3 それぞれの行き場
「いてっ。」
砂浜に棕櫚は尻餅を付いた。すぐに立ち上がって服に付いた砂を払い落とす。外気の涼しさは際立っていた。ジャムニとは比べものにならない寒さだ。
「あ。」
近くで砂に頭を埋め込んで足をじたばたさせているサザビーがいた。棕櫚は彼の所へ駆け寄って、足を引っ張って砂から出してやる。
「ぷはっ。おお、棕櫚か、助かったよ。」
サザビーは砂だらけになった顔を叩いた。
「他の皆さんはいないみたいですよ。」
「無理してヘヴンズドアなんて使うからだ。恐らくこの近隣だろうが、こりゃバラバラに飛ばされたな。う〜、寒いっ。」
サザビーは寒風に身をすくめて震え上がった。
「ここはどこでしょうね___」
棕櫚は辺りを見渡す。どこかの海岸ではあるのだが___
「ここはビンゴだな。」
「え?」
「あいつはフリスト山脈だ。」
サザビーは遠くの空を指さした。太陽から察して北よりの方角だ。そこに白い雪化粧をした雄大な山々が連なっているのが見えた。
「フリスト山脈。ソードルセイドとローレンディーニの間に連なる、世界で最も有名な雪の山脈さ。」
「とするとここはソードルセイドかローレンディーニの近隣。」
「いや、ローレンディーニだ。ソードルセイド側で人の手が加わっていない海岸は、急峻な地形をしている。砂浜ならローレンディーニ側さ。」
その時だ。
ボンッボボンッ!
風に乗り、遠くから爆音が流れてきた。
「花火___のようですね。」
「ローレンディーニだな。あそこは派手な街だと聞いたことがある。」
「どうします?先にこの辺で皆さんを捜しますか?」
「いや、行こう。宝珠を持っているのはフローラだが、いずれみんなローレンディーニに集まってくる。こういうのは初めてじゃないんだよ。」
そしてサザビーと棕櫚は、花火が聞こえた方角へと歩き出した。
一方そのころ。
「うわわわわわわっ!」
光が弾けてライが姿を現したのは、地面から十メートルも高い場所だった。何かと幸運な彼だが、今日に限っては真下に岩だらけの海岸。
「うげっ!」
ライは体勢を立て直せず、全身を岩にしこたま打ち付けた。頭を打ったせいもあってか、フッとそこで意識が途絶えてしまう。
「___あれは。」
だが彼が幸運なのはこれからだった。たまたま海岸にいた人が彼を見つけてくれたのだから。
「ん___」
薄ぼやけた視界が開けてくる。見えたのは、淡いオレンジ色の光に照らされた家の天井だった。木造の家の梁から二匹のネズミが顔を覗かせていた。
「はは___」
ライはその姿を見てニッコリと微笑む。ネズミは首を傾げるような仕草をしてどこかへ行ってしまった。
「気が付いたようだね___」
「え?」
まだぼんやりした耳に、どこかで聞いたことのあるような、はっきりとした女性の声が聞こえた。ライは首を傾けてそちらを向き、そして一気に覚醒した。
「おまえは!」
ライは毛布をはね除けて飛び起きる。しかし身体が痛んですぐに呻いてしまった。
「無理はいけない。身体は万全ではないはずだ。」
彼の覚醒を促したのは、視界に飛び込んできたフュミレイの姿だった。銀髪を見ただけで彼女と察することは簡単だから。
「なんだって___」
ライは嫌悪の顔で彼女を睨み付けた。
「ここはフィツマナックだよ。君は海岸で倒れていた。」
「フィツマナック___」
それはフュミレイの流刑先の島だ。
「___」
ライは自分の身体に綺麗な包帯が巻かれていることに気が付いた。そしてベッドの側には綺麗な布が丁寧に畳まれて、何枚か重ねてあった。それは看護の痕跡だった。
「半日眠り続けていたんだ。腹が空いているだろう?」
「___どういうつもりだよ。」
ライは彼女の身に起こった事実を新聞の範囲で知り得ている。しかしそれでも、父の仇という意識に変わりはなかった。普段柔和な彼でも、正義感の強さは折り紙付き。フュミレイに気を許すことは簡単にはできない。
「どういうつもりか___本当どういうつもりだったんだろうな。」
フュミレイも彼の気持ちを察し、神妙な面持ちになる。
「すまなかった。私には詫びることしかできない___」
フュミレイはライの前に跪き、頭を垂れた。
「謝っても___父さんが帰ってくるわけじゃないだろ。」
「そうだな___私が殺してしまったからな___」
フュミレイは少しだけ顔を上げた。しかしライの目を見ることはできない。ただ、それはお互い様だった。
「食事もらっていい?」
「ああ、そうさせてくれ。」
それからフュミレイは、小さな家の小さなキッチンで、料理を作り始めた。まだそういうことにはぶきっちょで、慣れていない様子だったが一生懸命に作っていた。ライは彼女の後ろ姿を暫く眺め、それから部屋の様子に目を移した。
「___」
部屋は驚くほどに簡素だった。家具はベッドにテーブルに椅子が一つ、あとは服が入っているであろう木箱に、ちょっとした本棚。部屋の明かりはたった一つのランプだ。
「あれは___」
