8 義父の葬儀
2006年3月。長女の第1志望合格の翌日に義父の葬儀が出石で行なわれました。
姉は、大阪から100Km以上の道のりを、母に伴われて来てくれました。
葬儀にも関わらず、姉は長女の合格を馬鹿みたいに喜んでくれました。
「な?だから、AOとか推薦に手え出したらアカンねん。」
と、過去の姉のアドバイスを批判する私でした。
ほんとあの時「ほんま、心配かけてごめんな。」
と、どうして言えなかったのでしょうか??
いくつになってもオトナになれません。
この葬儀が、下界での姉との最後となりました。
葬儀のあと、出石グランドホテルにうちの家族4人と母と姉と6人で泊まりました。
6人で枕を並べて寝ましたが、この時は、
長女の合格もあって、かなり楽しい夜でした。
この夜が、うちの家族がした、姉への最初で最後のプレゼントになりました。
「あの時、楽しかったなあ」と、母にその後も何度も言ったそうです。
2006年12月。ついに姉のPET検査がひっかかりました。
でも、「ひろちゃんはメキシコに行くから、言わないで」と、口止めしたそうです。
母ががまんできずに知らせてきましたが、私はメキシコのことはもとより、
会社が買収にあいそうなこともあり、自分の体の不調もあり、
聞き流してしまいました。
2月になってから、臥せっていたそうですが、
「ひろちゃんは店長になってたいへんだから、言わないで」と、
再び口止めしていたそうです。
私はいつも蚊帳の外か??と、あとになってハラがたちました。
そうと知っていたら、飛んで帰ったのに。。。
去年から、一度も電話していません。
2月の時点で、姉は延命治療を拒否したようです。
テコでも病院に行かなかったそうです。
病院に行けば、2度と帰ってこれない予感があったのでしょう。
死の2週間前まで自宅にいた姉は、本望だったでしょう。
何も食べれなくなって動けなくなっても、義兄に点滴させ、浣腸させ、
リビングの横の和室のベッドから
「お湯沸いてるで〜」とか、「ご飯炊けてるで〜」とか、
声だけで采配をふるっていたそうです。
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