2 血の海の魔物
「船とは言うけどさぁ。」
ライは先程からずっと疑問に思っていた。
「水がないじゃん。」
シーホークのアジト。巨大な洞窟を元に作られており、彼らの船「ブラックホーク」はアジトの中心部たる空洞の中央に鎮座している。しかし、そこに水はない。ごつごつした、いかにも固そうな岩石が露出しているだけ。シーホークはまるで木馬のように大地に居座っているのだ。
「水はいらないのさ。それがあたしたち自慢の船、ブラックホークさ。船の横っぺたを見てごらんよ。」
ブラックホークは漆黒の塗装が目を引く雄大な船だ。船首には女神像が配され、側面には無数の大砲を完備する。ただ興味深いのがマストがなく、かわりに煙突があるところ、そして船の両側についている巨大な車輪である。車輪はいくつもの金属板を組み合わせて作られているようで、太く巨大で、歯車のように円周が凹凸になっている。
「まさか。」
「そう、そのまさか!さあ、出航だ!車を回せ!」
「アイアイサー!」
豪快な汽笛と共に機械音が洞窟内を駆けめぐる。ブラックホークが震動を始めると、煙突が黒煙を吹き上げた。洞窟内に特殊な気流があるようで、煙は天井の横穴へと吸い込まれていった。
「目指すはクーザー!」
ゼルナスの気勢とは裏腹に___
「遅いね。」
「うっさい。あんたの思考回路と同じよ。」
「ああ、煙草はうめえ。」
ブラックホークは亀の歩みの如きスピードで、洞窟の出口に向かって進み始めた。
洞窟の出口は街からやや東に離れた岸壁に大きく開いている。海水のある場所にたどり着くまでおおよそ三十分。漸くブラックホークはその加速度を増していく。推進力さえも、この側面の車輪が賄っているのだ。
「それにしてもこんなのどうやって作ったの?海賊さんたちが作ったわけじゃないんだよね?」
「あたぼうよ兄ちゃん。こいつはジャンルカ・パガニンって旦那の作品さ。」
アジトに留守番を数人残し、ほとんどの海賊たちがこの大航海に連れ立っている。
「パガニン?」
「おうよ、察しがいいな兄ちゃん。ジャンルカ・パガニンはあのフランチェスコ・パガニンの孫だぜ!」
海賊は大きな体でライの肩に手を掛けた。
「なあゼルナス、おまえどうして海賊になったんだ?」
海の風が煙草の煙を荒っぽく掻き乱していく。船首に立って気持ちよさそうに陽光を浴びるゼルナスの側に経ち、サザビーは尋ねた。
「なんとなくさ。あたしは生きるために海賊になった。」
ゼルナスはサザビーの方を振り返って、甲板の柵によりかかる。核心は語らない。彼女は持ち前の大雑把ではぐらかしているようだった。
「それだけでキャプテンになれるもんかよ。おまえは目的があってシーホークのキャプテンにまで上り詰めたんじゃないのか?」
「頭が女の方が、都合が良いことだってある。ある意味、義賊のシンボルって所かな?」
風が彼女の髪を靡かせる。茶色い髪が風で大きく広がると、それは黒へのグラデーションとなって色鮮やかにサザビーの目を刺激した。
「あー、それにしても気分がいい!ほら見てご覧よ街の方を、出航する船を見つけて船乗りたちが騒いでるよ。」
ゼルナスには日の光が、そして海の大きさが、鮮やかさがよく似合う。彼女の微笑みにサザビーは心を惹かれる感触があった。
さて時は流れ___マールオーロを発った翌日のこと。
「穏やかなもんじゃねえの。」
今日は天気がいい。雲一つない青空の下、熱を存分に取り込んだブラックホークが進む。甲板で広大な水面を眺めるサザビーも退屈気味だった。
「ん?」