壁に額で飾った一枚の写真が掛けられていた。それはアレックスのものだった。本棚には聖典を書き写しているらしい紙の束があり、改めて見ればフュミレイは白い服を着ていた。
「できたよ。」
「フュミレイ、あの写真。」
「ああ___」
フュミレイはテーブルに温かい料理を並べていく。
「どうして飾っているの?」
「祈るため。そして先生にあたしを見ていてほしいから。」
「先生___」
ライはベッドからテーブルへと移動した。フュミレイはベッドの縁に腰を下ろす。
「おいしいね、これ。」
ライには、何と言っていいか分からないが、フュミレイが裸に思えた。勿論見た目ではなく、心の問題。彼女はライの前に己の心を剥き出しでさらけ出し、彼がどうしようと全てを甘受しようとしているようだった。そしてライは、無防備な女性に対して牙を向ける男でもなかった。
「まだ物足りないところもあるけど、美味しいよ。」
「ありがとう。」
自然と彼の態度からは角が取れ、美味しいの一言も、無意識に出たものだった。
「ねえ、父さんと君って___どういう関係だったの?」
「師弟関係。最初のうちはね。」
食事が終わってから、二人は暫く無言の時間を過ごしていたが、ライが不意に尋ねた。
「でもあたしは男女の関係を求めた。子供だったんだよ。アレックスが白竜に去ってしまったことを憎らしく思ったんだ。」
「ふぅん___」
「単純なんだ。最後は衝動がそうさせた。」
「あんまり自分を懲らしめないほうがいいよ。」
ライはフュミレイの卑屈が気になって、そう進言した。フュミレイは小さな笑みを見せる。
「ありがとう。」
お互いに気持ちがほぐれてきた。
「ところで、どうして君はフィツマナックの海岸に倒れていたんだ?」
「ああ、色々あってさ。ローレンディーニに向かってたんだけど、大変なことになって。とにかくソアラがヘヴンズドアって呪文を使ってバラバラになっちゃったのさ。」
「ヘヴンズドア___そんな呪文を使えるようになったのか、ソアラは。」
フュミレイは彼女の成長を知って、感慨深げに言った。
「でも失敗したんだよ。だからバラバラに飛ばされちゃったんだと思う。」
「ここに飛ばされたのは偶然か。」
「あれ?そう言えばソアラが生きていたのを聞いても驚かないね。」
「アモンと文通していたから。それより、君はこれからローレンディーニに?」
話を元に戻すフュミレイ。
「そう。ローレンディーニに行かなくちゃ。ここって島なんだよね?」
「ローレンディーニへの定期便は十日に一度だよ。ただ、丁度明日がその日だけどね。」
「うわ、ラッキー。」
ライは手を叩いて喜んだ。
「ローレンディーニというと、四つの均整か。」
「そう、バドゥル、グレルカイムと壊されちゃったんだ。」
「希望の祠もやられた。リュキアとバルバロッサという奴にな。」
「二人に会ったの?」
「まんまとね。手ひどくやられたよ。」
「そりゃ___」
悪いことをした。そうライは思った。
「さ、飲んで。」
質素なカップに紅茶を入れて、フュミレイはライに差し出した。
「ありがとう。でも、なんか違和感あるなぁ、フュミレイのこういうのって。」
「そうか?」
「そうさ。」
フュミレイの顔を近くで見ることができた。彼女の微笑みには以前のような毒気もなく、一人の美しい女性の微笑だった。ただ、内なる寂しさ、悲しみは自然と滲み出てしまっていたが。
「ねえ、その頬の傷、何で治さないの?」
ただ彼女の左頬の爪痕が目について、ライは尋ねた。フュミレイはしばし返す言葉を思案した。
「あ、それにさっきからずっと右眼閉じてない?」
髪に隠れて分かりづらいが、ライは臆面もなく尋ねた。
「見るかい?あたしの右眼。」
ライが頷くのを確認してから、フュミレイは髪を掻き上げ、指を使って右眼の瞼をたくし上げた。筋肉が切れているらしく、こうしなければろくに瞼も動かせなかった。
「___!」
ライは沈黙し、硬直した。全身を寒気が駆け抜けるのが分かった。本来あるべき場所にあるものがないと言うのは、なんと恐ろしいことか。眼球があるであろう位置は空白で、奥の桃色がランプに照らされてちらりと見えた。
「ないの___?」
「そう。罪人の拷問とはこういうものさ。」
「酷いよ___」
「戒めだ。あたしは生きている。あたしの左だけの視界は、後の人生を歩む上での私の心の枷だ。私の罪に対する___」
「そんなこと、父さんも、僕だって望んでない___!」
ライは強い口調で言った。紅茶がカップから少しだけ零れた。
「あたしが望んでいる。罪とは消えないものだ。」
「でも___嫌だよ。父さんだって嫌なはずさ。自分のために誰かが傷つくなんて___君が目を失った原因は僕らにあるんだよ?」
フュミレイはライの思いやりに感銘を受けた。まさにこの優しさこそ、アレックスの息子である証だと感じた。
「でも治すことはできないよ。もう二度とね。」
「どうして!?」
