2 一瞬

 「私をモデルに?」
 「そうそう。モデルになって欲しいんだ。」
 人物画の登録者に一斉配布されたキャンバスを手に、ライはフローラを誘っていた。期限は五日。審査の結果発表は最終日だ。
 「まさかヌードじゃないよね?」
 「それはサザビーの分野。」
 「フフ、いいわ。上手に描いてね。」
 「まかせてちょっ!」
 ライは自信満々に胸を張った。自分が一番描いてみたいのは誰か?と考えたところ、フローラに行き着いた。それがモデルの選考理由である。
 この人物画などの絵画をはじめ、芸術祭の花形とも言える音楽、或いは演劇といった部門は佳境になってから執り行われる。当然最初の方に回されるのは趣味的な芸術だ。
 中日から二日後。サザビーの利き酒、棕櫚の生け花は同日に行われた。
 「ハハハッ。飲み過ぎで失格になっちった〜。」
 利き酒は酒を飲まずに口に含むだけで行うのがルール。久々の酒にすっかり浮かれ、そルールを無視して飲みまくったサザビーは、早々とテントに戻ってきた。
 「いやぁ、未知の草花を使ったことが原因で失格しちゃいました。」
 オリジナルをふんだんに取り入れてしまった棕櫚も、似たようなものである。
 「何だよー頼りないなぁ、これでもう僕とフローラだけじゃん。」
 ライは頬を膨らませて不平を言う。
 「おまえは最初から当てにしてな___げげっ!?」
 そんな彼の頭を小突きながら、キャンバスを覗き見たサザビーは驚愕して身じろぎしてしまった。キャンバスには実に生き生きとしたフローラの姿が描かれていたのだ。
 「う、巧いじゃねえかおまえ!」
 サザビーは正直ライを見直した。どんな奴にも一芸はあるものだと感心しきりだ。
 「本当に。素晴らしい出来ですね。何というか___技術も確かですが、ライさんならではの計れない部分もあります。」
 「誉められちゃった〜。」
 棕櫚の言葉が誉めていると言えるのかは分からない。
 「あれ?おまえこのフローラの肩のところ、これは何だ?」
 「あ〜、後ろに誰かいたような気がしたから。」
 フローラの顔からスーッと血の気が引いた。
 「嘘よね?嘘よね?誰もいなかったよね?」
 「え〜?いたような___」
 「嘘って言って___!」
 それがテントの隙間から見えた通行人の顔だったと判明するのは、暫くしてからのことである。

 さて、中日から六日が過ぎてライも絵画を提出し、次はいよいよ本命の出番である。
 「各組、十人中三人が二次予選へと進みます!また予選会では作法様式点は問わず、純粋に的の命中点で争われます。一人十本の矢を放ち、上位三名が合格です!また、同点の場合は脱落方式の同点決勝を行います。」
 床に張り巡らされた板は、外の寒気に当てられて氷のように冷え切っている。ソードルセイドの様式であるというこの木組の建物を、係員たちは道場と呼んだ。そして弓道を行うにあたり、フローラは和服と呼ばれるものに着替えていた。ソードルセイドの和の文化に起因するもので、紺色の袴と白い胴着に身を包み、長髪を束ねた凛々しい姿である。
 「それでは第一組、前へ!」
 腹に響くような太鼓の音がする。あれも見たことがないものだった。冷たい床は心地よい軋みを上げる。床の切れ目から砂地を挟んで遙か遠くに、円形の的。とにかくこの弓道というのはソードルセイド色に溢れており、フローラも本で学んでいたとはいえまだマナーに関しては未熟。少しでも早く、この雰囲気に慣れる必要があった。
 「頑張れフローラ!」
 会場の静寂を無視してライが声援を上げる。係員が彼を睨み、サザビーは慌ててライを黙らせた。第一組であるフローラは、張りつめた空気に挑むつもりで弓矢を手にした。
 (軽い___)
 注意すべきは矢の軽さだ。軍で使っていたのはボウガンがほとんどで、しかも矢は金属製、もしくは鏃が金属。しかしこの古式弓というのは弓の重さに比べ、木製の矢は想像以上に軽かった。
 (三本くらいで感覚を掴まないと___)
 作法も気にして取り組もう。フローラは形態の美しさを心懸けながら、太鼓の音にあわせて弓を引き、矢を構えた。

