2 猿まね女の恐怖

 ジャムニに宿泊しはじめてからおよそ十日後___
 「渡ってみます?イドーリ。」
 食事の最中、棕櫚が唐突に言った。
 「は?」
 全員がいったん手を止め、棕櫚に視線が集中した。
 「もう一回言ってくれるか?」
 「いいですよ。橋を架けたんで、渡ってみます?イドーリ。」
 五人はそれぞれ顔を見合わせて、口ぱくでなんと聞こえたか確認している。棕櫚は何となく馬鹿にされている気分になった。
 「は〜い、橋を架けたっていったんですか?」
 ソアラが挙手して尋ねる。
 「そうです。」
 「あの渦の上に?あんな向こう岸が霞んでる河に?」
 「そうです。」
 棕櫚はニッコリと微笑んだ。

 すっかり旅支度を調えた皆は、棕櫚に導かれて河岸の一ヶ所へとやってきた。そこはこの時期、昼も夜もすっかり誰もいなくなってしまう場所。港だった。そして波止場の一角に、船を結びつける鉄柱に混じって妙なものがあった。
 「こ、これって___」
 「これはとっておきだったんですよ。ヒノカケジンっていう太古の植物です。さすがにこいつを生やすには時間が掛かっちゃいました。」
 港の石畳を突き破り、それこそ男の両腕で輪を作っても足りないほどの太い植物が顔を覗かせていた。寸胴な、まるでタケノコのような芽を出し、色はくすんだ緑色だ。だがとにかく目を見張るのはその大きさ。
 「このヒノカケジンは地面から顔を出すと、横に向かって伸びる変わった植物なんですよ。長いものになれば三キロ四キロ当たり前です。見ていて下さい。」
 棕櫚はヒノカケジンに手を触れ、目を閉じた。
 「伸びろ。」
 棕櫚の一言とともに、ヒノカケジンは高速で対岸に向かってその身体を伸ばしていく。その勢いたるやそれこそ非常識。根元の石畳を弾き飛ばすほどだった。それにしても、相変わらず棕櫚の能力は突飛すぎて馴染めない。
 「止まりましたね。これで一杯一杯です。」
 「凄い!本当に橋が架かってるよ!」
 イドーリの上に、綺麗に一直線でヒノカケジンの橋が掛かっている。それはまさに目を見張る光景だった。
 「これって、本当に向こう岸に届いてるの?霧が出ていて良く分からないけど。」
 ソアラは半信半疑でヒノカケジンの行く先を見つめた。自慢の視力でも霧の先までは見えないらしい。
 「さあどうでしょうね?でもまあ、渦を越えたら泳いで辿り着くこともできるでしょう?」
 棕櫚は大胆なことを飄々と言ってみせる。少しは慣れてきたが、この彼の「笑顔で一言」は結構怖い。
 「どうします?行きますか?それとも二ヶ月待ちますか?」
 「そりゃ行くに決まってるわよ。ねぇ、みんな。」
 ソアラの問い掛けに、躊躇う者は誰もいなかった。

 「えー、皆さん落ちないように気をつけて下さいね。ヒノカケジンの表面はざらざらしているんで滑りにくいとは思いますけど。」
 ソアラを先頭に、百鬼が続き、ライ、フローラ、サザビーとヒノカケジンの上に乗り、最後方に棕櫚がついた。
 「ねー、ジャムニの人が面白がって渡りはじめたらどうすんのさ。」
 「あぁ、それなら心配ご無用です。」
 棕櫚は右手の人差し指と中指を揃えて立てると、大気をすくい上げるようにして素早く動かした。その瞬間、ヒノカケジンの根元の回りから刺々しい針を持った植物が勢い良く飛び出したのである。
 「これで近づけません。怖いのは、燃やされることだけですね。はっはっはっ。」
 「笑い事じゃないでしょ!」
 ソアラの突っ込み。
 「急ぎましょ!」
 そして六人は向こう岸に向かって、足を踏み外さないように、それでもなるだけ早足で歩み始めた。
 「渦が近づいてきた。」
 十分も歩くと、河の中に白い巨大なうねりが見て取れるようになった。そればかりか、自然の恐怖を知らしめるような豪快な歌声。河口から流れ込む海水だろう、潮の匂いも感じることができた。そこは実に不思議な空間である。河口に向かって流れる河に、河口から流れ込む河、二つの流れが均一にぶつかり合い、巨大な渦を作り上げている。ここに飲み込まれては命などあるまい。
 「ここに叩き落とされたら___ゾッとするなぁ。」
 思わず足を止めて渦を覗き込んだソアラ。同じように渦を見て歩いていた百鬼が、それに気付かず彼女にぶつかってしまう。
 「うわわわっ!」
 「ソアラ!」
 「いたーいっ!」
 勢いで渦に落っこちそうになったソアラのポニーテールを百鬼が掴み、彼女は悲鳴を上げながらも何とかヒノカケジンに踏みとどまった。