「魔力を失ったから。」
「!?」
ライにはその言葉の意味が分からなかった。
「失ったって___どういうこと?」
「魔族の呪いさ___」
「___リュキアとバルバロッサ!」
ライは紅茶をテーブルに置き、フュミレイに詰め寄ると彼女の肩を掴んだ。
「あいつらに何かされたの___?」
「ああ___」
「そんな___」
「すまない___まだ色々傷む場所があってね。放してくれるか?」
フュミレイは穏やかに言った。ライは彼女から手を離し、やりきれない気持ちを募らせた。
「ゴメンよ、僕なんて言ったらいいか___君がどうにかなっちゃえばいいって、前は本気で思ってた。でも___実際に君のそんな姿を見せられて、こんな気持ちになるなんて___!」
ライが悔やんでいる。芝居じゃない。あれは心からの口惜しさだ。フュミレイは彼の姿に心を擽られた。
「優しいんだね___」
「フュミレイ___仕返しなんてあっちゃいけないんだ。なのに僕らはリュキアとバルバロッサを北に差し向け、君をこんな酷い目に遭わせてしまった___」
「いいんだよ。あたしに変われるチャンスをくれた。革新には傷みが付き物さ。おかげであたしたちはこうして、友人のように語り合うことができるんじゃないか。」
フュミレイはテーブルの紅茶をもう一度彼に手渡した。
「間違った事なんてない。あるとすれば、それはあたしがアレックスを殺めたことさ。私は生きている。君が詫びることはなにもない。」
「でも魔力は君の宝じゃないか___」
「魔力がなくても平気だよ。それが普通なんだ。」
夜は更けていく。
「ん?」
ベッドを使ってくれとの勧めを頑なに拒み、床に毛布を敷いて眠っていたライは、ベッドで寝ているはずのフュミレイがいないことに気が付いた。
「___」
家のドアが少しだけ開いていた。ライは息を潜めてドアの隙間から顔を覗かせる。
「!」
見えたのは、庭の木の側で一人佇んでいるフュミレイだった。月明かりに照らされた彼女の視線は鋭く、力に満ちていた。そして口では小さな声で何かを唱えているようだった。
「___ドラゴンブレス!」
声と共にフュミレイは右手を突き出す。だが炎が飛び出すどころか、手はぼんやりと輝くことさえなかった。フュミレイは暫くそのままの姿勢で硬直し、たまりかねたように拳を握った。
ガッ!
そして木の幹に打ち付けた。毎夜この繰り返しなのだろうか、木の幹は一ヶ所だけ色が変わっているようだった。
「___」
強がりな彼女のプライドを傷つけてはいけない。彼女のこんな姿を見ていたなんて知られてはいけないんだ。
ライは目一杯の心配りで、心の中で詫びながら床へと帰った。
翌日。
「また来てくれ、今度は大人数で。」
「暇になったらね。」
船着き場に到着した連絡船の桟橋で、二人は握手を交わした。
「もし力になれそうなことがあれば言って。私はこの島を離れられないが、手紙ならやり取りできる。それと___」
フュミレイはライの耳元に顔を寄せる。
「命のリングはケルベロスにある。それを心得ておいてくれ。」
「六つのリングの一つ___?」
ライは声を潜めて聞き返した。
「そうだ。」
「わかった。いろいろありがとう、助かったよ。」
「こちらこそ、君と話ができて良かった。」
「また。」
「ああ。」
ライはフィツマナックを離れた。一つの蟠りが解かれ、ライは豊かな気分でローレンディーニへと向かう。
「さぁ、畑仕事だ。」
フュミレイは再び、フィツマナックでの穏やかな暮らしに戻った。
さて次は___
「ハイラルドの土地___確かにヘヴンズドアの瞬間、私はハイラルドを、まだ見ぬ私の故郷を思い浮かべた。」
フローラはローレンディーニとは違った場所へ向かっていた。たまたまその近隣に飛ばされ、そこの情報を得たからだ。ただ彼女はそれが偶然ではなく、自らの意志が導いたものと信じた。
街の名前はハイラルディア。ケルベロスから自由貿易を許されている唯一の商人であるハイラルド家の領である。
「帰ってきたのね___ここが私の故郷。」
街はケルベロスでも最も雪の少ない土地にある。小さな湖の畔に開けた閑静な場所だった。ハイラルド家が住んでいるであろう豪邸は、街の入り口からもよく見えたが、その近隣にも同じくらい大きな邸宅があった。ハイラルド家の敷地の中に、幾らかの住人がいると言った印象で、民家は乏しく、旅人や商人相手の客商売をしようといういわば下請けの人々が住んでいるようだ。
「よし。」
フローラはただ真っ直ぐな気持ちを胸に、良く整備された石畳をハイラルド家へと向かった。
「___」
その巨大なお屋敷。使用人が何人いるかも想像が付かない。花で彩られた門扉を抜けると、玄関まで白い石畳が続き、その真ん中には素敵な噴水がある。フローラは本当にここが自分の両親の家、すなわち自分の帰る場所なのかと思うと、変にどぎまぎした。
「プレーツ。」
館の二階。窓際で本を広げていた紳士が、執事であろう老人を呼びつけた。
