3 ラバンナ

 スクレイザは裏で糸を引いていた魔族に操られていた。そうサザビーは説明した。毒も、フローラが聞いた言葉も、全て魔族によって仕組まれたことで、スクレイザは呪術に掛かってそうしただけだったと語った。脅されてとしなかったのは、そんなことを言うと「スクレイザさんを僕たちで守ろう」とか言い出しそうな男がいたからである。それはリュキアにとってあまりにも酷だ。
 だが生まれもって誤魔化しの巧いサザビーは、スクレイザに対する誤解を解くことに成功した。反面で彼らを騙す罪悪感もあったし、何より均整に近づくために命を張ったフローラには申し訳がないが。
 「これ見に行こうよ。」
 芸術祭も後一日を残すのみ。多くの部門で優秀賞が決定し、いよいよとりを勤めるのは音楽部門である。
 「花形だって言うものね。」
 棕櫚の懸命な処置が功を奏し、フローラはすっかり回復していた。
 「皆さんお気楽ですねえ。均整は守れなくなってしまったんですよ。」
 「いいじゃん。せっかくなんだから芸術祭を楽しもうよ。」
 ライは棕櫚の背中を叩いて笑った。棕櫚はまだ仲間になって短いというのに、どうも立場が逆転している。
 「そうだな。どうせあの防護壁があっちゃ、魔族だって簡単には近づけない。こういうときに身体を休めようぜ。」
 サザビーもリラックスした様子で煙草を吸っていた。実はジャムニの頃から休みっぱなしだという話もある。
 「仕方ない、行きましょうか。」
 「やったね。」
 かくして四人はローレンディーニの自慢、世界最大のコンサートホール「ローレンディニ・コムレットホール」へと向かった。

 そのころ、コムレットホールの楽屋には緊張しきりのソアラがいた。
 「あ〜。あ〜、あ〜ぁ〜あ〜。あえいうえおあお〜。」
 発声練習さえまだぎこちない。それでもソアラはこの大舞台に立つ。他のメンバーは別室で楽器練習をしていて、ラバンナの楽屋には彼女一人だった。すでに着替えを終え、メイクも完璧。出場している女性のほとんどが優雅なドレスなのに対し、ソアラの衣装は派手で、活動的で、おへそも出てしまっていた。しかしこれがラバンナなのである。
 「ひー、緊張で喉が詰まりそう___」
 ソアラは部屋の片隅にある水瓶からカップに水を取り、口に含んだ。
 「___!」
 しかし身体が拒否した。嘔吐が押し寄せ、たまらず楽屋の絨毯に水を吐き出してしまった。
 緊張?いや、そんなことはない。同じような緊張を伴う瞬間がこれまでもあった。
 だとしたら___
 「ははは___嘘でしょ___?」
 ソアラは口元を拭い、心なく笑った。嘔吐の原因は自分が一番分かっている。というより、自分だから分かるのだ。他の徴候だってあるのだから多少は覚悟もしていた。
 「掃除しなきゃ。」
 雑巾を探して楽屋をうろつく。その間、彼女の手はそっと下腹部に当てられていた。

 丁度そのころ、コムレットホールの舞台ではついに芸術祭最大のイベント、音楽部門のコンクールが始まっていた。一組目は弦楽のカルテット。登録が遅かったラバンナの登場は終盤である。
 「今年もラバンナが出場するらしいよ。」
 「懲りないね、あの音楽じゃ北では認められないってのに。」
 コンクールも中盤にさしかかった頃、既に演奏を終えた若い音楽家が、人混みを避けてロビーで語らっていた。
 「退屈だなあ。俺たちどうせ二十位が精一杯だし。」
 「そうだよなあ。どうだ?いいとこのお嬢さんでも引っかけてみるか?」
 「お、みろよ、早速べっぴんさんだ。」
 二人は、売店からオペラグラスを買ってこちらに向かってくる人物に目を付け、近づいていった。