 「なにすんのよ〜!」
 「わりいわりい。」
 「それですむと___」
 百鬼に仕返しでもしてやろうと思ったソアラだが、妙な気配を感じてピタッと動きを止めた。
 「どうかしたか?」
 「いや、なにかしら___」
 「おい、前早く行けよ。」
 「あ、うん。」
 サザビーに急かされて、ソアラは前に歩き始めた。
 「なんか嫌な感じがあったんだけどなぁ___」
 ソアラは一つ首を傾げた。
 暫くすると、渦の中央付近までやって来ることができた。
 「すごいなぁ。」
 「この分なら越えられそうね。」
 ライとフローラの言葉は、二人だけにしか聞こえない。それほど轟音がもの凄かった。
 「ちょっとまったぁっ!!」
 しかしそれを劈くように、ソアラが声を張り上げた。さすがに皆も足を止める。
 「どうしたんだ?」
 「感じない?何か嫌な気配___!」
 「そうか?」
 渦の勢いが目にも分かるほど緩やかになっていく。お互いの声が聞こえるほどに轟音が静かになり、それが不気味さを増長させた。
 「確かに、どことなく嫌悪を感じさせる存在感がありますね。」
 殿の棕櫚も目つきを鋭くして辺りをうかがった。
 「もしかしてこの渦にモンスターが?」
 と言って弱くなってきた渦を覗き込んだのはライ。
 「ハハッ、あんたたちの考えそうなことだわ。でもそうそういつもいるわけじゃないのよ。」
 そうソアラの声がした。
 「なに言ってんだよ、ソアラ。」
 訳の分からないことを言うソアラに、ライはふてくされた顔を見せた。
 「え?あたしは何も言ってないけど。」
 しかしソアラはキョトンとして振り返った。
 「そうそう、彼女は何も言っていない。」
 今度はライの声。しかしライは口を動かしてもいなかった。
 「今の僕じゃないよ!」
 「わかってる。」
 警戒が強まる。やはり何か居るのだ。
 「何者だ!」
 「くせ者よ。」
 「うわっ!」
 突如として、ヒノカケジンの側面に長身の女が現れた。いや、裏から出てきたのだ。側面に、まるで天地など無視するように、足に吸盤でもついているかのように、それこそ身体を河に平行にして立っている。
 「こういう登場の仕方が好きなくせ者。」
 女は妖艶な笑みを浮かべ、フローラの声色で言った。そしてゆっくりと皆と同じ向きに、まるで時計の針が回るように簡単に移動してみせた。ソアラの目の前に対峙すると、ソアラが見上げなければならないほど長身の女だった。服の装飾が凝っていることもあるが、それでなくてもグラマラスな体型をしている文句のない美女だ。ただ問題なのは、彼女は側頭部から頬に向けて湾曲した角を生やしているということ。
 「あたしはフェイロウ。名前くらいはご存じ?超龍やジュラのお友達。」
 フェイロウ。それは三魔獣の一人の名前。悪女フェイロウだ。何とまあとんでもない場所で出くわしたものである。ただ不思議だったのは、彼女には人に切迫感を与えるようなプレッシャーがないことだった。
 「正直あたしはあまり強くないの。あなたたちに一斉に襲い掛かられたら勝ち目はないわ。ただ、あたしには無敵の能力がある。」
 「人まねか?それなら前にキュリバーナとかいう奴がやったぞ。」
 サザビーの言葉にフェイロウは大袈裟な態度で手を横に振る。
 「あんなちんけな変装と一緒にするんじゃないわよ。あたしの場合は複写さ。顔の形、声色は勿論、身長体型、それこそ毛の一本まで正確に化けるのよ。その気になれば人の能力、記憶だってそっくり頂いて、完全にそいつになりきることもできる。勿論、吸収したものはいつまでも私の中に残り、私は力を手に入れる。言っておくけど、この渦が静かなのは、あたしがシュライナギアから借りた能力で弱めているからよ。」
 フェイロウは淡々と語ったが、その間にめくるめく声色が変わっていった。それこそここにいる面々の声色を巧みに使い分ける。それは不気味としか言えなかった。
 「化けるだけなら簡単。」
 フェイロウは自分の眼前に手を走らせる。あっという間に顔がソアラそのものになっていた。もう一度手を横切らせると今度は百鬼の顔に。そればかりか一度マントを翻せば、体つきから服装まで全くの百鬼そのものに変わっていた。
 「ほらご覧なさいな、ここだってしっかりクリソツよ。あらでかい。」
 そう言ってフェイロウは、百鬼の身体でズボンの上から股間を握りしめた。彼の声色で女言葉というのもかなり気色が悪かった。
