1 氷と鉄の血潮
「拍子抜けとは___まさにこのことだな。」
ベル・グランからゴルガの大地に降り立って、フュミレイは呟いた。
「本当に___閑散としていますね。素早い行動だ。」
アレックスも辺りの寂しい景色を眺めて呟いた。ベルグランはゴルガの城塞に開いた大門の真正面にその巨体を落ち着けた。空から観察した限りでは、ゴルガの街はもぬけの空だ。もとより無事だった住人たちは、ジャムニなりシィットなりに逃げおおせたか、ポポトルの本国に収監されているため、ここにいたのはポポトル兵たちだけ。すなわち完全に基地と化していたのだが___そのポポトル兵たちはものの見事に撤収している様子だった。
「町の様子を見たい。」
ゴルガの大門を前にしてフュミレイが唐突に言った。彼女の半歩後ろにアレックス、その後ろに四人がいた。
「危険ですよ。ポポトル兵が潜んでいる可能性だってある。」
「返り討ちにすればいい。それに、ポポトル兵がいるならば、捕らえて奴等の作戦を暴露させるほうがいい。」
アレックスは難色を示すが、フュミレイは強引だった。
「仕方ない___ですが単独行動は危険です。私はフュミレイについて行きますから、皆さんも二組に分かれて街の中を探索して下さい。人がいたなら捕捉するように。」
「はい。」
結局、ソアラとフローラ、ライと百鬼のチームに別れ、ゴルガの街へと踏み込んでいった。彼らが街の中へと突き進んでいく姿を、ベル・グランの窓から見下ろす男が一人。
「フフ___うまくやれよ、リドンの娘。」
その男、ハウンゼンは残酷な微笑を浮かべていた。
「うまく逃げられたとはいえ___ポポトルに逃げ帰ったのでしょうか?こちらの動きを読んでカルラーンに向かったのかも知れません。」
殺伐とした街の風景を見回しながら、アレックスは言った。大通りを城に向かって警戒しながら進む。
「鉄機船を全滅させられて、奴等は確実にこちらに脅威を感じている。攻めてくるとは思えない。」
「ですが、ポポトルに戻ったとしても、ベル・グランが相手では結果は同じ。もしかすると、ポポトル島には鉄機船や、ベル・グランをも圧倒する秘密兵器が隠されているのかも知れませんよ。」
それを聞いてフュミレイは笑った。
「おまえらしい突飛な発想だ。だが考えてもみろ。ベル・グランはフランチェスコ・パガニンの作だ。この世の中に、彼以上の技術屋がいるとは思えない。それにポポトルにはベル・グランを上回る兵器を稼働させるだけの資源だってない。」
だがアレックスは不安をうち消そうとはしなかった。
「決めつけるのは良くありませんよ、フュミレイ。秘密兵器と言ったのは言葉の文です。この世の中にはあなたの知り得ないものだって幾らでも存在する、現に今や伝説となっている生き物には少し前まで生きていたものだっているんです。」
アレックスは真顔でフュミレイに訴えかけた。彼女は呆れ顔で両手を広げ、聞く耳持とうとはしなかった。
「家庭教師のつもりか?やめてくれ、あたしはもうおまえの生徒じゃない。」
むしろ怒ったような顔でアレックスを睨み付けた。
「フュミレイ。ケルベロスのために働くのはおやめなさい。あなたの才能は独裁者の世界征服のためにあるのではない。」
「はっ!」
二人だけだからだ。アレックスは饒舌に語った。人前では白竜軍とケルベロスの幹部として接している二人だが、二人だけになれば、アレックスは彼女の道を正そうとし、彼女は反発する。いつものことだった。自然と、教師と生徒の関係に戻るのだ。
「ならおまえはあたしに白竜にこいとでも言うのか!?」
フュミレイはオーバーなボディアクションで、アレックスに背を向けたかと思うと、すぐさま振り返って彼に怒鳴りつけた。ソアラたちに見せたことのない感情を、アレックスだけには露わにする。フュミレイも分かっていた。自分はアレックスと向き合っているときだけは自由だと。
「本当は___そうして欲しい。でも白竜とかじゃあないんです。私の側にいて欲しいと思うのはいつもですよ。」
アレックスは眼鏡を外した。しっかりと、生の眼を彼女に見せたかったから。
「___」