 「ねえきみ、そこのラウンジで紅茶でもいかが?」
 「僕たち、音楽家なんだ。」
 二人は人当たり良く、話しかけた。
 「俺、男ですから。」
 しかし語りかけられた張本人、棕櫚は体よく断って足早に去っていってしまった。二人はただ呆然とその後ろ姿を見送った。
 「はい、買ってきましたよ。」
 「ありがとう棕櫚くん。」
 フローラは棕櫚からオペラグラスを受け取った。
 「どうかした?」
 「いえ。」
 ナンパされたとは口が裂けても言えない棕櫚くん。
 「しっかし、これじゃあ見えやしねえなあ。」
 「音楽って聴くものだよ。」
 「それだけじゃねえだろ。」
 客席は超満員。皆は最後列での立ち見を強いられていた。サザビーはフローラからオペラグラスを受け取って舞台を覗き見た。丁度美人の声楽家の出番で、彼もノリノリである。
 「いまこの楽団だから___もう半分は終わっちゃってるわ。」
 フローラはプログラムを眺めて確認する。
 「もっと早く来れば良かったですね。」
 「あんまり早すぎても眠くなるぜ。」
 登場する楽団の多くが管弦楽団で、時には弦楽団。管楽団は少なく、むしろ声楽の方が多かった。
 そしてコンクールはつつがなく進み、終盤にさしかかる。
 「いよいよだな。」
 「うん。」
 舞台袖で満を持していたソアラ。隣にはドリンがいた。他のメンバーは楽器の調整に余念がない。
 「緊張してる?」
 「そりゃね。」
 ソアラは固い笑みを見せる。
 「俺も。初めてじゃないけど、ここは特別だ。」
 「___」
 ドリンは徐に、ソアラを抱きしめた。ソアラは突然のことに驚いたが、そうすると少し緊張がほぐれた。
 「ありがとう。でも衣装が乱れるわ。」
 「そうだな___」
 ドリンは残念そうな顔をしてソアラから離れた。
 「次は、四十番。ラバンナです。」
 前の組が退き、係員が舞台に立ってそう告げる。
 「いよいよか。」
 ソアラは覚悟を決めた。
 その時、客席の最後尾では。
 「ぐぅぅぅぅぅ___」
 柵に寄りかかってライが寝息を立てていた。
 「___ぁぁ、あと二組か。」
 サザビーも欠伸をして眠そうだ。
 「まったく___」
 二人を横目に見て、フローラはむくれる。
 「あっ、見て下さいフローラさん。」
 「え?」
 棕櫚が珍しくフローラの肩を叩いて、彼女を呼んだ。
 「舞台を見てください。」
 舞台に目を移したフローラは驚きを隠そうとはしなかった。
 「ソアラ___!」
 拍手に包まれて舞台袖から出てきた次の楽団。その中に着飾ったソアラがいた。紫色の髪を見れば一目瞭然だった。観客も彼女の色を見てざわめいている。
 「ソアラさんらしいですね。楽団に入ってこの街に来ていたとは___」
 棕櫚は楽しげに舞台を見ていた。
 「あ〜あ、ありゃかなり緊張してるぞ。」
 楽器のセッティングを手伝おうとして何もできないでいるソアラを見て、サザビーは笑った。すっかり眠気が消えたようだ。
 「ライ、ほら起きてライ。」
 「ふぇ___?」
 ライはフローラに揺さぶられて顔を上げた。
 「舞台を見てよ。」
 「え〜?」
 寝ぼけ眼で霞んだ舞台。しかし紫色の誰かさんのおかげで一気に目が覚めた。
 「ソアラ!!」
 相変わらず回りを見ない男だ。ライの大声は舞台の上のソアラにまで聞こえていた。
 「うわっ、みんな見に来てたんだ。」
 回りの客から睨まれて平謝りしている四人を見つけ、ソアラは微笑を浮かべた。
 (百鬼がいないなぁ、こういうの趣味じゃないのかな?)
