に、手術室のドアが開いた。
「入ってこないで。」
フローラはそちらを見向きもせずに答えた。もはやメスを走らせる。手術が長引く可能性もある。麻酔の効果が続くうちに全てを済ませなければならないこの状況では、余計なことにつきあう暇はなかった。
「頼むフローラ___ソアラの手を握っていたいんだ。」
百鬼は声を抑え、とにかく神妙に言った。マスクとキャップで防備したフローラの姿は一際冷徹に見えたが、彼女は情に脆い人物でもある。
「エストラダさん、百鬼の着替えと、それから消毒をお願いします。」
「分かりました。」
「ありがとうフローラ!」
手術は続いた。ソアラの胸をへらで押し開き、固定された状態の時、用意を終えた百鬼は彼女の側へとやってきた。その情景に目を背けたくなる気持ちはあったが、今はそれ以上にソアラの手を握っていたかった。
(ソアラ___!)
百鬼はソアラの手を握った。体温に乏しい彼女の手は、それでも血液の拍動を感じ取ることができた。意識を失っているはずの彼女が、握り返したような気がしたから不思議だった。
「百鬼、脈拍を見ていて。」
「わかった。」
手術は続いた。勝負はソアラの出血が握っている。そうフローラは考えていた。大病院ならば最新の血液検査薬と輸血用具があるが、ここにそんなものはない。切開部に微弱な回復呪文を施すことで、せめて出血量を抑えるなどの小さな工夫が必要だった。
「あった___」
肺を露出させると、腫瘍はあっさり発見された。
「一つではありませんね___」
「予想していたこと___徹底的に取り除きます。」
ここからが本当の戦いだ。
「長いな。」
サザビーの足下にたまった煙草の本数は、すでに十本を数えていた。新しい煙草を取り出そうと紙包みを取るが、たった今踏みつぶしたものが最後の一本だった。平静を装っていても、落ち着かないのは確かだった。
「___」
手術時間が長引いてはいけない。フローラは小さな腫瘍の痕跡も見逃さず、丁寧に切り取っていく。だがその時、魔力の浪費が彼女の手元を狂わせた。魔法を本来の威力よりも押さえ込むというのは、想像以上に甚大な魔力を消費するのである。
「!」
メスはソアラの肺の一部を傷つけ、突如として新鮮な血液が溢れ出した。エストラダが慌てて脱脂綿を宛い、血を取り除こうとする、しかし出血は簡単に止まらない。
「リヴリア!」
フローラはすぐさま回復呪文で肺の傷口を塞いだ。肺は元の姿を取り戻すが、病巣は血にまみれ、ソアラの大出血も気がかりだった。
「フローラ___脈が落ち始めた!」
百鬼の言葉がフローラを恐怖させた。まだ取り除いていない腫瘍の予備軍がある。
「まだ閉じられない___」
エストラダは素早く脱脂綿で血を取り除き、フローラは患部を睨み付けて病巣を探した。百鬼にできたのはただソアラの手を握って彼女の無事を祈るだけ。ただただ、助けてくれと魂で叫ぶだけだった。
その時、魂のリングは朧気に輝いていた。輝きは、つなぎ合った手を通してソアラの身体へと流れ込んで行く。熱き魂はソアラにエネルギーを与え、彼女の脈拍が急激に持ち直していった。
「戻った___」
「みつけた___」
発見しづらい場所に別の腫瘍を発見する。フローラは平静を取り戻して、とにかく迅速に、そして正確にメスを振るい続けた。
やがて___
「リヴァイバ!」
リヴリア以上のポテンシャルを秘めた回復呪文は、一気にソアラの胸を閉じていく。これが普通の医師にはあり得ない、傷跡さえ残さない完璧な縫合術であった。
「終わったわよ、百鬼。」
フローラはマスクを外して、汗だくの顔で微笑んだ。
「ソアラは___?」
「じき意識が戻るでしょう。手術は成功よ。」
それを聞いた百鬼はとにかくあふれ出る涙を止められなかった。恥ずかしいことなど何一つあるものか、こんなに嬉しいんだ。泣いて何が悪い!
「お疲れさん。」
手術室から出てきたフローラをサザビーが出迎えた。
「その顔は成功か?」
「勿論。」
マスクとキャップをサザビーに手渡すと、彼女はまとめ上げた髪のピンを外し、血の付いた手術服のままで、待合室のソファに仰向けに倒れ込んだ。そして緊張の糸が切れたせいか、気を失うように目を閉じて眠ってしまった。
「いや、大した人だよ___この若さであの腕だからね___」
遅れて出てきたエストラダも、とにかく驚くばかり。感嘆の面持ちでサザビーに語りだした。
「彼女はもしかすると、時世に名を残す大医学者になるかも知れないな___」
ソファに眠るフローラは微笑んでいるようだった。一仕事終えた満足感もさることながら、ソアラを救えたという事実が嬉しくてたまらないのだろう。
(それにしても今回のお話、いいんでしょうか?何せ医学知識はブラックジャックだけなので。えへっ。見逃してね。)
前へ / 次へ