 「いや、何はともあれ一次予選突破おめでとう。」
 「でも危なかったわ。」
 フローラは棕櫚から布を受け取り、額の汗を拭った。緊張感からの火照りはあったが、汗はむしろ冷や汗に近かった。一本目は的に届かず、二本目は大きく外れる。それでも三本目から立て続けに三本を命中させた。フローラにこの競技の難しさを気付かせたのは六本目。既に刺さっていた矢に、放った矢が弾かれてしまったのである。しかしその後は落ち着いて四連続命中。見事、組三位で二次予選へと駒を進めた。
 そして___
 「最終選考会進出者を発表します。」
 三次予選を経て選ばれた十名。フローラもそのメンバーに残っていた。今からそれがたった三名に選抜される。
 「二十四番、スクレイザ・ビットフォールさん。」
 「はい。」
 黒髪に染めたリュキアも残っていた。
 「百四十番、吉岡彦六さん。」
 変わった名前だ、ソードルセイドの出身者だろう。
 「三百一番、フローラ・ハイラルドさん。以上が最終選考会進出者です。」
 フローラも決勝進出を果たす。三人の中にリュキアがいるとは知らずに。
 「やったなフローラ。二次、三次と外れ無しとは、さすがだぜ。」
 サザビーは彼女をもてはやして出迎え、自分の上着を手渡してやる。
 「あとは一時間後だね。」
 ライは彼女に手袋を渡す。何しろこの寒さに満ちた道場、大敵は身体の冷えだ。フローラの指には、慣れない弓を注意深く、力強く操ったことによる疲労が蓄積していた。
 「できるだけのことはやるわ。」
 「ああ。期待してるぜ。」
 「ねえ、決勝戦に二人が初出場っていうのは初めてなんだって。あのスクレイザさんって人、初出場らしいよ。」
 フローラの勝利を信じて、ライもサザビーもフローラをリラックスさせようと普段通りに接した。一方で棕櫚は、道場の一角に立つスクレイザの様子を、厳しい目つきで観察していた。
 (あいつ___気にしてるな、あたしのこと。ま、あたしはスクレイザでいればいい。)
 リュキアも彼の視線には気付いていた。しかし我慢すること、冷静でいることを覚えた彼女は、落ち着き払っていた。
 (それにしても、こんな所で勝負することになるとは___フフフ、むきになっちゃおうかな。とりあえず___一騎打ちじゃないとしらけるわね。)
 リュキアはいったん道場から姿を消したもう一人の選手、その後を追った。

 一時間の経過はあっという間だった。
 「頑張れよ。」
 「ええ。」
 フローラは上着を脱いで手袋を外し、一つ白い息を吐いた。一方でリュキアも黒髪を靡かせて道場へと進み出た。現れたのは二人だけだった。
 「三百一番、フローラ・ハイラルドです。」
 「二十四番、スクレイザ・ビットフォール。」
 二人は名乗り出て、係員から弓矢を受け取る。公平を期すために、職人の手によってまったく精巧に同一化された弓矢である。
 「吉岡彦六さん?いませんか?」
 もう一人の男性はまったく現れなかった。既に気絶させられて人気のない場所に放り込まれていた。殺さなかったのはリュキアなりの恩情か、それとも少しでも目立たないようにするためか。ただ彼の面立ちが、リュキアが好感を抱いたあの番兵によく似ていたことは、無関係ではないはずだ。
 「構いません、時間も守れないような人は失格です。始めましょう。」
 審査員席の老人が厳格に言った。そして太鼓と共に決勝戦が始まる。
 「両者前へ!」
 空気が張りつめる。フローラは研ぎ澄まされた空間の中で、全ての意識を弓矢に集中させた。スクレイザに何らかの疑念を持つなど、あり得ないことだった。
 「よろしく、良い勝負を。」
 「ええ。よろしくお願いします。」
 リュキアから差し出した手を、フローラはしっかりと握った。普通の握手だった。
 「決勝では、形態の美しさが審査の対象に加わります。それではよろしいですか?」
 二人の返事は揃った。
 「一本目用意!」
 フローラの心から全ての雑念が消える。後は集中を高め、矢の一本一本に魂を込める。それが自然と形態の美しさに変わるだろう。
 ダンッ!