 「や、やめんかこら!」
 百鬼は思わず腰を引き、顔を真っ赤にしてフェイロウに怒鳴りつけた。
 「フフフ、あんたたちの顔と身体、それから名前は頂いたわ。さすがに心や記憶まで奪うのは簡単じゃないけど___変身に必要な最低限はゲットした。ただ、その一番後ろの男だけはガードが堅くてなにも奪えなかった。」
 「え?」
 聞き流しそうになったその言葉にソアラは唖然とした。棕櫚がますます分からなくなる。
 「今みたいにバリバリに警戒されるとあたしもなにも奪えない。でもとびきりの美人にでも変装すれば、心の隙は簡単に生まれるものなのよ。」
 フェイロウは再びマントを翻し、元の姿へと戻った。
 「フフフ、この恐怖が分かるかしら?例えばあたしがこれからあなたたちが訪れるあろう街で、例えばソアラで娼婦を演じてみたり、ライで強盗をしてみたり、そう言うことだってできるのよ。あたしがいることによってあなたたちに安息が無くなるってわけ___」
 確かにゾッとする事実だ。
 「あなたたちの誰かがあたしに殺され、いつの間にかあたしが成り代わっている可能性だってあるのよ。そんな状況になれば、記憶から、思考の組立かたから、言葉遣いから、何からなにまでコピーできているでしょうからね。」
 それは震えの走る言葉だった。確かにこのフェイロウはジュライナギアやゴルガンティのように、力で目にもの見せる相手ではない。しかし、彼女が生み出す恐怖と狂気は、計り知れないものがあると感じた。それこそ悪女の名に相応しい。
 「さて、あたしは今日は顔見せ。これから超龍の所へ行かなくちゃ。ただ、これで帰っちゃ面白くないよね。」
 フェイロウの右手が輝く。まさか!と思ったときにはもう遅い。
 「ドラゴフレイム!」
 フェイロウは炎を残して消え去った。炎はヒノカケジンに燃え移り、その勢いを強めた。
 「ま、まずっ!フローラ!」
 「水のリング!」
 「あーっ!駄目ですよ!」
 棕櫚の叫びも一足遅く、フローラはヒノカケジンに燃え移った炎に向かって水を放つ。 「な、なによ棕櫚!」
 「ヒノカケジンは炎にも水にも強いんですが、急激な温度差に弱いんです!そんなことをしたら___!」
 ボロッ。
 「!!」
 水によって炎は消されたが、なんとその部分のヒノカケジンが茶色く変色したかと思うと、脆くも崩れ去ったのだ。そしてその瞬間、繋がりを断たれた断面より先のヒノカケジンは、黒ずんで崩れ落ちてしまう。
 「と、どーすんの!」
 「う、うわっ!下がって下がって!あたしの足下も茶色くなってきた!」
 ソアラは慌ててすぐ後ろの百鬼の胸を押す。
 「うわぁっ!」
 グラッ!弱ったせいで六人の重さに耐えかねたか、ヒノカケジンが突如傾き、ソアラのいた場所が水面を撫でる高さまで下がってしまう。勢いを取り戻した渦に足を取られそうになり、ソアラを焦った。
 「まずいぞ、このままじゃ渦にどぼんだ___」
 「困りましたね。」
 「おまえら落ち着きすぎだっつーの!」
 百鬼のサザビーと棕櫚に対する突っ込みの声も裏返る。
 「どうするのソアラ?今から弱ったヒノカケジンの上を戻るのは___」
 「無理よ!だから一発、賭けてみるしかないでしょう!」
 ソアラはいつの間にやら、決意に満ちた顔でその両手に魔力を灯していた。
 「まさか渦を凍らせるとか___!」
 「そんなの無理。でもこれなら、一応呪文の勉強はしたから、やってやれないことはないと思う。」
 フローラはハッとした。ソアラが何をしようとしているのか気付いたのだ。
 「みんな手を繋いで!」
 「無茶よソアラ!ローレンディーニなんて本で見たこともないのに、イメージできないわ!」
 「雪景色でしょ?空想すればいいのよ、何となく雪でも降ってそうな街並みを!」
 皆は固く手を結ぶ。ヒノカケジンが傾きはじめている場所が、茶色く変わっていく。
 「行くよ!我らをさる場所へと誘え!ヘヴンズドア!!」
 六人の身体が光に包まれる。だがそれはアモンのものと違い、全身に引き裂かれるような痛みを伴うものだった。それはまだソアラが未熟な証拠。呪文を手の内に入れていない証だった。ただそれでも光は空の彼方へと飛び去り、その瞬間、ヒノカケジンは渦に没し、全て黒く変色して塵と消えていった。




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