3 邪悪の息吹
ポポトルの本部にこんな場所があるとは___ソアラとたびたび本部の構造を詮索していたが、フローラはまったく想像にもしなかった廊下を進んでいた。だが仕方のないことだ、ポポトル本部の一角に魔術で作り出された眩惑の壁があり、その奥に深淵へと続く廊下があるなんて想像もしなかったのだから。
「凄いな___」
百鬼の言うとおり確かに凄い。床から壁から天井まで、まるで夜空のように奥深い黒で、飛び込もうと思えば飛び込めそうな気持ちにもなる。錯覚なのだろうが、床を歩いている気持ちになれず自然と足が浮つく。天井には洋燈とは違う青い明かりを放つ球体が吊されている。暖かみは全くないが、視界には困らない。
暗黒の城の回廊___今彼らが進む場所にはそんな言葉が似合う。差詰め、ミロルグは暗黒城の筆頭次女か。
「サザビーさんはいつ頃からこの場所を知っていたんですか?」
フローラは少し前を歩くサザビーに近づいて、無駄とは分かっていてもなるべくミロルグに届かないようにこっそりと尋ねた。
「ここに来てすぐさ。それなりの家の出だったおかげで、ちょっと見込まれてな。こういう性格もあって超龍神の相手役を押しつけられた。」
フローラが隣にやってきたのを良いことに、また肩に手を回すサザビー。煙草の香りが鼻についたが、そうして貰えることで緊張感が少しほぐれた。手を繋ぐのもおぼつかないライにはできないリラックス法とも言えよう。
「超龍神というのは___昔からここにいたんでしょうか?」
「いたんだろうな、このカルデラのそれこそど真ん中に。ギャロップやシークやドルゲルドみたいな連中がこぞって集まったのは、あいつの邪悪に引き寄せられたのかもしれねえよな。」
サザビーはフローラを肩に抱いたままさらに続けた。ライは渋い顔でその後ろ姿を見ている。だがこういう人を食ったような、緊張感を感じさせない男が一人いるだけで、ライの心も信じられないほど平常を取り戻していた。
「この本部はポポトルの移民が一番最初に拵えた開発拠点みたいなものなんだ。恐らく原住民は神の山とでも言ってカルデラに人を近づかせたくはなかったんだろう、そこで移民たちは示しの意味も込めてここを最初に開発した。そして超龍神を見つけて、掘り起こしたんだと思う。」
「巨大な水晶___ですか?」
「そうだ、見れば分かるよ。水晶と言っても邪竜は邪竜だ。喋りもするし、奇妙な術も使う、立ち向かっていってかなう相手じゃない。」
「そんな___」
「その超龍神様を覆せる策___あるのであれば興味深いものだな、サザビー。」
ミロルグが不意に振り返って微笑した。この恐怖心を抱かせる凍てついた眼差しさえなければどんなに美しいことか___
「期待してな、ミロルグ。てめえの主を吹っ飛ばしてやる。」
「やれるものならやってみろ。私は邪魔はしない。」
主の力を知っているからこその余裕がミロルグにはある。
「貴様ら、せっかくこうして知り合えたのだ、名を聞いておこうか?」
「何だよ、今日は随分社交的だな。」
「貴様は黙っていろ。」
ミロルグが三人に興味を示し、名前まで聞こうとしているのには理由があった。
「そこの脆弱な女___」
フローラは例えミロルグが笑顔であっても、彼女に見据えられた瞬間震えを止めることができなかった。しかしビクついた肩を抱くサザビーの手に力がこもったことで、小さな安息を取り戻す。
「フローラ・ハイラルド___です。」
ミロルグは遠目に視線を移した。
「そこの無知な男___」
次はライだった。彼は父から継いだ天性の正義感を瞳に漲らせ、その視線には潜在的に眠るセルセリア人の血の神秘で、ミロルグの闇に立ち向かうほど強い意志を滲ませていた。ミロルグが最も不快に感じたのは彼の視線だったかもしれない。
「ライデルアベリア・フレイザー。」
「フレイザー?」
ライの名前を聞いて、サザビーが小さく呟いた。
「フレイザーってあいつは___」
「アレックス将軍の子息です。彼も私たちもそれを知ったのは将軍が亡くなられた後ですけど。」
「___死んだ?死んだのか___」
アレックスが死んでからまだ僅か。伝わっていないのも当然か。
「そこの未熟な男___」
最後は百鬼。未熟という言葉に彼はピクリと眉を動かしたが、かえってそれが彼の精神を冷静にさせた。正直、巧い言い方だと感じたのだ。ソアラが死んだと知って簡単に冷静さを失った彼には、自分の成長について考える必要があったから。
「百鬼だ!覚えておけよ!」
百鬼はがむしゃらな強気でミロルグに怒鳴りつけた。ミロルグは豪放な気勢を快く感じたのか、馬鹿にしているのか、とにかく笑みを見せていた。
少し気持ちがほぐれてきた___しかし、それも今だけ。確実に、ラインがあった。
ゾクゾクゾクッ!!