両弦についた車輪が徐々にその回転数を落としていく。煙突から白い煙が上がると機械音が小さくなっていった。
「おいゼルナス!車輪が止まっちまったぞ!」
「メンテナンスだってさ。」
船室の方からライがやってきて答えた。
「意外と手間がかかるもんだな。」
サザビーは煙草を取りだした。
「ねえサザビー。」
「ん?」
「ソアラが死んだことは前に教えただろ?」
ライにしては珍しく重い話だ。煙草片手に聞くには丁度良い。
「ああ、フュミレイ・リドンにやられたんだったよな。」
「でもそれだけじゃないんだ。まともだったらソアラはやられはしなかった。」
「どういうことだ?」
サザビーは海を眺めるのをやめて、ライの方に向き直った。
「ソアラの病気の話は知ってる?」
「病気?ああ、例の肺病か。テンペストから聞いた。」
「それが再発していたらしいんだ。僕もフローラから聞いたんだけど___肺の病気で、症状が酷くなると息苦しくなって、発作のように突然酷く咳き込んで、吐血もあるって___」
サザビーにも彼が何故急にこんな話を始めたのか、漸く分かった。昨日のあのナターシャの話だろう。
「似ているな、ナターシャ様に。それで思い出したってわけか。」
ライは頷いた。
「だからどうだって訳じゃないんだけど、なんだか気になってさ。」
「同じ病気ではないと思うが、どちらにせよあいつもナターシャ様と同じ、いやそれ以上に悲しい女だったな。」
サザビーはポポトル時代にソアラが受けていた仕打ちを思い返した。元々ギャロップと対立的だったこともあり、嫌がらせは受けていたようだったが、反乱に失敗して捕らえられた後はそれはもう酷いものだった。ポポトル本部の一角で、あの気丈な女が堪えきれずに上げた悲鳴は、サザビーのいる別塔にまで聞こえてきた。それでも生きることを諦めなかったあいつの精神力には感服したものだった。
「ん?」
嫌悪されるべき記憶を消そうと思い、また海を眺め見たサザビー。船は慣性と波でまだ緩やかに前進している。しかしその前進を止めそうな緩い向かい風が吹き始めた。その瞬間、奇妙な匂いがサザビーの鼻を擽った。
「臭うな___」
「えー!僕じゃないよ!」
「違うよバカ。潮の匂いの中に別の匂いが混ざっているだろ?」
「___?」
ライは顎を上げてしきりに匂いを嗅いでみる。
「生魚の匂い。」
「あー、惜しい。」
ライは個人的にはぼけたつもりだったらしい。サザビーの浅い反応に少しがっかりしている。天然ボケが狙うとろくな事にならない良い例だ。
「よく嗅いでみろ。これは死体の匂いだ。」
「死体?」
「近づいて来るぞ。」
徐々に匂いが濃くなる。確かに死体の匂い。血と、内臓と、腐乱臭。実に気分を害する匂い。その源の側へと船はゆっくり進み、そしてすぐ横にとまった。
「酷いな___」
そこに浮かんでいたのは恐らく破壊された船の残骸、そして数人の船員の骸。水を吸って醜く膨らみ、色も変わってしまっている。その情景はまさに凄惨だった。
「なあ、ちょっとゼルナスを呼んできてくれるか?」
サザビーは甲板をうろついていた海賊を呼び止めていった。
「キャプテンかい?何があったんだ?って、うわこいつはひでえな。」
ゼルナスはすぐに甲板へ上がってきた。
「この辺りは深い海だ。岩礁もない。」
彼女は船の縁から身を乗り出して惨劇の澱を観察していた。裾を引き破ったような短いズボン、弾けんばかりの太股が印象的。
「なるほどなぁ。」
サザビーは観察に夢中で無防備なゼルナスの太股を撫で回していた。
バギッ!!