 太鼓の音の後、二人はほぼ同時に矢を放った。両者ともに命中。
 (思った以上に指が冷えてしまっている___感覚が無くなったら負けだな。)
 予定よりも矢が内側に差し込んだことに、フローラは不満を感じていた。次の矢が入り込む隙間を作るために、できるだけ的の隅から隙間無く撃ち込んでいきたいところだ。
 決勝戦は静寂の中、進んだ。さすがのライも、ただ黙って成り行きを見つめるだけ。四本目までお互いにまったく失敗することなく、精密に矢を放つ。構えの形、矢を手にしてから放つまでの流れの保ち方、二人ともまったく同じ。最も基本的な流派の構えである。ただ違いがあるとすればその速度だ。リュキアはフローラに比べて構えまでが速い。しかしお互いに自分のリズムは崩さなかった。
 動きは五本目に起こった。
 「五本目!」
 呼吸の乱れもなく、二人は弦を引く。太鼓が鳴った。
 ダンッ!
 フローラの矢は軽快な音を立て、的に突き刺さった。しかしリュキアの矢は歪んだ音を立て、既に刺さっている矢に弾かれてしまった。
 「ちっ___」
 リュキアの舌打ち。しかし彼女に焦りはなかった。必勝の気持ちは変わらないし、せっかくの獲物をどうせだったら仕留めたいと思っていたから。
 「六本目!」
 係員の声。二人はまた変わらぬペースで構える。しかし太鼓の前に小さな変化をリュキアが作った。
 「均整。」
 フローラの視線が一瞬揺らいだ。太鼓の音の後、二人の矢は的に突き刺さる。だが、計算高く撃ち込んでいたフローラの矢が、酷く中途半端な位置に突き刺さってしまった。
 (いま___均整って聞こえたけど___)
 雑念が蔓延った。
 「七本目!」
 振り切らなければならない。フローラは平常心を取り戻したつもりだったが、構えまでの速度は少し早まっていた。
 「壊しちゃおうかな。」
 「!?」
 フローラが動いた。矢を放つ瞬間に、あり得ない首の緊張だった。
 「あっ!」
 ライが思わず声を上げ、その口を手で塞ぐ。フローラの矢は的を逸れていた。
 「八本目!」
 リズムは壊れた。今は矢を放つことに集中しなければならないのに、呼吸が定まらない。鼓動が激しく体に響き始める。変だった。熱くもないのに汗が浮き上がる。
 ザザッ!
 矢は的に届かず、砂を食う。指先が痺れて思うように動かない。これは心の動揺とは違うなにかだ。
 「どうしたんでしょう、様子がおかしい。」
 棕櫚が心配そうに呟いた。ライは不安を隠しきれずに、眉をへの字にしてフローラを見つめる。
 「九本目!」
 フローラは全てを振りほどき、構える。
 「これを壊したら最後よ。」
 矢は的を射る。フローラは額の汗を拭い、虚ろな目でリュキアを一瞥した。リュキアは彼女の精神力に驚く。
 「十本目!」
 先にリュキアが身構える。身体を傾けて肩で息をするフローラは、まるで病人のような重い動作で、それでも弦を引いた。
 ドンッ!
 最後の太鼓が鳴る。リュキアの矢は綺麗に的を射抜き、フローラの矢は失速してまた砂にめり込んだ。しかしコントロールのミスではなく、弦を引く力が足りなかったからだった。
 「結果を発表します。」
 弓矢を係員に返し、暫くそのままで待たされる。その間もフローラは、時折口元に手を当て、嗚咽を堪えているようだった。
 「勝者、スクレイザ・ビットフォール!」
 道場が拍手に包まれる。リュキアにとってはどうでも良いことだったが、祝福されて悪い心地はしなかった。
 「これで競技を終了します。礼!」
 礼をして、リュキアは颯爽とその場を離れた。これで均整を壊すのは時間の問題だ。一方のフローラは、辛そうに、身体を引きずるようにして皆の元へと戻ってきた。
 「どうした?大丈夫か?」
 「う___」
 サザビーが気遣いの言葉をかけた瞬間、彼女は呻き、そのまま彼の上に倒れ込んだ。
 「フローラ!?」
 身体に触れると酷く熱いことが分かった。突然のことに道場が騒がしさを増した。
 「酷い熱だ___」
 「フローラ!」
 ライが上擦った声で叫んだ。
 「サザビーさん、こちらへ。俺が診ます。」
 棕櫚はフローラを支えるように抱き、脈を取り、口元に耳を添えて吐息を調べる。
 「毒ですね。」
 そして素早くターバンから植物の種を取りだした。