ある一線を越えた瞬間に、体中に妙な不安感がつきまとい、背筋をなめるように震えが走る。前方からはなま暖かい風でも吹いているような、実際吹いているわけではないのにこの先の何かのプレッシャーがそう感じさせている。暑くもない、むしろ寒いくらいなのに汗が吹き出て、一歩を踏み出すのに気持ちが必要になる。
「感じてるな、近いぞ。」
優れた感受性など必要ない。人間がそれなりに本能を維持できていれば超龍神の「危険性」を自然と認識できる。
廊下に先が見えた。暗黒の扉。遠くからではとにかく真っ黒の穴にしか見えなかったが、近づくほどに、漆黒の装飾が施された扉だと分かった。ミロルグが押すまでもなく扉は開き景色が広がる。闇の中には血のように赤いカーテンが吊され、絵空事を思わせるはずの存在は、殿の台座に御していた。
真に。
「あいつが超龍神さ。」
サザビーはフローラの肩から手を離した。一人で対峙する強さを彼女に見いだすために。
ライと百鬼がサザビーを追い越して前に出る。超龍神をその目で見たい気持ちがそうさせた。だがそれ以上前に出れるほど、足は快調に動かなかった。
「______シュルルルルル______」
吐息だ。大きな吐息が聞こえた。それを発しているのは、とにかく底の見えない黒い水晶。菱形ではあるが不規則な切片を持ち、黒い輝きを散乱させる邪悪のクリスタル。大きさは___フローラと同じくらいだろうか?
「面白い人材を連れてきたな___」
声は前からも後ろからも、上からも下からも聞こえた気がした。重低音で、声色は幾つも折り重なっているようで、耳からではなく、腹から浸みてくる。
「女___その指にあるはなんだ?」
「人に何か聞く前に___てめえから名乗ったらどうだ?」
このまま圧されてはいけない。声にいつもほどの張りはなかったが、彼はがむしゃらに食ってかかった。しかしその瞬間、天井の闇から黒い何かが伸びてくると百鬼の首に素早く巻き付いた。
「ぐっ!うがっ!」
「百鬼!」
ライが剣を抜いて黒い触手のような細長いものに斬りつけようとする。しかし触手は驚くべき力で百鬼を持ち上げ、刃から逃れた。逆に百鬼は真っ赤な顔をして足をばたつかせている。
「ウインドビュート!」
フローラの左手で水のリングが輝く。輝きは彼女の掌全体に移行し、放たれた。鞭のようにしなやかな風が黒い触手を切断する。百鬼は床に尻から落ちて噎び、切られた触手は音もなく消滅した。
「リングに見初められた女か。」
超龍神の声が自分に結集してくる。フローラは恐れを成して左手のリングを隠した。
「貴様はそれがなんたるかを知っているのか?」
「___詳しくはしらない。」
フローラは呟くような小さな声で答えた。
「それはある邪悪の封印を解く鍵だ___」
「!?」
それは驚くべき真実。
「案ずるな___我ではない。だが我ら魔族にとってより有意義な世界を作るために、その封印の破壊は欠くことのできぬもの___」
超龍神は饒舌に語る。背後に気配を感じて振り向いたときには、出口を黒い触手が覆い尽くしていた。暗黒の天井を見上げてみても、よく目を凝らせば無数の黒が蠢いているのが分かる。もはや袋の鼠。だから超龍神は語るのだ。
「女。貴様はリングに守護者として選ばれたのだ___」
「守護者___?」
あらゆる角度から迫るプレッシャーに恐怖し、顎先から汗を滴らせながらもフローラは気丈でいることに努めた。まるでソアラが乗り移ったかのように___
「人が作り出した封印の鍵『六つのリング』は、魔族の手に渡ることを避けるがため、リング自身が強力なポテンシャルを持つ人物を捜し当て、守護者とする。そう、魔族とも対等に渡り合える可能性のある人物をな___」
百鬼もバンダナの中に隠してある炎のリングに気を向けた。ソアラがすぐ側にいると感じさせてくれるリングをこいつらに渡してはいけないと強く念じて。
「娘よ、我にリングを差し出せ。さすれば___命は取らぬ。」
フローラに迷いはなかった。頑なに左手を右手で覆い隠し、超龍神を睨み付ける。
「それが答えか。ならば___死の後悔を味わうがよい!」
触手が一気に押し寄せてくる。ライが、百鬼が、冷や汗を振り切って剣を構え、フローラは渾身の魔力を両手に結集させる。ただ一人、平気でデュレン・ブロンズと十年以上も偽り続け、たった一人で策を尽くして超龍神打倒の罠を張ってきたというこのサザビーだけが、落ち着き払っていた。超龍神の側にいたミロルグも、彼を面白そうに見ている。サザビーがニヤリと笑った瞬間が、罠が動き出す時間だ!