「はい。」
「私は客を招いたか?」
その男はまさに真摯たる風貌をしている。例え安らいでいるときであろうと、身なりを正し、節操を持つことを忘れない。口ひげは威厳を示し、柔らかな物腰は寛容さを示す。彼の名はアラン・ハイラルド。
「いえ、今日お出でになられる方はおりません。」
執事のプレーツは簡単に答えた。
「招かれざる客がお出でだ。旅の物売りかもしれん。」
「追い払いましょう。」
プレーツは一礼して部屋を離れた。
「___何だろうな、あの娘。」
アランは改めて窓越しに外を眺めた。堂々とこちらに向かってくる女性の姿に、嫌悪だけではない不思議な気持ちを味わっていた。
コンコン。
フローラは留まることなく、とにかく迷いや躊躇いを断ち切って素早くノックした。反応もまた素早かった。
「どちら様?」
大きな扉が少しだけ開き、中からメイドが顔を覗かせた。
「フローラ・ハイラルドです。そうお伝え下さい。」
「はぁ___」
メイドは怪訝そうな顔をして首を引っ込めた。一度扉が閉まったが、すぐにまた開く。次に現れたのは老人。執事のプレーツだった。
「フローラと名乗られたそうで。」
ただプレーツも彼女を勘繰るように、疑いの目で尋ねた。
「ええ。ただ、ミスティ・リジェートかも知れません。」
「!」
しかし二つ目の名を聞かされて彼の顔色が変わる。
「こ、これは失礼を致しました。さあ、お寒いでしょう。中へとお入りください。」
プレーツは慌ててフローラを屋敷の中へと招き入れた。
「こちらは大切なお客様だ。客間にご案内して丁重なおもてなしを。」
そして先程のメイドにそう耳打ちし、自分は早足になってアランのいる部屋へと向かっていった。
「アラン様!大変です!」
「どうした騒々しい___」
アランは本を閉じ、気怠そうに言った。
「実は___」
「なに___」
だがプレーツの耳打ちを聞いて、アランの気怠さは吹っ飛んだ。
「本当に、本当にフローラなのだな!?」
「間違いありません。ミスティ・リジェートの名も存じておられました。それに___奥方様によく似てらっしゃる___」
アランははやる気持ちを抑えきれずに立ち上がった。
「客間か?」
「左様で。」
「後で妻のところへ連れていく。おまえはこれがサンドラに伝わらないよう、留意しておけ。」
「はい。」
アランは急いだ。思い焦がれた愛娘の姿を、しっかりと焼き付けるために。
「___」
フローラは客間でじっと待っていた。両親の容姿を想像はしなかった。暖かな姿を思い浮かべたいのは、親を知らない娘の心情だ。だが彼女の父は、また一方で裏世界にも力を持つ武器商人という顔も持っている。
コンコン。
ノックの後、返事も待たずに扉が開いた。現れた髭の紳士。彼はこちらをじっと見つめ、そしてただその場に立ちつくしていた。
(この人が父___)
フローラはせめて初対面の礼節を弁えようと、立ち上がって深くお辞儀した。
「良く戻ってきてくれた。フローラ!」
アランは満面の笑みを見せ、その両腕を大きく広げた。
「___お父様___とお呼びしてよろしいのですか?」
「もちろん。私はおまえの父、アラン・ハイラルドだ。」
アランはフローラに近づいた。
「いや___驚いた。美しく成長したな、フローラ。」
「そんな___」
アランはその大きな手でフローラの頬に手を触れた。彼女も拒むことはしなかった。彼の暖かな手に、はじめて父の温もりを感じたことに、ただ身体の奥底が熱くなるばかりだった。
「おまえは母親の生き写しだ___まったく___あまりにもよく似ている。どれ、もっと良くその顔を見せておくれ。」
アランは頭を低くして、フローラの顔を愛おしそうに眺めた。気恥ずかしくなって、フローラは思わず頬を朱に染めた。
「照れているのか?」
「父を感じたことは初めてだったものですから___」
その言葉にアランの顔から笑顔が消え、閉口した。そしてただ黙ってフローラを抱きしめた。
「お父様___?」
「辛い思いをさせたな___」
「___お父様___」
フローラも彼の胸に身を埋める。短い抱擁だったが、その暖かみはフローラの心を癒してくれた。
それからアランはフローラをソファに促し、自分もその隣へと腰を下ろした。フローラは自然と父の手を取っていた。
「母からの手紙は読んだか?」
「読みました。私はフローラ・ハイラルドを選んだのです。ただ、真実を知りたいと思ってここへやってきました。お父様___」
アランはしばし沈黙した。
「分かった。おまえはもう自立した一人の女性だ。そういう強さを感じる。語ろう、おまえを傷つけたくないと思って隠していた事実だ。これはまさに、汚れた話。生まれてきた生命の尊さを無視した最悪の話なのだ。」
フローラは息を飲み、アランの話に耳を傾けた。
