2 スパイ現る

 「なかなか素敵なところですね。」
 山越えの道から外を眺めていたフローラが、漸く見えてきたエンドイロの全貌を眺めて言った。比較的平坦な地形のカルラーン国。中でもこのエンドイロ周辺は海が近いこともあって、だだっ広い平地が続いていた。そのため多少標高の高いところに立てば、町の全貌を眺めるのは容易い。
 「センスはいいが古い町だ。まあそれがあの町の良さなのだろう。」
 カルラーンを出てから数日、馬車は漸くエンドイロに辿り着いた。

 「お帰りなさいませ!」
 三首犬の紋章が配された馬車から降り立った銀色の薔薇を、ケルベロスの兵が賑々しく出迎えた。
 エンドイロはカルラーン同様、街を城塞が覆っている。城下町へと続くのは正門ただ一つで、もう一つの裏門は直接城へと続く。当然ながらフュミレイは元敵国の城下町など通ったりはしない。
 「ご苦労。」
 フュミレイの労いの言葉が建前であろうと、ケルベロス兵の恐縮ぶりは異常なほどだった。それも彼女の魅力のなせる技か、ケルベロスの一平卒には彼女の声を聞くだけで畏れ多いらしい。
 「馬を頼む。」
 「はっ!」
 「おまえたちも降りろ。」
 「しかし___」
 「ここまで同伴させて突っぱねるわけにもいくまい。ノヴェスクには私が話を付けておく。」
 ソアラとフローラは一度互いの顔を見合わせてから馬車を下りた。ことはアレックスの計算通りに進む。
 「うわ___」
 入場し、城の廊下を通るときソアラは思わず顔をしかめた。各国にはそれぞれの国を象徴する色というものがある。カルラーンは白、クーザーは群青、ゴルガは緑、ソードルセイドは褐色、そしてケルベロスは血のような赤。ケルベロスの使者を歓迎するという意味なのだろう、廊下には真っ赤な絨毯が敷き詰められ、壁の至る所にケルベロスの国旗がかかっていた。
 「お帰りなさいませフュミレイ様。」
 カルラーンでフュミレイに付き添っていた男の一人が彼女を出迎えた。決して若くはない、顎にたわわな髭を湛えた厳つい男だ。
 「ノヴェスクは玉座か?」
 「左様で御座います。お帰りが遅いと始終不満ばかり申しておりました。」
 「顔を見せてくる、おまえは彼女たちを客間へ案内してやってくれ。」
 「この者たちは?」
 「護衛だ。ああ、二人とも、この男はデナンドロイ・バンディモ。私の側近だ。」
 バンディモは無言で二人を眺め、ソアラたちは少し萎縮しながらも名前だけは名乗った。
 「ソアラ、バンディモは無口な奴だ。知りたがってもなにも教えてはくれないからな。」
 「あ、はい___」
 フュミレイは二人に笑顔を見せてから一人廊下を奥へと進んでいってしまった。後ろ姿を見送っていた二人の視線をバンディモの屈強な躰が遮った。
 「こっちだ。」
 二人は大人しくバンディモの後ろへと続いた。一方フュミレイは。
 「お帰りなさいませ、フュミレイ様。」
 「出迎えご苦労。」
 彼女に与えられている私室なのだろう、高級感はあるがシンプルな作りの扉の前に男が立っていた。バンディモと共にカルラーンまでやってきた男、名はザイル・クーパーという。
 「バカンスはいかがでしたか?」
 「相変わらず皮肉屋だなおまえは。」
 扉を開け私室へ。旅のあいだ身につけていた黒いマントを外し、ソファの上へと投げ置いた。
 「カルラーンはバカンスには息苦しすぎる。」
 部屋の様子を一通り眺め、銀髪に手を通しながらフュミレイは言った。
 「妙な付け人を連れて参りましたな。」
 「ザイル___」
 フュミレイは軽く溜息を付き、呆れたような顔でザイルを見た。
 「私を監督するのがおまえの仕事ではないだろう?」
 「___失礼いたしました。」
 彼女は洋服ダンスに視線を向けながら言う。ザイルも察して深く一礼し、早々に退室した。
 「ふう___」
 彼女とて疲れないわけではない。こういう短い間でも、一人の時間が得られるのは小さな幸せだった。部屋に鍵を掛けてから旅装束にしていた皮ズボンとブラウスを脱ぎ捨て、下着姿で柔らかなベッドの上へ仰向けに倒れる。そうして無味な天井を眺めているとなんだか安らいだ。
 「ソアラか___奴とは長いつきあいになるだろうな。」
 引け目を押し隠すような元気さと、根っからの気の強さを持つ紫の牙。フュミレイはたった十日の短い滞在期間中に、彼女がカルラーンにいたことを喜んだ。そしてもうお互いを知った今となっては、その関係がどんなものであれ干渉しあうのであろうと感じていた。
 「さあ仕事だ。」
 気持ちを切り替えるように、彼女は勢いをつけて起きあがった。
 「ここがおまえ達の部屋だ。」
 バンディモに通された部屋に入り、二人は感激で目を潤ませた。
 「す、すごい___」
 「こんな部屋を使ってもいいんですか?」
 二人で過ごすには広すぎるくらいの部屋に素敵な細工が施された大きなベッド。趣味の良いワインレッドの絨毯に、ティーカップの似合いそうな優雅なテーブル。孤児院出身の二人にとってこんな部屋で過ごせるなんて初めてのことだった。
 「いずれフュミレイ様が参るであろう。むやみに出歩かぬようにな。」
 「あの!」
 二人を部屋に残して立ち去ろうとしたバンディモにソアラが慌てて声をかける。
 「ノヴェスク様ってどんな方ですか?」
 バンディモは暫くソアラと視線をぶつけ合い、何も答えず無言で部屋を後にした。
 「やっぱり駄目か。」
 「フフフ。」
 フローラがソアラを見て笑っている。
 「な〜に?どうしたのよ。」
 「フュミレイさんってソアラを見る目あるなぁと思って。」
 「む、なによそれ〜。」
 ソアラは怒るようなジェスチャーをし、フローラと二人で笑いあった。
 「急な日程の変更を、お詫び申し上げます。」
 上下黒いスーツに身を包み、フュミレイがエンドイロの玉座の前でひれ伏していた。
 「いいか、何度も言ってるが俺は白竜の者じゃない。ただカルラーン国の住人ではある。ケルベロスの奴等に城を貸すリスクがあるんだ、それを弁えろ。」
 玉座ではまだ若く見えるが髪の薄い男がふんぞり返っていた。
 「申し訳御座いません。閣下のお考えは熟慮しておりましたが、両国の関係緩和のために必要な滞在だったのです。」
 「エンドイロは白竜に施設貸与はしていても兵力までは与えていない、だが貴様自ら参ると言うからケルベロス兵の駐留も許したんだぞ。」
 「ご厚意には感謝しております。」
 このノヴェスクという男はエンドイロの領主で、この城の玉座で国王気分でいる男だ。住民たちから好かれているわけではないが、彼は民衆を束ねてエンドイロを独立国にしたいらしい。
 「言葉では足りないな。」
 「と、申されますと?」
 フュミレイはいたって冷静な眼差しをノヴェスクに向けた。
 「今回の滞在延期は貴様の独断だろう、だったら貴様が態度で示せばいい。今晩俺の相手をしてもらいたいな。」
 ノヴェスクは無類の女好きで有名。だがフュミレイにしてみれば、こういった魅力のかけらもないニンフォマニアなど、一番嫌いな部類に属する人種だ。
 「ギルダール殿___」
 だからその心を貫くような鋭い視線でノヴェスクを見据えた。
 「私は大国ケルベロスの軍事参謀、貴公は一都市の長。身分を弁えることをお勧めいたします。ケルベロスをその気にさせては身に毒ですよ。」
 「き、貴様!」
 「私が!」
 玉座から立ち上がり、跪いたままのフュミレイに食ってかかろうとしたノヴェスク。だが彼の足はフュミレイの強い声色で簡単に止まった。
 「あなたを見下ろしたとき、ご自分がどうなっているのか良くお考えください。」
 スクッ。フュミレイが立ち上がり、ノヴェスクはビクリと身を震わせる。
 「客人を待たせておりますので、これで。」
 そして彼女は颯爽と立ち去っていく。ノヴェスクはその後ろ姿を、爪をかじりながら見ていた。ノヴェスク・ギルダール、三十六歳。彼は自分の半分しか生きていない女にこけにされ、口惜しく思うことしかできなかった。

