1  6月はJune   

 6月は、淳の誕生月です。
 Juneから淳子という名前がついたそうです。

 「そうか。淳は死んだのか。なんで淳は死んだかなあ。」
 ため息と共に、その言葉を何度つぶやいたか解りません。
 何日たっても、淳がいなくなってしまったことが、どうしても納得できません。
 一歩前に踏み出すために、淳のことを書いてみようと思います。

 淳と出会ったのは、34年前の1974年3月でした。
 同じクラスの女子で、垂水駅から乗るのは淳と私だけだったので、
 自然といっしょにいるようになりました。
 淳も私も本命高校ではなく、運命のイタズラでH高校に入ったクチで、
 始めから、「つまんねえ」という高校生活のスタートでした。

 淳とは始めから気が合うわけでもありませんでしたが、
 「学校が嫌い」という点では、気が合いました。
 淳は国鉄職員の娘で、東京大久保育ち。
 小5〜中3まで転勤で名古屋に住み、高1の7月に東京に戻れる予定でした。
 しかし、中3の時点で東京に住民票がないため、
 都立高校の受験を拒否されてしまいました。

 1人で名古屋に残るわけにもいかないし、
 7月まで一人暮らしして、東京の私立高校に通うのもたいへんです。
 いっそ、母の実家がある神戸にすれば、ということになり、
 3年間だけ神戸に来たのでした。

 まあもともとしっかりした子だったから、両親も手放したのでしょうが、
 15歳〜18歳という大事な時期を、祖母宅とはいえ、ひとりで生きたのですから、
 この決断は、淳の性格に多大なる影響を及ぼしてしまいました。
 一生、1人で生きてしまったのも、そのせいでしょうし、
 気配りができて、ライターとして絶え間なく仕事が来たのも、そのためでしょう。

 淳は東京の人で、標準語をしゃべり、趣味が良くて、1人で生きていました。
 でも今思えば、1人で生きている15歳がいるはずはありません。
 淳が孤独感にのたうちまわっていたのは、15歳の時だったのです。
 私には、家族も他の友達も地元の友達も彼氏もいました。
 今思えば、もっと思いやりをもって、淳に向き合うべきでした。
 そのうちに淳は、1人でいることが普通になってしまったのです。

 当時の私は、淳のことが特に好きだったわけではありません。
 どちらかと言えば、淳の方が、私のことを好きだったでしょう。
 でも淳は、私に何も求めてきませんでした。
 そして私は最後まで、ただ淳に甘え続けただけでした。

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