3 百鬼とフュミレイ
「___」
ゴルガのシィット港に到着するのはもう翌朝のこと。穏やかな航海を続けてきた犬の紋章を持つ船、その甲板に立つフュミレイは潮風を浴びながら夜の黒い海を見つめていた。
(時は刻まれていく___そして事柄は進んでいく___いずれ___いずれは互いが血に染まるときが来るのだ。)
甲板の柵に肘を突き、フュミレイは小さな溜息を付いた。少し昔のことを思い出してみたりする。
「人一人殺すなど、そう大したことではないのだフュミレイ。そう、草むらで見つけたバッタを踏みつぶすこととかわりはしないのだ。要はその人間の価値の問題なのだ。石にはダイヤもあれば何の役にもたたん小石もある。ダイヤを失うことは悲しみだが、小石を失って悲しむ奴などいない。」
今思えば無茶苦茶な発想だ。ただ、父の教えというのは絶対なのだ。
「おまえは今後ケルベロスの要となる。その時におまえは優れた政策を打ち出すだけではなく、アドルフ様の護衛役もこなさねばならない。戦う術を身につけ、躊躇無く人を殺められる、氷の篭手と鉄の意志を持つのだ。」
そう教え込まれた後、はじめて生身の人間を葬り去った___確か十二の時だ。一度できれば二度三度は簡単。すぐに暗殺行為を手の内に入れた。
父が亡くなったのは私が十三の時。彼の死に直面して涙が出なかったとき、私は自らが氷の篭手と鉄の意志を得たと確信したものだった___
___
「おい。」
ぽん。フュミレイの肩にがっしりとした手が乗っかる感触があった。フュミレイは少し驚いて振り返った。
「よ。」
そこには百鬼がいた。彼は遠慮のない笑顔で、フュミレイも特に怪訝そうな顔はしていなかった。それは壁を持たない者のやり取りだった。
「なにをしにきたんだ?」
「おまえと少し話でもしようと思ったんだ。部屋にいなかったからさ。」
「ノックせずにドアノブを捻ってみたか?」
「は?」
フュミレイは海に背を向けて柵に寄りかかり、百鬼と向かい合うようにした。
「ソアラから聞いたぞ。もっと礼儀を勉強しなければな。」
「ああ、ソアラの奴、おまえにまで話してたのか。」
百鬼は苦笑いしながら心の中でソアラに文句を言った。
「それにしても___こうして二人だけでゆっくり話すなんて久しぶりだよな。」
二人は知らない間柄ではない。
「そうだな、だが原因はお互いにある。」
二人は互いの顔を見合わせた。どちらも少し寂しそうな顔だった。
「ケルベロスは___相変わらずなんだろ?」
「ああ、相変わらずだ。」
百鬼は困ったような顔をして溜息を付いた。
「おまえと戦う可能性も___」
「ある。」
「戦いたくはねえな。」
「私もだ。」
百鬼はフュミレイの隣に立ち、柵に手を突いて黒い海を眺めた。フュミレイも再び海の方を向く。その時百鬼の左手の上にフュミレイの右手が乗った。
「だが___私は目的のためならおまえだって殺してしまうだろう___」
それが鉄の意志というものだ。
「俺には無理だ。殺されることはできてもな。」
フュミレイが黙ったことで会話が止まった。ほんの一分ほど無言で黒い海を眺める。
「ソアラとは随分仲が良いようだな。」
「あいつといると面白いんだよ。ただ男友達って感じだな。雑なつきあいができるっていうかな。」
「そうか?彼女はかなり繊細な神経と、豊かな感受性の持ち主だと思うが___」
「ソアラが?」
「ああ。」
海を見つめるフュミレイの美しい横顔を眺め、百鬼はいたずらっぽく尋ねた。
「もしかして妬いてる?」
「おまえにか?」
フュミレイの答えに百鬼が笑い出し、フュミレイもつられて笑った。
「まあ安心してくれよフュミレイ、あいつにはポポトルに残してきた大切な彼がいるらしいから。」
「ほう、初耳だな。」
「俺とあいつはただの気の会う友達さ。」
「おまえと私もただの友達だ。」
「___そうだな。その方がいい。」
「ああ、私もその方がいい。」
柵の上で重なっていた二人の手、いつの間にか百鬼がフュミレイの手を握るような形になっていた。
「ニック___」
「その名前は駄目だ。」
ニック。フュミレイは彼を百鬼とは呼ばなかった。
「今だけだニック。」
「___」
フュミレイはさらに続けた。
「我々はもう何年も前に違う道を歩き始めた。もはや交わることはない。」
「分かってるよ。」
ギュ。手を握る力が強くなった。
「分かってるから俺はおまえにも百鬼って呼んで欲しいんだ。」
「そうだな。」
フュミレイは百鬼の方を見て微笑んだ。百鬼もその微笑みに笑顔で答える。
「んじゃ、俺は部屋に戻るよ。」
「ああ。」
「お別れのキスしていいか?」
「___ああ。」
多少の逡巡はあった。だがケルベロス国の参謀は、白竜軍の兵士の望みに答えたのだ。短い口づけ。ほんの互いの唇を重ね合わせただけだが、それで十分だった。それから百鬼は、フュミレイに手を振って甲板を後にした。
「______」
フュミレイは軽く指先で唇を拭ってからまた、海を見ていた。ただそれからは深く何かを考えることもなく、昔のことばかり思い出していた。
自分の側にいつも「ニック」がいた頃を___
前へ / 次へ