「落としてやろうか!?海に落としてやろうか!?」
「ひーっ!」
サザビーを船の縁に追いやり、背中を足で押しまくるゼルナス。
「さて___」
気を取り直して。
「せんせー、鼻血が出ました〜。」
「勝手に出してろ!」
久しぶりのライのギャグ落ち。
___
「この海域には鮫がいる。死体が腐るまでプカプカ浮いていられるとは思えないね。」
「つまり___」
ゼルナスは身を乗り出すのをやめて、サザビーに鋭い眼差しを送った。変わり身の早い二人。
「鮫も恐れる何かがいるのさ。鮫は人を食うことはできても船までは壊せない。」
「そいつがここを通る船をことごとく破壊していたってわけか___」
「ジョブ!メンテナンスが終わるまで後どれくらいかかる!?」
ゼルナスは煙突の点検をしている髭面の海賊を名指しして尋ねた。
「あと三十分ってところですぜ!」
「途中で切り上げるのは!?」
「無茶だ!ピクリとも動かなくなったらどうするんです?それにこれからエンジンを再起動させたって結局かかる時間は似たようなもんですよ!」
技術者の言葉には素直に従うべき。ゼルナスは鼻先に一つ指を立て、思案した。
「分かった、メンテナンスは続けてくれ。」
「アイアイサー!」
「錨を降ろせ!」
「下ろしてますぜ!」
陽気な海賊が答えるがゼルナスは首を横に振った。
「もう一つだ!両弦とも下ろす!絶対に船を転覆させないためにな!」
重心が低く、マストがないだけブラックホークは安定感がある。それでも万全を期すゼルナスの手練は見事だった。
「この海域には噂の化け物が出る!手の空いているものは武器を取れ!砲座、いつでも撃つ用意をしておくんだよ!」
若いとはいえ彼女の指導力はかなりのもの。素早く、そして大きな声で、身振り手振りを交えて指示を飛ばしていく。だてに海賊の頭はやっていない。
「あたしたちは逃げたりしない!化け物を迎え撃つ!返り討ちにしてやるんだ!いいな!」
「アイアイサー!!」
海賊たちは空に拳を突き上げて答えた。
「なるほど、大したお頭様だ。」
サザビーは煙草を海に投げ入れた。
「ライ、俺たちも戦いの支度だ。腕はいけそうか?」
「利き腕じゃないけど、右は充分に動かせる。何とかなるよ。」
ライは両腕を固めていた包帯を解きながら答えた。
「よし。」
先程まで晴れ渡り雲一つなかった空の様子が急に怪しくなっていく。邪悪の嫌忌が雲を呼んでいるのだろうか?
(ここを突破しなければクーザーには戻れない___!)
ゼルナスは腰のナイフに手を掛け、グッと一つ握りしめる。戦いの予感に緊張が走るが、彼女の胸の内には固い決意があった。
数分後。背に剣をたずさえたライと、長い槍を手にしたサザビーが甲板へと戻ってきた頃。
「風が止まった。」
海上の無風をゼルナスが感じた。それが合図だった。
「キャプテン!前から大波だ!」
操舵師が大声を張り上げた。
「!」
突如、ブラックホークの前方から一際高い波が迫ってきた。
「でかい!甲板まで届きますぜ!」
「みんな掴まれ!絶対に流されるな!」
ゼルナスはサザビーとライにそう怒鳴りつけた。
「来る!」
波は船を前に更に大きく立ち上り、船を包み込むように突っ込んできた。
「!!」
波が過ぎ去るまではほんの一瞬だったが、明らかにただの波ではない。
「くっ!」
ゼルナスは太股を押さえて片膝をついた。水気を帯びた肌を滑るように血が滴り落ちる。 「ゼルナス!」
サザビーの腕にも小さな切り傷があった。鋭利な刃物を掠らせたような、澱みのない切り口である。
「大したことはない!それより今の波___」
「うおお!」
血飛沫が舞った。海賊の一人が不意に肩を切り裂かれたのだ。
「ギシャシャシャ!」
「化け物か!」
襲われた海賊の側には、人型の何かが立っていた。身体は甲殻のような煌めく鱗で覆われ、目は顔の側面により、口は尖っている。いくつかのひれが背や首筋などにつき、両手足には水掻き。
「マーマン!?こんなのがいたのか!?」