 「おいソアラ!」
 「あ、はい。」
 団長に急かされて、ソアラは舞台の中央へと歩み出た。会場の静寂が際立ち、ザペルはリズムを計るようにコンガを打ち鳴らした。アップテンポなコンガのリズムに合わせてステップを取りながら、流れ始めたバンジョーの音色に心を解かす。まず先んじてドリンがプロローグを囁き、そしてソアラは大きな身振りと共に腹の底から声を弾き出した。
 それは決して上手な歌ではなかった。他の、歌うことで飯を食べている面々に比べれば、荒削りで、抑揚もできていない。ただそれでも、明るい声色を前面に押し出して、それに負けないほど小気味良いダンスを交えながら、とにかく歌うことを楽しんでいる姿は観客の共感を呼んだ。
 「楽しそうだな。」
 「ほんと。」
 サザビーとフローラも思わず笑顔になり、舞台をはね回るソアラを見ていた。ドリンと手を取り合い、時に見つめ合って掛け合いのように歌うソアラ。ラバンナ全員、笑顔を絶やさずに演奏は進む。いつの間にかリズムに引き込まれた客席で、拍手のビートが刻まれる。ソアラはリボンを解いて客席に向かって放り投げ、紫色の髪を煌めかせて踊った。それはまるで、異界の民を見るような華やかさで観衆の目に映った。
 演奏が終わると会場は大きな拍手喝采に包まれた。ラバンナの活気ある音楽は、冬の寒さも消し飛ばし、ソアラという彩りを加えて一挙に華やかさを増した。彼らに否定的な人々も思わず肩を揺らしてしまったほどに、南の音楽は人々の心を惹きつけていた。
 「いえぃ!」
 舞台袖に入るなりソアラを含めた団員たちは手を叩き合って喜んだ。誰それとなく抱き合い、頬をつけ会う。一つになって大仕事をやり終えた充足感が、ラバンナ全員の笑顔に満ち満ちていた。
 「大人気だね!楽屋に行ってみようか!」
 ライは高揚した様子で言った。
 「いやいや、今はメンバーと一緒にいたいだろ。明日の朝、あの楽団のキャラバンに迎えに行こうぜ。」
 「次の組が出てきましたよ。」
 こういう盛り上がりの後に残された演者というのは可哀想なものだ。そして実際可哀想な結果に終わった。
 長い審議の後、音楽部門の結果が発表され、ラバンナは第三位の好成績を上げた。これまで八位入賞が最高成績だったラバンナにとって、大躍進である。しかしこの評価には客席の一部からブーイングが起こったほどだった。ラバンナの優秀賞獲得を信じていた人々である。だが四年連続で優秀賞を獲得することとなったアメヤコフスキーの弦楽団もまた素晴らしかった。それは誰しもが認めるところだ。
 アメヤコフスキーがザペルと舞台上で握手を交わすパフォーマンスもあり、音楽部門は最高の盛り上がりを見せた。こうして芸術祭は大盛況のうちに幕を閉じたのである。

 「かんぱーい!」
 その夜、キャラバンに戻ったラバンナは、アメヤコフスキーの一団も交えて大祝賀会を始めていた。三位に入ったことで受け取った奨励金、その半分を酒につぎ込む大盤振る舞いである。
 「えー、ソアラはジュースかよ!」
 「ゴメン!あたし本当にお酒は駄目なのっ!」
 祝賀会はソアラのお別れ会でもあったが、キャラバンはしんみりすることもなく、いつまでも陽気な空気に包まれていた。しかし暫くするとすっかり飲み比べ大会に様相が変わり、ソアラは酒気に支配されたキャラバンから外へと逃れていた。
 「う〜、寒い〜。」
 ローレンディーニの夜は寒い。キャラバンの御者席に座っていたソアラは、馬鹿騒ぎの声を背中に聴いて震えていた。
 「ソアラ。」
 そんな彼女の背中にドリンが毛布を掛けてやる。
 「ドリン。」