 「毒?本当なのか___?」
 棕櫚は前歯で種を砕き、皮の水筒から水を少し口に含んだ。そしてそのままフローラに唇を重ね、種を飲み込ませる。咽頭の動きを確認して、彼は唇を放した。
 「すみません。一刻を争うものですから。」
 棕櫚は口を拭い、そう言った。
 「助かるの?」
 「助けます。ですが、どこか安静にできる場所、できれば宿のベッドをお借りしたい。」
 「誰かベッドありませんか!?」
 突然のことに混乱したのか、ライの呼びかけは的を射ていなかった。
 「それならすぐそこに一件ある!急いで運ぼう!」
 見物客の一人が、機転を効かせてありがたい答えを返した。
 「棕櫚、フローラを頼むぞ。俺はあいつを___」
 そう言ってサザビーは、道場奥を指さした。決勝後にスクレイザが消えた場所だ。
 「やはりそう思いますか。しかし深追いはしないで下さい、一人では危険です。」
 「わかってる。」
 「棕櫚!早く!」
 ライに急かされて、フローラをおぶった棕櫚は道場を後にする。一人残ったサザビーは、奥へと歩みを進めた。

 「う〜む___」
 スクレイザがいると言われてやってきたのは___
 「女子更衣室___」
 サザビーは横開きの引き戸の前で立ちつくしていた。
 (苦手じゃないけどなぁ___もちろん嫌いでもないし___でも間違ってたら逮捕されてしまうかもしれん。)
 伸びてきて煩わしくなった髪をくしゃくしゃにして、サザビーは考えた。
 「ま、実力行使と行くか。優しいだけが脳じゃないからな。」
 サザビーは心を決めて扉を開けた。
 「いっ!?」
 中ではスクレイザことリュキアが、ご機嫌に着替えをしている最中だった。サザビーの顔を目の当たりにし、さすがにぎょっとして下着姿を隠す。
 「おっと、声を上げるなよ、スクレイザちゃん。」
 サザビーは素早く剣を抜いてリュキアの鼻先に向けた。扉を閉じ、金属の錠前をかける。また油断をしてしまった自分にリュキアは腹を立てた。しかしここは乗り切らなければならない。ここでサザビーを殺すことは簡単だが、それではスクレイザでいられなくなる。ドームの中には入れなくなるだろう。
 もとよりこの男には、グレルカイムで虚仮にされた恨みがある。いっそここで騙し返してやるのだ。
 「な、なによあんた___確かフローラさんの連れの___」
 「下手な芝居はいい。フローラに何をした?」
 リュキアは怯えた顔を必死に作り、詰め寄る切っ先を恐れて仰け反った。
 「なんのことよ___」
 「毒はどこから盛った?言わないとためにならないぜ。」
 シュッ!リュキアの眼前を剣が掠める。前髪が幾らか落ち、さすがに彼女も冷や汗を浮かべた。
 「おまえはフローラのことも、俺たちのことも知っているんじゃないのか?」
 「しらないったら!」
 「手を下ろせ。」
 サザビーは非情になりきって、リュキアに命令した。頬を真っ赤にして、やむなくリュキアは手を下ろす。憎い男に、殺したい男に下着姿を曝すことになるとは思わなかった。
 「あっ!」
 「手を動かすな。」
 サザビーが上の下着、その前の部分を切り落とした。胸の谷間で真っ二つに裂かれた下着は、僅かに彼女を隠すだけとなる。リュキアは恥ずかしさで押し殺されそうになりながらも、必死に堪えた。無実のスクレイザであり続けた。サザビーは小さな溜息を付く。
 「おい。」
 「へ?」
 目を閉じて俯いてしまっていたリュキアをサザビーが呼んだ。顔を上げた彼女のすぐ目の前にはサザビーがいて、彼はいきなり唇を奪った。
 「___!」
 リュキアは衝撃で硬直した。自ら唇を奪うことはあった。でもそれは呪術のためで___奪われたのは初めてだった。嫌なはずなのに、なぜだか胸の内側が急に熱くなってきた。それは不思議な、感じたことのない瞬間だった。
 「___」
 サザビーはゆっくりと唇を放す。その腕はしっかりとリュキアの両腕を押さえ、二人の身体は酷く密着していた。リュキアは口惜しそうに、涙を一杯にためた目で彼を睨むばかりだった。
 「___おまえは人間か?」
 サザビーが囁くように尋ねる。
 「見れば分かるでしょ!」
 「魔族を知っている___?」
 「知らない!」
 「超龍神の命令だろ?」
 「違う!」