今までの幾度となく海に出てきたが、こんな人外の如き化け物に遭遇したのは初めてのことだった。さしもの女傑も面食らって警戒がおろそかになる。
「ギヒャ!」
「!」
敵は単数ではない!気づいたときには彼女の背後にもマーマンはいた。
「この!」
マーマンの振り上げた手、その指先に鋭い爪が見えた。応戦しなければ!ゼルナスは腰のナイフを抜いた。
「くっ!」
しかし足の痛みが邪魔をする。マーマンは鋭い爪を振り下ろした。
「ギヒャッ!」
「気をつけろよゼルナス、こいつらは何せ加減をしらねえ!」
二人の間に素早く割り込んだサザビーは、槍の柄でマーマンの爪を手首から止めていた。そして隙を見せるよりも素早く、槍を翻してマーマンの腹を一突きした。
「そう言うこと!向こうはこっちを仕留めるつもりできているからね!」
一方ではライが手負いの海賊を庇って、別のマーマンに刃を向けている。
「こいつら___」
ゼルナスはまるで異形との対峙になれているような二人に不思議を感じた。
「ギシャギシャッ!!」
「うおお!ブラックホークを守れ!」
マーマンは一匹や二匹ではない。先程の波に乗って甲板の至る所に侵入していた。
「ゼルナス!女にゃ酷だ!船室に引っ込んでな!」
突如戦場と化した船上の有様に、慄然としているように見えたゼルナス。サザビーは飛びかかってきたマーマンを、槍で横凪に牽制しながら言った。
「酷?冗談じゃない___」
だが彼女は決して足が竦んでいたわけではない。
ビリビリ!
シャツの端を破いて作ったリボン。戦いには邪魔であろう髪を彼女はきつく縛り上げていた。足にはこれまたシャツで作った包帯が巻かれていた。
「ほー、ええながめじゃ。」
臍の露出したゼルナスの姿にサザビー浮かれ気味。
「ギヒャッ!」
「うわっと!」
「なによそ見してたんだよ!あ、ゼルナス!」
剣劇を縫ってきたマーマンがゼルナスの前へと飛び出してきた。
「やばい!逃げろゼルナス!」
「逃げる?何であたしが?」
サザビーの忠告に嘲笑を浮かべるゼルナス。そしてナイフを抜いた。
「おい!相手は人間じゃねえんだぞ!女だろうが手加減無しだ!」
「そう___女だろうが関係はない!それが戦場だろ!?」
「ゲヒャアアッ!」
ゼルナスに狙いを付けたマーマンが飛びかかってくる。
「邪魔だこの!」
ゼルナスに加勢しなければ!サザビーは目前のマーマンの腹を槍の柄で突き、すぐさま翻してマーマンの口元目がけて一気に槍を突き刺した。
「ギヒャャ!」
マーマンは奇声を上げて手を広げ、ゼルナスに襲い掛かる。
「___!」
ゼルナスはただ身構えているだけ。
「危ない!」
ライが叫ぶ。しかし彼らの心配はあっさりと杞憂に終わった。
「ゲヒャ!」
マーマンはゼルナスに向かって、横から引っ掻くように手を振るった。だがゼルナスは極めて冷静に、そして流れるように、ナイフを逆手に、そして両手で構えた。
ズガシュ!!
鋭い白銀のナイフはこともあろうかマーマンの掌を喰らっていた。爪の一撃、それに込められた力をそのまま破壊力に変える。ゼルナスが横に構えたナイフは、マーマンの掌を簡単にぶち抜いていた。そして特筆すべきはその刃の向き。刃は、ゼルナスの顔の方、すなわちマーマンの身体から反対を向いていた。
「さっさときえな!」
ゼルナスはマーマンの胸板に強烈な前蹴りを喰らわせる。その勢いで、刃は掌を指先へと切り進み、抜け出した。そして彼女は身を屈め、激痛に悶えるマーマンの懐に素早く侵入する。
「ギヒャアアッ!!」
そしてマーマンの腹を切り裂いてみせた。
「強い___」
ライは思わずそうこぼし、サザビーも口笛を吹いた。
「当たり前だぜ!俺たちのキャプテンは伊達じゃねえ!」
素早い身のこなし。そして非力を感じさせない力の流用。彼女の戦いは実に理知的、そして戦場でも取り乱さない冷静さも持っている。
「油断はするな!こいつらで船を沈められるとは思えない!まだ船を沈めた大物がいるはずだ!」
ゼルナスは海賊たちを鼓舞する。
「!?」
だが不意な気配を感じて振り返った。
シュバババハ!!
