1 謎のミスティ

 「呼吸、心拍とも若干低下していますが、体温の低下を抑えれば命に別状はありません。」
 日が昇りはじめた浜辺。若い男性医師が、サザビーの呼吸と鼓動を確認し、彼の身体を毛布で何重にもくるんでいた。野次馬たちが集まって、クーザー一の病院の医師たちによる救命活動の様子を見守る。
 「こちらの女性も命に別状はありません。奇跡ですよ、外傷もほとんどありません。」
 一方ではゼルナスも同様の処置を受けている。二人とも顔色が酷く青く、唇は紫色で、意識もない。それでも命はあった。これは奇跡的だった。
 「こちらの方は呼吸が弱まっています___」
 もう一人の男性医師もまた、この場を仕切っている女性医師に報告をする。
 「私が蘇生を行います。あなたはあちらの搬送を手伝って。」
 「はいっ。」
 若い女性医師はライに迅速に人工呼吸を始める。素早く気道を確保し、唇を重ねて息を吹き込んでいく。
 「俺たちも手伝うぜ、テンペスト医院だろ?」
 漁師たちが意識のないサザビーとゼルナスの搬送に手を貸す。二人は担架で先に運ばれていった。
 「よし___」
 ライの呼吸が強さを増し、蘇生を確信した女性医師は担架の上に毛布を並べた。
 「手伝うぜ、ミスティ先生!」
 猟師たちがライの身体を担架に乗せ、毛布を被せる。奇跡としかいいようがないが、この時の衝撃で一瞬だけ確かにライの意識が戻った。
 「___?」
 彼の視界には女性医師、ミスティの姿があった。そして彼女の容姿はライに強い覚醒をもたらした。
 「フローラ!?」
 「わっ!」
 ライは飛び起きるように上半身を起こし、叫んだ。突然のことに漁師たちも仰天する。
 「う___」
 だが体中の痛みと、意識の喪失感で体を起こしていられない。すぐにぱたりと担架の上へ倒れてしまった。
 「な、なんなんだこいつは___」
 「フローラ___」
 ライはまたぼんやりと目を開けて、ミスティを見つめた。
 「なに言ってんだい、この方はテンペスト医院のミスティ先生だぜ。」
 「え?そんな___僕が見間違えるはずは___」
 「私はミスティ・リジェート。どうかお気を確かに。さあ、運んでください。」
 確かに彼女はライを見ても特別な反応は示さない。むしろよそよそしく、不可思議なことを言いだしたライに困惑しているようだった。
 「___」
 ライはただ黙って彼女の姿を見つめ続けた。今になって強烈な身震いが身体に走る。とてつもなく寒かった。
 「これを食べて下さいな。滋養の効果がある薬膳を使用したスープです。体が温まりますわ。」
 テンペスト医院はクーザー一の病院。三階建ての白い建物、その一室に並んだ三つのベッド、窓際からゼルナス、サザビー、ライと並んでいた。清潔感で溢れた病室に、ミスティ女医がスープを運んできた。
 「何かあったらおっしゃってください。まずはゆっくりと身体を休めることですよ。」
 同じ病室の三人。サザビーとライはミスティの様子を観察し、ゼルナスはぼんやりと外の景色を見ていた。
 「確かにフローラだな。」
 ミスティが病室を後にするや否やサザビーが言った。
 「でも本人はミスティだって言うんだ___」
 「そう、フローラだったらそんなことはしないよな。」
 サザビーはスープを口にして一つ息を付いた。ホッとする暖かさ、味もいい。
 「フローラだよ。絶対。あちちっ!」
 「落ち着いて食えよバカ。」
 寒気の残るところで舌を火傷したライ。
 「他人のそら似か___世の中には二三人自分にそっくりな人間がいると言うからな。」
 「でも見た目も声も、髪の長さだって同じ風なんだよ?」
 「確かに俺もフローラだと思いたいが___」
 「僕は別人だなんて思いたくない。」
 「おまえは特にか?」
 「はぁ?なんで?」
 相変わらず鈍い奴め。と、サザビーは思った。
 「まあいい、あまりこういうことはしたくないが、あとで彼女に直接聞いてみよう。今は自分たちの療養が第一だ。」
 「ゼルナス、スープが冷めちゃうよ。」
 先程からゼルナスはスープを口にしようとしない。らしくない、疲労と憔悴の色濃い瞳でただぼんやりと外を見ている。ライの言葉にもまるで応えなかった。
 「ゼルナス、ショックなのは分かるが、今は自分の体を大事にしろ。」
 サザビーが忠告するように言い聞かすと、ゼルナスは外から内へと視線を移した。作り笑顔を見せようとしても頬が硬直して動かない。匙でスープを掬うと、その小さな波紋が彼女に潮の流れを思い起こさせる。それは、悲しい波紋だった。
 「ショックなんて___」
 蚊の鳴くような小さな声で彼女は呟いた。クーザーに辿り着いて、病院に運ばれて、漸く絞り出した最初の言葉だった。
 「たいしたことないさ___たいした___こと___」
 匙を握る手が震え、スープが滴った。ただ彼女は俯いて、液面を凝視し、やがて目を閉じてしまう。必死に歯を食いしばり、一度髪を掻き上げて横顔を隠し、ライとサザビーの視線を遮った。肩は小さく震え続けていた。
 「ゼ___」
 声を掛けようとしたライをサザビーが制した。
 「暖まりました?」
 やがてミスティが食器を片づけにやってきた。長い黒髪を後頭部で束ねてこそいるが、やはりどこをとってもフローラに瓜二つである。