 「あれが噂の紫の牙だってなぁ。」
 「白竜が取り込んだって言うのは本当だったんだな。」
 「しかし、噂通りのかわいこちゃんだったぜ。」
 「いや、もう一人一緒にいたのがいたろ、俺はあっちの方が好みだなあ。」
 フュミレイの出迎えという重大な任務を終え、リラックスしていたケルベロス兵たちは集まって談笑していた。真っ先に話題に上っていたのがソアラたちのことである。
 「___」
 そんな集団を横目で見ながら、馬車を車庫へと誘導している兵士がいた。
 「白竜の使いも一緒か___」
 彼はボソッと呟いた。
 車庫の前へと辿り着くと、馬を近くにいた兵士に預け、自分は自慢の腕力で車庫の奥へと馬車を押し込んでいく。
 「高級な馬車ってのは車体が軽いって聞いたが___こいつは結構___」
 車庫は豪のような作りになっており、中には他にももう二台ほど似たような馬車が止まっていた。入り口の大きな戸板を開けていても薄暗く、普段はほとんど誰も近寄らない。
 「よう。」
 そしてこの人が隠れるにはもってこいの場所に実際、一人の男が隠れていた。
 「カルラーンからフュミレイが帰ってきましたよ。紫の牙も一緒だって。」
 馬車を運んできた兵士が言う。バンダナを巻いた彼は、よく見れば顔立ちは悪くない。体格、肉付きともに良く、力強さを感じさせる男だ。
 「紫の牙?ポポトルのか。白竜に寝返ったって言う噂は本当だったんだな。」
 酷く薄汚れ、無精髭を生やしているのは隠れていた男。
 「本当なんですかね?」
 「本当なんだろ。恐らく受け入れたのは将軍さ。あの人じゃなきゃ、寝返ってきたばかりの兵隊を、こんな任務にゃ使わない。将軍から何か言われてるかも知れねえな___」
 薄汚れた男の意見にバンダナの男も同意する。と、そのとき。
 ガタッ。
 突然二人の背後で音がした。板を外すような、とにかく木の音だ。そして振り返った二人は奇妙な光景にぎょっとする。
 「よいしょっ___よいしょ___」
 先程ここに運び込んだ馬車の底、その側面部分の板が外れて、男の足が飛び出しているではないか。二人が唖然として様子を見ていると、やがて中から一人の男がすっかりと姿を現した。
 「あ!」
 その男、ライもこちらを見ている二人の男に気づいたらしい。そして開口一番。
 「怪しい者じゃないですよぉ。」
 「どこがだ!」
 バンダナの激しい突っ込み。ライは彼に襟首を掴まれて車庫の奥へ引っ張り込まれた。
 「おまえ白竜だな?」
 「ち、違いますって。」
 「あ?ああ、心配すんな、俺たちも白竜なんだよ。」
 「おろ?」
 ライはキョトンとして目を白黒させた。