フュミレイは怒った顔を崩そうとはしなかったが、暫く無言で彼を見ていた。しかし瞳の奥に宿っていた怒りの熱は、和らいでいた。
そしてまたアレックスに背を向けた。
「卑怯だよ___」
フュミレイの呟きを聞いて、アレックスはそっと彼女を後ろから抱きしめた。
「ごめんなさい。今更ですね___」
「おまえは___あたしの保護者になりたいだけだ。あたしを女としては見てくれない。」
フュミレイは背中にアレックスの温もりを感じ、切なさを募らせた。胸の前にある彼の手に優しく触れた。
「___今はできません。妻の無事を信じていますから。」
「卑怯だ___」
クッ。フュミレイは俯き、アレックスの手に少しだけ爪を立てた。
「もうやめてくれ___あたしを変に期待させるのはやめてくれ。」
そして彼の手からスルリと抜けるようにして離れた。アレックスが驚いたのは振り返った彼女の目が潤っていたことだった。
氷の篭手と鉄の意志。
シャツキフ・リドンに伝授された血も涙もない教えは、彼女から涙を消したはずなのに___アレックスははじめて、大人になった彼女の涙を見た。
彼女は自分でも言っていた。
「一番最後に泣いたのは何歳だったかな?湖の畔でニックと遊んでいて___木の根っこに引っかけて足を捻挫したんだ。でも痛くて泣いたんじゃない。あたしのただ一人の友達を、父が引き離したからだった。」
と。
氷の篭手と鉄の意志を知る前から、彼女は恐ろしいほど強い娘だった。知らないうちにリドンの気質というものを学んでいたのかも知れない。涙は感情の賜。感情に流されることはシャツキフのタブーだった。
そのフュミレイが涙を浮かべるとは___
「フュミレイ___」
フュミレイは躊躇わず目元を拭った。滴が弾ける。それでも強気な、気丈な顔は変わらない。
「あたしはケルベロスを離れない。」
「___」
「行こう。もたもたしていると他が心配する。城の様子を見てこなければ。」
フュミレイは早々に歩き出し、アレックスはゆっくりとそれを追いかけた。
「何か___追いつめられているのか?」
妙に多感なフュミレイに疑問を感じながらも。
「何かしら___胸くそ悪いな___」
ソアラは乾いた風に胸騒ぎを感じ、殺伐とした空気に妙な嫌悪感を覚えた。
「ソアラ、礼拝堂よ。」
フローラが少し先の方でソアラを呼んでいた。
「先に中に入っていて、すぐ行く。」
ソアラは城の方を睨み付けていた。どうも___ここしばらく体調が優れない。ただ、この嫌悪感はそれとは別だ。だって___体調が優れない理由は自分でも感じているから。認めたくはないが___
「ステンドグラス___」
フローラは礼拝堂の正面に立つ竜を象った神像と、その背後の雄大なステンドグラスに目を奪われた。思えば、医学を志しながらも、正しき道を感じるために彼女はポポトルでも教会の礼拝堂に通っていた。
「___」
祈ろう。彼女は神の前へと歩みを進めた。すぐにソアラがやってくると信じて。
だがソアラは___
「うっ___くっううっ!」
苦しんでいた。
喘いでいた。
服の胸元を力任せに握りしめ、蒼白な顔で汗を浮かべていた。
それでも礼拝堂の前から離れ、フローラの目を避けようとしていた。
「げほっげほっ!!ごほっがはっ!」
彼女は口を手で塞ぎ、身体を折り曲げて激しく咳き込んだ。
指の隙間を貫いて、赤い滴が弾けていた。
滴って、服の袖口を汚した。
大地に小さな血痕を残した。
「はっ、はっ、はっ___」
酷く俯いていたために、前にのめってきた紫色の髪にも、赤は飛びついていた。
そのままの姿勢で荒い息を付いていると、漸く「動悸」が落ち着いてきた。
「はぁ___」
口元から手を離す。掌に乗った血液をふるい落とし、翻して甲で口の回りの血を拭い落とす。口紅を塗ったわけでもないのに唇は真っ赤で、口の中は壮絶に鉄臭かった。
「___」
鮮やかすぎるほど真っ赤な血。新鮮な、肺に由来する血。
「胸の傷は呪文で消えても___これだけは治せない___」
過酷な日々は、彼女が抱く病魔を進めた。
「でもこのタイミングで戦列を外れるのは嫌だ___もうすぐポポトルとの決着がつけられるんだから___!」
ソアラは気力を振り絞って背を伸ばした。
ゾクゾク!