「おまえの母、マーガレット・リジェートは今はマーガレット・ハイラルドと名乗っている。そして私の前妻は名をクローディア・ハイラルドという。クローディアは、私がこの地で成功を収めはじめた頃、突如として私の前に現れた。そう、そのころはリジェートとは啀み合っていても良きライバル関係にあった。同じ土地で商売をしていたわけだからな。さて、そのクローディアは私に近づき、私も彼女の美しさに惹かれた。だが私は若かったのだ。初めは彼女との生活も悪い心地はしなかった。しかし彼女は金の亡者だった。そして権力を笠に着て横暴を振るう女だった。いつの間にか私の周囲はすっかり暗転していた。」
クローディアに欠けていたものは、商人の妻には欠かせない緻密な経済観念、そして周囲に与える客観的な印象、といったところか。
「そんな最中、私は一人の女性と劇的な出会いをし、恋に落ちた。それがマーガレット・リジェートその人だった。しかしマーガレットは商売敵であるトーマス・リジェートの妻。いわば我々は二重の不倫で互いを愛し合った。当然それが発覚したときには、激しい糾弾を受けた。トーマスはマーガレットの外出を禁じ、クローディアは私に離婚を申しつけてきた。莫大な慰謝料と養育費を請求してな。」
「養育費?」
「身籠もっていたのだ、クローディアは。私の一人目の娘、サンドラを。私はせめて娘が生まれるまではと彼女を引き留めた、彼女に愛は感じなかったが、娘は別だというのが正直な気持ちだった。そしてクローディアからある提案があった。私の敷地に別の邸宅を建て、そこに住まわせろというものだった。要するに別居だ。結局私はそれを承諾し、隣家に別の邸宅を建て、クローディアはそこへ移った。生まれたサンドラと私を遠ざけ、決して会わせることはしなかった。」
サンドラ・ハイラルドはフローラの姉と言うことになる。彼女はサンドラに会いたいと感じていた。
「ある時、一つの転機が起こった。リジェートがポポトルを相手にした商売でへまをやらかしたのだ。商売には機というものがある。機と見れば商売人は、一時の困窮を覚悟で莫大な投資をするものだ。そしてトーマスはこのポポトル相手の武器取引を機と見ていた。それが失敗したのだ。リジェートは多額の負債を抱え、そして信用を失った。奴は私にこう申し出た。担保にマーガレットを出す。だから負債の肩代わりをしてくれ___とな。」
嘘とは思えない話だ。そしてアランはとても冷静に語っている。
「私はすぐにマーガレットと親密なつきあいをはじめた。リジェートがしくじった取引を私がそのまま請け負うことになっていたから、肩代わりの件に関しては何ら問題はなかった。一月後にはマーガレットは完全に私の家へと移り住み、我々は夫婦同然の暮らしをはじめた。そしてマーガレットが身籠もった。生まれたのが君だ、フローラ。」
「___」
黙って話を聞くと言うよりは、何かを問いかけたくても声が出なかったと言うべきだろう。フローラは口を小さく開いたまま、話を聞いていた。
「だが君が生まれたのは、マーガレットかがこちらに移り住んでから九ヶ月目のことだった。だが私は移り住む一月前からマーガレットと愛を語らっていた。だがトーマスも移り住む前までに彼女と夫婦としての関係を持ったと語った。そして幼い命はハイラルドとリジェートの間で宙に浮いた。だがマーガレットは私の正妻ではなく、あくまで担保だ。リジェートの正妻であることには変わりない。父が誰であるに関わらず、その子の保有件はリジェートにあった。それに賛同したのがクローディアでもあった。彼女は私を揶揄し、周囲に悪評をばらまいて騒ぎ立てた。そしてその子はミスティ・リジェートと名付けられた。マーガレットはリジェートに離婚を申し渡し、赤子はアラン・ハイラルドの子、フローラ・ハイラルドであると主張した。」
それはマーガレットの女としての情熱がとらせた行動に違いない。
「しかしリジェートは素早く動いた。借金の残り分として我が子をポポトルに送りつけ、我々を嘲笑いながらこの地より去ったのだ。残されたマーガレットは愕然とし、ポポトルに一通の手紙を送った。不幸な我が子に、せめてその名前だけは不条理な大人の手ではなく、自らの手で決めてほしいと。我々は己の無力を嘆いた。ポポトルに娘の足取りを追うように要請しても、それはただの虚しい叫びに過ぎなかった。」
フローラは高鳴る鼓動を押さえることができなかった。やはりこの紳士は___私の本当の父なのだ。そう思うと心が弾ける。
「私はマーガレットを使用人として迎え入れた。妻としてでなかったのは、クローディアが今更ながら離婚を撤回したからだった。それはマーガレットへの面当て以外の何物でもなかった。しかし数年後、クローディアが病気で他界し、私はマーガレットを正妻として、サンドラを娘として迎え入れた。このスキャンダラスな話は地域一帯を騒がせ、歪曲し、噂となって方々へ広まった。これが真実だ。」
「私は___あなたの娘でしょうか___?」
フローラは絞り出すように尋ねた。それを問うのは勇気のいることだった。
