15  年末年始   


 12月になると、さらに病状は悪化し、民間療法にでかけることもままならなくなってきました。
 そうなると、12月23日に年末年始の帰省をすることだけが、目的になって来ました。

 そして、待ちに待った帰省の日がやってきました。
 帰省の日は、お母さんが車で迎えに来てくれました。
 「体調が良くて、病気が治ったかと思ったよ。」と、連絡して来ました。
 あれだけ衰弱していても、まだそんな瞬間があるのです。
 やはり、脳内ホルモンの威力はあなどれません。

 がんの告知から10ヶ月。
 やっぱり夢だったんだ!治ったんだ!
 淳は何度もそんな感覚に陥ったでしょう。
 でもそれは、単なる錯覚で、やはりNクリニックの見立て通り、
 死に向かって歩いていました。

 いくら寝ても病気が治らない、振り払っても振り払っても死神が居る。
 そして死んで行くしかない。
 淳は、どんなに苦しかったでしょう。
 私達はそんな経験をしたことはありません。現実はむごすぎます。

 淳が気持ち良く過ごせたのは、それが最後でした。
 実家に帰ってからは、寝たり起きたりしただけで、
 お母さんが作ってくれた料理を一口か二口食べただけだったようです。

 淳とはもう会えない、と思っていましたが、1月5日に予定通り戻って来ました。
 どうしてこういう状況で帰って来たのか?狂気の沙汰です。
 実家の両親とは、「帰る」「帰るな」で、最後はけんかするように出て来たそうです。
 淳は、あのまま実家にいて、もう1人では生きていけない、ということを
 認めたくなかったのでしょう。

 夫Tのメールから、淳が世田谷に帰って来た、と知り、私はすぐに行きました。
 いつものように、淳は来るな、と言いましたが、私のために行きました。
 淳は、チャイムが鳴っても、すぐには出れないほど衰弱していたので、
 玄関のカギを開けたままにしていました。

 勝手に部屋に入ると、淳はベッドの中に居て、壁を向いていました。
 こっちを向けないほど痛いのか?と案じましたが、
 死後、お母さんが「誰とも会いたがらなかった」と言っていたので、
 今思えば、淳は私に顔を見られたくなかったから、向こうを向いていたのかもしれません。

 元気な頃は「ひろちゃん、背中を曲げてるとおばさんくさいよ。ピンとしてピンと!」
 と、私の肩をぐっと開いた淳。
 すっぴんでやせ細った自分が見られるのを、屈辱的に思っていたのかも知れません。

 そんなこと、どうでもいいんだよ。
 顔とか形とか、どうでもいいんだ。だから、こっちを向いておくれ。
 淳がここに生きている、すぐに会いに来れる。
 そのことが、すごくうれしかったんだよ。  

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