ドゴォォォォン!!!ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴ!!!!
突如として大きな縦揺れがポポトル島全体を襲った。衝撃は継続する揺れとなって超龍神をも襲った。
「来たぜ来たぜ!」
サザビーは手応えを感じてこの揺れを楽しんでいるかのよう。彼の態度を見れば、三人とミロルグがこれが「仕掛け」だと想像するのは容易いことだった。
「なにごとだ___これは?」
超龍神の触手も状況を探るように揺らめいている。
「教えてもらおうか?サザビー。」
いつの間にかミロルグは四人の目の前へとやってきていた。
「ポポトルは死火山じゃない、休火山だ。まだ未開拓な南部の森には、この山に侵入できる大洞窟がある。その奥の奥、明らかにかつて火口湖であったろう場所を見つけたからちょっとした仕掛けをしたのさ。希代の大魔導師アモン・ダグから貰った宝珠をな。」
つまり、宝珠を次元発火装置にして、彼は火山にエネルギーを与えようとした。そして今巻き起こっているこの壮絶な揺れは、彼の思惑が成功したことを物語っている。
ゴバババハ!!
「!?」
突然闇の中に吹き上げてきた眩しい輝きにミロルグは振り返り、顔をしかめた。赤熱し燃え上がる、粘性の強いマグマが超龍神の真下から吹き上げている!
「ぐおおおおおお!」
超龍神の叫ぶ声。さしものミロルグも慌てた。
「超龍神様!?」
だが別の場所からも吹き上げてきたマグマに、彼女は足止めを喰らってしまう。こうなれば四人だって安全ではない。
「きゃっ!?」
突然フローラの足下が捲れ上がり、彼女は生じた溝に右足を取られた。
「うあああっ!」
「フローラ!」
溝が光り輝いている。マグマだ。彼女の悲痛な叫びを聞いたライが、慌てて手を伸ばして彼女を溝から引っ張り上げる。右足の靴が焦げ、燻るように煙を上げていた。
「フローラ!」
「大丈夫___ちょっと火傷しただけよ___」
だが彼女は青ざめて、体重を支えることもできずにライに身を預けていた。
「どうするんだ、サザビー!俺たちもやばいぞ!」
カーテンにマグマが弾け、火が付く。激しい輝きのおかげで、闇の底も見えるようにはなったが。
「超龍神様!」
ミロルグは強烈な氷結呪文でマグマを沈めようとするが、赤熱のエネルギーは止まらない。台座の超龍神は既にその半身をマグマに埋もれさせ、クリスタルには大きな罅が差し込んでいた。
「案ずるなミロルグ___これほど気分がよいのは久方ぶりだ___!」
だが超龍神の声ははっきりと、迫力に満ち、むしろ力強さを増している。さしものサザビーも眉をひそめた。
「感謝するぞサザビー___このような仕掛け!我が身はまだ封じられてはいるが___この水晶の牢獄をうち破り、我が魂を開放するには充分なエネルギーだ!」
唖然とするしかなかった。
「嘘だろサザビー!逆効果じゃねえか!」
百鬼の言葉が全てを物語っている。
「マジかよ___」
「まずいよ、どんどんマグマが広がってくる。このままじゃ!」
今四人がいる場所は他よりも少し高い。だが噴出するマグマの池は徐々に高さを増してくる。だが今はそれよりも、マグマさえも超越する生き物の復活に注目しなくてはうらない!
バリン!!
大きな音だったがごく普通。ガラスが割れる音に等しい。だが、マグマの中でクリスタルが砕け散った、その直後の変化はまさに壮絶で、言葉を失うほどだった。
ガオン!!