 エンドイロに滞在することとなったその日の夜、フュミレイの勧めでソアラとフローラは晩餐を共にすることになった。高嶺の花とより一層のお近づきになれることもあってか、二人は快くこれを承諾したが、その席にはノヴェスクも同席していた。この時二人ははじめてノヴェスクと出会ったわけだが、のっぺりした顔で垂れ目、前髪の生え際が随分上がってしまっているノヴェスクの外貌、まあこれは致し方ないとしよう。それよりも彼の口振り、態度、行動、性格、そのどれをとってもスケベで、地位と名誉とお金を振りかざすばかりの男という印象しか受けなかった。なにより、この晩餐ではほとんど彼が会話の主導権を握っていたのだが、その内容は大半が他愛もない自慢話。聞いていてうんざりするものばかりだった。
 「それにしてもあのノヴェスクってのは大した器じゃないね。」
 「う〜ん、確かに好きにはなれないわ。」
 分け隔てないソアラの毒舌に対し、フローラは控えめ。フローラの消極的な部分をソアラが補っているとすれば、ソアラの激しすぎる部分はフローラが抑えている。いつも一緒の二人はとてもいいコンビだ。
 「あのおじさんさ、あたしの胸見てた。」
 ソアラの服は強調するほど胸元が開いているわけではない。
 「私もじろじろ見られて怖かったな___」
 「きっとああいうのは私よりフローラの方が好みだと思うな。」
 「ええ?なんで。」
 「ふふ、男とつきあえば分かるよ。」
 部屋へと戻りフローラの方を見ながら扉を開ける。
 「どういう意味___」
 「ん?」
 腑に落ちないような顔でさらに問おうとしたフローラだったが、ソアラの肩越しに部屋の中を見て言葉に詰まる。ソアラも妙に思って振り向いた。
 「よう、こんにちわ。」
 「!?」
 部屋にはなぜか見たことのない男が居座っていた。男は椅子にゆったりと腰掛け煙草を吸っている。どう見ても城の使用人ではなかった。
 「だ、誰よあんた!」
 明らかに不信感剥き出しの顔で、声を大にしたソアラ。男は口元で指を立て、静かにしてくれとジェスチャーする。
 「怪しい者だが、おまえたちの敵じゃない。とりあえず中に入ってドアを閉めてくれ。」
 怪しい者と言い張る気さくさに少し警戒が緩む。悪い男には見えなかったので、二人は指示通り部屋のドアを閉めた。
 「ソアラ、気をつけて。」
 「大丈夫。」
 小声のやり取りを経て、ソアラが男に近づいた。
 「とりあえず煙草は消して。あたしその煙嫌いなのよ。」
 ソアラは訝しげな顔で悠然と腰掛ける男を睨み付けた。男は今までこの部屋で見なかった皿に、煙草を押しつけて火を消す。どうやら灰皿持参らしい。
 「悪い悪い、初対面の相手に失敬だったな。」
 立ち上がったその服は随分汚れていて埃っぽい。ソアラは思わず顔をしかめた。
 「ちょっと我慢してくれよ、もう随分風呂に入ってないから臭いかもしれないけど。」
 「誰なのよ、あんた。」
 男は姿勢を正し、軽い笑顔で答えた。目鼻立ちのはっきりした顔立ちで、笑うと口元に皺が浮く。長く潜んでいた証であろう無精髭。男前だが調子の良い三枚目の顔だ。年は間違いなくソアラよりも上だろう。そう、彼は車庫に潜んでいたあの薄汚れた男だ。
 「デイル・ゲルナ。白竜軍の大尉さ。」
 「白竜___!」
 ソアラとフローラの声が揃った。



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