 サザビーはその返答を聞くと、それ以上の質問をやめた。
 「違うってのはどうかな___?」
 「なにが___」
 サザビーはリュキアの髪に顔を埋めていく。
 「違うっていうのは、超龍神を知っている奴の言葉じゃないか___?」
 「!」
 サザビーは再びリュキアと唇を重ねた。その際に手を離し、彼女の耳元の髪を掻き上げる。尖った耳の先端が顔を覗かせ、サザビーは確信した。キスに舞い上がっていたリュキアは、それさえ忘れて目を瞑っていた。
 「___可哀想な女だな。あんたは。」
 「な___」
 キスをやめた途端、サザビーが妙なことを口走り、リュキアは不可思議に思った。そればかりかサザビーは彼女を放し、リュキアはその手で露わになりかけた胸元を隠した。
 「耳。見えたぜ。」
 「!!」
 リュキアには返す言葉がなかった。今まで保っていた緊張の糸が切れ、彼女は思わず腰から砕けそうになってしまう。
 「なあスクレイザちゃん。あんた訳ありだろ。あんたは均整の破壊を命じられてこのローレンディーニに来た。そしてその任務を全うされなければ、自分が殺される。違うか?そうでもなきゃ、憎たらしい人間に辱められるのを、涙を押し殺してまで堪える張り合いがない。」
 リュキアはただ一点を見つめ、自分の身体を抱いた。図星だった。それを感じたサザビーは剣を収める。
 「俺を殺そうとしないのもそのせいだ。あんたはフローラにやったのと同じ方法で毒を盛れる。握手だろ?最初の。だがそれをしないのは、すでにおまえに疑いを向けている俺の仲間がいるからだ。俺が死んだら奴等は血眼になっておまえを捜し、スクレイザ・ビットフォールの優秀賞は取り消されるだろう。そして防護壁の神殿に入る手段はなくなる。」
 今まで保っていたものが、我慢していたものが、リュキアの中で音を立てて切れた。ただそれは、自棄にも似た心地だった。酷く落ち着いていて、闘志は沸いてこなかった。せめてこんな醜態を曝して、リュキアと気付かれたくはなかった。
 「___そうよ。あなたの言った通りよ。」
 そしてそう答えた。身体は崩れ、更衣室の床にへたり込んだ。
 「そうか___ありがとう。」
 「あたしを殺すの?」
 サザビーは小さく笑うと着ていた上着を脱いで彼女に放ってやる。リュキアは膝の上に投げられた服に驚き、キョトンとした目でサザビーを見た。
 「身体を隠せよ。こんな真似をして悪かった。」
 リュキアには彼の言っている意味が分からなかった。
 「なに___なに言ってるの___?」
 格好の獲物が目の前にいるのだ。目前の敵を始末する機会に、この男は何を謝っているんだ?
 「覚悟はできてるのよ!どうせ戻っても超龍神に殺される___それだったら人間に殺された方がまだ張り合いがあるわ!」
 「俺はおまえを殺さない。」
 その言葉はリュキアの辞書にはない。
 「なぜならおまえも俺を殺さなかったからだ。」
 「情けはいらない___そういう甘さが人間を魔族より弱くする!」
 「甘さじゃない。人間だ魔族だなんてどうでもいいことだ。ただ俺は、女のあんたが好きになった。だから助けたいと思っただけさ。」
 サザビーははっきりと言いきった。
 「好き___?」
 その時、リュキアの心に虚空が生まれた。
 虚空は殺戮の感情に支配された残虐な心を拡散させていく。
 愛情は彼女にとってあり得ないファクターで、彼女は親から愛された記憶すらない。
 でも___
 今それは生まれた。
 「じゃあな、ここであったことは忘れるよ。」
 サザビーは部屋を出ようとする、しかし___
 「待って!」
 リュキアが止めた。それは己の意志がそうさせた。不思議じゃなかった。
 好きになっていたから。
 「行かないで___」
 リュキアは縋るように言った。
 「あたしを一人にしないで___」
 「スクレイザ___」
 その名で呼ばれるのは残念だった。でも、スクレイザでないければならない。リュキアだと知った途端、彼の態度が変わってしまうかも知れない、それが怖かった。
 「サザビー___あたしも好きになれたんだよ___」
 「___」
 サザビーは遂に涙をこぼしたスクレイザの元に跪いた。そして、ただ黙って彼女の身体を抱きしめてやった。暖かなリュキアの温もり。だがそれ以上にリュキアはサザビーの温もりに打ち震えていた。