砕けたクリスタルから一挙に吹き出した黒い霧は、その恐るべき力で一瞬だが確かにマグマの噴出を止めた。だがそれ以上に驚かされたのは、次の瞬間には天井に大穴が開き、曇天の夕暮れを目の当たりにしたことだった。
それにも増して注目しなければならなかったのは、本部に巨大な穴を開け、一直線に空へと浮上し、今まさに浮遊している漆黒の影。
巨大な蛇が空でうねっているのか?そう見えなくもない。だが蛇ではないのだ。
その暗黒の息吹は実体を持たない。息吹でしかない。
肉体はまだ彼の元に戻ってはいないのだ。
しかしそれでも、その長い身体を空中でうねらせて、蛇とは明らかに違う輪郭を有する。誰の目にもそれが伝説上の生き物、竜を象っていることはすぐに分かった。
「差詰め___黒龍神だ___」
サザビーが思わず呟いた。
そう、超龍神の魂は、暗黒の竜となって宙を揺らめく。その姿は黒い龍の神。黒龍神と呼ぶに相応しかった。それはまさに白竜に対を成す存在である。
「ベルグラン退避だ!急げ!すぐにこの空域を離れろ!!」
フュミレイは奥歯の震えを止められなかった。彼女の優れた感受性は超龍神の恐ろしさをいち早く感じ取り、ハウンゼンの指示を仰ぐまでもなくそう怒鳴り散らした。
「フュミレイ!貴様何を勝手な!」
慌ててブリッジにやってきたハウンゼンが怒りを滲ませる。だがフュミレイは聞く耳をもたなかった。
「撤退しろ!!我々も殺されるぞ!!」
とにかく必死だった。
グオオオオオオオオオオオオ______!!!!
超龍神の雄叫びは島全体を包み込み、激しく揺さぶった。マグマはそのエネルギーをさらに増大させる。
「自滅じゃねえか!どうするってんだ!」
百鬼はサザビーの胸ぐらを掴んで食って掛かった。そんなことしている場合じゃないと分かっていても、もはや四方をマグマに取り囲まれている。
「おまえらアモンに何か貰ってないのか!?あのじじいだってこうなることは予想できたはずだ!」
その言葉で三人はハッとする。フローラが右足の痛みを堪えて腰の道具袋からくすんだ水晶玉を取りだした。
「これをアモンさんが、危なくなったら全員で手を繋いで叩き割れって!」
サザビーはそれを受け取る。
「こいつは魔法の宝珠だ。魔法を一つだけこいつの中に封じ込め、叩き割った瞬間に発動する魔道のアイテム!」
「するってえと___」
百鬼もピンときた。
「こいつの中に封じられているのは移動呪文ヘブンズドアだ!」
そうと分かれば話は早い。四人は素早く手を取り合い、サザビーは大きく振りかぶって宝珠を床に向かって叩きつけた!
だがその時、再び巨大な揺れが四人の身体をかち上げた。宝珠は砕け四人は光に包まれる。しかしサザビーとライの指が少し絡んでいた以外、突然の揺れで四人の手は放れてしまっていた。
ギャウン!!
そして、四つの光はバラバラになって空にあいた大穴から飛び出して行った。
グアオオオオオオ!!
超龍神の叫びに刺激され、マグマは一挙にその勢いを増した。そして黒煙と共にポポトル本部を打ち破って、空に向かってその煮えたぎった血潮を吹き上げたのである。
噴火だ。
超龍神の側にミロルグが飛んできた。彼女は龍の形を取り戻した主に何かを告げた。
ゴアアアアア!
復活の悦びか、黒き邪龍は雄叫びを繰り返し、ゆっくりと曇天の空へと浮上していく。その横でマグマは高らかにその身を空へと吹き上げ、ポポトルにいた全ての人々を凍り付かせた。
「撤退だ、急げ!」
トルストイの指示を受けるまでもなく、白竜軍の兵たちは我先にと船へ舞い戻っていく。
「サラ___俺は___」
既に動きを止めた戦車の側。焼け落ちていくバーを見ることしかできなかったアルベルトは、口惜しさのあまり涙をこぼしながらも退路につく。
「死に場所は初めからここと決めていた___」
ガルシェルは剣を治めた。人壁はもはやその数も計り知れないほど巨大になり、彼の血は返り血だけで真っ赤に染まっていた。
「速めに逃げて正解だったな。」
シークは戦うこともせず、取り巻きの女たちを連れて密かに用意していた船に乗り込んでいた。白竜とは退路を違えることで接触を避けていた。
それぞれの思惑の中、突如現れた黒い龍と、ポポトル休火山の噴火で戦いは幕切れた。軍事国家ポポトルはその短い歴史に終止符を打ち、海洋に出た白竜兵たちは勝利の美酒に歓喜し、酔いしれた。
ケルベロスのフュミレイ・リドンはハウンゼンに厳しい叱責を受けようとも、それさえ心には留められなかった。
多くの人があの黒き龍を幻と思っていた。噴火の際の煙がたまたまあんな形を取り、地鳴りが起こったのだと。しかしフュミレイには分かっていた。魔道に精通する彼女は、力を感じる能力に優れている。ケルベロスに戻り、邪龍について調べを進めなければならない___そう思うばかりだった。
そして超龍神と対峙し、魔族と戦うことを運命づけられた四人はいずこかへと消えた。
超龍神もまた、お着きの魔女と空の高見へ。
次なる戦いはまたすぐに始まる。
だがもはや戦いは人同士のものではなくなっている。
戦いを生むのは___
超龍神!
中編へ続く
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