「う!?あああっ!」
突然強烈な水圧の砲弾が彼女の背中を襲った。吹っ飛ばされた彼女は甲板に激しく身体を打ち付ける。
「ゼルナス!」
マーマンを振り切ってサザビーはすぐさまゼルナスの側に駆け寄った。彼女の背には魚の鱗のようなものが幾つも突き刺さり、血がにじみ出していた。
「な、何だあの女は!」
船首に一人の女が立って、いや浮遊していた。いや、確かに女性を象っているが、実際女性ではないだろう。その人型は、全身が水。水が中空で形を作り、女のような姿で揺らめいているのだ。髪が長く、彫刻のような、無味な顔で。
「精霊の類___こいつが親玉か!」
スウウウ___
水の女はスッと手を掲げる。すぐに彼女の背後で巨大な波が立ち上った。
「もう一発か!みんな掴まれ!」
波は甲板を駆け抜けていく。強烈な水圧、そして波に織り交ぜられた鱗がカッターのように船を、乗組員を痛めつける。多くの船がこの波に煽られ転覆し、海中に投げ出された乗組員たちはマーマンの餌食になったことだろう。
「!」
波が過ぎ去ると、ゼルナスを抱えるサザビーの目前に、水の女がいた。片手を振りかざして。
「やば!」
サザビーはゼルナスごと必死に横っ飛びし、空を切った水の手刀は、二人が背にしていた船室への扉を真っ二つに切り裂いた。
「あ、あぶねぇ___」
「どこさわってんのよ!!」
ゼルナスの上に重なって倒れたサザビーは、どさくさに紛れて彼女の胸をまさぐっていた。鉄拳を喰らったのは言うまでもない。
「うおおっ!?またでてきやがった!」
「このっ!」
更に増えたマーマンの相手でライと海賊は手一杯。水の女は仕留め損ねた獲物を捕らえようとサザビーとゼルナスに無味な顔を向ける。
「どうやら狙いは決まってるみたいだな___」
「あんたと一緒に相手するっていうのは大いに不満だけどね___」
シャアア!
「飛べ!」
水の女は二人に手を向け、その五本の指先から強烈な水圧の弾丸を放った。二人に交わされた弾丸は、甲板の板を軽々と打ち抜いた。
「うひー、ありゃ鉛弾顔負けの威力だな。」
「そんなこと言ってる場合か!」
ゼルナスは立て続けに放たれる水圧銃を回避しながら、隙をついて水の女に急接近した。
「もらった!」
ゼルナスは水の女の胸元に渾身の力を込めて斬りつけた。停滞している水を切る感覚というのは手応えに欠ける。しかし水の女は胸元で真っ二つに裂け、水の飛沫がゼルナスを濡らした。
「やった!」
「いやまだだ!」
サザビーがそう言った瞬間、水の女の身体の切片で水流が広がり、たちまち繋がりあって元の姿に戻ってしまう。
「なっ!」
水の女の胸元から水の塊が大きく広がると、ゼルナスの頭部を包み込んだ。突如水中にたたき落とされたような息苦した。吃驚して開いていた口から一挙に大量の水が流れ込み、口から押し出されるように泡が吹き出る。
「ゼルナス!」
サザビーは水の女の頭部を槍で貫き、すぐさまそのまま力ずくで槍を叩き下ろした。水の女は細切れになって弾け飛び、ゼルナスを苦しめていた水泡も水風船が割れたように弾けて消えた。
「がっ___げほっげほっ!!」
ゼルナスはその場に崩れ落ちて噎び、大量の水を苦しそうに吐き出した。
「大丈夫か?」
「___う___しろ___!」
「!」
細切れになったはずの水の女は簡単に再生していた。それどころかサザビーの顔面に向けて手を差し伸べている。その指先から飛沫が飛び散り始めていた。
「くるか!」
五つの水圧弾がサザビーを襲う。避けることは決して不可能ではなかったが、それではゼルナスが餌食になるだろう。
「くくっ!」
右肩から左肩へ。胸の筋肉をえぐり取るように、水の塊がサザビーの身体にめり込んだ。弾丸のように切り込んで貫くのではない。水圧と高速の水流で肉を掘り進む感覚。致命傷に達する深さではないが、この一撃は効いた。