 「隣いいか?」
 ドリンは悪意のない笑顔で尋ねた。ソアラは毛布を広げて彼を誘う。二人は隣り合って腰を下ろし、同じ毛布を肩から掛けた。
 「本当に行っちゃうのか?」
 「うん___残念だけどね。やらなきゃならないことがあるの。」
 「おまえ歌の才能あるよ、絶対に続けたほうがいい!」
 ドリンは膝元のソアラの手を取り、少し強く握った。彼はソアラの横顔に熱烈な視線を送るが、ソアラは振り向かなかった。
 「駄目よ、ここにはいられないわ。」
 「なぜ?」
 ソアラは目を閉じ、暫く逡巡してから答えた。
 「あたしの髪ね、染めているんじゃないの。もともとこういう色なのよ。」
 ドリンは閉口する。
 「驚いたね?何でだろうって思うでしょ?」
 ソアラは漸くドリンと目を合わせた。嘘をつけない彼の態度に、純粋さを感じた。
 「いや、素敵だよ。」
 「無理しないで。あたしはこの色の意味を探して旅をしている、そう言ったらいいかな。」
 ソアラは夜空を見上げた。
 「それだったら、ラバンナのキャラバンと一緒に旅をすればいいじゃないか___」
 「ラバンナは化け物と戦うことができないわ。」
 「え?」
 「そう、色々隠していたことは謝らなくちゃ。あたしは___こういうこともできるのよ。」
 ソアラは一念を込め、指先に小さな炎を灯した。己を照らす輝き、伝わる熱にドリンはただ目を白黒させた。
 「魔法使い___」
 ソアラは頷いた。
 「ゴメンね。もう仲間たちもローレンディーニに来ているわ。」
 ドリンは気落ちした様子で彼女から目をそらし、俯いた。握っていたソアラの手も放してしまった。ソアラは彼を慰めるようにして、優しく頭を撫でる。
 「___ソアラ!」
 だがドリンは思い詰めたように、突然ソアラの肩を掴むと、自分と向かい合わせた。ソアラは彼の一途な瞳に情熱を感じ、それは愛情だろうと察した。
 「俺、君が好きだ。」
 だからその告白にも冷静でいられた。それでも自然と頬は紅潮したが。
 「愛している。君と一緒にいられるならラバンナだって辞めてもいい___!」
 だがその一言でソアラの顔色が変わった。きつく眉を引き締め、まるで睨むような目つきで彼を見つめ返した。
 「あなたが辞めたら誰が歌うのよ。ラバンナはあなたを必要としているのよ。それを___あたしのために捨てるですって?」
 ソアラの迫力に圧倒されたドリンは、彼女の肩から手を離した。しかしすぐにまた触れ直す。
 「___なら、せめて答えを聞かせてくれ。」
 ソアラは小さな溜息を付いた。
 「ごめんなさい。」
 ドリンは沈黙し、ソアラには肩を介して、彼の手に込められた力が伝わった。
 「あなたを必要としているのはラバンナよ。私じゃない。」
 ドリンは俯いた。しかし勢い良く顔を上げると、そのまま強引にソアラを引き寄せ、唇を奪った。
 「んっ___!」
 ソアラはクッと目を閉じた。しかしすぐに緊張を解き、彼の思いを受け止めた。やがて唇が離れ、二人の白い吐息が混じり合った。
 「ごめん___二人だけの思い出が欲しかったんだ。」
 「いいのよ___おやすみ、ドリン。」
 ソアラは立ち上がり、少し静かになったキャラバンに戻っていった。ドリンは御者席に残り、夜空を見上げた。上を向いてもこぼれ落ちてくるものは押さえられない。やがて彼は毛布を頭から被り、肩を震わせていた。
 翌朝、キャラバンに皆が迎えにやってきて、ソアラはラバンナへ別れを告げた。




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