 人に抱かれることがこんなに素敵なことだなんて___はじめて知った。
 二人の心の融合は、やがて二人の身体をも結びつけていった。
 それはリュキアが求めたことであり、自然な出来事だった___
 魔族である。人間である。そんなことにはとらわれず___
 男である男はリュキアを愛し。
 女である女はサザビーを愛した。

 全ての快諾の後、二人は同じ上着を背に掛けて、肌を寄せ合っていた。
 「人間のことは嫌いか?」
 「うん___あなたのことは好きだけど___」
 リュキアはサザビーの胸に顔を埋めて答えた。
 「あたしはまた戦場に立ち___人を殺すのだと思う。あたしはそのために生まれてきた___そう超龍神も言っていた。」
 彼女の顔つきに、やりきれない切なさを感じたサザビーは、吹っ切れたような笑みを見せた。
 「リュキア。」
 そして唐突に呼んだ。
 「___え___?」
 リュキアは顔を上げ、ただ呆然としてサザビーを見た。サザビーは悪戯っぽく笑っている。
 「おまえが俺をサザビーと呼んでくれて分かった。」
 「知っていたの___」
 リュキアは沈んだ面持ちになる。
 「おまえが気にしていたみたいだから___でもあんまり可愛かったから、つい言っちまった。」
 サザビーはリュキアの頬にキスをする。その暖かさにリュキアもなんだか吹っ切れて、すぐに沈痛から笑顔に変わった。
 「いいやつじゃん、あんた。」
 「女にはな。」
 「でもグレルカイムでお嬢ちゃんって言ったことは今でも怒ってるから。」
 「おいおい。」
 二人は声を揃えて笑った。お互いに不思議だった。こうして肌を寄せ合って、中睦ましく笑っている今の関係がとても不思議で、とても面白かった。ほんの一月、いや、昨日でも考えられなかった光景だ。
 「愛って唐突なものなのね。」
 「俺もびっくり。」
 「でも___唐突か___」
 その言葉が急にリュキアを現実に引き戻した。愛は唐突であり、また別れも唐突なのだ。
 「俺たちが愛し合うことができるのは今だけだ。」
 それは残酷な言葉だが、リュキアはしっかりと頷いた。
 「分かってる。明日からはまた敵同士さ。」
 「お互いここであったことは忘れよう。おまえはスクレイザ・ビットフォールで、超龍神の手の者に脅迫されて、フローラに毒を盛ったんだ。」
 「でも___」
 リュキアは彼の優しさには感謝した。だがそのせいで彼が不幸になりはしないかと不安になった。愛情は、彼女に思いやりの気持ちまで与えていた。
 「そうしたら均整はどうなるの?あたしは均整を破壊しようとするわ。」
 「しろよ。そうしなきゃおまえが殺されるんならそうしろ。」
 「でも___!」
 サザビーはリュキアの唇に指を添えた。
 「超龍神の肉体がなんだ、そんなものはどうにでもなる。復活したら復活したでまた考えればいいさ。でもおまえの命は、無くなったら二度と戻っては来ないだろ?どっちが大切かなんて、比べなくても分かるはずだ。」
 「あたしは分からなかったんだ。そう育ってきた。」
 サザビーはリュキアの髪に手櫛を通し、優しく撫でてやる。
 「ねえ、もしそのさ___あなたの子供ができたら___名前を決めてくれる?」
 「今___?」
 リュキアは頬を朱に染めて頷いた。その仕草の一つ一つが愛らしい。あまりに激しいギャップがそう感じさせるのかも知れないが。
 「スレイ。」
 短い思考の後、サザビーが言った。
 「スレイ?」
 「俺の故郷の古い言葉さ。意味は___一つの愛、孤独な愛ってところかな。」
 「素敵ね___スレイ。分かった。」
 これで別れなければならない。リュキアは寂しさを振り切るように、努めて笑顔でサザビーの頬にキスをした。自然にそうしていた。
 「俺のことは気にするな。戦場であったら加減は無しだぜ。」
 サザビーはリュキアに拳を見せた。リュキアも明るい笑顔になって自分の拳をあわせる。 「あたしだって!」
 二人の微笑みは永遠ではなかった。それでも最高の一瞬を、閃光の如き一瞬を共有できれば、それで良かった。




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