「間違いはない。神に誓おう。見たまえ、私とおまえの髪色は実によく似ている。トーマスはブロンドの男だ。それになによりおまえはフローラ・ハイラルドと名乗ってくれたではないか___!」
アランはフローラに会心の笑顔を見せる。フローラは感情を抑えきれなくなり、顔をくしゃくしゃにした。
「うわあああ!」
そしてアランに縋り付いた。彼の胸の中で泣きじゃくった。悲しみの涙ではなかったが彼女は酷く泣き顔だった。身体を支配した情熱も純な喜びとは違う、ほろ苦い、しょっぱい味だった。それはこれまで必死に我慢していた寂しさが、怒濤となって押し寄せたからだ。
「フローラ___」
アランも最高の包容力で彼女を抱きしめた。
十七年目にして漸く辿り着いた肉親の温もり。フローラは全身で、父を感じていた。
「フローラ___なの___」
その女性はまさにフローラに瓜二つ。年を重ねたフローラの姿を見るようであった。それがマーガレットその人である。
「お母様___!」
フローラはまた感涙に噎ぶ。母は父のように包み込むだけの力強い肉体はない。それでも、その暖かさ、心に与える安らぎは格別だった。ただ気になったのは、母はロッキングチェアに揺られ、酷く身体が痩せていたことだった。フローラの医者の側面がやがて彼女に冷静さを取り戻させる。ただ、それでも聞きづらかった。
「あの___お母様___」
まだそう呼ぶのにもぎこちなさが残る。
「なあに?」
だがマーガレットの優しい微笑みは、フローラの緊張を解きほぐしてくれる。
「あの___どこかお体が悪いのですか?」
その言葉に驚いたのはアランだった。マーガレットはただ笑顔でフローラの髪を撫でている。
「心配はいらないわ___お医者様はただの風邪だとおっしゃっていたから。」
「いえ___その___私、ポポトルで医学の勉強をしていたんです。」
「まぁ___」
マーガレットは大きな目をパッチリと見開いた。ただそれは純粋に、フローラが一人でも挫けずに成長してくれた事への喜びからだった。
「もしお母様がその___」
「分かりました。私の体に何かあれば、診察はあなたにお願いします。」
フローラは些細な心配りに母の優しさを感じる。
「フローラ、ポポトルでの生活は厳しかったろう。」
「でも身のある日々でした。戦士として戦場に赴くことは苦痛でしたが、それでも私は大切な仲間たちと出会うことができました。今では彼らと、ある使命を胸に旅をしています。」
それを聞いてアランの顔色に影が差した。
「するとおまえは___また旅に出てしまうのか?」
「続けなければなりません。仲間たちと合流するために、できるだけ早くローレンディーニに発ちたいと思います。」
「そうなの___」
マーガレットも寂しそうな顔をする。それでも微笑みは絶やさなかったが。
「でも、必ず戻ってきます。だから___お父様、お母様、娘の我が儘を聞いていただけますか?」
「勿論だよフローラ。もとより我々がおまえにここへ留まるように求める方が理不尽だ。我々はずっとおまえを放任してしまったのだから。」
「でも使命が全うされたときには戻ってきてね、フローラ。」
「そうだ、おまえが誰かのものになってしまう前にな。」
それを聞いてフローラはポッと頬を朱に染める。ライの顔が浮かんだ?かどうかは分からない。
「そ、そんな人まだいません___!」
アランとマーガレットは笑い、そこには家族の和やかな団欒が生まれていた。
それからフローラは自分の部屋へと案内された。いつか帰ってくる二女のために、女性ものの家具を取り揃えて用意されていた部屋だ。
「長旅で疲れただろう?ゆっくり休んでくれ。」
「うん。」
フローラは清潔に整えられた部屋を嬉しく思った。ただ、こんな雰囲気に影を落とす言葉かも知れないが、聞いておかなければならないことがある。
「あの、お父様?」
「なんだ?」
部屋の入り口でフローラは振り返り、尋ねた。
「お父様は死の商人と呼ばれているという噂を聞いたのです。戦争を助長するような武器取引をし、戦時になれば取引のために人身の売買さえも辞さないと___」
アランは答えなかった。
「もしそれが事実であれば、どうかおやめ下さい。私はこの目で戦争の悲しみを、そして孤児の苦悶を感じてきました。それはとても辛いものなのです___」
「噂は噂だ。耳を傾けてはいかん。商人の戦いの多くは舌戦なのだ。さあ、もうおやすみ。」
アランは答えをはぐらかして去ってしまった。フローラはそのあやふやな対応に、悲しみを感じた。
その夜。
「フローラ、入るわよ。」
ノックの後、返事も待たずにどこか刺のある声の主が入ってきた。ブロンドの長髪を靡かせ、強気の瞳。屋敷の誰よりも派手なドレスに、大きなイヤリングとネックレスが目を引く。
「ふ〜ん、確かにあの女によく似てるわ。」
その勝ち気な女性は腕組みをし、顎を突き出した高慢な態度でフローラを見た。
「あなたは___?」
「私?サンドラ・ハイラルドよ。あなたの姉。」