「がはっ!」
「っ!」
サザビーはすぐ後ろにいたゼルナスを巻き込んで吹っ飛んだ。船室側、積み荷の箱に激突する。
「すまねえゼルナス___」
激突の衝撃を強く受けたのはむしろゼルナスの方。サザビーは胸を血で真っ赤に染めながらも彼女を気遣った。
「お互い様だよ___」
水の女は揺らめきながら、二人に近づいてくる。二人は折り重なったまま水の女を睨み付けた。武器もどこかへ飛ばされてしまった。
「どうするの?」
「どうするって言われてもなぁ___」
水の女はサザビーの血を浴びたためか、少し赤みがかって見えた。そのおかげで水の女の容姿がよりはっきりと浮かび上がる。こと、女のボディラインにはうるさいサザビーが、あることに気が付いた。
「心なしか縮んだ気がしないか?」
「言われてみれば___」
確かにそうなのだ。二人は冷静になって観察を始める。女が片手を上げ、またも指先が飛沫を上げようとしていたのにだ。
「よろけた?」
そう見えた。水の女がふらついたように見えたのだ。そう言う動きだった。とにかく、二人に真っ直ぐ向かっては来なかった。少しだけよれた。
「違うわ、足下よ。あいつは浮いているようで浮いていない。」
そしてゼルナスが気が付く。
「二回の津波は甲板を濡らすためのもの。あいつは女の形をしていても結局は水そのもの___乾いたものの上には立ちたくないのよ。甲板の水たまりがあいつの命綱___だから___」
「なるほど___乗る価値のある賭けだ。」
二人は心の中でほくそ笑んだ。
バシュゥゥゥ!
水の女に大した駆け引きはない。二人の思惑が何であろうとお構いなしに、五つの水圧弾を放った。
バフッ!!
今までにない渇いた音。
「!」
水の女が明らかに怯んだ。
「効果あり___だな。」
サザビーが積み荷の箱から掴み上げた麻袋には五つの穴が空き、白い粉が塊になってこぼれ落ちた。
「調理用の小麦粉。これだけ有ればかなりの水を吸い取ってくれるぜ!」
サザビーは素早く立ち上がり、力任せに水の女に向かって麻袋を投げつけた。
「キュイイイイ!!」
悲鳴だろうか?水の女はきわどい音域で、笛のような音を発した。麻袋は小麦粉をまき散らしながら水の女に激突する。そして粉をかぶったその場所から、水の女の身体は失われる。彼女は悶えるように、徐々にその身体を小さくしていく。乾いた布に吸い込まれる水のように。
「ほら次々いくぜ!ゼルナス!」
「ああ!今までやられてきた船乗りたちの思いだ!受け取れ!」
麻袋の口を開き、二人は一気に水の女に向かってぶちまけた。甲高い断末魔の悲鳴を上げ、女は小麦粉の海に飲み込まれていった。
「サザビー!」
マーマンを片づけたライが慣れない右手で剣を持ち、駆け寄ってくる。
「こっちは片づいたぜ。」
「おまえら!首尾はどうだい!?」
「上々ですぜキャプテン!俺らにかかりゃああんな化け物ちょろいもんでさぁ!」
海賊の一人が意気揚々と答え、笑いが起こる。
「海の平和はあたしたちシーホークが取り戻した!勝ち鬨だ!」
「うおおおっ!」
ゼルナスの掛け声で、海賊たちが勝利の雄叫びを上げる。その時船に大きな震動が走った。煙突から煙が吹き上がる。
「どうやらメンテナンスも終わったらしいな___」
ゼルナスは小麦粉まみれになっていたナイフを拾い上げると、船首に向かって掲げた。
「さあ邪魔者は消えた!一気にクーザーに向かって突き進むよ!」
「アイアイサー!」
空を覆っていた雲が晴れてきた。差し込んできた眩しい陽光は、海賊たちの前途を暗示しているように見えた。
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