14 転移性肝がん
11月になると、さらに熱が続くようになり、
民間療法の予約をすっぽかす日が多くなりました。
私は、時間があれば世田谷のマンションに行こうとしましたが、
淳はいつも「来なくていい」と言いました。
「あんたのために行くんちゃう!自分のために行くんや!」
といつも、無理矢理おしかけました。
いつ行っても淳の部屋は、きちんと片付いていて、
私が手伝えることなんて何もありませんでした。
淳は食欲がなく、何を食べても、にがりのような味がする、と嘆きました。
「死ぬのは怖くない。ただ、両親を残して行くのが申し訳なくて。」
と、淳は言いました。
それは本当に淳の本心でした。
私は最後まで素直に「死んだらイヤや」とも「いままでありがとう」とも言えませんでした。
「かあさんが『淳ちゃんにもしものことがあったら、ひろがかわいそうすぎる』
って言ってた。」
と言った時、淳は声を詰まらせて泣きました。
淳はだんだんパソコンを開くのもおっくうになってきて、
つの日記も読んでくれなくなりました。
このホームページを立ち上げたことも、淳の写真を勝手に使ったことも、
伝えれずじまいです。
私が行った時、淳のマックブックでホスピスについて調べることになりました。
調べてみると、小金井や足利にいいホスピスがありました。
私たちはわざと、旅行のホテルを探す時と同じノリで盛り上がりました。
最後は病院ではなく、ここにしよう。いつ行くか?順番待ちが必要か?
おむつをするようになったら、ホスピスに行こう。
と、2人で決めました。
夫Tは、いよいよ淳の末期が近付いて来たと悟り、2度と会いに行きませんでした。
「おまえが行って来い、俺はよう行かん。」と言って、会うことを拒否しました。
そのかわり、夫Tは、3月末まで、毎日必ずメールしました。
今日はいい天気だな。がんばれ。
今日は寒いね。暖かくしてろよ。
昨日は長女とケンカした。
次女の模試が悪くて前途多難。
など、どうでもいいことですが、地道に毎日送りました。
毎日となると、書くことがなくて、
「何を書こうか、と結果的に1日中、淳のことを考えている。」状態に陥りました。
でも、この作戦は良かった、と夫Tを褒めたいです。
淳にとっては、夫Tのメールがうれしい時もあり、うっとおしい日もあったでしょう。
でも私達にとっては、病床の淳とを結ぶ、唯一の赤い糸でした。
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