フローラはそれを聞いて笑顔になる。
「ああ、あなたが!よろしく!」
フローラは手を差し伸べたが、サンドラは彼女を睨み付け、その手を払った。
「あたしはあんたと握手するつもりなんかないわ。」
「そんな___」
フローラは困惑する。初対面の人物にあからさまに嫌悪されるというのは、実に悲しいことだ。
「あたしはあんたが憎ったらしいのよ。今ごろ帰ってきた脳天気な女の顔を見に来ただけ。あの性悪な両親から生まれたあんたをね!」
「なんで___」
「なんで!?よくそんなことが言えるわね!」
サンドラは甲高い声で怒鳴り散らした。
「なんにも知らないみたいだから教えてやるわ___あたしの母親は突然この世を去った!でも徴候はあったのよ、毎日毎日ヒステリックな悲鳴を上げて、おかしなことを口走って___全てはあの男のせいよ。苛々を紛らわせるためにと、お母様に薬の味を教えたあの男の!」
「!」
フローラは絶句した。薬とは___薬とはすなわち、禁断の薬物であろう。
「あの男は世間体を気にしてあたしを養っているだけ。正直言えば、私にだって母親と同じ末路を辿ってほしいと思っているのよ。」
「そんな___まさかあなたも!」
「やってないわ。でも私の部屋には薬がある。あいつが置いていったものよ。」
フローラはアランの二面性を思い知らされた。サンドラの話はおそらく嘘ではない。アランはあの優しい紳士の面影の裏に、やはり残酷な死の商人の側面を持っているのだ。
「サンドラ!」
彼女の甲高い怒鳴り声を聞きつけたのだろう、アランが眉をつり上げて部屋に飛び込んできた。
「おまえという奴は!」
アランは手を振り上げたが、唇を噛んで思いとどまり、その手を下ろした。
「ふん、フローラの前ではいい父親ぶるのね。奴隷商人の分際で!」
捨て台詞を残し、サンドラは逃げるように部屋を出ていった。アランはすぐさまフローラに近寄った。
「フローラ、大丈夫か?」
「なにもされてはいません___」
フローラはアランから顔を背けて答えた。
「どうした?」
「あなたは酷い人です___サンドラさんはあなたの娘でしょう?私と何が違うんです?何故、お姉様を愛しては下さらないの!?」
フローラの瞳には微弱な敵意が籠もっていた。
「サンドラの言葉には耳を貸すな。彼女はクローディアの死を私と結びつけたいだけなのだ。」
虫酸が走る。その言葉は___彼がまるでサンドラを愛していない証拠じゃないか。サンドラの言葉を最も身に刻みつけ、聞かなければいけない男の言葉ではない。
「私はすぐにここを発ちます。」
「何だと___?」
「私にかける愛情を、全てサンドラに、お姉様に注いで下さい。お父様は___極端すぎます。」
アランの制止も聞かず、フローラはハイラルド家を出た。夜の寒さが肌に痛いほど突き刺さる。しかし心の寒さはそれ以上だった。
さて次の舞台はローレンディーニより北方、ケルベロス国はミエスクの街である。
「う〜___」
ケルベロスらしい整備された街並み。今はたまたま雪の少ない季節だが、それでも街の至る所に白いものがたくさん残っている。外気の寒さは折り紙付きで、街の人々はコートやマフラーを欠かさない。
「へっくしっ!」
そんな中、一際薄着のソアラがベンチに座っていた。町の中心部にある噴水の公園。せめて日光で体を温めようと思ったが、ケルベロスは灰色の国と称されるほど快晴が少ない。今もすっかり曇りがちである。
「寒い〜、お腹減った〜___」
このミエスクに辿り着いて今日で二日が経つ。ここに辿り着くまでに一日要し、街にたどり着いてから仕事を求めて彷徨ったが、髪の色が災いしてどこも雇ってくれなかった。ショーガールの仕事もあったが、話を聞いていくうちにストリップと分かり、逃げてきた。
結局、もう三日もなにも食べていない。天然の産物は残雪の下。残飯を漁るほど落ちぶれてはいないが、このままではそうせざるを得ないかも知れない。
「お金をフローラに預けていたのが間違いだった___」
しかし後悔先に立たず。動けなくなる前に物乞いでもしようかと彼女は考えはじめた。しかしその時である。
「おろ?」
風に流されて飛んできた一枚の紙が、ソアラの足にへばりついた。それを拾い上げると、それはどうやらチラシのようだった。
「ローレンディーニの芸術祭に参加する楽団『ラバンナ』は、明日このミエスクでも講演を行います。例年通り、お代は皆様の評価にお任せします。聞くに耐えなければ無料でも結構です。我々は音楽を愛するのであり、その価値を定めるのは皆様です。どうかお暇がありましたら、中央広場までお出で下さい。」
ソアラは内容を一通り読み、暫くボーっとしていた。
「ローレンディーニ!?」
しかし栄養不足で遅れていた頭が追いつくと、彼女は声を上げてチラシを見つめた。ベンチからも見える噴水の中央広場に目を移す。確かにそこには、昨日まではなかった大型のキャラバン馬車が止まっていた。
