プロローグ

 その日、ソアラ・バイオレットは小さな神殿の中にいた。石造りの神殿の最奥には、一つの泉がある。鏡のように微動だにせず、澄んでいるのに底が見えない不思議な泉。彼女はそのほとりに立っていた。
 凛々しくも勇ましき彼女が身に纏うのは、少し古めかしくも思える紺色の士官服。それは彼女の親友の形見となってしまった品であった。彼女は「新たなる土地」への旅立ちの日に、友が側にいてくれることを望んでいた。そしてもう一つ、友が別れの日に密かに残していった首飾り。彼女は涙が枯れた頃にこれを見つけ、いつまでも握りしめて銀髪の幻影を思い描いていたという。
 そのソアラと手を取り合うニック・ホープ。彼は父の形見のバンダナを外し、自らの思いを込めて新たなるバンダナを作らせた。ソードルセイドという歴史を父の思いと共に受け継いだ彼は、これからは自らが新しい歴史を作るのだと悟っていた。このバンダナに刻まれるのは彼の、ニックの、そして百鬼の歴史。手を取り合うのは共に歩む伴侶。彼は今、新たなる一歩を踏み出そうとしている。
 ライデルアベリア・フレイザーは湖の畔に立つ妙齢の女を見て何を思うのだろう。いや、彼は例え感傷に駆られたとしても、それを決して口に出しはしない。湖の畔に立つ全盲の女性に、前進の思いは語ろうとも、後ろ髪を引かれることは決してない。彼はこれからも、今までと変わらない自分を保ち続け、仲間たちを牽引する。
 フローラ・ハイラルドの胸の内は複雑だった。先行きの見えない旅に彼女の力は不可欠だ。だが、彼女の心はまだ癒されてはいない。彼女は傷を仲間たちに曝すことはしないが、それでも、僅かな時の中で訪れた出来事は、彼女の胸に憂いを刻みつけていた。「新たなる土地」はそれを、ハイラルドの悪夢を忘れるにはうってつけの場所。乱暴だが、そう考えていた。
 サザビー・シルバは成長した恋人の姿を見て密かに納得していた。あれ以来、二人きりで語らうことすらなく、彼女は自分に与えられた使命を全うするべく、彼の前から姿を消した。湖の畔に全盲の女性と共に立つ、うら若き女王の髪は背を隠しきるほどに伸びていて、年のわりに大人びていた彼女の顔はまったくの大人になっていた。サザビーは遠巻きに彼女を眺めながら煙草をくわえた。
 棕櫚は親しい新参者を引き連れ、彼らの前に現れた。それは衝撃的な登場であったが、寡黙な彼の力と性格は知ってのとおり。棕櫚は彼との繋がりについてうまくはぐらかしたが、皆はバルバロッサの参入を素直に喜んでいた。寡黙な彼はいまだ声一つ発さないが、棕櫚がまるで通訳のようにペラペラと語るので、煙たそうに舌打ちをしていた。
 湖の畔に立つ全盲の女性。名はニーサ。
 ニーサ・フレイザー。
 彼女はアレックスが探し求めていた最愛の人であり、ライの母であり、セルセリアの民である。聖域セルセリアはこの湖がなんたるかを知る人々が住む唯一の土地。そしてこの世界の「構造」を伝える唯一の土地。
 大地に口をあげた時空の湖「魔導口」。
 紫の牙、ソアラ・バイオレットはこの時空の扉から、新たなる旅に出ようとしていた。そしてそれを開くことができるのがセルセリアの民。だが、それには時を要する。
 事実、未だに指名手配されているフュミレイ・リドンが命を果てさせ、クーザーマウンテンが消し飛んでから、五年の時が経っているのだ。



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