4 世界でいちばんの友達
淳は高校時代はたいして勉強していなかったのに、学芸大と横浜市立大に受かりました。
私は本命大学に落ちて傷心していたので、そのことをねたましく思いました。
その後の活躍を考えれば、私は落ちて当然、
淳は受かって当然、だったのですが、
偏差値社会にどっぷり洗脳されていた私は、納得できませんでした。
模試で既存の問題が解けても、脳みその柔軟性まで判定できるわけではない、
と解るのに、あと20年かかりました。
淳は、実家のそばの横浜市立大英文学科に進みました。
大学の4年間だけ実家から通い、卒業後は雑誌社に就職して、再び家を出ました。
以後26年間、誰とも共に生活することなく、ひとりで暮らしました。
淳は取材等で関西に来た時は、必ず連絡をしてくれました。
でもだからといって、淳は無二の親友だったわけではありません。
淳が私にとって世界で一番の友達になったのは、私達が上京してからです。
私は27歳で東京に来て、知り合いは淳以外ひとりもいませんでした。
お腹は大きいし、お金はないし、孤独な日々でした。
淳は忙しい日々の合間を縫って、マメにうちに来てくれました。
以後25年間、一度も絶えることなく、マメにうちに来てくれました。
淳は夫Tとも気が合うので、違和感なく、我が家になじみました。
私の東京暮らしは、淳抜きには考えられません。
私が子育て中の時は、ベビーカーをひいて街を案内してくれました。
次女を妊娠した時は、病院に行っている間、子守りをしてくれました。
私の代わりに、長女をプールに連れて行ってくれたりもしました。
次女が産まれると、関西出張の時には、2歳の次女を連れて帰ってくれたりしました。
初めての幼稚園の運動会も来てくれました。
スキーに行って、私が滑っている間、子守りもしてくれました。
少し大きくなると、自宅に子供を預かって、合宿もしてくれました。
子育てが一段落して、私が「1人の時間ができた」と言えば、
取材の合間に出て来て、夜の街に連れて行ってくれました。
「旅行に行きたい」と言えば、「どこに行きたい?」と、
石垣島でもSFでも連れて行ってくれました。
淳が私の希望を断ったことはありません。
なのに淳よ、なんで勝手に死んじまったかなあ。
これからは誰が私と遊んでくれるんだ?
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