「また!」
病のせいではない。何か___そう殺気だ!この感覚はきっと殺気!
「身体は___」
落ち着いてきた。大丈夫、走ることだってできる!
ソアラは動き出した。
___城へ。
「人の気配はありませんね。」
「___」
アレックスとフュミレイはゴルガ城へとやってきていた。城内には明かりの一つもないが、壁の隙や、陽光の入り口から射し込む光で視界には困らなかった。
「何か答えて下さいよ、フュミレイ。」
彼女が先程のやり取りから一言も口を利いてくれなくて、アレックスはほとほと困り果てていた。
だが、そんな言葉では計り知れないものを彼はこれから見ることとなる。場所は中庭の様子がうかがえる城の回廊。唐突な号砲が彼を絶句させた。
ギュン!!
突然だった。
自分より少し前を進んでいたフュミレイが、拳銃を真正面に放った。
「うが___!」
柱の影から、男が廊下へと倒れ込んできた。ポポトルの制服を着てはいるが、彼はベル・グランで見た顔だった。つまりケルベロスの兵だった。
その瞬間、アレックスは全てを疑った。
「狙っていたんだアレックス。この男は、この影からおまえを撃ったんだ。だからあたしはこいつを仕留めた。」
フュミレイはもう一つ、別の拳銃を持っていた。やや大型の、殺傷力は申し分ないであろう代物。その黒光りした銃口をアレックスに向けて振り返った。
ズギュン!
最初の一撃が放たれた。辛うじて身を捻ったアレックス。その左の腿の外側を弾丸がえぐり取っていった。
「これがケルベロスのやり方ですか___?」
痛みと共にアレックスは全てを知った。彼がベル・グランに乗せられた理由も。少人数でゴルガを探索した理由も。
フュミレイの涙の理由も。
「最期に言いたいのはそれだけか?」
フュミレイは檄鉄を下ろした。氷の篭手を纏った指が、引き金に掛かる。
アレックスは思った。
逃げられないな。
「私のために泣いてくれてありがとう。もう遅いかも知れませんけど___あなたの心は痛いほど分かりました。」
こんな状況下で、そんなセリフが吐けるこの眼鏡の男。掛け値無しに優しいのか計算高いのかさえ分からなくなってくる。混沌としたフュミレイの心には、もはや憤りへの道しか残っていなかった。
「くそったれ___」
鉄の意志が彼女を突き動かす。
そこへ紫が飛び込んできた!
「将軍!やめてフュミレイ!!」
「ソアラ!?来てはいけない!」
ソアラは胸の痛みなど忘れて叫び、走り、アレックスは彼女を振り返り見て、怒鳴りつけた。
そして鉄の意志が氷の篭手を動かした。
瞬間はスローモーションだったのだろうか?
三人の覚醒した意識は、短い時間の中に起こった現象を、より細かい刻みで理解し、考える。そして時の流れは緩やかになった。それがスローモーション。
ただ、アレックスが倒れると、緩やかな時間は元へと帰った。
罅入った眼鏡が高く舞い上がり、血はそこら中に飛び散った。
弾丸は将軍の頭に深く食い込み、ソアラに彼との別れを惜しむ時間さえ与えなかったのだ。
時間は止まった。
アレックスがゴルガの床に倒れ、血が彼の頭から広がっていく。
ソアラはそれを見ることしかできなかった。見てしまったことが悲劇だった。
「あああああああ!!」
彼女は叫んだ。瞳孔を広げてアレックスに駆け寄り、手応えのない彼の身体に触れてただ首を横に振った。
フュミレイは銃口から燻った煙を上げる拳銃を、自分のすぐ側で息絶えているケルベロス兵の手元に投げ捨てた。
「ふん。」
その音で我に返り、まるで獰猛な獅子のような目でこちらを睨み付ける紫の女。氷漬けにされた銀色の薔薇は、それを鼻で笑った。
「よくも___フュミレイ!!」
ソアラが腰のナイフを抜いた。
「目撃者は作るなと言う命令だ。おまえがその気ならば殺すまで!」
「うああああ!!」
ソアラが駆けだした。死出の弔い合戦のために___
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