「うちで働きたい?」
ラバンナとはゴルガの原語で、陽気を意味する言葉だ。楽団の団長はまさにラバンナ。北国にいながら小麦色の肌を呈し、綺麗に剃り上げた丸坊主の頭で、もみあげと髭だけを残している。実に汗の似合いそうな男だ。
「皆さんのお食事を作るのでも、皿洗いでもなんでもいいんです!」
ソアラは勢い良く頭を下げた。空腹が響いて目の前が眩んだ。
「でもうちはキャラバンだぜ。これからローレンディーニを目指すんだ。この街にはいられないよ。」
「私もローレンディーニを目指していたんです___それでその___色々あってもう三日もなにも食べてなぁい___」
頭を振り上げてしまってますます目の前が揺らぎ、ソアラは遂に倒れてしまった。
「お、おい、大丈夫かい!?」
結果としてはこれが功を奏し、ソアラはキャラバンの中でパンにありつくことができた。
「ありあとおあえあふ、おっへもおいひいれふ。」
ソアラは恥も掻き捨ててパンを口一杯に詰め込み、ニッコリと微笑んだ。
「うっ___」
「おい誰か水持ってきてやれ!」
慌てるとろくなことがないものだ。
「しかし、君はローレンディーニに行きたいといってたなぁ。」
「___うひぃ___そ、そうなんです。お願いします!その___ローレンディーニに運んでいただけるなら、ただ働きしますから!」
「どうします?団長。」
団員の一人が髭坊主の団長に問いかけた。
「よし、いいだろう。うちで働いてもらおうじゃないか。」
「本当ですか?」
ソアラは嬉しさむき出しの顔になる。その豊かな感情表現が、ラバンナの気を惹きつけたわけだ。
「何しろ君のその色、いいじゃないの。そんな色に染めるだなんて、ラバンナに入る資格ありありって感じさ。」
「あはは___」
地毛であるとは言えない。
「ただし。」
ただし。怖い言葉だ。ソアラは身体を固くした。
「君には歌を歌ってもらう。」
唖然とするソアラ。
「ええええええっ!?」
驚きのあまり椅子から転げ落ちそうになった。
「君は裏方をやる人じゃないと思うんだな。実はうちは歌のない音楽をずっとやっていたんだがね、ステップアップのために歌をつけたかったんだ。とは言ってもうちは男ばかりだし、ただでさえ暑苦しい音楽だからね、どうにもうまくいかなかった。丁度女性のボーカルが欲しかったのさ。」
「自信ないんですけど___」
「下手だっていいんだ。陽気に、明るく元気いっぱいに歌ってくれれば。」
ソアラは迷ったが、すぐに「そんなのもたまには悪くないかな」と考えるようになった。そうすると前向きな気持ちが生まれるのに時間は掛からない。
「分かりました!やります!」
「よし決まった。君は今日からラバンナのボーカリストだ。俺は団長のザペル・ラバンナ、よろしくな。」
「ソアラ・バイオレットです!精一杯頑張ります!」
それからソアラはラバンナの一員として、歌の練習を始めた。とにかく思い切りやる事という教えを忘れずに、リズムを学び、詞を覚えた。最初の舞台はそれからすぐにやってきた。チラシにあったミエスク講演である。
「緊張することねえぞ!いつも通りにやるんだ!」
控え室になっているキャラバン馬車の中で、ソアラはザペルに背中を叩かれた。衣装とはいえ、久しぶりにお洒落な服を着て、髪型も決め、化粧までした。
「こういう緊張ってはじめて___」
「心配すんなよ、俺がフォローするから。」
「ええ。」
いきなりソアラ一人で歌うのも可哀想だ。そこで団員の一人であるドリンとツインボーカルを組むことになっていた。いよいよその時が近づき、ザペルが一足先に馬車から舞台へと飛び出した。昨日の夜、みんなで作った木組みの舞台だ。
「こんにちは皆さん!」
ザペルの登場で歓声と拍手がわき起こる。ソアラの緊張は最高潮に達した。
「こんなに大勢の方に集まっていただき、感謝の言葉も御座いません。ラバンナのミエスク講演もこれで八回目になりますが、皆様の応援と評価を糧に、より一層の向上を図っております。」
(は、八回___)
そんなに有名な楽団だったとは。ソアラはプレッシャーを押さえ込むように胸に手を当てた。しかしそうすると、胸の鼓動が全身に広がって激しく脈打った。
「今回は新しいメンバーを加えて心機一転!新生ラバンナをどうぞお楽しみ下さい!」
そう言ってザペルはステージ後方のコンガドラムの後ろへと移動する。そしてコンガを打ち鳴らした。
「よし、行くぞソアラ!」
「よーしっ!」
他の団員たちと連れだって、気合一閃、ソアラはステージへと飛び出した。一声出せば楽なもの。ラバンナの陽気なリズムに誘われて、歌も踊りも自然と弾む。そこにはすっかりラバンナの一員になったソアラがいた。
かくしてそれぞれが、それぞれの方法でローレンディーニを目指す。
ただ一人、バンダナの男を除いて___
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