 「ああ、とても美味しかったよ。フローラ。」
 だから敢えてサザビーはカマを掛けてみた。しかしミスティは、不愉快な表情になる。明らかに嫌悪を見せていた。
 「なぜ___」
 食器を片づける手を一瞬だけ止める。
 「何故その名でお呼びになられるのです?私はミスティ。ミスティ・リジェートという名があるのに、フローラなんて聞いたこともないのに___テンペスト先生に初めてお会いしたときも、先生はその名で私を呼んだのですよ。誰なんですか?フローラって。」
 「テンペスト___?」
 サザビーが意外な名前に反応し、身を乗り出した。
 「テンペストって___アーロン・リー・テンペストか?」
 「そうです。この医院の院長でしたわ。」
 「でした?」
 ミスティは寂しそうな顔になる。ライはアレックスとソアラの死の悲しみに苛まれた、あのときのフローラの顔を思い起こす。
 「亡くなられたんです。一週間ほど前に。それからを私が院長を代理しています。」
 「例の___研究中に謝って吸入した薬品の影響か?」
 「?あなたは先生のお知り合い___?」
 「以前世話になった。彼は何しろ世界一の名医だからな。だが新薬の開発作業中に事故から危険薬物を吸入し、神経系に障害を負った。腹に腫瘍ができた疑いもあると言っていた。」
 サザビーがテンペストのことに詳しいのは当然のこと。テンペストはポポトルでも数少ないギャロップのやり方を否とする人種。いわばソアラやフローラと同思想の人物だった。当然サザビーとも馬が合う。実際、テンペストは数ヶ月前にポポトルから亡命し、それを手引きしたのはサザビーであった。
 「そうです___それが引き金で___」
 ミスティはハッとして、自重するように口を手で隠した。
 「こんなことは皆さんとお話しすることではありませんわ。」
 「いや、俺たちは君を他人とは思っていない。」
 「私がフローラという人に似ているから?勝手な妄想です。やめて下さい。」
 ミスティの語気が少し強くなる。
 「ならミスティさん。失礼を承知で伺うが、あなたは数ヶ月前はどこで何を?」
 サザビーの中には一つの仮説がある。この質問はそれに基づいてのものだった。
 「___失礼します。あまりお話になられるとお体に触りますよ。」
 だがミスティは腹に据えかねた様子でサザビーを無視し、それでも丁寧にお辞儀をして病室を出ていった。
 「帰っちゃったよ。」
 ライは不満げに口を尖らせた。
 「あれでいいんだ、フローラという存在に悩んでくれれば。」
 「記憶喪失と言うこと___?」
 久しぶりにゼルナスが喋った。落ち着きを取り戻しつつあるようだ。
 「記憶喪失?」
 「過去の記憶を失うということさ。部分的に忘れることもあれば、自分の名前まですっかり忘れることもある。原因は色々あるが、概ね頭部への物理的な衝撃、もしくは精神的な強い衝撃によって起こるそうだ。ヘブンズドアで俺たちが散り散りになったとき、あの衝撃は強烈だった。現に俺は暫く頭痛に悩まされ、おまえは十日近く目覚めなかった。」
 「それが原因で?」
 ライはサザビーの仮説に納得したように頷いている。
 「だったらミスティという名前はなに?彼女はミスティ・リジェートにかなりの自信を持っているみたいだけど?」
 「そこだ。それがわからん。」
 肝心なところが足りないサザビーの仮説に呆れた様子でゼルナスは溜息を付いた。
 「テンペストって人が名付けたんじゃないの?」
 「違うな。テンペストは彼女をフローラって呼び、彼女は自分でミスティと答えたんだ。」
 サザビーは顎に手を当てる。
 「ただ気になるのは___テンペストが追求したのかどうかだな。」
 「___やっぱりそっくりさんじゃないの?」
 ゼルナスは少し言葉に詰まってから言った。正直なところ、彼女にとってはミスティでもフローラでも関係ないのだろう。
 「確証が欲しいな。フローラの縁の品でも彼女が持っていれば確実なんだが___もしそれでも駄目だったら、諦めるしかないかもしれないぜ。」
 サザビーに言われて悩みはじめるライ。フローラとの出来事を思い返していく。
 「そのフローラっていう子は医者なの?ミスティは院長としてもやっていけているみたいだけど。」
 「フローラはテンペストの直弟子だ。しかも弟子たちの中でも最高級の技術と知識を持っていた。開業医としても十分に通用するほどにな。」
 「そう___偶然って重なるものなんだ。」
 「ここまでは重ならねえよ、偶然は。」
 ゼルナスはサザビーから視線を逸らし、また外を眺めはじめた。
 「水のリング!」
 ライが手を叩いて声を上げた。
 「フローラなら水のリングを持っているはずだよ!」
 「なるほど、確かにあれはあいつにとっては必要不可欠なものだ。今のところ、手がかりになりそうなのはそれだけだな。」
 「なら早速!」
 ライは笑顔になってベッドから飛び出そうとする。
 「バカ、今は退院するのが先だろ。」
 「あ、そうか。」




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